芳醇な血 5/5

 一年。

 私はたった一年で別の人間を創り出す事が出来た。雪が死んだ日から一年後のある日に、また雪が降った。


 私は雪に対する恐怖で震える体を耐えながら外に出た。真っ黒なダウンコートを着ていた。降り始めたばかりの雪はコンクリートの地面に落ちては、すぐに姿を消す。すぐに止むだろうし、積もる事もなさそうな程、弱い雪だった。


 それでも、小さな木々に微かに積もる雪を見ると、私は一年前のあの日を思い出さずにはいられず、体は寒さとは違う別の事に大きく震えていた。そこにうずくまり、また意識せずとも涙は流れた。真っ赤に染まった、白であるはずの雪が私の脳裏によぎり、強い吐き気を感じていた。ふと、涙が止まったかと思うと、傘も差さずに家へ駆け出し、いつから家にあったのかも分からない赤ワインのボトルを開けた。それをグラスに注ぎ、体に流し込んだ。

 それこそ意識の上ではなく、本能的に、昔少なからず持っていた母という血が踊りだすように私はワインを体の中に流し込んでいた。彼女の、雪の血液を私の中で生かしてあげるように、私は何度も何度も流し込んだ。

 雪の全てを私の体に溶かしてしまうように、溢れる涙など無視したまま、私の喉は赤いアルコールでべったりと濡れた。そのまま、ベッドへと倒れ込み、深い、芳醇な眠りの中へ私自身が溶けだしていったのだ。


 目が覚めた時、私の気持ちは入れ替わっていた。雪は私の体の中で確かに生きていたし、これで永久に私と雪が離れてしまう事はなくなったのだった。雪を忘れた訳じゃない、むしろ、ずっと想っている事ができる。私が何か別の事を考えていようと、雪は確実に私の中で呼吸をしているのだから。


 雪が死んでしまってから、一年が過ぎていた。


   *


「私たち、このままじゃよくない」


そう春真に言った。彼はまだベッドの中で裸のまま薄いシーツにくるまっていて、私は薄手のロングシャツだけを纏って、二つのカップに暖かいコーヒーを入れた。


暖かな部屋とは対を成すように、外には雪が降っていて、窓はうっすらと曇ったままだった。雪が死んでから何年たったのだろう、と私の中にいる雪に問いかけた。雪は何も応えず、ただ笑っているだけだった。

「え、じゃあ結婚する?」

子供のような笑顔のまま、彼はそう言った。結婚。もう随分と私とは別の物のような気がする。一体結婚ってどういう物だっただろうか。

「無理よ。あなたと私じゃ二十歳も歳が離れてるのよ」

「そんな事ないさ。歳が離れた夫婦なんて今はもう当たり前だろ?」

彼の好意は純粋に嬉しかったけど、でも、その嬉しさを受け止める事がどうしてもできなかった。私は一人の女という前に、雪の母親なのだ。

「春真君は、今いくつだっけ?」

「今年二十四だよ」

「まだまだ、これからじゃない」

「これからかどうかは俺自身が判断するよ。それに結婚したら、人生が終わる訳じゃないだろう?」

彼の言う事はもちろん分かるし、反対する気もない。でも、やはり私は相手がたとえ同い年の春真であったとしても、そうはできないのだろう。

「そうじゃないのよ」

「分からないよ。だって俺は美鈴さんが好きなんだ、もうどうしようもないくらいに好きなんだ」

私に求められる資格なんてあるのだろうか。求められる事自体が既に罪のように感じてしまう。嬉しい、でも、悲しい。その二つの感情は常に私に同時に襲いかかってきた。

「いけないのよ。私たち……別れましょう」

私がそう言うと、部屋を静けさが覆った。カップに注がれたコーヒーから湯気が舞い、時折、シーツの擦れる音が静かに響いた。

「……嫌だよ」

やっとの思いで春真がそう言った。また、私には嬉しさと悲しさが同時に被さる。

「私ね……」

曇った窓を通して、外に降る雪を見ながら私は話し始めた。

「昔、子供がいたのよ」

知らなかった事実を知ったのだから当たり前かもしれないが、春真は驚きの表情を私に向けた。それでもその事実を呑み込んでしまおうと必死になっている様が伺える。そんな所も彼の可愛らしい一面だった。

「……それでも」

彼の弱い言葉が部屋に響いた。

「聞いて」

彼の言葉を制すように私は言葉を続けた。

「でもね、もう死んじゃったのよ。今日みたいな……雪の日だった。まだ三歳のその子に雪を見せてあげたかったから、一緒に外に出て遊んでいたの。そこで、目を離してしまったのよ、私は。一瞬だった、本当に一瞬の出来事だった。彼女は私の前から姿を消して、彼女を捜して大きな通りに出たら、そこで車に轢かれていたわ。もう血が辺り一面に広がって……即死だったみたい……」

春真は黙ったまま、私の話を聞いてくれた。だから私はまだ言葉を続ける事にした。

「一台の車が停まっててね、とても嫌な予感がしたの。見覚えのある車だったから……。少しして、車から一人の男性が降りてきたわ、その人は謝らなかった。ただひたすら飛び出したとか、雪で止まれなかったとか言ってたわ。もうその時の顔なんて思い出せないけれど……」

春真が消え入りそうな声で言った。

「そんな雪の日に車に乗るなんて間違ってる」

私は外の雪を眺めながら続けた。

「そうね……。でも、私が言ったのよね。チェーンも巻いたしきっと大丈夫よって。それにその人の職場は駅から少し遠い場所にあったし、その日車以外で職場に行く方法なんてなかったのよ」

彼は私が何を言っているのか分からないとでもいうように首を傾げた。

「その人ね、私の旦那だったの。彼が仕事に行くのを見送った後に、私と子供で外に遊びに出たの。そして、その人は外で遊ぶ私たちの子供を轢いてしまったのよ」

「そんな事……」

「信じられなかったわ。たくさんの事が信じられなかった。でも、事実なのよね、全て。全てが本当にあった出来事なのよ」

また部屋に静けさが顔を出した。私の中にいる雪も一言も喋らないまま、ただ静かに私の中で呼吸を繰り返していた。

「私は、もう子供も産めないし、産もうとも思えない。誰かと結婚する事もできない。もう、何もかもが怖いのよ。また繰り返されてしまうのではないかって思っちゃうのよ。それに、私にはもうかけがえのない一人の子供がいるの。ずっと私の中で生きてるの。私はただその子と一緒に生きて、ただその子の母親でいれればそれでいいの。他には何も望まないし、望んではいけない身なのよ……だから、ごめんね」

私はそう言って、部屋に散らばった自分の下着と服を身に着けた。春真はシーツにくるまったまま、何も言わずただ俯いている。身支度を整えて、部屋を出ようとした時に、

「……ありがとう」

と一言だけ置いていった。春真は俯いたままで、聞こえているのかいないのかも、私には分からなかった。


 外には冷気が充満し、私の体を震わせた。今はもう、純粋な寒さでの震えだった。

 私は私の中にいる雪を想いながら、春真の住むアパートの階段を下り、まだ誰の足跡もついていない真っ白な絨毯の上に、ただ一人分の足跡を残しながら、自分の帰る場所へと歩いていった。


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