愛したがために 2/3 「偶然」

 僕が栞と出会った事はきっと偶然の重なり合いの中で起きた一つの必然なのかもしれない。必然......。いやでも、もし、偶然の重なりが必然になるのであれば、それこそ重なり合った小さな偶然でさえ、必然だったのではないかと感じる事が出来る。

 世の中の物事の全ては必然。果たしてそうだろうか?後から考えれば、どんな事だって必然という事ができるだろう。でもその時起きた、そのその時の出来事を、僕は瞬時にこれを必然だなんて考える事はできなかった。それにそれは、まるで偶然であるという風を装って僕の前に現れた必然なのだから。


 僕は高校を卒業した後、東京にある大学に通うために実家のある福井県を離れ上京した。初めての一人暮らしらしく、あまり綺麗とも言えないけれど、古すぎるとも言えない無個性なアパートに僕”達”は住んでいた。

 僕達はお互いの存在を知らずに、"偶然"同じアパートに住んでいた。僕の住んでいたその部屋の薄い壁を取り払ってしまえば、すぐそこは栞の部屋だった。

 僕も栞もほとんど同時期に実家のある地方から、この大都市東京に対する不安や希望を抱きながら、この無個性なアパートに越してきたのだ。僕が引っ越してきたその時はまだ、隣の部屋に人が住んでいる気配を感じる事が出来ず、隣が空き部屋である事に、僕は少し喜んだりもした。隣人トラブルなんて話だけはやたらと聞いた事があるけれど、実際に僕の身に振りかかってきた事はない。ただそれでも、テレビの音量を極度に気にする必要はないんだな、なんて事を思うと、やはり少し嬉しかったりする。

 しかし、僕が引っ越してきたその日から三日後。空き部屋だった僕の家の隣は意図も簡単に埋まってしまった。彼女が引っ越し作業をしているところに僕が自分の家のドアを開け、隣の家に誰かが越して来たのだという事を察した。そしてその時はまだ栞という名前も知らないまま、僕は隣に歳が近そうな女性が越して来た事を知った。


 僕達が最初に言葉を交わしたのは、栞が引っ越してきた次の日。僕の部屋のインターホンが鳴り、その音に誘われるように僕がドアを開けると、そこに彼女が立っていた。包装紙に包まれた四角い箱を持ったまま「隣に引っ越してきた神崎です」と彼女は言った。僕は軽く会釈し、「須藤です」と名を名乗り、その四角い箱を受け取った。初めての一人暮らしで、こういった時の対応を僕は知らず、僕は彼女が名前を言えば、僕の名前を言ったし、彼女が箱を差し出せば、僕はそれを受け取るしかなかった。

 そうして、僕たちは初めてお互いの顔を見ながら言葉を交わしたのだ。

 僕はその時に栞の事が好きになったのだろうか?

 ......いや、それは違うと思う。彼女が僕の家のインターホンを押した時、僕は彼女を隣人としてしか受け入れていなかったし、それ以上の存在になるなんて考えてもいなかった。それなのに、僕たちがお互いを好いてしまったのは、やはり”偶然”という名の”必然”が生み出したもので、僕達みたいな人間は、そのような流れにどうしたって逆らう事が出来なかった。そして自分の気持ちにも抗う事ができないのだ。


 僕達は同い年だった。それに大学進学のため地方から上京して来たという同じ境遇にも立たされていた。それならば、同じ時期にここに越して来た事にも幾分納得がいく。そんな共通点が僕と彼女の間にあったおかげか、僕と栞が意気投合するにはそれ程の時間は必要なかった。と言っても、別にすぐに仲良くなった訳でもないのだけれど。

 僕と栞がこのアパートに越してすぐの頃は、”偶然”顔を合わせる機会があったとしても、軽く会釈をする程度の関係だった。そんな関係は数日間続いていたし、僕はそれが隣人との距離感なのだと実感し始めていた。だからそれを乱そうとも思っていなかったし、もちろん、彼女に好意を抱いてもいない。僕にとって彼女はあくまで”隣人”以外の何者でもないのだ。

 だから、その後僕たちが好き合う関係になる事はもちろん予想できてはいなかったし、そう差し向ける気もなかった。

 きっといくつもの"偶然"が重なり、人は人と出会う。その”偶然”に更に重なった”偶然”で、僕たちは恋に落ちたのだろうか。


     *


 私はその日、大学の図書館で調べ事をしていて、いつもより帰るのが遅くなった。家に着く頃に見た時計は既に十時をまわり、辺りは暗い底に落ちて、まだ越したばかりの自分の帰る家さえ場所を見失ってしまうのではないかと少し不安だった。

 自分の家であるアパートに着いて、いつもなら何事もなく家のドアを開けるのに、その日はある障害が私のそれを拒んだ。私の住んでいるアパートの隣に住んでいる後藤さんが、自分の部屋のドアに寄りかかり、ぐったりと倒れている。

 彼が大学生で、私と同い年で、ここに引っ越してきたばかりだという事は挨拶をした時に聞いた。私が彼に親近感を抱くのはそれだけでも十分過ぎるくらいで、初めての一人暮らしで感じていた不安も、幾分取り除かれたように感じる。だから、私は彼に声を掛けたのだと思う。

「えっと……、後藤さん?どうしたんですか?大丈夫ですか?」

彼はどうやらお酒を飲んでいたようだった。それは彼のまわりの空気にまとわりついていたそのアルコールの匂いで分かった。

「大丈夫。大丈夫。」

彼は焦点の定まらない目のまま、手を横に振った。大丈夫と言った割には起きる気配さえ感じられない。

「もうここ家ですよ。中に入らないんですか?」

「んー……」

誰がどう見ても、彼が泥酔している事は容易に受け取れるだろう。私たちはそんな、なかなか先に進む事のできない会話を30分程続け、彼はようやく自分の部屋に入っていった。


 次の朝、私は彼と"偶然"同時にドアを開け、自分の家のドアの前で目を合わせた。彼は「あ、どうも」と小さな声で言って、簡単に会釈をした。そんないつもの素っ気ない隣人関係のまま彼は先に行こうとしたから、私は少しだけムッとして、ちょっとからかうくらいの気持ちで彼に向かって言った。

「昨日は大分酔っ払ってたみたいですけど、大丈夫でしたか?」

彼は振り返り、驚きの表情を見せた。そして次の瞬間にはなんで知ってるんだとでも言い出しそうな顔を見せる。

「昨日私が帰ってきた時、後藤さんドアの前で寝てましたよ」

「……え!?」

彼はびっくりした顔で続けた。「本当ですか!?」

私はゆっくりと頷いた。

「もしかして……ご迷惑お掛けしましたか?」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ」

「本当ですか?……すみません。僕いつも調子に乗って飲み過ぎちゃうんですよ」

その日、私達は始めて、二人で最寄りの駅まで歩いていった。その間に私たちは何を話したのだろう?記憶に刻まれるような深い話なんて何一つしていないのだろう。記憶を触れるような優しさで引っ掻くような、当たり障りない話だったんだろう。


   *


 当時、まだ東京に出てきたばかりの頃、僕には恋人がいた。彼女と僕は高校の同級生で、僕が東京が東京へ行く事とは対をなすように、彼女は地元で就職先を見つけそこで働いていた。だから僕たちは遠距離恋愛をしていたのだ。同じ高校で、あれだけ毎日一緒にいた人と急に遠距離の関係性なんて僕にはどうしても想像する事ができなかったから、上京する少し前に僕は彼女に別れ話を切り出した。だけど彼女は「とりあえずやってみようよ」と言って、結局僕らの関係は遠距離恋愛へと続いていったのだ。

 だけどやっぱりそんな関係が上手く行くはずなんてなく、すぐに僕たちの関係は危ういものになった。連絡だって前ほどマメに取っていないし、彼女の声はもうほとんど忘れてしまった気がする。

 そして、栞にも当時恋人がいて、その恋人がいるのは栞の地元の愛知県だった。この話は僕が酔っ払ってドアの前に寝ていたあの日から一週間後くらいに聞いた。

 そういう意味でも、僕たちの境遇は似ていたのだ。僕達は遠距離恋愛の難しさをお互いに語り、たまに恋人の悪口を言ったりした。そして、この関係がそう長くは続かない事もお互いで話し合ったりもしていた。

 程なくして、僕は恋人と別れた。それから数日後に、栞も恋人と別れたんだ。

 そして、僕達は何となく、そう、これに関しては明確な理由がなかった。僕は栞が好きなのかどうかも分からず、たぶん栞も僕を好きなのかどうか分かってなどいなかったと思うのだけれど、僕たちは付き合い始めた。お互いがお互いを恋人を認識し合いながら。

 流れとはこういう事なのだろうと思った。二人ともそんな曖昧な気持ちだったにも関わらず、付き合う僕たちのその関係性は"必然"から生まれたもののように感じられる。


■古びた町の本屋さん

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