芳醇な血 3/5

 昔、雪(ゆき)という女の子がこの世に存在していたのは確かな事実なはずなのに、よくよく考えてみればそれは長過ぎる夢だったのかもしれないと感じる事がある。

 夢のように感じたと思えば、突然私の目の前に姿を現し、夢だと思っていたその雪のいる世界がまた夢であって、現実では小さな笑顔を振りまく雪がいるのではないかとも思ってしまう。

 そうして、ようやく私は雪のいない現実が確かな事実である事に気付き、気持ちを塞いだまま、意識のない涙がただ無情に頬を伝っている。


   *


 珍しくたくさんの雪が振ったその日、雪は三歳だった。彼女に雪という名を与えたのは私の意思で、父にあたるその人はそれに対して何も言わなかった。

「君は本当に雪が好きなんだな」

そう言っただけで、生まれたばかりのその女の子の名前はすぐさま雪に決まった。雪のように儚げで、弱い印象など突っぱねてしまう程に、彼女は元気に少しずつだけど成長した。とてもよく笑ったし、とてもよく泣いた。雪の流した涙は、それこそ不純物など一切含まれていない、透明で純粋な涙で、私はそれが愛おしくてしょうがなかった。

 また、雪の笑うその顔も、ただ純粋に嬉しい事だけに反応したそれだと分かっていたから、私は雪の笑顔を見る度に、これ以上ないくらいの幸福に包まれていた。

 三歳になった時、彼女にとって初めての雪が降って、朝目を覚ました時には、辺り一面が真っ白な見慣れない風景へと変貌を遂げていた。雪は絶え間なく降り続き、窓辺に立った雪が、とても不思議そうな顔のまま空を見上げている。

「ママ!ママ!」

興奮した雪を後ろから抱きしめ、私は自分の大好きな、その降り続ける雪の事を教えてあげた。

 そして、彼女の名前が雪になった事、その私の大好きな降り続ける雪と今抱きしめている私の大好きな娘が同じ名である事を説明した。彼女がそれら全てを理解していたのかどうかは分からないけど、

「雪もママが大好き!」

と言ってくれたその言葉で十分だった。

「お外に行こうか!」

私は雪にそう提案し、雪も

「行く!」

と元気に声を上げた。暖房の効いた暖かな部屋の中で、モコモコとしたダウンジャケットを雪に着せ、マフラーを巻いてあげた。ボンボンのついた真っ白な子供用のニット帽を被せてあげると、彼女は外に広がる白銀の世界へと早く飛び出してしまいたいとでも言うように、飛んだり跳ねたりしていた。

 私もベージュ色のダウンコートを羽織って、手を繋いだまま雪と外へ出ると、体中を痺れるような冷気が包み込んだ。彼女が私の手を強く握り返し、私も雪の手を強く握り返した。

 アパートの階段を注意しながら降りて、彼女は恐る恐る、初めてみるその真っ白な絨毯に足を踏み入れた。まだそれほど嵩のない雪の絨毯は、彼女の小さな足跡を残すばかりで、彼女を危険にさらす事はない。それを楽しいと判断した彼女は、私の手を離れ、雪の絨毯の上を駆け回った。涙など、彼女には存在していないのではないかと思うくらいの笑顔を振りまきながら、「ママー!」と楽しげに走り回る。

 

 私は彼女を優しく見守り、私の大好きな空から降る雪と、活発に走り回る雪とを感じ、私の望む事はもう何もないのではないかと感じていた。今この瞬間があれば、それこそこの先どうなってもいいのではないかとも思ってしまったのだ。


 それがいけなかったのだ。だから雪が死んでしまったのは私のせい。

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