しません
【夫のターン】
会社からクタクタで帰ってきて帰宅。
「ただいま」
そう言って、玄関に入ると満面の笑顔で理佳が迎えに来た。さすがに、凛は寝てしまっているので寝顔を眺めるだけで我慢しておく。
「おかえりなさい、ご飯できてるから。それとも、先にお風呂に入る?」
「うん……じゃあ、ご飯頼む」
「はいな」
そう言って俺のカバンを持ってパタパタご飯の支度をしてくれる。
寝巻に着替えて、リビングに入るとすでにご飯が温められていた。
「いただきまーす」
えっと……明日は中里先輩が休みだから午前中業務フォローを……
「ねえ、修ちゃん。聞いてもらいたいことがあるんだけど」
「あ? ああ。どうした?」
「私、もう、キスしません」
……唐突に妻から放たれた衝撃的一言。
なんなんだ……いったい、なにを考えているんだこの女は。
「……一応、確認するが、俺たちは夫婦だよな?」
「もちろん。神に誓った仲じゃない」
あまりにも軽く答える理佳に、なんだこの野郎と言いたくなるが、それはこの際。そう、俺たちは結婚式の時に確かに誓った。その結婚式でもいろいろあって死ぬほど大変であったが、確かに誓ったのだ。
「夫婦とは、愛を育み育てるもの。ここまでの認識はいいな?」
「そこまでは何の異論もございません。確かに私たちは育みました」
そう、その愛の結晶がまさしく娘の凜である。そして、あんまり、大きな声じゃ言えないけども……その後も、育み続けたじゃないか。
「なにか……不満なことが? したくない……なんて」
声は震えていた。男として……不名誉すぎる。いろいろなことが頭によぎって……正直ゲロ吐きそうだった。
「修ちゃん。誤解してほしくないの。『したくない』訳じゃないの。むしろ、したい。したいって思ってるわ」
里佳の言葉にホッと胸を撫でおろし、同時になんでこんな想いしなきゃいけなかったんだと怒りが沸き立つ。
「ならっ! なにが問題だよ。今まで通り、やっていけばなんの問題も――」
「そう! それがまさしく危機なのです。その『今まで通り』が夫婦危機」
ビシッ! と指を俺に向ける里佳。
バシッ! とそれを払いのける俺。
なんなんだ、お前は。
「なにが問題なんだ。今まで通りで全然いいじゃねぇかよ。俺は……正直、その……お前に対する想いは変わってないぞ」
なんか……こんなこと、今更言うのは……どうかと思うが。なんか、照れくさくなって顔が真っ赤になって、汗が噴き出す。
さて、里佳はどんな表情を――めちゃめちゃ冷静ー! これ以上ないくら不変ー!
「……ねえ、修ちゃん。私に対する想いが変わってないって、私たちが出会って好きになった時と同じってことだよ。それ、本当?」
そう言われて、少し動揺する。出会った時と言われると、少し違うのかもしれない。あの時は、理佳はとんでもなく高嶺の花で完全なる片思いだった。まさか、付き合えるとは思ってなかったし、結婚なんて想像もできなかった。
「そりゃ……あの時とはちょっと違うかもしれないけども」
「でしょう!? 私たちに足りないのは初心。出会った時のあの気持ちをお互いに思い出しましょう。常に気持ちを高めあいましょう。上昇志向。それが私の提案内容です」
そう言いながらお茶を飲む理佳。
「まあ……今も全然お前の言っていることはわからんが、朧気だが、ほんとーに朧気だが、なんとなーくは、わからんでもない。要するに、今まで通りの現状維持じゃ駄目だと。上がって行かなきゃ駄目だと」
「うん。『現状維持って思ってるのって、実は徐々に下がってる』ってこれに書いてあったの」
そう言って理佳は『マンネリを打破するための一五の方法』と言うタイトルの本を出してきた。作者は細野内 雅子。
あんた……エライことしてくれたなぁ!
「で! なんでそれでキスしないって選択肢になるんだ? どちらかと言うと、毎日しようって言う展開にならないか?」
それは、こっちとしては望むところだ。望むところだ。
「チッチッチッ! っだから非モテ男子は困るのよ」
き、貴様……自分の夫捕まえてなにを口走ってんだよ!
「修ちゃん。それは悪手よ。毎日のキスと言うルールを作ることによって、それはいつしか足枷となる。義務感となる。いつしか、面倒くさくなって……確実に私は、修ちゃんを捨てるわっ!」
……俺が貴様を捨てるという選択肢はないわけだな。
「だからってなんでキスしないことがマンネリ打破に繋がるんだよ?」
「これぞまさに逆転の発想。今までは好きなだけキスできました。しかし、今日からできなくなります。そう簡単にはできません。下手すれば、もう二度と」
えっ……
「二度……と?」
「はい」
夫婦なの……に? 数少ない夫婦の利点なのに……それ、できないの!?
「なんとか、なんとかならないのかよ!?」
「……仕方ないの。これも、家庭安泰のため」
なにが、どう仕方なくて、どの部分が家庭安泰のためか俺に小一時間かけて説明してほしいところだ。
「ちなみに……キス以外は?」
その……いろいろありますよね。それ以外にも。
「……ハグまでなら。まあ、それも毎日ハグできるわけではないですが」
ハグ……すらも!? 俺は妻に抱きしめることすら自由にできないわけか!?
「わかった。要するに、なにもしなきゃいいわけだろう? 余裕だよ」
あったまきた。
もう、本当になにもしてやらん。確かに、子どもできて最近そう言うの減ってたし。我慢もなんもないだろう。せいぜい、寂しがるがいい。
「……ただ……浮気をしたら……私は修ちゃんを殺します」
怖えよ! 怖すぎてできねぇよ!
「安心しろ。それはない」
貴様の恐ろしさは身に染みてわかっている。
「と、言うことで。ありがとうございました」
「……」
なんもありがたくなかったので、無視したが、そんなことはお構いなしで早々と引き上げる理佳。上等じゃねぇか、我慢比べってやつだな。受けてたってやろうじゃないか。
二時間後、いつものようにパソコンに向かっていると後から湯上りの里佳が出てきた。
「お風呂でたよー」
「あ、ああ……」
な……なんだろう。今日は妙に色っぽく感じるのは、気のせいだろうか。
いやいやいや。なにを言ってるんだ。まだ、一日目だぞ。と言うか、二時間前じゃないか。こんなところで、妻に屈してしまっては末代までの恥だ。
ブオ――――――――
……妙に、ドライヤーの音が気にかかる。どうしたことだ、これは。今まで、なにもしなくても特になにも思わなかったのに。なにもできないとなった途端……ソワソワする。
「どしたの修ちゃん? なんか、さっきからチラチラ見てるけど」
「っ……べっつに! べっつに見てないから!」
「そ、そう」
いや、あり得ないだろう。あれだけ啖呵きったんだ。今更、どの面下げて。
「じゃ、寝るね。おやすみなさい」
そう言って、さっさとベッドに潜り込む理佳。
30分たって、寝息が聞こえ出した。その寝息が妙に気になって妻の方を見た。可愛い。すっぴんでも、やはりこいつは、可愛い。そして、悔しいが、不本意ながら凄く綺麗だ。
えっ……俺、もうこいつとキスできないの? マジで?
と言うか、今まで俺……こんな可愛い子と、キスしてたのか。
……めっちゃしたい! めちゃくちゃしたいー!
えー、なにこれー! なんなんだこれはー!
最近、忙しくて会社から帰ってきて家には寝に帰ってくるだけだった。だから、ろくに里佳の顔も見てなかったけど……ええっ。可愛すぎる。こんな可愛い子と一緒にいて……ええっ、俺なにもしなかったの!? 正気か。
……とりあえず布団に入って、理佳の横に寝転がって目をつぶる。寝てしまえ! もう、寝てしまえばこっちのもんだ。
スウ……スウ……
程なくして寝息が聞こえてきた。ほのかに香ってくるフローラルの甘い匂いで感じられる里佳の存在になぜか高っていく鼓動。うっすらと目を開けると、すぐ真向かいには里佳の綺麗な顔があった。形のよい薄い桃色の唇。サラリと柔らかくベッドを包む黒色の髪。大きくつぶらな瞳を覆い隠す瞼に粉雪のような肌。さっきから何度も瞼を閉じようとするが、横で寝息をたてている理佳が気になってどうしても目が離せない。
「……起きてるか?」
思わず小さな声で尋ねる。
これ以上こいつの顔を見つめていたらどうにかなってしまいそうだった。早いところ眠らなきゃ――
「……う、うーん」
突然、里佳のスラリとした手が伸びて俺の首に巻きついた。
「ちょ……」
不意に近くなる里佳との距離に思わず声を出そうとしたが、それ以上声が出ない。最早頬がすりつくほどの距離に横顔があり、その細く長い右足が俺の足と交差する。
小さな里佳の息遣いが耳元に掛かり、思わず全身が硬直してしまう。
もう我慢の限界だった。
スッと里佳の華奢な肩に手を添えて、真正面に寝かせた。
キスぐらい……ちょっと……ぐらい……少しづつ、少しずつ顔を近づけていく――
その時、がパチッと目を開いた。
「なっ……なっ……なっ……」
「修ちゃん、今、キスしようとした?」
は、謀られた―――――!
「……してない」
「嘘! 嘘嘘! してたじゃん、私の肩もって、寝てるの確認して。ねえ、なんでそんな嘘つくの? ねえ、ねえねえ」
里佳は背を向ける俺に容赦なく追及する。
「……おやすみ」
「いやいやいや。さっき約束しましたよね。あんだけ啖呵きりましたわよね。録音しとけばよかったー。録音しておけば。『余裕だよ』とか言ってましたよね? ねえ、言ってましたわよね?」
こいつ……しっかり根にもってやがったのか。
それから、追及は深夜にまで及び、結局キスもさせてくれなかった。
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