いつまでも消えない
僕が小歌(こうた)という名前の女の子を前にしたのは、確か二十歳を少し過ぎた頃だったと思う。
お酒の味を知ったばかりで、大学生だった僕はこれみよがしにいくつもの飲み会に参加しては、お酒に飲まれる日々を過ごしていたと思う。
酒の味が好きなんじゃない、ただ酔っぱらっていたかっただけ。四十を越えた今となってはあの時の悩みなんて本当に大した事じゃないと思うけれど、当時はそれでも酒に頼るしかないと思えた悩みがいくつもあったりした。
それに、今程その悩みの解消の仕方を知らなかったのだ。だから酒というのはそういった意味でも”良いタイミング”で僕の生活の中に訪れたと言えるんだ。
「こうた?」
彼女に名前を聞いた時、僕は確かそう聞き返してしまった。
「小さい歌って書いて、小歌って読むの」
彼女はとても分かり易く僕にそう説明をしたんだ。
小歌なんて名前の人に会うのは初めてだった。そんな名前の人がこの世にいるなんて思ってもみなかった。
別にそれはどうって事ないし、僕の予期せぬ名前の人なんてこの世にはきっとたくさんいるのだと思う。だけど、”小歌”という名前を聞いて、その名前が僕の心に引っかかったのは、多分僕がその名前を一度聞いたその瞬間に好きになってしまったからなのだと思う。
「珍しい名前だね。なんだか、……お洒落?」
「お洒落じゃないと思うけど……。っていうか、私はこの名前すっごく嫌いだったし」
「え?なんで?」
「今はもう何とも思わないけど、……昔は嫌だったよ。もっと普通の名前が良かった」
彼女は俯き加減にそんな事を言う。
僕と彼女は今日初めて会ったから、今まで彼女がその名前とどういった付き合い方をしてきたのかなんて分からない。珍しい名前をからかわれたのかもしれないし、そんな可愛らしい名前を馬鹿にされたのかもしれない。
だからそこに深く突っ込む事なんてできないのだけれど、とにかく僕はその名前を聞いただけで、彼女に少しの興味を持っていた。
「良い名前だと思うけどね、僕は」
「そう言う人もいたけど、でも皆がそう言う訳でもないしね……。なんか両極端って言うか……。だからそれなら何も思われないような、もっとありきたりな名前の方が良かったんじゃないかって思ったりもするよ、……今でも」
「今でも?」
「当たり前だけど、名前ってどんな場面でもとりあえず使うものだから。少し
変わった名前っていうのは、言う事も少しためらわれたりするの」
「そんな事気にしなければいいのに」
「そうもいかないよ、名前だもん」
名前かあ……。
僕は目の前に出されている大して強くもない酒に酔いながら、ふと考えてみたりする。自分の名前に関してそんな事を考えたりしてこなかった。
だから僕の名前は彼女の言うところの”ありきたりな名前”なのだと思う。僕だってそう思えるのだから、きっとそれは間違っていないのだろう。
やっぱり僕には彼女の名前に関するそのしがらみはよく分からない。何度も言うようだけど、僕と彼女はその時初めて会ったんだ。だから今まで彼女が自分の名前とどう付き合ってきたのかなんて知らない。
だけど、僕はその”小歌”という名前が好きだ。そしてそう思う人は僕以外にもたくさんいるはずなのだ。
それと同じように好まない人もたくさんいるのだろうけど……。
「僕は良いと思うよ」
「……ありがとう。さっきも言ってくれたよね」
「本当にそう思ってるからね」
「ねえ?」
「なに?」
「あなたの名前はなんて言うの?」
「僕は”広太”だよ」
「こうた?」
「広い、太い、って書いて、広太」
「ああ……」
彼女はそれを聞いて少し笑っていた。
その笑みに何が含まれているのかよく分からないままだけれど、きっと悪いものではないんじゃないかって今でも思っている。
彼女と会ったのはその時きりだ。
それからもう二十年も経っていて、今彼女が何をしているかなんて知るはずもなく、それに、考えもしなかった。今ふと思い出した理由だって、よく分からない。彼女がどんな性格の人かなんて事もよく分からないし、彼女の声がどんなだったのかというのも思い出せそうにない。
だけど、名前だけはどうしても忘れる事ができなかった。
”小歌”という名前を彼女は今でもまだ持っていると思うから、僕はまだ彼女とどこかで繋がっているような気になってしまう。
きっとこれからも会う事はないと思うけれど、彼女の存在自体を忘れてしまう事はこの先もないように思える。
”こうた”
白い紙にひらがなで書いたその字は、あの時の彼女の笑顔と少し似ていた。
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