log.15 SST

 黒い絵の具を塗りたくったかのような夜の海に、照らし出された白い船体と、重なり合う銃声と波のぶつかる音。照射の光に当てられた船体からぱぱぱと小さな光が瞬く度に、視界の端で火花が散る。あの時に見たものや聞いたもの、感じたもの、それらを体全体で記憶したような生々しい光景を、夏目は今でも夢に見る。

 全てが終わった後、海に浮かぶ漂流者をただ眺めていた。彼らもまた無言でこちらを睨み付けていた。あの時、船と海の間で交わったものは、それより以前の銃弾でも、そしてその時に交わされた視線だけではなかっただろう。

 放り投げた浮き輪を無視して、彼らは自ら海中へと沈んでいった。

 波の狭間に消えていった彼らの目を思い出す度に夏目は思った。

 殺してやれば良かったと。

 自ら死を選ぶくらいなら、最初から彼らを殺すつもりで臨めば良かった。

 あの初めての実戦で夏目が得たものは彼らを殺してやれなかったという後悔だけだった。




 ―――東シナ海


 『間もなく到着します』

 機内に響いたその声によって、まどろみから呼び戻された夏目は視線をゆっくりと上げた。夏目の周囲には、同じ格好をした隊員たちが揃って機内の席に腰を下ろしていた。

 彼らは特殊警備隊SSTと呼ばれる海上保安庁の特殊部隊だ。米海軍特殊部隊SEALsの教育を受け、不審船事件を始めとする様々な事件や事案に出動し、日本国内で最も豊富な実戦経験を有する精鋭部隊である。

 彼らSSTは、名塚国土交通大臣の要請を受けて関西航空保安基地からユーロコプターEC225LPに乗って飛び立ち、シージャックされたタンカーを追っている巡視船『やしま』に向かっている所だった。今回のシージャックなどのような事件に対処可能な専門部隊が、彼らSSTであるからこそ呼び出されたのである。

 夏目は目の前、副隊長の隣で腰を下ろしている一人だけ風変りな男に視線を向ける。その男は他の隊員と異なり、明らかに違う格好をしていた。不慣れに着こなした救命胴衣の下は、暑苦しい上着で体を締め付けている。その顔はそのせいか、ヘリに酔ったのか、おそらくは両方かもしれない。顔色が悪かった。夏目の視線に気付いた男が、苦笑のような笑みを浮かべた。

 「お目覚めですか」

 「そういうあんたは、苦しそうだな」

 「関空からここまで、見事に酔っぱらいました」

 乗り物に弱いらしい。気候の関係で機体が多少は揺れたとは言え、この短時間で酔うという事はそういう事になる。

 「耐えろ。もう少しだ」

 風貌越しに覗くと、巡視船艇の先を行くタンカーが見えた。あのタンカーが今回の目標だろう。夏目は今までに乗り込んできた船の中で一番大きいと思ったが、難しいとは思わなかった。あれ程ではないにしても大型の貨物船などに突入した経験は既に持ち合わせている。

 そしてタンカーの後方にいる巡視船『やしま』に向かって、ヘリが降下を始める。海保最大の巡視船だけあって、『やしま』の船体後部には格納庫が備えられ、その格納庫の後ろの船尾には大型ヘリが着艦できる程の『H』と書かれた飛行甲板が見える。

 『やしま』と通信したEC225LPは、『やしま』の誘導に従いながら着艦態勢に移った。着艦したらすぐに降りられるように、夏目は周囲にいる隊員たちに指示を出す。各々が荷物を持ち終えた頃を見計らうように、機体が『やしま』の飛行甲板に着艦した。

 着艦したEC225LPのドアが開き、夏目を始めとする隊員たちがぞろぞろと機内から降り始めた。夏目たちは飛行甲板から目の前の格納庫の開いたシャッター口に向かって歩き出した。

 格納庫で待っていたのは、紺色の作業服を着た『やしま』の主任航海士だった。出迎える主任航海士の敬礼に、夏目は荷物を一旦下に降ろして答礼した。

 「SSTの夏目です。本日はよろしくお願いします」

 「お待ちしておりました。船橋で船長がお待ちです。こちらへどうぞ」

 主任航海士に促され、夏目は副隊長、そして顔色が悪い男と共に他の隊員を残して船橋へと上がった。



 「お待ちしていました、SSTの夏目隊長。私が『やしま』船長の都倉です」

 船橋内に入るや目の前に現れた都倉から握手を求められ、夏目は手を握り返す。続けて副隊長、そしてその傍にいた不思議な男にも、都倉は何の疑いもなく握手を求めた。

 「どうも、警視庁公安部から来ました万木ゆるぎです」

 まだ酔いが抜け切れていないらしい男、万木の挨拶に都倉は一瞬怪訝になった。

 何故、公安がこの船に?

 都倉の疑問は膨らむばかりだったが、それはすぐ後に解消される事になる。

 しかし弱々しく手を握り返す万木の様子に都倉は心配になった。

 「都倉です。大丈夫ですか?」

 「すみません、乗り物に弱くて。ヘリに乗るのも初めてなもんで」

 「ご足労をかけました。 ……ちなみに、船に乗られたご経験は?」

 「あります。フェリーですが、この船と同じくらいかなぁ」

 万木はやはり苦々しく笑う。その笑顔が全てを物語っていた。



 夏目を最後にこの現場に当たる現場指揮官たちの顔ぶれが揃うと、すぐにミーティングが開かれた。

 「目標の船舶は大和郵船株式会社が所有するパナマ籍船の石油タンカー『アサヒ』です。重量10万トン、全長は245m、全幅42m、深さ20m(甲板上から船底)の大型タンカー。×日正午ごろにフィリピン沖を航行中、テロリストグループの襲撃を受け現在に至ります」

 「乗員の数は?」

 「乗組員の内訳は船長、機関長、一等航海士の日本人3名と、インドネシア人4名、バングラデシュ人6名、フィリピン人5名の計18名。内、船長がテロリストとの共謀の疑いありとの情報もあります」

 船長の説明に一同が驚きと戦慄に包まれた。動揺を見せる者もいる。しかし夏目だけが違った。

 「――では、船長は被疑者として対応してよろしいか?」

 その場にいた誰もが、発言した夏目に視線を向けた。様々な視線を一身に浴びても尚、夏目の様子に変化は微塵も見られなかった。

 船に乗り込んだ後は被疑者側との戦闘が予想される。被疑者と人質の区別が曖昧のままでは、隊員の対応に不備が生じる可能性もある。夏目は隊長として隊員たちの命を預かる立場上、明確な指示を与えてもらいたいのだろうと誰もが当然のように考えた。

 「現時点において、具志堅船長には幇助罪の疑いがあります。よって、船長の身柄は発見次第、確保に努めてください」

 答えたのは本庁の人間である内村だった。だが、夏目はかぶりを振った。

 「俺が聞きたいのはそういう事じゃない」

 「は……?」

 怪訝な表情を浮かべた内村に、夏目は見る者がぞっとするような冷たい目を向ける。

 「殺して良い奴なのか、そうじゃないのか。俺はそれが知りたい」

 「な……ッ!? あんた、何を言って――」

 「確保に努めろとの事だが、船長が抵抗しやむを得ずという場合も考えられる」

 「船長は幇助の罪が疑われているとは言え民間人です。被疑者だからと言って、殺害する前提はどうかと思いますが」

 「内村さん、俺達はこれからテロリストとドンパチやりに行くんだ。要は本物の戦争をやるんだよ。殺さなきゃ殺される状況が普通に起こる。テロリストなら勿論容赦なく殺しに行くが、もし船長がテロリストと一緒になって俺達に危害を加えようとしたら……、あんた、責任とれるのか?」

 「………………」

 「俺達が乗り込んだら、あっという間に戦場……いや、火薬庫に火が吹き荒れるもんだ」

 「夏目くん、口を慎みなさい」

 横から都倉の戒める声が掛かり、夏目は口を噤む。夏目の目の前には、額から汗を流す内村の顔があった。夏目の瞳から、すっと冷気が引っ込む。前のめりになっていた気配を後ろに下げ「失礼しました」と詫びの一言を口にした。

 「夏目くん、具志堅船長には犯罪の疑いは確かにあるもののテロリストというわけではない。幇助罪の疑いがある民間人として対応に当たる。その中でもテロリストとの共謀が疑われているために、生きたまま確保する事が重要だ。具志堅船長から事情を聞く必要性がある」

 夏目の内村に対する攻撃を止めた都倉が、事実上内村の代役として夏目に対する返答を述べた。都倉の有無を言わせないような瞳に、夏目は暫し見据え返すと、「了解しました」と納得の意志を表明した。

 「『アサヒ』の図面を大和郵船から取り寄せました」

 机上に広げられた『アサヒ』の図面に、一同が目を向けた。机上からはみ出る程に大きな紙面にはテロリストに乗っ取られた『アサヒ』のタンカーとしての形状を模した図面が詳細に描かれ、この船に乗り込むためにこの場に集った現場指揮官たちが図面を指差しながらどこへ乗り込み、どの経路を進めば良いのかと話し合い始める。

 その中で夏目が、まだ何も知らず議論を始める者たちに、声を上げる。

 「先にここにいる全員に伝えておかなければならない事がある」

 それは都倉を始め、本庁の内村さえ知らない事だった。夏目が口にするもの。それはこの事件が既に一部の政府機関の間で想定され、周到に準備されていた事だった。

 「我々は名塚国交大臣の指示の下、公安と共同で以前より本件に関して捜査と並行し、この状況に対応するための準備も進めていた。この事件に対して、我々は現時点ですでに態勢を整えている」

 夏目の発言に、周囲にどよめきが起こる。

 誰もが説明を求める声を上げた。無理もない。この事件を自分達と同じ海保の一部と公安が既に想定し動いていたと言うのだから。声が立て続けに上がる中、都倉は一人、黙って夏目たちを見詰めていた。何かあると考えていた自分の予想が当たった事に、都倉は都倉なりに内心で動揺を覚えていた。

 そして夏目と共にやって来た公安の万木という男。彼がこの船に来船した理由がはっきりとした。

 「該船にはSSTの隊員3名が乗り込んでいる。我々は該船に居る隊員からの情報を下に、突入経路を選定する」

 「そんな話、聞いてないぞ」

 「それは当然だ。大臣の下、我々など一部の者しか知らないような秘密行動だったからな」

 誰かの愚痴に近い発言に、夏目はばっさりと切り捨てる。夏目はこれまでの経緯を説明すると、今後の作戦はSST主導により進められると断言した。

 「これは大臣の命令に則したものだ。この事件は我々SSTが解決する」

 元々、シージャックされた船を奪還する事が出来るのは国内でもSSTしかいない。夏目は改めて、お前たちは我々のバックアップ役なのだと告げているのだ。わざわざそう伝える夏目の思惑に、理解できる者とできない者はどれくらいの割合で居るのだろうか。そもそも気付いている者がいるのか。少なくとも都倉は気付いていて、尚且つ夏目の思惑に乗る事を選んだ。

 何よりも人質の安全が優先だ。そしてこの国を守る組織の一員として、都倉たちにはその責務を全うする義務がある。夏目という男は、それを実行するためにも自分達しかいないと告げている。

 「そろそろ、船に乗り込んでいる隊員から連絡があるだろう」

 夏目がそう言った直後だった。夏目の懐からノイズのような音が鳴った。それはやがて、人の声を発するようになる。

 『――こちらアサヒ。応答せよ』

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