愛したがために 3/3 「必然」

 私達は、自然にお互いを下の名前で呼ぶようになった。彼は私の事を栞と呼び、私は琢磨と呼んだ。私たちが恋人同士になった事もそうだし、下の名前で呼ぶようになったのだって、いつからだったかを明確に覚えてはいない。付き合ったそれと同じように、とても自然の中での私は彼を「琢磨」と呼んだし、彼は私を「栞」と呼んだんだ。そう、気付いた時にはそんな関係になっていた。

 こんな曖昧な気持ちで始まった恋愛を私は今までに経験していない。いつも100%の気持ちから始まって、意図もせずにその気持ちは段々と落ちて行く。だからこの自然の流れの中で、私と琢磨が一緒になって、そしてこの先二人の関係がどのように変化し暴走し育っていくのかが私にとって未知数だった。

 だけど琢磨はとても優しい人。いつも私の事を考えてくれていると感じる事ができたし、だからこそ私も素直になる事ができた。付き合い始めた時の曖昧だった気持ちは、付き合いが長くなればなる程に明確な気持ちへと変わっていって、気持ちが曖昧だったなんて事すぐに忘れてしまう。それは多分、琢磨も同じだったと思う。

 だからこそ私は怖くなってしまう。今はこんなに幸せな恋愛でも、いつかはきっと終わってしまうんだ。私たちの幸せが強まれば強まる程、いつか物凄い勢いで地に落とされ打ち付けられてしまうような気がした。これ以上好きになってしまっては、私はその反動に耐えうる事ができなくなってしまう。もっともっと好きになりたいのに、好きになればなるほど、その怖さも大きくなっていく。自分の気持ちをコントロールできないままで、私はやっぱり琢磨の事をこれ以上ないくらいに好きになっていってしまう。


 私達は部屋が隣同士という事もあって、ほとんど日々を一緒に過ごした。もし、私たちが別れたとしたら、私はこの家から出て行かなくてはならなくなるだろうか、それか琢磨がこの家を出ていくのだろうか。そんな事を考えると少しだけ泣きそうになって、琢磨の腕の中で静かに甘えた。

 毎日夜ご飯もベッドも共にした。私たちは一人暮らしだったけれど、それは世の中の同棲とさして変わらない。

 それでも大学にはちゃんと通っていたし、勉学にも励んだ。間違いなく私は幸せで、私を取り巻く全ての環境も上手く循環しているように思える。

 この人といつまでも居たいと思ってる。いつだってそう。今だってそう。

 だけど、恋はゴールの明かりさえ見えやしない迷路だった。ときに私はその中に迷い込んで、出口が分からないまま琢磨の中で苦しみ続けた。幸せの中に潜む小さな悪魔は、いつでも私の首元に刃物を突き付けるようにして、”その日”を待っているみたいに。


   *


 おそらく、今まで付き合ってきた誰よりも、僕は栞の事が好きだった。彼女と僕はいろんな部分で似た境遇にもいたし、性格だってとても合っていると思う。僕たちは相性がいいんだと思う。

 僕は栞を愛している。でも愛するが故に、栞の気持ちと自分自身の気持ちが分からなくなる時がある。

 僕は栞とセックスをする時、今まで付き合ったどの女性よりも快楽を感じている。だけど、行為を終えた後の虚無感も今まで付き合ったどの女性よりも大きかった。

 僕はその虚無感の正体が分からない。……栞を失ってしまうという恐怖?それは確かに恐ろしく、とても悲しいものだった。

 栞が僕の事をどのように考えているのかが分からない。僕と彼女はほとんど毎日一緒にいたけど、それでもたまにとても強い孤独感に苛まれる。僕はその理由も分からなかった。

 僕はただ、その孤独感を栞に拭って欲しいだけだ。彼女と一緒にいればいる程拭えると思っていたその気持ちは、彼女と一緒にいればいる程、徐々に大きくなっていく。

 隣で小さく寝息をたてる栞の体温を感じ、栞の鼓動も感じた。その温もりにほんの少しだけ僕の孤独感は癒されたように思えたけれど、でもやっぱり僕の心は冷たいままだった。


   *


 私はただ、琢磨を失うのが怖かった。だから……付き合い始めて半年が経った頃、私達はよく喧嘩をした。大した理由ではない。私は自分の事しか考えてなかった、そして琢磨を傷つけている。何の意味もなしに。琢磨はそれを受け止めていてくれていた。私の尖った恐怖心は、琢磨が私を抱きしめる事で安らいだ。

 だけど、それでも私は安心できない。私はもう自分自身さえ分からない。今までにない程に人を好きになってしまって、自分でも制御ができない。

 その助けを毎回琢磨に求めるように、私は琢磨に当たり散らして、彼を傷つけた。いつだって私は琢磨に寄りかかってばかりだけど、でも、たしかに私達は不器用ながらも愛し合っていたんだよね?


   *


 栞と体を重ねた後、僕は毎回涙を流していた。みっともない事くらい自分でもよく分かっていたけど、栞を抱きしめているとどうしてもそれを抑える事ができなくなってしまう。そんな僕を見て、栞は理由を尋ねてきたけど、僕も自分がなぜ涙を流しているのかが分からなかった。今までに感じた事のないような寂しさ。最愛の彼女を、僕は僕の腕で抱いているのに、我慢が出来ない程に悲しみに捕われる。そして気付けば涙はあふれている。栞の体温を肌で感じる度に切なくなって、僕は僕でいられる自信がなくなりそうだった。栞を愛すれば愛する程、自分は壊れてしまいそうだった。

 そんな自分には見えない何かが、僕をずっと苦しめる。

 たぶん栞も見えない何かに苦しめられていたんだと思う。彼女がそれに一人でもがいているように見えたけど、僕はそれを分かっていながら救ってあげる事ができない。救ってあげる術を知らない。それに、彼女を救う事で、自分がまたひとつ壊れてしまうような気もしていたんだ。


   *


 私達はお互いを愛する代わりに、自分達で、自分自身を壊しながら、狂わせてもいた。お互いがその事に気付いた時、私達の関係は既に終わっていた。

 別の人間と別の人間が交じり合うのは、とても複雑で、とても難しい事。

 私達が愛し合っていた事、それに間違いはない。だけど、お互いがそれぞれに深くなり過ぎてしまっていた。それはまるで自然の流れのように。


   *


 自然の流れの中で僕達は出会い、付き合い始めた。そしてお互い愛し合った。栞は相手が僕である事の理由などないと言った。それは正しい意見だと思う。そう、きっと理由なんてないんだ。お互いが無意識の中で惹かれ合って、無意識の中で溺れていってしまったのだ。だから僕達はその流れに乗って、別れる事になったのだと思う。

 僕達が別れたのは"偶然"ではなく"必然"だった。




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