金曜日
4.相原伊織、何者かに追われ逃げる
急ぐなどというものではない――必死に走っていた。高校の正門から南へ伸びる通りを駆け抜け、住宅街の小道に入り、時おり曲がり角で一瞬判断に迷い足を緩めつつも全速力で走る。
高校入学から五日目の、金曜放課後。アルバイトの面接のために、今日は学校が終わったら急いで帰らなくちゃ、と、たしかに朝から一日中思っていた。が、いま急いでいる理由はそれではない。
怖い風体の男たちが、後ろから追いかけてくるのだ。
(な、なんで? なんでなんで?)
理由はさっぱり分からない。学校を出て少し進んだところで、「おいちょっと」と腕を掴まれた。見れば文教地区にはおよそ似つかわしくない、人相の悪い若い男が三人。 呼び止めたサングラス男が、ガムとタバコのにおいの混ざった不快な口調で「ちょっと来い」と腕を引っ張る。
唐突に呼びかけられればつい足を止めてしまう性格の伊織ではあるが、要求が「一緒に来い」だと話は別だ。本能の警告に従い腕を振りほどこうと引っ張ると、相手は抵抗されるとは思っていなかったのか、意外とあっさり拘束を解かれ、放たれた瞬間に伊織は三人に背を向け走り出していた。だがしかし――
(なんで俺が追いかけられているんだよー!)
泣きたい。
学校に逃げ込めば良かったと気づいたのは、商店の連なる大通りを走りぬけ、何度も小道を曲がってよく分からない地域に入り込んでしまった頃だった。門まで戻れば守衛室があったはずだし、下校時の正門周辺にはそこそこの人がいた。勉強についていけなくても、友達ができなくても、まさか
(俺のバカーー!)
叫びたい気持ちになっているが、そろそろ息が切れてそれどころではない。
途中、何度か振り返る。多少離れた様子はあるが、たまに聞こえる「おい!」「待て!」「逃げるなガキ!」などといった「いかにも」な喚き声で、しつこく追ってきていることが分かる。
引き離そうと必死に走るが、越してきて丸二日しか経っていない伊織にももちろん土地鑑はない。同じような景色の続く住宅街。方角的に家の方に近づいているような気はするが、何度も曲がったため自信がない。
困ったな、と、頭のどこか片隅で、冷静に考えている。これからアルバイトの面接があるのだ。知らない場所まで逃げてしまう訳にもいかないのだが……。
適当な角に飛び込む。五十メートルほど先の突き当たりで道は右に折れていて、それを曲がったところで伊織は絶望的な気持ちになった。
少し先で、道はアパートの塀に阻まれている。
曲がり角まで引き返して鉢合わせてしまったら、逃げ場がない。
両脇の住宅の通用門があるが、閉ざされていて、塀の高さは伊織の頭を超える。
左手の家の通用門の向こうにカバーの掛かったバイクが一台止まっていて、伊織は深く考える余裕もなく、バイクを通り過ぎてその陰にしゃがみ込んだ。
(どうか、見つかりませんように……)
これで逃げ切れたら、バイクの持ち主に菓子折りを持っていってもいい。
祈る気持ちで上がり切っていた息を必死に押し殺し、バイクの陰から曲がり角を窺っていた伊織は、後ろから突然、
「おい」
と声を掛けられて、文字通り跳び上がった。
この音で隠れていることがバレるのでは……と思うほど心臓をバクバク鳴らしながら、声の掛かった背後を振り返る。と――
「なあ。なんか困ってる?」
突き当たりの高さ二メートルほどもある塀の上に胸から上を出して、自分と同じ年頃の、同じような詰襟の学生服の少年が、少々首を傾げて真顔でこちらを見下ろしている。その顔に見覚えがあった。
「い、委員長……? ……いや! あの!」
驚いて声を上げてしまい、「しまった!」と口元を押さえ、曲がり角を振り返る。口を押さえたまま塀の上に目を戻すと。少年は、今度は危なげないバランス感覚で塀の上にしゃがみ込んで、まだこちらを見下ろしている。
一瞬クラス委員長の
塀の上の少年は、曲がり角の方向に視線を走らせてから伊織に目を戻し、伊織の隠れているバイクを指差す。
「そのバイク踏み台にして、塀に上がれるか? んで、二メートルばかこっちに移動して、内側に飛び降りろ」
状況は伝わったらしく、落ち着いた、というよりむしろ緊張感に欠ける口調で端的に指示され、塀を見上げる。
(どうにかよじ登れるかな……)
やってみる、と少年を振り返ると、塀の上にその姿はない。
(え……?)
見放されたような不安な気持ちに襲われたが、ともかくバイクの持ち主に心の中で詫びつつ足を掛けてよじ登り、そこからさらに塀に手を掛け飛び乗る。ここで家の人が姿を現したらアウトだが、幸い人の気配はない。
少年の示した通り、塀の上を二メートルほど進めば隣のアパートの敷地。小さな庭と駐輪スペースだ。飛び降りるにはやや勇気がいる高さだが、背に腹は変えられない。ひとまずしゃがんだ姿勢でそろそろと塀の上を移動する。
と、塀が直角に折れた向こう側から、先ほどの少年が大きなポリバケツを引きずってきて、伊織の眼下、塀にくっつけて置いた。どうやら足場を作ってくれたらしい。
「降りられるか?」
うん、と頷き、塀に手を載せたまま後ろ向きで恐る恐る足を下ろした。ポリバケツは軽く、少々ぐらついてよろけたが、地面は土で足への衝撃はない。降りた反動でつんのめった伊織の腕を少年が取り、体勢を立て直す間もなく中腰のまま引っ張られる。
塀沿いに十メートルほど進むと、敷地が右に折れ、突き当たりの反対側に至った。さっき少年が上っていた塀の内側だ。アパートの屋根の高さを超える大きな木が植わっていて、その木の向こう側に回ると塀に背をつける形で少年が腰を下ろした。
引っ張られてきた伊織は、ズルズルと力が抜けるように、壁に背を預けたまま座り込む。息が切れ、汗だくだということにも今さら気づいた。
そう遠くはない場所から大きな足音が聞こえ、「どこに行きやがった!」「探せ!」というような声が届く。そして足音が去っていき……。
伊織は大きく安堵の息をつく。追っ手が去るのを確認しようと立ち上がりかけたところで、隣に座る少年に腕を引かれた。
「まだ動くな」
小声で短く制止され、大人しく従うことにする。隣の少年には、何となく場慣れしているような、妙な落ち着きがある。背後の気配を気にしているが、ビクついたところはなく、淡々と成り行きを探るように動かずにいる。
見れば、詰襟の襟元に伊織と同じ
(こんな人、いたのかな……)
見かければ忘れなそうな、人目を引く綺麗な顔立ち。入学五日目では同じ学年の生徒全員に会っているはずもないが……。
(やっぱり委員長に似ている気がする)
けれどよく見れば別人だ。ほとんど笑顔しか見たことのない神月悠とは、雰囲気も違う。
(委員長も、綺麗な顔をしてるよな。綺麗な人って、ちょっとどこか似てたりするもんな……)
そう思って、強引な理屈ながらなんとなく納得した。
と、ふとこちらに視線を向けた少年と目が合い、無遠慮にじろじろと見つめてしまっていたことに気づき少々慌てる。
「どうかした?」
端整な瞳で尋ねられて、ドキっとした。笑っているような、いないような。感情の読めない表情。
「あ、ゴメン、いやえっと……知り合いに似てるなって……」
少年が小さく首を傾げる。そういえば、同じ学校の同じ学年なんだから、知っているかもしれない。
「えっと、
「……ハルの知り合い?」
またわずかに首を傾げた少年。その口から出てきたのは、意外な言葉だった。委員長の名前は、神月悠。はるか。ハル……? 委員長のことだよな?
「え、う、うん……たぶん……」
「ふうん……」
そういうきみは、と聞き返そうとしたところで、背後の塀の向こう側からまたバタバタと足音が聞こえた。
少年は手を上げて伊織の発言を制し、目線だけで鋭く背後を窺う。
緊張がよみがえってきて、心臓が高鳴る。が、先ほどとは違う心強さも感じていた。目の前の少年といれば、なんとなく大丈夫そうな、根拠のない安心感がある。怯えも焦りも感じられないからだろうか……?
足音は袋小路の手前あたりで一旦止まり、すぐに引き返していった。「ここら辺で見失ったんだ……」というような言葉が小さく聞こえてきた。
少年が「もういい」というように手を下ろすと、それでも伊織の背中をどっと汗が伝った。
「はあ……なんか、ありがとう。助かった……」
軽く頭を下げながら言うと、少年は意外な言葉を聞いたかのようにわずかに目を見開き、真顔でこちらを見返した。
「別に。俺、こっち来ればって言っただけで、何もしてないし。俺んちでもないし」
「え!」
逃げ込んだこの敷地が彼の家かそうでないかなど気にしていなかったが、言われてみれば、他人様の家だ。途端に不安になってアパートを見る。一階の四部屋のうち右から二番目の部屋の、半分だけ閉じたカーテンの柄に、何となく見覚えがあって――。
(……あれ?)
古そうなガラスの入った掃き出し窓から覗く室内には、畳んで紐で縛られた段ボールの束が――。
「……って! えぇっ?」
我を忘れてその部屋の掃き出し窓に駆け寄り、室内を見て、驚きのあまり大声を上げていた。
「ここ……俺んちじゃん!」
少しでも見覚えのある家の周辺に逃げようと。追っ手から離れたらその隙に家に逃げ込もうとしていたのだが、なんのことはない、家の裏手に出ていたのだ。
「なんだ……家に帰ってきてたんだ……」
「ここに住んでんの? 一〇二?」
「うん。って言っても、引っ越してきたばっかりなんだけどね」
「ふうん……」
少年は、何か考えるように顎に手を当てて視線を逸らした。
「あ、遅れたけど、俺は相原。緑楠高校だよね。同じ学校の一年……」
そう言うと、少年は口の中で「アイハラ」とつぶやいた。
で、きみは……とまた聞こうとしたところで、
「なんで追いかけられてんの?」
逆に聞かれる。なぜかと言われると、伊織にもさっぱり分からない。
「えっと。よく分からないんだけど、学校を出たところで突然声を掛けられて、腕を掴まれて『ちょっと来い』って……逃げたら追いかけてきて……」
「ぜんぜん心当たりねえの?」
「うん……あ、でも俺ちょっとトロくて、よく人に絡まれるんだよね……もしかしたら知らない間に肩ぶつかったとか、そういうのかも……なんだかガラの悪そうな人たちだったし、カモに見えたのかなあ」
「そっか」
自嘲気味に言ったセリフをすんなり納得されて、少々落ち込む。
しかし、自分が他人から絡まれやすい性質であることは自覚している。知り合いからも、どうも因縁を付けられやすいというか、苛められ体質というか。とあれこれ思い出してまた少し憂鬱な気分になったが、隣の少年が突然立ち上がり、伊織の気持ちの落ち込みを中断した。
「ちょっと見てくる。ここにいな」
そう言い残すと、背よりも高い塀にひょいっと身軽に飛び乗り、そのまま塀の向こうに消えた。
(……えっ?)
塀を見上げる。
(ひょいって……えぇっ?)
二メートル近い塀である。てっぺんに手は届くが、足場がなければよじ登れるかどうか、という高さだ。愕然として動けずにいると、彼はものの二、三分で戻ってきて塀の上にまた姿を現し、軽やかに地面に降りた。
「大丈夫っぽい。出てっていい」
何事もなかったかのように言う少年を、呆然と見つめてしまう。
「どうかしたか?」
「あの、いや、えっと……」
「あ、そっか、出てく必要ねえのか。ここが家なんだもんな。表に回って入っても大丈夫だよ」
指差されて、ふと我に返って、重要なことを思い出した。
「いけね! バイトの面接があるんだった!」
慌てて時計を見る。
「ん。じゃあ俺もう行く」
そう言って少年は壁に向かいかけたが、言い忘れたことを思いついたように足を止めて、伊織に向き直った。
「なあ、お前、『サイ』?」
「……はい?」
何を聞かれたのか一瞬分からなかった。困惑しつつ首を傾げる。
初対面の相手に「お前」呼ばわりされたことには、不思議と反発を覚えない。しかし――?
(サイ……? サイって、なんだ? どっかで聞いたような……)
伊織の顔になんらかの返事を読み取ったのか。
「まあいいや。じゃな」
少年は今度こそくるりと壁を向き、先ほどと同じように塀に飛び乗って姿を消した。
伊織は再び驚くも、今度は一瞬で自分を取り戻し、急いで塀を回り込みさっき足場にしたポリバケツに上って塀の上へ身を乗り出す。少年は角を曲がろうとしているところだった。
「あの!」
声を掛けると、足を止めてこちらを振り返る。
「あの、……助けてくれてどうもありがとう!」
すると、少年は初めて笑顔を見せた。それまで感情らしい感情の窺えなかった端整な顔に、思いがけず浮かんだ人懐こい微笑に、追い掛け回されて萎縮していた伊織の心がふわりと和らぐ。
「またな」
と言って、少年は軽く手を上げ、角に姿を消す。
あぁ……名前もクラスも聞けなかった……。要領の悪い自分にがっかりするが、多分また学校で会える。来週学校へ行ったら、神月悠に聞いてもいい。内部進学者同士なら見知っていても不思議はないが、あの「特別な友人」はいなさそうに見えた委員長を、気安く「ハル」と呼ぶ人物がいるらしいことに興味が湧いた。
(なんか、いいなぁ……)
知らず知らずのうちに、顔がほころぶ。憂鬱になることの多い高校生活最初の一週間だったが、最後に来週学校へ行く楽しみができたことに満足し、気分が軽くなったのを感じながら、小走りにアパートの建物を回って部屋の玄関にたどり着く。
カバンから鍵を取り出し、まだ慣れない手つきで鍵穴に差し込んでドアを開ける。「自分の城」に帰って来た喜びを噛み締めつつ。
そして――。玄関のドアを開けるなり愕然と立ち竦んでいだ。
まだ段ボールの隙間に、整理しきれなかった本が積みあがり、小物や服が雑然と置かれた室内。そこを。スーツ姿の二人の男が、何かを探すように忙しそうに行き来していて――
(え……?)
あんぐりと口を開け、それでも声を上げられずに呆然と目の前の状況を見つめる。泥棒だろうか。引越し早々、いきなり? だけど……ええ?
心の中で慌てふためきながら、必死に頭を働かせる。こういうときの対処法は? 不動産屋がくれた、一人暮らしの初心者向けリーフレット、あれに何か……。
そうだ。顔を合わせては危険。静かに部屋を出て一一〇番に電話を。
落ち着こうと、軽く目を閉じひとつ肩で大きな息をして。
目を開けると、そこには。朝出たときと変わらない、誰もいない、まだ少し散らかった引越し翌日の部屋。
「……え?」
今度は口に出して、そう言っていた。
「えええ?」
うろたえながら、漫画の登場人物がするみたいに、伊織は目をごしごしとこすった。そうして再び目を開ける。やはり、誰もいない。
恐る恐る部屋に入る。慎重にあたりを見回す。もともと引越しの荷解きの途中で、整理整頓された部屋ではない。だが、朝以上に荒れているような様子もない。本棚の引き出しを開けると、唯一の貴重品と言っていい伊織の銀行の通帳は、入れたときと同じく数冊の冊子の下で眠っていた。
「そうだよな。まさかな」
無理やり曖昧な笑顔を作って、伊織はまた声に出してそう言っていた。
こんな何もなさそうなアパートに入る泥棒なんか。まさか。いるもんか。
疲れてたんだ。きっと。慣れない新生活。学校の悩みや、始まったばかりの一人暮らしへの緊張。そんな、なんやかやで。
そんなことよりも、アルバイトの面接だ。「幻覚」だか「白昼夢」だかを頭の端っこに片付けて、伊織は家を出直す準備を始めた。
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