第1部 それぞれの新学期の始まり

木曜日

2.相原伊織、新生活は前途多難

 鳥の声が、窓の外からけたたましく響く。少しだけ開いた窓から入ってくる風の香りが、慣れた部屋のものとは違う。

 明け方の気配を感じながら、相原あいはら伊織いおりはぼんやりと覚醒を始めた頭で、先ほどの夢の内容を思い出していた。


――あなたの能力は――いつか――あなたの居場所を――その時――


 夢の中の伊織は多分小さな子供で。温かい誰かの膝の上に乗って、その人の柔らかな手で優しく額を押さえられている。そして繰り返し、何かを言い聞かされる。心地良いような、それでいて切なげな声色。


――その時が来たら――封印は――


(……封印? ……なんだそれ……漫画じゃないんだしさ……)

 眠気に負けて途中で思考を放棄する。

(だいたい、子供のときの夢って……俺もう高校生なんだから……高校……そうだ、学校……)


 辺りを手で探る。使い慣れた目覚まし時計を見つけて――「……げっ?」

 時計の短針が、五時を示している。

「やば……っ! 寝坊っ?」

 叫びながら飛び起きたところで。頭のすぐ横に置かれた段ボールが目に入り、伊織は完全に目を覚ました。


(あ、……そうだ、もう朝四時に起きなくてもよくなったんだ……)

 脱力感がいっきに襲ってきて、上半身は再び畳に引き戻される。


 高校進学に伴う引越しが遅れて、入学式から最初の三日間は、電車とバスを乗り継いで片道二時間半の距離を通うことになった。けれど、その苦労も昨日まで。

 今日からは、学校との距離徒歩十五分という立地で。自分ひとりだけの、自由な空間で。夜を過ごして朝を迎えることができるのだ。

 無意識に、顔が緩んでいるのに気づいて、伊織は誰が見ているわけでもないのに照れ隠しに顔をこすった。


 昨日は放課後に引越しを完了した後で、荷物を取り出し段ボールを解体する作業に着手したが、連日の早起きのせいか途中で眠ってしまったらしい。

 通学の時間まで、荷解きを続けようか? と、中途半端に積まれたダンボールに目をやって。

(――まあ、近所の探索がてら、今日はこのまま学校に行ってもいいかな)


 せっかく早起きしたのだから、周辺を――少なくともこれから三年間、できれば七年間お世話になるであろう街を、登校前にちょっと歩いてみてもいい。

 再び身を起こし。時間割を確認して必要な教科書をカバンに入れ、まだ新しい詰襟の制服に着替えると、買っておいたパンを三口ほどで手早く食べて家を出ようとし――。ふと、思い出す。


(そうだ……)


 越してくる伊織のために大型の家具や家電一式を残して、数日前にこの部屋を出ていった、前住人である伊織の従兄弟。

 彼が忘れていったらしいDVDを、ゆうべ、荷物の整理をしているときに見つけたのだ。自分のものだろうかとプレイヤーに入れて再生し、そのまま眠ってしまったのだと気づいて、プレイヤーの取り出しボタンを押す。


(やっぱり、俺のじゃないよなぁ……)

 かなり早い段階で眠ってしまったようで、内容はよく覚えていないが、冒頭部分を見た限りでは自分の持ち物だとも思えない。かすかな音を立てながら吐き出されてきたディスクに、手を掛けた瞬間。


「――!」

 盤面に触れた右手の指先に、小さな痺れが走り、思わず手を引っ込める。同時に、


――もっと――


(……え?)


――ちからを、もっと――の、能力を――


 頭の中に直接響いてくるような声。どこか聞き覚えがあるような気がするが、途切れ途切れではっきりしない。


――もっと、強く――強くなって――


(……え? えぇ?)


 焦ってあたりを見渡すが、目に入る光景に特段さきほどまでと違うところはなく、伊織はもう一度ディスクに手を伸ばす。

(な、なんだ、今の……)

 戸惑いながらディスクを取り出し、首を傾げつつしばし見つめて。


 夢の続きでも思い出したのだろうか。そういえば、夢の中で聞いていた声も、「能力」がどうとかって言っていなかったか?


 半ば強引にそう結論づけて、少し考え。ゆうべ荷物を移し替えて整理したばかりの机の引きだしにディスクをしまい、家を出た。





 私立・緑楠りょくなん学園は、東京都下、二十三区を少し外れた多摩地区の東寄りにキャンパスを置く、小学校から大学までの一貫教育プログラムを有する学校である。


 伊織いおりが二年間世話になった神奈川県の海沿いの街にある親戚の家から、二時間半も離れた東京都下の緑楠高校に進学したのは、この高校の卒業生である従兄弟と、伯父夫婦の強い勧めがあったからだ。しかも、従兄弟が住んでいた学校近くのアパートを、そのまま引き継いで借りられるという好待遇。

 経済的な事情を考慮し、進学は地元の公立校で……と思っていた伊織にとっては、この勧めはかなり意表を突いていた。


 とはいえ、伯父の家にずっと厄介になるのも気が引けていた伊織には、高校進学とともにアパートで一人暮らしを始めるという選択肢はかなり魅力的なものに思えた。

 それで、生まれて初めて猛勉強をし、実力よりもだいぶ高めの高校に晴れて進学となったのだ。


 早朝の街を軽く探索すると、コンビニに寄って、無料配布されているアルバイト求人誌を一冊ラックから頂戴し、伊織は公園のベンチでペットボトルのウーロン茶を飲みながらページをめくった。


 そのうちに人通りが増えていたような気配を感じて立ち上がると、風が吹きぬけ、公園の外周を囲んで並んでいる桜の木の葉が音を立てた。足元を、花びらが風に乗って転がっていく。


(もう何日か早く来られたら、綺麗だっただろうなぁ……)

 来年の桜の季節が、早くも楽しみだ。


 これからのことを考えて期待が膨らみ、足取り軽く歩き出したとき。目の前を、どこからやってきたのか小さな女の子が、公園の出入り口に向かって走りすぎていった。

 一瞬遅れて、伊織は「あれ?」と思う。公園の中に、自分のほかに人がいただろうか? 見回すが、入ってきた道路に面した出入り口以外は、三方を住宅の塀に囲まれた小さな公園。


 心の中で首を傾げた伊織の耳に、突如、金属的な鋭い音が鳴り響く。

 車のブレーキ音。

 続いて何かがぶつかる大きな音。つい一瞬前に目の前を走り去っていった女の子を思い出し、ハッとして公園の入り口に駆ける。


 センターラインのない、住宅街の狭い道の先に、妙な方向に車体を向けて停まっている赤いクーペ。その運転席から、朝の光にてらてらと光る革のジャンパーを着た、若い男が飛び出すのが見えた。車の向こう側に、横たわっている誰かの、小さな脚――。


 不吉な想像に心を凍りつかせながら、そちらに向かおうとしたとき、一際大きな風が吹いて公園中の桜の木の枝葉が一斉に音を立てた。花びらや砂埃が宙に巻き上がり、思わず伊織は片腕で顔を庇い目を閉じる。

 再び目を開けたとき。そこに停まっていたはずの車はなく、倒れている女の子の姿などもなく。通勤、通学中らしい人たちは何事もないように目の前を通り過ぎていく。


(……えぇ?)

 無意識に両手で目をこすって。幻覚? 白昼夢? 妄想?

(なんだ、いまの……?)


 わけが分からず、伊織は少しの間、その場に立ち尽くしていた。




(またが復活しちゃったのかな……)

 ぼんやりとそう思って、相原伊織はため息をついた。


 どうも伊織には、空想癖というか、妄想癖のようなものがあるらしい。子供のころからたまに妙な白昼夢のようなものを見ては、他人に話して気味悪がられ、大人からはそういう話はしないようにと叱られて。

 次第にそういうことも少なくなり、ここのところはすっかり忘れていたのだが。


 早起きや引っ越しや、生活の変化やなんかでちょっと疲れ気味なのかもしれない。それで、あんな――。


(ともかく、あんまり表には出さないようにしなくちゃな……)


 午前中いっぱいそんなことをもやもやと考えていたせいで、授業にはほとんど集中できなかった。


 それでなくとも、前の二日間でこの学校の授業の難しさを痛感していたところなのに、またこれでさらに周りから遅れたような気がする。

 緑楠高校は、超難関というレベルの高校ではないが、それでも伊織にとってはかなり背伸びをして入った学校だ。中学校からの内部進学者も多く、入学の時点でかなり差がついているのだろう。


 それに――。


 席でパンをかじりながら、肩越しにチラリと教室内を窺う。四十五分間の昼休み。教室内にいる生徒の大半は仲の良い者同士で昼食をとったり、あるいはすでに食べ終わっておしゃべりに興じている。

 内部進学生が三分の二を占めるこの高校では、クラス発表と同時に教室内には仲良しグループが出来上がっていて、ほかの中学校から来た生徒たちもその状況を即座に察し素早く外部進学生同士の交流を試み、結果、仲良しかどうかは別としていくつかのまとまりがとりあえずの「完成」を見ていた。


(完全に、出遅れた……)


 もともと自分から積極的に友達を作るのが得意なほうではない。「完成」してしまっている輪の中に強引に入っていくこともできず、教室内に自分と同じように一人で昼食をとっている生徒を見つけることもできず、なんとなく休み時間を孤独に過ごしているのである。


(そもそも、この席が悪い!)と、八つ当たり気味に考えて、前に向き直りもうひと口パンをかじる。


「生徒や教師がクラスになじむまで、座席は当面は学生番号順で」という担任の意図により、窓際の一番前に追いやられた「相原」の席。「クラスになじんだ」後ならいいポジションなのかもしれないが、ここではクラス全体の様子を知ることができず、文字通り「窓際」気分満載である。


 斜め後ろで昨日のテレビ番組の感想を述べ合っている女子生徒たちの、楽しげな笑い声が背中にぶつかり、ますます憂鬱な気持ちになる。


(俺、この学校でやっていけるのかな……)


 入学から四日目にして早くも挫折。いや、まだ巻き返せるタイミングだと考えるべきなのだろうが、現段階ではスタートアップの遅れは致命的なものに感じられた。




「相原くん」

 呼ばれて顔を上げると。目の前に同じクラスの男子生徒が立って、にこやかに伊織を見下ろしていた。


「……あ、委員長……」

「どうしたの? ため息なんかついて」


 そう言って、いかにも育ちの良さそうな端然とした顔に柔らかい笑顔を浮かべてこちらを見下ろしているのは、クラス委員長の神月こうづきはるか――伊織が顔と名前を一致させることのできる、数少ないクラスメイトのひとりである。手には書類の束を抱えて、どこかから用事を済ませて教室に帰ってきたという雰囲気だ。


 神月悠は、内部進学者の間では一目置かれる優等生らしい。

 初日のオリエンテーションで委員長を決める段になると、内部進学組は迷わず彼の名を挙げた。初対面の外部進学生としても、神月悠という人物から滲み出るいわく説明しがたい安定感に、もちろん反対する者などなく。


「俺でいいなら、やらせてもらうけど……」と慎み深く微笑みながら立ち上がった姿に、漠然とものすごい信頼感を覚え、「こういう人もいるんだな、高校ってすごいな……」と感心してしまった伊織である。


 教師陣からの信用も厚く、指名されては完璧な答えを返し、絶妙のタイミングで質問をし、頼まれごとも快く引き受ける。

 それでいて、自分からしゃしゃり出て目立とうという様子は微塵もなく、あくまで控えめに、必要なときだけ一歩前に出る機転の良さ。男子生徒からも女子生徒からも、頼られ頻繁に質問や相談を受け、クラスの中心として存在感を放っていた。


 その委員長が、優し気に首を傾げる。

「何か、悩みごと?」


「ううん、たいしたことじゃないんだけど……」

 と、答えてから、いや、これじゃぶっきらぼうすぎるかな、と慌てて続く言葉を探し、

「なんか授業、レベル高くて。ついていけるかどうか心配になってさ……」


「そう?」はるかは笑顔を少し抑え気味にして、首を傾げる。柔和な瞳の中に、芯の通った利発そうな光を浮かべる彼は、間近で見てもやはり普通の生徒とは一線を画しているように見える。


(優等生なんだもんな、この人……)

 ちょっと失敗したかな、と思う。きっと勉強で困ったことなどないであろう人を相手に、まだ本題に入ってもいない授業が難しいだなんて。消沈してしまった伊織に、悠はまたにっこりと笑いかけた。


「俺ほかの学校の授業受けたことないけど、一貫校ってきっと独特だから、いろいろ戸惑うよね。困ったことがあったら言って。俺にできることだったら力になるよ」


 完璧すぎる優等生の言葉。しかしそれがピタリと嵌って嫌味がない。素直に嬉しい。と、そこで悠は、伊織に声を掛けた本来の目的を思い出したというように、「そうそう」と手に持っていた書類の中から一通の封筒を探し出した。


「職員室で、村上先生から預かってきたんだ。中の書類に記入して、放課後に提出するようにって」


 担任からだ。昨日中に引越しをすると言ってあったので、その届出の書類だろうな、と思う。


「あぁ……ありがと。ごめん、委員長にお遣いしてもらっちゃって」

 そう言って封筒を受け取ると、

「全然。ついでだから、気にしないで」とまたも完璧な笑顔を残し、神月悠は自分の机に帰っていった。


 彼もまた、クラスに特定の親しい友人がいる様子はない。誰とでも親しげに口をきくし、休み時間なども、教師の遣い立てやクラスメイトからの質問、相談で慌しく過ごしているが、ふと人が途切れた瞬間にひとりでいることも多い。

 が、「孤立」は感じさせない。友達ができないから一人なのではなくて、一人でいても困らない人なのだ。伊織のそれとはわけが違う。


(いいなぁ、ああいうの。俺もああだったらいいのに……)


 しみじみとそんなことを考えながら、封筒から書類を取り出し記入を始めていると、午後の授業開始の予鈴が鳴った。

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