”書けない”の訪れ
ペンをとめた。もう文章を書く事はできない。
いや、もう随分前からペンは止まったままだ。僕はもうずっと文章を書いていない。文章どころではない、一文字だって書いてはいないのだ。
ずっと昔に、想像力はどこから湧いてくるのかと不思議になった事があったけど、……でもそれは僕の想像力が途切れる事を知らずに溢れかえっていた時だ。スランプなんて言葉がこの世にはあるみたいだけど、僕とそれはずっと無縁だった。スランプを意識をし警戒していたという事ももちろんある。だけど、そんな意識とは裏腹にスランプが僕の元にやってくる事はなかったのだ、つい最近までは。
一ヶ月前、そのスランプは急に僕の肩を叩いた。それに振り向いてしまった僕もいけないのだと思うけれど、作家という仕事を得てから二十年間もスランプに陥った事なんてなかったのだ。……油断もしてしまう。
「急に書けなくなるんだ、何もかもが。噓だと思うだろうけど、これは本当なんだよ」
作家仲間はそう言った。もちろん僕とスランプの関係など全くなかった時の話だ。それを全くの噓だなんて思っていない。僕にはそんな時期が訪れてはいなかったけれど、いつかくるのかもしれないとは思っていた訳で、ただそれは結果的にまだきていないというだけだと自分でも分かっていたからだ。
うん、だから僕はスランプを待ち侘びていた可能性もあるのだ。求めれば求める程スランプは僕の身から離れて行って、ふと忘れた時に僕の元に訪れる。根が相当悪いやつなのだろう。
原稿用紙の上でペンを持った手は空を切ったままで、なんの痕跡も残さずにその場を後にした。日が昇る前からこの紙と向き合っているというのに、日が落ちてもまだ真っ白なままの原稿用紙は一体どんな気持ちで僕の事を見ているのだろうか。哀れんでいるのかもしれないし、別に何も思っていないのかもしれない。
ただ一つ言える事は、日が昇って落ちるまでの間、やっぱり僕の頭の中に何一つとして文章が浮かんではこなかったという事だ。
どうする事もできないまま、風呂に入って体を流した。何も成し遂げていないのに、風呂に入っている自分がバカバカしくも感じられる。湯気もまた、僕を嘲るようにもやもやと漂っているのだ。
こんな状態になってもう一ヶ月が経つ。これまでずっと締め切りを守ってきたおかげで、諸々の仕事をなんとか遅らせてもらう事はできている。ただこれもずっとという訳ではない。今までスランプにならなかったせいで、今訪れているこの状況が酷く怖い。ずっと書き続けられていた分、ずっと書けなくなってしまうようで恐ろしくも感じられる。自分に付いている右手の意味だって既に分からない。文章が書けなければ、何の意味もないただの肉の塊と変わらないじゃないか。
「はあー……」
溜め息は嫌という程僕の口から洩れていた。……一ヶ月。僕はもう諦めようとしていた。別に文章が書けなくたって生きて行ける方法はあると思う。三十も半ばを過ぎたけれど、選ばなければ仕事だって得られるはずだ。右手の違う使い方をすればいいだけの事なのだ。別に、文を書くために生えた訳じゃない。
だけど、夢の中では決まって僕はすらすらと文章を書き続けているんだ。現実で書けないのは、夢で書いてしまっているからなのかもしれないとも思った。だから出来るだけ夢の中に意識を持っていって、その文章の書いてある原稿用紙を見るのだけれど、そこには何も書かれていない。たしかに書いているはずなのに、何も残ってはいないのだ。白い紙に白いペンで書いているようで、大きな不安感に駆られる。
夢から覚めると、やっぱりそこには何も書いていない原稿用紙があって、よだれがただ紙をふやけさせているだけだった。
書く事を諦めたのはその日だ。文が書けなくなって一ヶ月が経ったあの日。それから僕はもう一文字も書いていない。僕に付けられた右手は本当にただの肉の塊になってしまったのだ。あの日以来。
だけど、僕は今でも文を書いているんだ。一ヶ月経ったあの日から僕は文字を書く練習を始めた。まるで字のような形にはなっていなかったけれど、数ヶ月もすればある程度の形は保てるようになった。そう、だからやっぱり僕は字を書いている。
今では、ずっと使い道の分からないままだった左手に文章を任せている。
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