Please return

目がーーー覚めた。

気がついたらベッドで横たわっていた。悪い夢から覚めたように勢いよく眼を開いてすぐに目の前に飛び込んできたのは見飽きた青空の壁紙が張られている天井だった。それも夜なのか、異様に暗く青空はかえって違和感を放っていた。

苦しさを体が訴えてよろよろと上体を起こす。そして私は首を捻りながら、ここが何処なのか確認するように視界に入り込んだ物を自身の記憶と照らし合わせ、次々と凝視して いく。私のベッド、私の勉強机、私の椅子、私のテーブル、その上にある私のケータイ、私のスクールバック、その中から覗いている私の筆箱、間違いない、 私の部屋だ。

「・・・・夢、だったのかな」

あまりの突然の出来事にまだ頭がズキズキと痛む。そのときは外にいたし、もし室内でもあれが本当に起こった出来事なら私は病室の真っ白な部屋で横たわっているだろう。よかった、あれは夢だ。間違いない。

私は大きくため息にも似た深呼吸をし、ごしごしと零れた涙を拭き取る。それだけでも動くと体中についた、海から上がってきたときの水滴みたいな大粒の汗が流れて気持ちが悪い。

すぐに着替えないと。でもあれだけの悪夢を体験したんだ。こ の半端じゃない汗の量も理解できる。

ーーーここまで鮮明な夢は初めて見た。鉄の塊と衝突したときに襲いかかった今まで味わったことも想像したこともない激痛。90度回転した視界に映える血飛沫と大きな轍。耳を劈くブレーキとクラクションの轟音。鼻を突く鮮血の生々しい臭い。夢と呼ぶにはあまりにも鮮明で、現実と呼ぶにはあまりにも幻のようであり得ないものだった。あれが事実なら私は確実に死んでいただろうでも、私はこうして 生きているんだ。あれがただの悪夢以外に何だというのだ?

「ふぅ」

もう一度大きく深呼吸をしてベッドから立ち上がり、部屋の電気をつけようと暗闇の中を手探りでスイッチを探す。

「あった・・・」

カチッ

しかし、電灯はまるで反応しない。

「あれ?」

再度、部屋に明かりをつけようとスイッチを押すものの電気がつかない。すぐに諦めて勉強机の蛍光灯に手を伸ばし、電源を入れる。

ーーーでもそっちも反応しない。どうしたのだろうか?

「・・・・停電かな?」

一度大きなため息をついた。なんだか今日はついてない。電気つかないし、悪い夢は見るし。そう思った瞬間にまた夢の情景が脳から再生される。

すぐにそれを忘れようと私は少し強めに頬を叩いた。それで本当に頭のスイッチが切り替わったのか、あることを唐突に思い出した。

「あれ?本どこやったっけ?」

そういえば、湊に借りた本をどこに置いたか記憶にない。それどころか昨日、家に帰ってきたとき、それよりも前の湊と千明と別れた記憶さえない。曖昧どころの騒ぎじゃない、どこにもない、ないんだ。

「・・・ってあれだけの悪夢見てちゃ記憶が飛んでも不思議はないか。とりあえず本探さないとね」

制服のまま寝ているところを見る限り、私は帰ってきてすぐに寝ていたのだろうか?

掛け布団を足で無造作に押しのけ、ゆっくりとベッドから降りた。やっぱり動くたびに汗が気持ち悪い。

「あれ?」

立ち上がるとすぐに部屋の違和感に気づいた。暗がりに慣れない目を擦ってもう 一度確認する。

「・・・写真がない」

先日、湊と一緒に撮ったあの一枚。これからの明るい未来を祈って、彼に告白すると固く誓って一番目につく机の上に置いた写真。私がその大切な物を無くしてしまうはずがない。家族の誰かが持っていってしまったのか?でも父さんは私の部屋の入らないし、母さんには自分の部屋は自分で片付けるからあまり変なふうに触らないでと頼んでいる。どうしたものか。

階段をゆっくりと一段一段慎重に下りる。変に用心している理由は奇妙で、なんだか身体がフワフワして歩き辛いのだ。寝過ぎてしまったのか、昨日何時に寝たかも覚えていないから結論の出しようがないことを推測する。まぁ、この件は一旦置いておこう。

30秒近くの時間をかけて階段の最後の一段までたどり着いた。これだけでもかなり疲れた気がする。進行方向を変えてキッチンへ向かうことにした。そしていつも通りの慣れた動作で蛇口を捻り、コップに水を注いだ。

「とりあえず、水でも飲んで落ち着こうかな」

ふと、鼻腔をお寺のような慣れない臭いが刺激する。それが線香の匂りだと気づくのに数秒かかった。しかし、何で家から線香の匂いがするのだろう?

私はそのまま家を探るつもりでリビングに足を運んだ。

キッチンにすぐ近くのリビングも静かで世界が止まったような感覚に陥った。それほどの静寂がこの空間を支配していた。

しかし、それは余興ですらない、本当に止まっていたモノを示したソレはは私の目の前で強烈な違和感を放ちながら佇んでいた。

まず目に飛び込んできたのは写真だった。まさにさっきまで探していた湊と一緒に私が写っている写真。次の物を見る前にさきに嗅覚がものを言った。これは・・・線香の、匂い。

「・・・う、そ」

消えた蝋燭にすでに燃え尽きて灰の丘しか残っていない線香、そして私の皮肉にも笑っている、いや嗤っている写真。

「そんな・・・そ・・んな」

ーーーバリンッ

私は全身の力が抜けて気が遠くなるのを感じた。


それは「私」の仏壇だ。


「ひぃい・・・いやあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーー!!!」

夢中になって裏口から家を飛び出した!

とにかく真っ白だった。

とにかく走った。

怖くて・・・。

恐くて・・・。

行き先なんて考えていない。

ただ走った。

気がつけば私は少し家から離れたところにあるの公園ではぁはぁと肩で息をしながら膝をついていた 。ここまでどういう道のりで着たのか記憶にないが、足が痙攣して動けない。相当遠回りして滅茶苦茶な道を走って来たんだろう。

「・・・・疲れた」

私はガクガクと震えた両足を引き摺りながらベンチまで何とか届く。そして背中からゴトンッという音を立てて倒れこむように座った。少し雨が降っているようで 自分の頬に水滴が冷たく流れ落ちる。

まだ息は上がったままで肩が忙しく上下する。

寒空を大きく仰いで白い息を吐き出しながら大きく深呼吸をした。でもそんなん で落ち着けるわけがない。

「・・・さっきのは・・何かの錯覚・・・・なの?」

目の前に私の仏壇が禍々しい威圧を放ちながら私を見上げる、そんな光景。そんなのあり得ない。だって私は今ここにいるんだ。白いこの吐息も出ているし、寒いとも感じている。ベンチの感触も確かなものだ、それに疲労だってこうして感じている。間違いない。

「・・・・・?」

縋るように辺りを一瞥すると電柱に縦長の看板のようなものが立てかけてある。普段、あまり見たことないような青と白の無機質な看板。そうだ、前に見たことがある。たしかこれは葬式の・・・。


(故)森野木ーーー


「い、いやああ!!」

私はまた駆け出した。訳がわからない。意味がわからない。いろいろの言葉でさっきの看板を、仏壇を否定する。だってあり得ないじゃないか!

そして今度は目的地に向かって走った。必死になって足を前へと出した。

さっき走ったばかりでもう限界だ、でも走った。

苦しくて胃の中のものを吐き出しそうだ、でも走った。

足が引きちぎれそうで悲鳴を上げている、でも走った。

途中で転んで血が出た、でも走った。

雨が勢いを増して豪雨になった、でも走った。

ただ走った。

証明したかった。私はまだ・・・。


市の外れまできた。今が何時なのか知らないがそこ以外は夜の黒に沈んでいてホラー映画の中に迷い込んだように暗かった。唯一、明るいそこも空気がとてつもなく重かった。

「はぁ・・・はぁ・・・」

私は膝から手を離し、顔を上げた。葬式場で泣き声やらお経やらが聞こえてくる 。ちょうど式中だった。何十人かの人が中央に並んでいる。大半は私の見覚えのある人だ。クラスメイトに中学の中の良かった友達、面倒見のよかった先生まで。 みな一様に暗い表情でしゅんとしていた。

その隣、入り口に添えるようにそれは置いてあった。


「森野木 香乃様」


そこにはこの式のメイン、私の名前が・・・。

ーーーこれは夢だ。

私は瞬間的に全てを悟った。

ーーー違う、これは夢だ。

気がつけば、私は泣いていた。

ーーーコレハ、ユメダ・・・。

「・・・私」

ーーーコレハ・・・。

「何で、死んでるの?」

膝から崩れ落ちる。さっき走ったときに転んでできた傷がアスファルトに食い込みジンジンと痛む。痛い、ユメじゃない。あの夢は本当だったんだ。悪夢なんかじゃない。私の実体験だ。

私は死んだんだ。じゃあ、私は一体なんだ?

息が吸えなくなり、余計に苦しくなる。でも吸えない代わりに息がたくさん泣き声となって飛び出す。雨と一緒に涙が滝となる。

「・・・何で・・・・・何でなのよ!・・・・何でよぉ!!!」

泣くしかかなった。涙を流すしかなかった。理不尽に突きつけられた唐突の死に 私はどうすることもなかった。

バシャッという水を踏みつける音に私は我に返った。そこには雨水で濡れた湊が 速足でこっちに向かっていた。

「湊!!」

私は反射的に彼の名前を呼んで手を伸ばした。瞬間、彼の身体と私のカラダがぶつからなかった。バランスを崩し、私は前めりに倒れこむ。

思わずギョッとする。すり抜けたんだ。

それに彼も目の前にいた私に気づかなかった。そうだ、今の私は幽霊なんだ・・・。

私は悲しくて、彼に助けてほしくて振り返り、彼の背中を見据えた。とても悲しくて昔見たよりも小さい背中だった。


「こんにちわ、雨宮」

「おうっ」

不意の幼馴染みの挨拶に俺は反応できなかった。俺自身、あいつに話しかけられることは多いがまともに話せたためしがない。昔は違った。だが、俺の姉貴の死は俺たちを大きく変えてしまった。俺の幼馴染みの香乃は俺を見るたびに急に硬くなるようになり、俺自身もあいつと話していると姉貴の笑顔が脳裏を過ぎって上手いこと会話ができない。結局のところ気まずいままで同じ高校に入学して今に至るわけなのだ。


「はぁぁ」

俺は深いため息をついて本を閉じた。本はとても便利なアイテムだ。これのお蔭で俺はここ数年間を罪悪感に潰されることなく何とか気を紛らわせてきた。言わば現実逃避というところだ。それ以外にやることなんてないし、どっちにしろ楽しいわけでもない。正直言うとこのままゲームでもして引きニートになることはできた 。しかし生憎と俺は小さいときからゲームというのが嫌いだった。どんなに上手くできても嬉しくも楽しくもない。だったら外で遊んだほうが面白い。俺はそういう子供だったからゲームはアウト。アニメとかネットとかも一度見てみたが興味の欠片もわかなかったし、見てて面白くなかった、アウト。だったらと思い、本屋に顔を出して立ち読みというのをしてみた。こちらもそんなに面白くはなかったし、アウトと決断しようと思ったときにたまたま目に入った時計、こいつは俺が本を読み始めてから二時間後の時間を指していた。文字を目で追うことは思っていた以上に時間を忘れることができなのだ。それで本を読み始めてからというもの、食事と風呂と授業以外はずっと本を離さなかった。たまに本屋やコンビにに行くくらいで他のことは基本的にしなかった。「考える時間」が欲しくなかった。

そうして俺はこの歳になるまで姉貴の死から逃げ続けた。忘れることなんてできなかった。不器用 、そんなことはわかっている。

だが…。

「んっ?」

家に帰ってすぐに着替え、本屋に行こうと歩いていたときだった。

「はぁ、――――私ってホントダメだな」

頭を下に向けてうな垂れる香乃を見つけた。まだ制服姿なところを見ると家に帰る途中なのだろう。さっき追い抜いたし。このままスルーしてもよかったのだが、 何故か今日の俺は彼女に話しかけた。

「どうした、そんなに暗くなって」

香乃と並ぶような位置に立った。

「それがね、私ってば・・・」

と言いかけてから何かに気づいたように勢いよく肩を飛び上がらせこっちに振り返った。

「って雨宮ぁ!?」

もしかして今の今まで目の前の幼馴染みは俺だということに気がつかなかったのか、さすがに少し呆れた。

「うるさい、そう騒ぐなよ」

とりあえず落ち着けという意味で返答すると彼女はしょんぼりとして「う、ごめんなさい」と、本気で謝罪し始めた。ったく、こっちまで気まずいだろ。でもこいつがこんなに俺に気を使うのも全て俺のせいなんだ、そう思うと変に指摘出来ない 。

「・・・すまん、少し冷たかったな」

仕方なく俺も謝ることにした。

そして沈黙。予想はしていたがさらに気まずくなった。いつでも自分の失敗に気 づくのは事後になってからだ。ついついため息が出そうになる。

「これからどこ行くの?」

彼女なりに沈黙を断とうと声を上げた。

「本屋」

俺は素直に答えた。それしか言うことなんてなかったし、第一そこぐらいしか出かけない。

「あ、新しい本買いに?」

「そうなるな」

反射的に答えてからまたもや自分が失敗したことに気づく。コミュニケーション能力に乏しい彼女にいつもの無愛想な反応は返答が厳しいかもしれない。他のクラスメイトでもその辺で諦めるのだがら余計だ。幼馴染みということも考慮してもっ と親しい感じで接するべきだったな・・・。

しかし、このまま気まずいままというのもよくないな、とは言っても俺自身がコミュニケーション能力に長けているというわけでもない。むしろ苦手分野だ。あえ て香乃のほうに任せてみようか?きっと俺よりは上手いことしてくれるかもしれない・・・。

「何だ、どうした?さっきから黙ったままで」

そう言ってやると彼女は何か言いたそうな目を向けてから「ごめん」と、俯いた 。また失敗を犯してしまった。人生は失敗の連続で成り立つものなのだと何処かで聞いた気がするけど、今ならそれに共感できそうだ。いや、今のは俺が愚かなだけか。

とにかく初めのやり取りであいつが俺に何かしらの用があることだけはわかった。

仕方ない。

「せっかくだからお前も来い」

「え?」

間入れずに疑問の声が上がった。まあ、そうなるな。

「何か言いたいけど言い難い、言い辛いって感じなんだろう?帰るまでに考えてお け。俺はゆっくりと本探すから」

俺の言っていることを理解すると彼女は返事をし、首を立てに振った。


「そういえば、何が言いたかったのか整理ついたのか?」

本屋の帰り、そろそろ潮時だろうと俺は彼女に問いかけた。時計は確認していなかったがかなりの時間が経っていた。何かの形で整理がついた頃だろう。しかし、 彼女は困ったように微笑むとそのまま視線を落した。

これだけでこいつが言いたいことが何なのかわかった。大まかに言うと、今の俺の事なんだろう。香乃が俺のことを心配してくれているのは前から知っていた。で も、俺はそれを受け入れることができない。

あれは俺が悪いんだ。だから俺が心配されるようなことじゃない。

だからあのときのように俺は香乃を突き放した。

でも、わかっていたけど、やはりあいつの泣く顔は苦しくてこの上なかった。


限界だった。

家に着いた俺は、ベッドの上で寝転んで天井を眺めていた。いや、もしかしたらもっと上の方を見ていたのかもしれない。

本など読む気にすらなれなかった。

ただずっと上を見つめていた。

やはり、本なんかじゃ忘れられなかったと実感せざる得ない。姉貴が死んでから、今の今まで俺は逃げてきた。目を逸らしていた。そうでないと自分は愚か、香乃や周りの人も壊してしまうのではないかと怖くて逃げていた。

それすらももう無理だった。

香乃の涙を見て、確信してしまったのだ。

…俺は最低だ。

次の朝、合わせる顔がないといつもよりも早く家を出て学校に行くことにした。どうせ教室で合うことはわかっているのにだ。

しかし、神とやらは相当悪い性格をしているらしい。

どんっ

「ご、ごめんなさい」

不意に後ろから人が体当たりをしてきた。ちょうど、信号が変わってある気だそうとした時だった。

反射的に振り返って、俺は酷く後悔した。ぶつかってきた相手は…。

「・・・森野木」

香乃だった。合うまいと早く家を出たのがかえってこの事態を招いてしまった。

「おはよう」

動揺はしたが、俺は平静を装って挨拶を交わした。だが、予想していた通りに香乃は泣きそうな顔で俺を見上げていた。

「うん・・・おはよ」

「…」

彼女は逃げるように走って行った。

苦しかった。

いつも以上に自分をクズ野郎と罵った。

もう、限界だった。

そこからの記憶はほとんどなかった。

やがて、意識が追いついた時にはすでに、あの河の目の前まで来ていた。

河の流れは雨が降っているかのように濁流しており、荒れ狂う水飛沫が地獄を連想させた。

橋の上から、下を覗く。

毎年、この日にはここへはかならず花束を持って来る。12月7日、雨宮琴の命日だ。

「…姉貴」

大粒の雫が俺の頬を濡らしていた。そこでようやく俺は周りが大雨でずぶ濡れになっていることに気がついた。

「姉貴…」

もう一度、何も無い河に向かって問いかける。

今なら行けそうな気がした。いや、確信していた。姉貴に会えるって。

俺はそんな淡い期待をして河に飛び込んだ。

「雨宮ぁ!」

突然、聞こえるはずのない声が俺に穢れた心にまで届いた。

「・・・森野木?」

今さら何しに来た。

と言ったつもりだったが、喉元でそれは空気となって霧散した。代わりに「こんなところで何してる?」とわかりきったことを口にした。

「雨宮こそ、こんなところで何してるの!」

しかし、香乃は食いついた。

傘もささずに、合わせることのなかった俺の目をしっかりと見据えていた。

「・・・お前には関係ない」

と突き放した。

「ないはずないよ!」

尖り声をあげてそれでも負けないと対峙する。

「お前までも、俺なんかに関わることはない、帰ってくれ」

割と本心だった。

もうこんな俺には構うな、俺なんかより良い奴なんかいくらでもいるだろ?なら早く俺を見捨てて楽になれよと言った。

「雨宮だってそっちにいちゃダメ!そんなの許さない」

それでもまだ香乃は引き下がらなかった。

「なら許してもらわなくても結構だ」

そうとだけ言うと俺の方から視線を外した。

哀しみに溺れた橋。俺はとっくに覚悟を決めていた。否、あのときから、あのときにこうすべきだったんだろう。

そっと天を仰ぐ。

そして下を覗く。

少し遅すぎちまったな。

そんな俺の甘えから香乃を何度も傷つけてしまった。

そのまま柵に手を掛け、前屈みになろうと身体を揺らした。

「ダメェ!」

気付ば俺の左手を香乃が強く握っていた。ゼェゼェと肩で息を凝らしてしてるのに、なお離さなかった。

「・・・離せ」

「嫌だ!」

震えた声が叫んだ。

わからなかった。

なぜこんなにしてこいつは俺を止めようとするのだろう。

「なんで、お前は俺を止めるんだ?俺はただ償いたいだけだ、お前が必死になって止める必要なんてーーー」

「違う!雨宮が死んだって償いになんてならない!そんなの琴さんのいない世界に耐え切れなくなって逃げてるだけだ!」

肝を抜かれたというのはこういうことをいうのだろう。

「お、お前には関係ないだろ!」

思わず俺も叫びをあげた。

初めてだった。香乃がこんなにも激情を見せるのは。それほど今の彼女は本気で、それほどの覚悟で噛み付いてきたのだ。

もういい。

いい加減お前もいい奴過ぎる。

とっとと俺なんて見捨てちまえよ!

振り解こうと力を入れかけた瞬間だった。

「・・・じゃあ、残った私は、どうすればいいのよ」

「ーーーっ!?」

言葉を失った。

「もう嫌なの、もうこれ以上大事な人を目の前で失いたくない!」

力強く声を張る。

「湊ぉ・・・一人にしないでよ」

そして、消えそうな声音で静かにそう訴えた。

ああ、俺はなんて馬鹿だったんだろう。

失っているのは俺だけじゃない、香乃も同じなんだ。香乃だってあの日から今日まで辛く苦しい思いをしてきたのに、俺は自分ばかりが不幸だと決めつけていた。いや、きっと香乃の方が辛かったはずだ。

「・・・香乃」

無意識に、俺は香乃の小さな体を抱きしめていた。冷たい豪雨の中でも、森野木香乃という少女はとてもとても暖かった。

「・・・ごめんな、香乃」

そして心の底から謝罪した。

「本当に悪かったな」

こんなにも近くにいたのに気づけなかったようだ、俺は。この小さな少女の温かさに。

「私こそ生意気言ってごめんね」

湿った声で、香乃はそう呟いた。


やがて俺たちはぎこちない空気を保ちつつ、1つの傘に肩を並べたままゆっくりと歩いていた。昔はこんなことよくやったのだが、あのときとは違う感じがしておかしかった。

香乃は、周りの雨にも負けないほど大声で泣いた。初めてしっかりと噛み締める彼女の感情に、俺は一層強く抱きしめた。

顔を赤くしているのはきっとそのせいもあるのだろう。少しだけその光景が微笑ましてく眩しかった。

「森野木」

気まずそうにする香乃を呼んでみた。

「は、ふぁい!」

予想外にもかなり裏返った声が返ってきた。

「・・・なんだそりゃ」

「べ、別に。で、なにかな?」

恥ずかしそうに顔をさらに紅潮させる。

「・・・まぁいいや」

これ以上、変に空回らせるのはかわいそうだ。すぐに本題に移る。

「お前はさ、いつも俺は悪くないって言ってくれるけど、なんでそう思ったんだ ?」

真剣な問いに、思わず彼女はギョッと驚いたようで、さっきとは別の意味で顔を火照らせてまごまごとした。でも、答えは決まっていたようで、すぐに返ってきた。

「…雨宮自分を責めすぎだよって私は思うんだ。たしかに悪いのは雨宮でこうして否定している私のほうが間違っているのかもしれないけど、それでも私は雨宮の味方でいたいんだ」

「…なんで、そこまで?」

純粋に不思議で仕方がなかった。

なんで目の前の少女はそこまでして俺に構ってくれるのかと。

「…か、買い被り過ぎだよ。幼馴染みだからっていう簡単な理由。そうじゃなくても雨宮は私の大切な人なんだから当然だよ」

今度ばかりは俺が驚く番だった。

それだけが理由でないことはさすがにわかったが、それでもお人好しすぎる。

ついため息を漏らした。

すると、彼女は馬鹿にしないでと言いたそうにムスッと半目でこちらを覗き込んだ。

「そうムスってしないでくれ。別に馬鹿にしているわけじゃない」

「それじゃあなにさ?」

そう聞かれると困る。答えこそ決まっているが、少し気恥しい。なるほど、さっきこいつがまごまごしていたのはそういうことなのか。

「…変に優しくて律儀なところ、森野木らしいなって思っただけだ。ごめんな」

すると、不思議と香乃は嬉しそうに目を広げた。こればかりはどうしてこんなになったのかは皆目検討がつかなかったが、でも、俺も少しだけ嬉しかったのは事実だ。

「…違う、そこはありがとうって言うの」

そして、微笑んだ。

その瞬間、電撃が走ったとさえ思った。

香乃の無邪気な笑顔にかつて感じたあの感情が全身を駆け巡った。

そうか、そういうことだったんだな。

単純な自分に嫌気さえ思える。

「ありがとな」

その言葉が、何故だかすぅっと口から零れたことに、俺は納得さえした。


この日から俺はいつかみたいに香乃に惹かれていた。

都合がいいというなら言ってくれ。自分でもそう思うさ。

次の日、名前で呼んでいいかと言われたとき、何とか 表に出さないように努力していたものの、内心照れすぎて色々とぐちゃぐちゃにな っていて整理するのに時間が掛かった。それと同時にどうしようもない嬉しさもこみ上げて来て俺の脳内が許容量オーバーになるところだった。

何もかもがまるで昔のように感じられた。香乃には本当に感謝している、ありがとうなんて言葉じゃ足りないくらいに。こんな俺を諦めずに見ていてくれていた少女。だからこそ、幼い頃の俺もそうだったんだろう。

だからいつかこの想いを伝えたいと思った。昔からそうだったこれを 。


でも、そのいつかは唐突に消え失せてしまった。


「千明ぃぃ!」


彼女はトラックに轢かれそうな親友目掛けて突進して行ったのだ。


俺は一瞬遅れた。

たったその一瞬が全てを決めた。

それは本当に一瞬の出来事だった。 皮肉にもかつて、俺たちから大事な人を引き剥がしたときと同じように。そしてあ のときよりも残酷に。


キィィィィィイイイイイイイイイイイイイーーーーッ!!!


ガシャン!!

粗雑に玄関の扉を叩き閉める。金属同士の無機質な衝突音が空っぽの部屋に静かに広がった。

ふと、この家、綺麗な白い壁が殺風景に見えてならなかった 。昔の賑わっていた頃の空間が懐かしく脳の奥を過ぎ去っていった。居間の柱にかつてあった姉貴との背比べの落書き。あのときは姉貴は父親譲りで背が高くて結局勝てなか ったんだっけ?きっと今なら勝てるかもしれない。それすら今は掠れて消えている。

「・・・もうできないか」

静止という支配者が君臨している家の階段を徐に進む。静寂な空間にゆっくりと した俺の足音は十分過ぎるくらい響いた。それでも支配者には不十分だったのか、 登り終えるとまたすぐに静止が戻ってきた。

ガチャーーー

ドアノブを下ろし、ドアの固定が外れる。力なく引くもあっさりとそれは口を開 いてしまった。

そこは俺の部屋だ。

俺が姉貴の死に耐え切れず、止まっていたときに両親がせめてもと部屋は何の不自由もしないように何でも置いてくれた。テレビにパソコン、本棚に大量の本と辞 書、そして写真立て。俺は最後に目についたそいつを手に取った。つい最近撮ったものだ。そこには嬉しそうに微笑む女子と困ったようにこちらを見ている男子が写り こんでいる。紛れもなく俺と幼馴染みの香乃の写真だ。そして葬式で使用されたものだ。

「・・・」

落ち着いた動作で写真立てを元の位置に戻す。彼女が俺に微笑んでくれたのはつい六日前のことだ。しかし、もう彼女はいない・・・。

「・・・ちくしょう」

あのとき、トラックが目の前を通過し惨劇を起こす前に、俺が恐れなければ・・・ もっと早く手を伸ばしていれば・・・。

「ちくしょうっ」

俺の目の前で香乃は親友のために何も恐れずに、迷いもせずに飛び出した。それは彼女の本来の強さと優しさだ。もし、もしあのとき俺にも香乃のような強さがあ れば・・・。

「ちくしょぉぉ!」

何で!何でまた俺じゃないんだ!?

何でまた俺から大切な人を奪っていくんだ!!?

本当に神様なんているのなら一度この目で見てやりたい、一体どんな醜い奴があんな優しい2人を平気で目の前から消してしまうのだろうか?

死ぬのなんてくだらない俺でよかった!

なのに…!!


「ちぃくしょうがぁぁぁああ!!!!」


気がつけば俺は俺の部屋だったところで立ち尽くしていた。しかし俺の部屋じゃない。こんな部屋俺の記憶にない。俺の記憶が正しければ俺の部屋はここまで荒れていないはずだ。まるで空き巣に入られたよう、否それ以上だ。テレビはひびが入り、パソコンはキーボードがバラバラに散乱して使い物にならない。本棚は凹み、 中の本や辞書がビリビリになって散らばっている。枕も八つ裂きなっていてベッドなんかバネが飛び出している。でも、それを見てもぐちゃぐちゃだという感想以外、何も持てなかった。

「ちく、しょう・・・」

足元が濡れていること気づいたのは俺が我に返ってさらに5分も後のことだった 。


玄関の扉を音を立てないようにゆっくりと優しく閉める。外のひんやりとした空気が肌に痛い。いや、そんなのはきっと私の想像に過ぎないのかもしれない。

だって私は冬の夜風よりも冷たい幽霊なのだから・・・。

「・・・」

私は口を固く閉じながら徐に人のいない夜の道を歩く。濡れているアスファルトを足音なく静かに踏みしめる。自分の涙のように雨は涸れてしまっていた。 泣きたくても何でか泣けない。泣いて喚ければどんなにすっきりとするだろうか。

少し前まで泣くことが恥ずかしくてみっともないと恥じていたのに、今はこうして泣きたい自分がいた。

私の死後すでに一週間近く立っていたことには純粋に驚いたが、そんなことなどどうでもいいくらいに心はズタズタだった。それでもフラフラと脚を運んだ。

彼もあのときそうだった。自分の部屋で暴れる彼を思い出す。彼はズタズタにした部屋で呆然と立ち尽くしながら、泣いていた。とても苦しそうに泣いていた。何 故、何故また彼だけが残ってしまうのだろうか、いや私たちが残してしまうのだろうか。きっと琴さんも同じことを考えていただろう。また湊だけ残して、彼に苦し みだけを与えて逝ってしまうなんて。

トボトボと歩き、気がついたら私はあの葬儀場に来ていた。特に意識していたわけじゃないのに・・・。私はそのままゆっくりと時間の止まった空間へと足を踏み入れた。一歩ずつ、一歩ずつ、ゆっくりと力強く踏みしめた。止まらなかった、見 ればきっと後悔する。それでも私にはそれを止める術などなかった。

そしてソレはその場で静かに止まっていた。

棺桶の蓋の窓をゆっくりと開けると、そこにはもちろんワタシがいた。あんなことがあったのにワタシは外傷も見受けられず、優しい安らかな表情で微笑んでいる。周りに詰められた桃色の花模様が眠っているワタシを綺麗に見せていた。

瞬間的に私は強く拳を握った。自分でもわかるほど口元から歪み、気づけば下唇がとてつもなく痛い。それでも噛む力は弱まらなかった。

「・・・そっか、私後悔してるんだ、死んだこと」

その空気に消えそうな言葉を言い終えるよりも先に瞳から涸らしたはずの涙が溢れてきた。それはそのことを確信されるのに十分過ぎる判断材料だった。いや、きっと森野木香乃は自分が死んだと知ったそのときからとっくに気づいていたはずだ 。「独りになってしまった湊」という蓋を自分に閉めて、見てみぬフリを決め込んでいたんだ。つまり、結局私は湊がどうとか言う前に、自分の明日が奪われたことを後悔してるんだ。

…だって当たり前じゃないか、誰だって生きていたいし、誰だって死にたく ない。湊や千明は私を優しいとか言ってくれるけど私も普通の女の子だ。

未練だって?

そんなものないはずがない!

「だって・・・私、まだ・・湊に…伝えていない……のに」

涙で震えて上手く言葉にならなかった。足も身体を支えるだけのチカラを失い糸が切れたように崩れ落ちる。

何がいけなかったというの!?

私が何か悪いことでしたっていうの!?

「何で、私なの・・・」

私は震える足に鞭打ち、無理やり立ち上がった。それからもう一度自分の顔を見た。でも、今度は滲んで歪んだそれを上手く見れなかった。

「・・・ねぇ、起きてよ」

私は森野木香乃に問いかけた。

「起きてってば」

香乃は動かない。

「本当は死んでなんかいないんでしょ!?」

香乃は応じない。

「本当は生きてるんだよね?そうなんだよね!?」

香乃は答えない。

「だから、はやく………目を覚ましてよぉ!!」

私は夢中になって虚構に向かって叫んだ。

精一杯、一生懸命、藁にも縋るつもりで彼女にぶつかった。しかし、返ってくるものはなかった。いくら叫んでも掴む藁すら出てこなかった。

それでも私は吠えた。

必死に虚構から掴むものを探した。

諦めきれない!

だって私は今ここにいるんだ!

きっとまだ間に合う・・・そんな気がしてならなかった。

ドサッ

唐突に視界が低くなる。どうやら、震える足に限界が来たのだと理解するのにかなりの時間を使った。頭もクラクラとして気分が悪い。それでも何とかまだ膝で立ち上がった。食いついた。

「何で・・・何で・・・」

頭を垂らし、目の前に出来た湖を見つめながらも私は吠え続けた。声と意思が続く限りまだまだ吠え続けた。

ひたっと額を棺桶に触れてみた。あまりの冷たさに思わず飛びのきそうだった。

「・・・」

意を決して私は恐る恐る顔を上げてみた。

そこには生前の私の写真と大きく虚しく私に無力感を与える棺桶が見下ろしていた。写真にある私の笑顔はもう諦めろと嘲笑っているようだった。

「・・・そんなの、嫌だよ。何で私が死ななきゃいけないの?」

なんとか取り繕おうと虚空の中に掴めるモノを探す。でもいくら探しても助け舟も、縋ろうとするモノすら見つからない。

「何でーーー私が」

ふと脳裏をこれまでの小さな人生の思い出が繰り返される。湊と琴さんとの出会い、楽しいあのときの日々、千明と友達になったこと、琴さんの死、空っぽになった湊、私を心配してくれた千明、川原で見せてくれた湊の表情、照れるような仕種 、そしてーーー

ばんっ!!

私は力一杯、震える全身の力を振り絞って両手で棺桶叩きつけた。

「もう嫌っ、こんなの間違ってる!違う、こんなの現実じゃない!私は幽霊なんかじゃない!!これは夢だ!そうよ、絶対そうよ!だってこんなのおかしい!!これが現実であるはずがない!!これは違う!私は、生きてーーー」

刹那、私の中の大事な何かがぷつんっと音を立てて切れた。チカラを失った私は支えを求めるように頭を棺桶に押し付けた。

「返して」

それはある少女の悲痛のお願い事だった。

「ねぇ、返してよ」

誰に問うわけでもなくただ中空に吐き捨てるように悲願を零した。


「私の、明日を返してよ!!」


それは永遠に叶わない、儚く惨めな声音だった。もうこの世で存在できないちっぽけな少女の悲しい願い事。その声が弱々しく消えるように彼女の意識もゆっくりと倒れていった。


カチッ・・・カチッ・・・

忙しそうな秒針の音で自室の時計を視界に入れる、長い針が「3」短い針が「9」 の数字を示し、今もなお流れ行く時を正確に表している。この午前三時もあと15分足らずとなった。でも、そんなことはウチにとってどうでもいい、空虚なものだ。今こうして夜の常闇の時刻を泣き腫らして過ごすのは今日が初めてじゃない。きっとすでに何日もこうしているだろう。そんなことさえもウチには虚ろでつまらないものに思えた。ふと時計のすぐ近くのカレンダーに焦点が定まる。 多分、今日は12月14日くらいかな、だとすると世間の学生はもうそろそろ冬休みが始まるシーズンだ。本来なら親友の香乃とウチで冬休みの楽しい計画を決めている頃だが、彼女はもういない・・・。

「・・・ウチ、何やってんだろ」

誰に言ったのでもない言の葉は空気に静かに同化していった。その後もさっきみたく秒針の音だけが部屋に残った。

本当にウチって何やってるんだろ?

今こうしていることに対してもそうだが、しかしこの言葉はもう少し昔の私に向けたものだ。

小さな身体で道路を急ぐ猫、それに気づくことなく走るトラック、そこら辺にいくらでもいる野良猫なんて放っておけばよかったに、何故ウチは動いてしまったん だ。あのときまでは野良猫だって大切な命の一つだと本気で思っていた。そんな綺 麗事を並べるウチを神は嘲るように見下していたのだろう。トラックの目の前で私 は躓き、バランスを崩してしまった。

そのときに初めて走馬灯というものを体験した、否してしまった。瞳の奥に無理やり流れ込んでく映像の7割は香乃との思い出だった。同じ日に親友の大切さを改めて感じたばかりなのにこんなに早く次の機会が訪れるなんて、あのときは夢にも思っていなかった。初めてウチを「面白いクラスメイト」じゃなくて「君月千明」 として接してくれた、優しい憧れの親友。彼女と歩んだ青春はとても楽しかった。


―――千明ぃ!


次の瞬間、この走馬灯が悪意のある神の悪戯だと理解した。そう解釈するしかなかった。目の前の光景に心臓が潰れそうだった。

さっきまでウチがいた場所に香乃がいた。

ガドォォン!!

あの音は、それがまるで呪いのようにウチの耳から離れなかった。ウチはこの何十日と後悔だけを背負って息をしていた。何故あんなくだらないことをしてしまったのかと。どうせたかが猫だ、親友を失ってまで救ってやった恩人につめを立て、仇で返してきたようなものを、どうしてと。

あんなもの見殺しにしてしまえばよかったんだ。それなら可哀想だねって感想だけで終わったものなのに・・・。

ウチはそうして日に日に後悔と罪悪感で自分の身を潰していった。

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