芳醇な血 2/5

 私が初めて雪を見たのは小学校に上がったその年の冬だったと思う。校庭を白く染めようと一生懸命に降る雪も、結局は地面を覆ってしまう前に全てを諦めてしまうようなか弱い雪だった。空から降ってくるそれは、一番窓際の席に座っていた私にはよく見えて、隣に座っているクラスで一番の人気者の坂口君よりも魅力的に感じられた。


 黒板に書かれた字に興味が向かなくなったのはこの時が初めてだったと思うし、先生の言葉が私の耳に届かなくなったのもこの時が初めてだったと思う。私が窓から眺める、雪の降る真っ白な空はとても静かな世界で、それこそこの学校という日常の中に訪れた一種の脅威のようにも思えた。でも、幼い私はそれが何か悪いものではなく、とても良いもの、例えば天使のお迎えのような、高潔なものと感じ取ったのだ。


 そしてその中に浸るようにして、ずっと空から降り続ける雪を見ていた。


 「高倉?」と先生が私を呼ぶまで私はその中に籠っていて、先生の言葉で我に返り、驚いて教室を見渡すとクラスの皆が笑っていた。隣に座る坂口君もいつもの素晴らしい笑顔で私を笑っている。

 「三回も呼んだぞ」と先生が言うと、生徒達はまた笑った。少し恥ずかしい気持ちを隠しながら下を向いて、授業が再開されてからは、もう窓の外は見ていない。

 チャイムが鳴り、授業が終わった頃にもう一度外を見たその時には、雪は既に止んでいた。


   *


 春真(はるま)、という人に出会ったのは雪の降る夜だった。


「高倉さんは、どういう関係なんですか?」

まだ子供のような笑顔を向ける春真に、母性とでもいおうか、そんな感覚を抱いた事をよく憶えている。


 会社の後輩の絵美が結婚した。

 その式場で春真はずっと年上である私になんのなしに声を掛けてくる。もちろん、その時に何かしらの意味を伴った言葉だなんて思っていなかった。それはただ日常に行われる一つの些細な会話に過ぎないと思っていたけど、結局そうではなかったと後になって知ったのは「あの時から、僕は美鈴さんに興味があった」とベッドの上で裸のままの彼がそう言った時だった。

 薄暗い部屋で見る彼の背中は、まだ幼い子供のようにも見えて、私の心はまた少し痛くなった。



 私たちはその式場でいくつかの言葉を交わし、式が終われば共だって会場を出た。外には雪が降っていて、なぜこんな寒い時期に式なんて挙げるのだと絵美に対して少し嫌悪の念を持った。私はもう昔のように雪を愛する事ができそうにない。

「雪ですねー。僕名前が春真って言うんですけどね……季節の春に、真実の真で。なんだかそんな名前だから、春以外の季節がどうも居心地が悪いんです」

そう言って彼は照れるように笑った。

「ましてや雪なんか降られちゃうと、冬って感じを全面に押し付けられている感じがして、どうも苦手で……」

「それじゃ、生まれたのは春なのかしら?」

春真は少し笑ってから言った。

「いえ、二月なんです」

「え?でも春がつくの?」

「ええ。どうやらうちの両親が春が好きだったのと、予定日は四月だったみたいで、最初から名前は決まってたみたいなんですよ」

春真は頭を掻きながらそう言い終えると、言葉を続けた。

「春は始まりの季節だから、何事にもどんどんチャレンジして欲しいっていう意味もあるって言われた事あるんですけど、なんだか後付けにも感じられるんですよね。結局の所、どれが本当の理由かなんて分からないんですよ」

「全部が本当の理由なんじゃないの?」

「そうかもしれませんね。でも、全部を背負うのは僕には重すぎるんです」

雪を踏んだ靴がしゃりっと音をたてた。後ろには私と春真の足跡があてのないどこかから、今私たちのいるところまで続いていた。

「じゃあ、今月が誕生日なのに居心地が悪いの?なんだか可哀想ね」

私は冗談めかしてそう言った。まんざらでもないように彼が肩をすくめたので、すかさず私は言葉を続けた。

「でもね、私も雪はあまり好きじゃないのよ」

「そうなんですか?」

「うん。どうも苦手っていうか、見ててあまりいい気分にはならないの」

「北の方のご出身ですか?昔、雪で苦労していたとか?」

春真は探るように私の顔を覗き込んだ。彼の目が寒さのせいか少し濡れ、泣いているようにも見えた。

「いいえ。生まれは東京で、育ちもずっと東京」

「じゃあ……なんで」

「これと言う理由がある訳ではないのかもしれない……」

「昔からあまり好きじゃなかったんですか?」

「……あまり、憶えていないけど……そうかもしれないわね」

春真は何かを言いたげな顔を残したままだったけど、雪のたてるしゃりっという音の中で、その言いたげだった言葉は吸い込まれていった。私たちは無言のまま、駅まで歩いて行き、その場で別れた。


 別れ際に「また連絡してもいいですか?」と春真は自分よりずっと年上の私に尋ねた。私は静かに笑って、首を縦に振った。連絡先を交換して、春真が改札を通り抜け、人の波に呑み込まれていく後ろ姿を見送っていた。

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