3.牧田、遅めの昼食。楠見は二人に新たな仕事を依頼する

 緑楠りょくなん学園診療所に勤務する学園専任校医、牧田まきた真樹まさきの昼食は遅い。

 時刻は午後二時。コーヒーメーカーで朝から保温状態に置かれだいぶ煮詰まってしまった苦酸っぱいコーヒーを飲みつつ、新しいコーヒー豆をセットし、書類作業をしながら学食の売店で買ってきたサンドイッチを食べる。


 診療所の診察時間は午前九時から午後五時と定めているが、昼休みを利用してやっくる患者も少なくはないため、昼食時間をずらしているのだ。


『食べてる途中で患者が来て、昼めしをジャマされたくないだけだろ?』

 などと、「常連」の成宮なるみやきょうなどは言うのだが。


 その「常連」は、診察時間も始まらない朝早くからやってきてベッドに潜り込み、半分閉じたカーテンの向こうで一度も目を覚まさずぐっすり眠っている。ドアからベッドに至るまでの短い道筋で、「おはよう」かそれに類する言葉を発していたようだが、よく聞き取れなかったので会話も交わしていない。


 朝から学校にアクセスしている以上、登校する気持ちはあるのだろう。そこは一応、評価しよう。

 ただし。

 ここは緑楠学園キャンパス最奥部に位置する、学園事務棟の一室。

 成宮香の登校すべき場所はキャンパス南東の高校校舎であり、つまり彼は、朝からまだ一度も自分の学校に足を踏み入れていないのである。それが、ここ三日ほど続いている……。


 牧田はため息をついて、目の前に広げたノートパソコンに向かった。朝から現在までの記録――寝にきただけの者は含まず――を入力し終えたところでコーヒーメーカーの作動音が消え、保温スイッチに切り替わる音がした。室内が静かになると、今度は携帯電話のバイブレーションの小刻みな振動音が聞こえだす。


 壁のハンガーに掛けられた――と言っても、持ち主が部屋に入るなりベッドの上に脱ぎ捨てたのを、牧田が救出してやったものだが――詰襟の制服のポケットからだ。

 細かい振動はいったん途切れ、数秒置いてまた始まった。


「……キョウ? 携帯が鳴ってるよ?」


 声を掛けてみたが、ピクリとも反応しない。もう一度ため息をついて立ち上がり、カップにコーヒーを注ぎ席に戻った。

 高校は授業中の時間である。この時間に電話を掛けてくる人物とは――。


(で、この流れから行くと……)

 コーヒーを啜りながら机の上の固定電話にチラリと視線を向けると。それが合図だったとでも言うかのように、内線の呼び出し音が鳴り出した。無視するわけにもいかず子機を取る。


『マキか? キョウがそこにいるだろう!』

 まだ耳も当てていない通話口からそんな言葉が飛び出してきた。学園校医である牧田にこんな口調で内線電話を掛けてくる人物は、彼だけだ。


「いるよ。朝からずっと眠ってる」

 その相手にタメ口で答えられる者も、この学園の教職員では牧田くらいのものだろう。


『そいつを今すぐに叩き起こしてくれ!』

 低い声で注文されたが、

「無理だな。この様子だと起きないよ。知ってるだろ?」

 即答する。牧田の知る限り、この状態のキョウを安全に覚醒させることができる人間は、世界にただ一人しかいない。


 そのたった一人の期待の人物は、朝、歩きながらもほとんど目の開いていないキョウを押したり引っ張ったりしながら診療所まで連れてきて、「あとはよろしく!」と言って自分の教室に向かっていったきり姿を見せていない。昼休みに様子を見に来るかと思っていたのだが。


(委員長になったって言ってたっけ。忙しいのかな)


『無理でも何でも、どうにか起こして授業に出させてくれ。キョウのヤツ、入学式の翌日から三日間まったく授業に出ていないんだ』

「知ってるよ。ずっとここで寝てたもの」

『……。キョウの担任から、電話が来たんだよ……。会議中にいきなり携帯が鳴り出すから、何かと思えば……』

「へぇ。最近は生徒が問題を起こすと、学年主任も校長も飛び越えて理事会に報告が上がるのかい?」


 困り果てた声音の友人が可笑しくて、クスクス笑いながらわざと空っとぼけた反応を返してみる。相手がため息混じりに肩を落とした様子が、電話越しに伝わってきた。

『調査書の『保護者』欄に、俺の名前と連絡先が書いてあるんだよっ……! 俺と、俺のところに電話しちまった担任の立場を考えろ!』


 想像したら堪らなくなり、牧田は声を立てて笑い出してしまった。

「あははっ、担任は相手が学園の副理事長だって気づかずに掛けてきたのかい?」


『笑ってる場合じゃないよ、マキ。俺と担任の立場はともかくとして、入学早々三日間も欠席しちゃ本人的にもマズいだろうが』

「そりゃそうだけど。新学期早々、夜中まで仕事をさせるのが悪いんだろう? ちょっと考えてやれよ」


 苦笑を残しつつも少々厳しい口調で言うと、これには彼としても若干の反省はあるのか、わずかにトーンダウンして。

『とりあえず……起きたら授業に行くように伝えてくれ。それから放課後、ハルと一緒にこっちに寄るように』


「起きたらな?」

 念を押して通話を切り、受話器を置くと、ベッドへと歩み寄って朝からほとんど変わらない体勢で眠っている問題少年を覗き込む。

「キョウ? そろそろ起きたらどうだ? キョウ……授業、終わっちまうよ」

 相変わらず、小さな寝息が聞こえるだけだ。


(ホント、気持ち良さそうに眠るよなぁ……)

 いっそ微笑ましいほどの熟睡っぷりに、牧田は腰に手を置いて、大きくため息をついた。






 緑楠りょくなん学園・事務棟は、キャンパス北側にある正門から、南に向かって真っ直ぐに伸びるイチョウ並木の突き当たり、学園の南寄り中心に位置する二階建ての建物である。

 天然スレート葺きの屋根を乗せた赤レンガ造りの建物は学園創立当初からのもので、レトロ建築ファンの人気も高く、並木道から見たこの棟の全景は緑楠学園の「顔」ともなっている。


 この建物の二階。L字に折れ曲がった短い線のほうの突き当たりの部屋。

 緑楠学園副理事長・楠見くすみ林太郎りんたろうは、木製の大きな執務机に向かい、一枚の紙に目をやっていた。

 昨夜遅くにFAXで届いた、送信者も目的も不明な一件の「依頼」。

 おそらく楠見の「裏の仕事」関連の。そして、どうにも剣呑な雰囲気の。


 壁に掛けられた時計に目をやる。四時少し前。


(あの二人に調査を頼むか……?)


 昨晩一件仕事が終わったばかりで次の仕事を持ち掛けるのも気が引けるが、まず事情が見えてこないことにはそれ以上の対応のしようもない。軽く、探りだけ入れさせようか。

 逡巡しつつ正面に向き直ったところで、ドアをノックする音が聞こえた。


 中の人間の返事を待たず、「ハルでーす」の声とともにドアが開き、待っていた人物の一人、神月こうづきはるかが入ってくる。続いてもう一人、まだ少し眠たげな成宮なるみやきょう

楠見くすみ、おはよ」


 執務机の向こうに置かれたオットマンに、ハルが、楠見と向かい合うように座る。キョウは壁際にあったスツールを机の横へと引き寄せて腰掛けた。

 それを待って、楠見は腕を組んで眉根にシワを寄せつつ切り出す。


「キョウ、お前の担任の先生から電話があったよ」


 キョウは、眠たげだった目をわずかばかり見開く。

「担任? なんで? 知り合い? トモダチ?」


 楠見は改めてがっくりと肩を落とした。

「友達じゃないっ。お前が入学早々三日間も連続で欠席してるってんで、問題児認定されて、『保護者』になってる俺のところに連絡があったんだ」


「俺、休むつもり全然なかったんだけど。てゆーか、毎日来てるし」

「そうだよ、キョウはちゃんと学校に行くつもりで、昨日だって『仕事』が終わって急いで帰ったんだよ。マックに寄ったのは、ほんの十分くらいだ」

「ハルっ」

 キョウはハルに苦い視線を送ったが、ハルは肩を竦めて軽く受け流す。


 楠見は深いため息をついた。

「あのなぁ、……まあ今回は変なタイミングで『仕事』をさせちまったのも悪かったが……この調子だと、次の『仕事』を回すのも考えたほうがいいのかなぁ……」


 さも残念だという感じを込めて言うと、キョウは目が覚めたようにピクっと背中を伸ばし、それから少し困った顔をする。

「……明日からちゃんと行くよ。『仕事』があっても学校休まない」


「ならまず、朝は教室に行け、そうして出席を取られろ。どうしてもって時は、その後で診療所マキのとこに行くんだ。そうしたら、まあ……後はどうにかしてやる」

「なんだか悪い相談聞いちゃった……」


 呆れたようにつぶやくハルの横で、「ん、分かった」と満足そうな笑顔を作るキョウを見て、俺もたいがい甘いな……と思う楠見だが、キョウのこの顔にはどうも弱い。

 それでなくとも、二人に新学期早々夜遅くまで仕事をさせてしまったことは牧田に言われるまでもなく反省しているし、依頼主からの指示とはいえ「空振り」で何日も無駄な張り込みをさせてしまった負い目もある。


「……言っておくが、欠席を揉み消すとかそういう権限は俺にはないからな? 最低限、自分でどうにかしろよ?」

 一応クギを刺して、この件はこれで終了する。

「それで、昨日のパイロの件だが……」


 説教があっさり済んだのに拍子抜けしたような顔をしたハルとキョウだが、「仕事」の話となって、すぐにそれまでよりも少し表情を引き締める。


「あいつ。どうなった?」

「警察に連れて行かれたの?」

「ああ。『ご苦労さま、今回も助かりました』って、船津ふなつ刑事からお前たちに伝言だ」

「ちゃんと目え覚ましたか?」

「話は聞けているのかな。ほとんど話せないうちに、気を失っちゃってさ」

「名前も聞けなかったんだ」

「キョウがあんまり脅かすからだよ」


 苦笑気味に目をやったハルに、キョウは不満げな顔をする。

「普通に『斬る』って言っただけだ」


「あのさ、前から言おうと思ってたんだけどさ。刀を持った相手に『あんたを斬るんだ』って言われたらさ。大抵の人は、『殺される』って思うんじゃないかな」

「んなことないだろ。普通に考えて、いきなり殺されるとまでは思わないだろ」

「うーん。普通の相手は刀を持って追いかけてこないからね」

「そっかぁ?」


 やはり不満そうに眉を寄せたキョウに、楠見は深いため息をついた。

「……お前たちは。日ごろ俺が見ていないとき、どういう仕事の仕方をしているんだ……」


 二人はちらりと顔を見合わせ、それから楠見の嘆息混じりの質問をスルーして身を乗り出す。

「それで。彼は罪を認めているの?」


「ああ。おおむね素直に取調べを受けているみたいだよ。アキヤマ・ヨウスケ。二十歳。予備校生。三度目の受験に失敗して、むしゃくしゃして気晴らしに近所のゴミ捨て場に火をつけていた。最近、超能力で火をつけることができるようになった、と、警察では供述しているらしい」


「最近?」意外そうな口調で、ハルが首を傾げる。「二十歳にもなって、突然パイロの能力に目覚めたっていうの?」


「さあな。本人はそう言っているらしいが――」

「うーん、やっぱり変だなあ」

「変って?」


 楠見はわずかに身を起こして、二人を見比べる。

「たしかに、二十歳になって新しい能力を発現するとは考えにくいが、そりゃ本人が言ってるだけだろう? 本当はおそらくその前から――」


「うーん、そうかもしれないんだけど」と、ハルはキョウへと目をやる。

「けど、変な感じがしたんだよな」キョウもかすかに眉根を寄せ、難しい顔で斜め上を見上げる。「あいつホントにパイロかな」


「……なんだって? 犯人がアキヤマじゃないってことか? だって、お前たちが」

「いや。犯人はアキヤマだよ。俺たち火をつけるとこも見たもの。ね」

「ん。それは間違いない。けど、なんだかなあ」

「なんだかなんだよねえ」


「なんだ、それは……」

 聞き返したが、ハルとキョウはすっきりしない顔でまた短く視線を交し、考えるように沈黙する。


「ま、どちらにしても――」

 二人の少年を見比べるようにしながら、楠見は腕を組んで椅子に深くもたれる。二人とも、続く言葉は想像できているというように、特段の感情も見せずに楠見に視線を向けた。


「――起訴はされないだろうな。証拠が出ない。正直に自白したところで、『超能力で火をつけました』なんて言い張れば精神鑑定行きだ。幸い大きな火事には至らなかったし、初犯だし余罪もない。すぐに釈放されるだろう。けどまあで、彼がまたをおこなう恐れもない。俺たちの『仕事』は、ここまでだ。怪我人も出ず、住宅への被害もなく、小火ぼやのうちに済んで良かった。お疲れさま」


 笑いかけると、二人の表情にも安堵の色が混じる。これで、一件落着。

 ……と見せかけて、楠見は新たな爆弾を投下する。


「それで、二人を呼んだのは、『次の仕事』の件なんだけどね……」


「は? また?」

「終わったばっかじゃんかー!」

「なんだい? キョウは仕事がしたかったんじゃないのか?」

「ちょっと間空けろよ!」


 目を丸くして抗議するハルとキョウの予想通りの反応を受け流しつつ、楠見は一枚の紙を二人の前に差し出した。


「これが昨日の夜遅く、理事長室ここに直接FAXで届いた。送信者は不明。目的も不明。ここに記載されていること以外の事情は一切不明だ」


 ハルが紙を取り上げ、キョウもそれを覗き込む。


「なんだコレ……?」

「名簿……だよね? なに? 『以下の者、至急保護されたし……』」


 紙には一面にパソコンで作った名簿らしいリストが印刷されているのだが、その上端、表の欄外にそう殴り書きのような文字があった。かなり急いで書いた様子で、どうにか読める程度の雑な文字だ。送信者の番号はなく、送信枚数は1/1と、通信機の文字で打たれている。


「この名簿に載っている人を保護しろってこと? どうして? 何から?」

「分からない。誰がどういう意図で送ってきたのか。突然それだけ一枚届いたんだ」


 ハルはやはり不思議そうに首を捻った。

「『1-1』とか『1-3』とかいうのは、クラスかな。この学校の生徒?」


 リストの一番左の項目に記されている、三文字。右隣に氏名、そのさらに隣に住所と続く。

 ぱっと見れば、一年生の八名と二年生の六名の名簿に見える。


「俺のところに送られてきた以上は、この学校の生徒である可能性が高いだろうなあ。知らない学校の生徒の名前をノーコメントで送り付けられても困る。ただ――」

 また紙に目を落とした二人を見比べながら、楠見は言葉を繋ぐ。


「昨日の夜ざっと調べてみた限りでは、この学校にその名前の学生は在籍しないようなんだ。『1-7』ってのがあるだろう? この学校で七クラス以上あるのは高校だけだから、それがクラスの名前なら高校なんだろうが」


「うーん、名前にも記憶がないな。高校生だとしたら、少なくとも一年生は、何人かは知っていそうなもんだよね。外部進学生だったら――まあキョウは一度も授業に出てないから、クラスメイトの名前も知らないだろうけど」


 キョウはハルに苦々しい視線を送って、改めて楠見を見る。

「こいつら『サイ』かな」


「それも……俺のところに送られてくるってことは、その可能性も高いな。俺たちの『仕事』絡みでないなら、それぞれの学校なり校長なりに送ったほうが早いだろう。理事と生徒は基本的に接触がないからなあ」


「で、どうするの? 俺たちにこのリストの人間を探せって話?」


「そうだ」楠見は腕組みのまま、大きくひとつ頷いた。「学生名簿にないから、まずはこの住所を当たってこの人物がその場所に実在するのかどうかを確認してきてほしい。この程度なら誰に頼んでもいいんだが、問題の重要性、緊急性が判断できないからな、あまり大々的にしたくないんだ」


「いるかどうか確かめてくればいいの?」

「ああ、頼む。ひとまず感触だけ確認して明日の夜に報告してくれ。見つかった場合の対応、あるいは見つからなかった場合のそれ以上の捜索手段は、少し状況が見えてから考えよう」


 そんな答えを出したのは、半分このリストの名前の人間はそこにはいないのではないかという予感のようなものがあったからだ。これが実在の人物であるにしろ、在校生名簿の確認で空振りに終わっている以上、住所のほうもアテにはならない。

 それにいたとしても、有無を言わせず連れてくる、というわけにはいかない。


「分かった」

 頷くと、二人の高校生はリストを前に打ち合わせを始めた。手分けをして、今日明日で回る算段を整える。やがて静かになったかと思うと、しばらく額を寄せ合い紙を見つめて――


 真剣な表情で紙を睨む二人を、楠見も黙って見守る。

 無言の時間はせいぜい二、三分程度だった。二人が同時に頭を上げる。


「キョウ、覚えた?」

「ん。覚えた」

「じゃあ、行こうか」


 楠見へと紙を戻して、二人は立ち上がる。


「よろしく頼む。ああ、くれぐれも、学業に支障をきたさない範囲で頼むよ」


 念を押すと、キョウがあからさまに嫌な顔をし、ハルがそれを見て笑う。


「それから――」

 表情をやや硬いものにし、二人に言い聞かせるように、

「気をつけろよ。危険だと判断したら、すぐに引いてくれ」


 分かってはいるのだろうが、二人の反応は軽い。

「了解。じゃあね」

「じゃあな。また明日」


 二人を見送って軽く息をつき、楠見は「表の仕事」たる会議の書類に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る