芳醇な血 1/5

 雪を見ると無性に赤ワインが飲みたくなるのは、私にとって随分と昔からの癖というか、生活そのもののようなもので。


 赤ワインなんて普段滅多に口にしないのに、そういう時ばかりは、その深紅の色に完全に心を持っていかれちゃったりするのは、とても不思議な感覚だった。


   *


 大雪になるという予報を一週間前に見た。

 東京にいる私にとって雪はそれこそ珍しいという事もないけど、それでも少し心が浮く。日を追う毎に雪の確率が上がり、私の気持ちも日を追う毎に上がっていった。


 私はその予報の前日にスーパーマーケットで赤ワインを買った。四千円、そのスーパーマーケットで並ぶワインの中では高い物で、別に私はワイン通でもなんでもないからそれこそ何でもよかったのだけれど、予報で「数年ぶりの大雪」と言った天気予報士の言葉を思い浮かべていると、自然と少しだけ割高なワインに手が伸びたのだった。


 家に帰り、ワインを置いた。シャワーを浴び、外の方へ目を向けてみてもまだ雪は降っていない。

 明け方から降るという予報なのだ、当たり前だろう。


 明日、朝目が覚めた時に広がる真っ白な世界を思い浮かべてみると、やはり私の心は踊りだしてしまう。きっと、この日本にだって雪で苦労している人はたくさんいるに違いない。雪によって命を落としてしまう人だっている。そういった人たちに対してはとても申し訳ない気持ちになるけれど、それでも、私は白銀の世界が待ち遠しい。


 そんな世界を思い浮かべながら床に就いたのは、深夜一時を回った頃だった。雪はまだ降っていない。ゆっくりと目を閉じて、私はいつの間にか眠りの底へと引き込まれていた。


 朝、窓の外には一面が白く染まった、いつもと同じ風景が広がっていた。絶え間なく降り続ける雪が私の心を穏やかに揺らしている。枯れた枝にバランスよく乗っかった雪、窓の淵にこんもりと丸みを帯びた雪、いくつかの足跡が残る道路の雪。その上に、限りなく降り続ける雪。


 真っ白一面に広がる大きな空から、突然現れる、細かく可憐な雪の粒。少し風が吹けば、屋根の上に積もった白い粉が舞い上がり、空気を白く染めた。


 熱いシャワーを浴びて、一つしかないワイングラスに昨日買ったばかりのワインを注いだ。とくとくと音をたてながら、注ぎ込まれた深紅の色が私の心を労り、優しくしてくれる。


 窓の外を眺めながら、一口飲むと、芳醇な苦みが口の中に広がった。ゆっくりと体の中を流れる感覚を味わってから、もう一度、グラスを口へと運んだ。舌の上を転がる苦みが少し涙を誘い、静かに体の奥深くへと流れ込んでいった。



 もう、忘れたと思っていた。そんな風にふと思い出すくらいなのだから、一時は本当に忘れていたのかもしれない。

 でも今その思いは確実に私の中にふたたび生まれ、そして私を苛んでいる。一度芽を生んでしまえば、その思いに顔を背ける事なんてそう容易い事ではない。


 私はその傷に届くようにまた赤ワインを飲んだ。喉を通り抜けた液体が心の傷口にじんわりと浸透していく感覚が、目の前で降り続ける雪のように、いつの間にか儚く消えていった。

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