log.10 襲来
狭いマラッカ海峡を抜けてシンガポールに寄港後、休暇と補給を済ませた『アサヒ』は日本に向かって南シナ海を北上、フィリピンの沖合を航行していた。日本を出航して一ヶ月が過ぎた。一航海(一回目の航海)がもうすぐ終わろうとしていた。
船橋に立っていた汐里は、ふと、船首に連なる広大な甲板を見下ろして、甲板員たちと錆止めを塗っている三島の姿を見つけ、何気なしに眺めていた。
「佐倉さん」
不意に後ろから声を掛けられて、汐里は肩を跳ねらせる。振り返ると、吾妻が立っていた。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
「いえ、自分がぼーっとしていただけですので……」
汐里の様子に不思議そうな顔を浮かべていた吾妻だったが、船橋の前方窓際に移動し、甲板の方に視線を向け、汐里が何を見ていたのかを察したらしい。気付いた汐里は顔を赤くした。
「あいつ、普段からああなんですよ」
ナチュラルに三島の事を口にし始めた吾妻に、汐里はその話に応じるしかない。
「我が社でも隔てなく打ち解ける奴でね。根は結構良い奴なんです」
「そうなんですか」
まるで興味が無さそうな受け応えである。しかし今の汐里にはこれが精一杯だった。
「……私なんて、最近やっと話したぐらいなのに」
なのにこんな言葉がぽつりと漏れてしまったのは、自分でもよくわからない。
長い航海の疲れが出たのだろうか。
ハッと思わず口に手を当てた汐里だったが、吾妻は特段気にしていない様子だった。
「勘弁してあげてください。あいつは別に女性が苦手というわけではないんです。ただ……」
「?」
何を言いかけたのか、今度は吾妻の方がしまったという表情で口を噤んでいた。
しかしその表情も一瞬だけで、すぐに通常に戻った。
「貴女のような方がこの船に乗っているのが予想外だったんです」
え、それは一体どういう意味?
そんな疑問が口から出る前に、吾妻がまた失態を犯したような顔になる。
「すみません、忘れてください。どうやら僕も長い航海で疲れているようです」
いやいや、忘れろって何。余計に気になるじゃないか。
頭の中に充満した疑問と吾妻の曖昧な態度に苛立ちを覚えた汐里が、その言葉の意味を追求しかけた時、突然マルコが慌てた様子で何かを言い出した。
「どうしたの」
汐里が問いかけた直後、今度は吾妻の方にも異変が起こった。
「どうした」
まるで今の汐里のように、吾妻がどこからか引っ張り出したトランシーバーを手に誰かに問いかけていた。応答したトランシーバーから聞こえた声は、岩泉のものだった。
その傍らで、マルコが汐里にレーダーの画面を指差した。
「何かが、船に近付いてきます」
覗き込んだ画面には、二点のマーカーが本船の五時の方向から物凄い速さで近付いていた。これは貨物船等ではない。速度から見て、明らかに小型船だ。
そしてその状況を具体的に報せるように、吾妻の無線から岩泉の声が聞こえてきた。
『二隻のボートが、本船に向かって接近中』
その時、汐里が見た吾妻の表情は、今までに見た事がないような険しいものになっていた。
船橋ウイングに飛び出した吾妻は、船橋に置いてあった船長用の双眼鏡を拝借し五時の方角を覗き込んだ。その隣から汐里も後を追って、双眼鏡を覗き込む。すると水飛沫を上げながらこちらに向かってくる二隻の黒いボートが見えた。
上部がむき出しになったボートには四、五人の人間が乗っていた。後部にはずんぐりとした大きなエンジンが見え、おそらく改造だろう。それがあれ程の速度を生み出していると思われた。このままでは、あの速度ならすぐに追い付かれる。
「なんでこっちに来るのよ!」
二隻のボートは明らかにこちらへ向かっていた。そしてボートに乗っている人間の他に、汐里は嫌なものを見てしまった。その人間たちの手には、明らかに銃火器と呼べる代物があったのだ。
汐里は近付いてくる二隻のボートが何なのかわかった。むしろあの光景を見て、わからない者はいないだろう。
海賊だ。
本物の、海賊だ。
それがこの船に近付いている。
そんな突然ふりかかった空想に近い現実に汐里は一瞬硬直したが、隣から冷静に通った吾妻の声が汐里の固まった体を溶かした。
「各員、特定のポイントに配置し迎撃に備えろ。目標が射程距離に入り次第、威嚇射撃の実施を許可する」
機械のように規則染みた言葉の通りに、汐里はそれこそ映画を見ているような感覚に陥る。この状況に異常な程、自然に治まっている吾妻の姿は汐里の目には異様に映った。吾妻はトランシーバーから口を離すと、その視線を汐里の方に向けた。
「佐倉さん、船内放送で今の状況を報せてください。船員は外に出ず、安全な船内に避難するように」
「は、はい」
「それから、機関室に速度を上げるよう指示を。船長にも報告を」
「はい」
「僕が出たら、ドアに施錠をしっかりしてください。良いですか、絶対に外には出ないでください」
矢継ぎ早に言葉を並べてしまうと、吾妻は船橋から出て行ってしまった。取り残された汐里とマルコは呆然とした互いの顔を見合わせた。
ぼけっとしている場合じゃない。私達も早く動かないと!
「フルアヘッド!」
汐里がエンジンテレグラフのレバーを引き、全速前進(フルアヘッド)に切り替えた。
従来、エンジンテレグラフは船橋から機関室への連絡用のみに用いられていたが、この『アサヒ』を含め最近の船では船橋から直接、機関を遠隔で操縦できるようになっている。この『アサヒ』のエンジンテレグラフもそうだ。おかげで機関室に伝達する分の時間を節約して、すぐに船の速度を上げる事が出来る。
機関室に速度切り替えの警報が鳴り響き、当直に入っていた機関士を一瞬驚かせると、『アサヒ』のエンジンは獣のような咆哮を上げた。10万トンの巨体が、一際大きくさせた白波を立てさせる。
「マルコは船内放送。私は船長に連絡します」
「りょ、了解」
汐里の指示を聞いたマルコは船内放送のマイクを取ろうとするが、動揺して手を滑らせた。汐里は彼の気持ちが痛いほどよくわかっていた。自分達は今正に海賊に襲われようとしているのだから。
汐里は普通の電話と同じ船内電話の受話器を手に取ると、船長の部屋の番号を押した。
「船長、緊急事態です」
内心ではすごく怖いのに。
自分でも驚く程、その声は震えてはいなかった。
汐里の連絡を聞いた具志堅がすぐに船橋へと上がってきた。船橋に入るや、すぐに現在の状況を問いただした。
「現状は」
汐里は質問に答えながら、具志堅にレーダーの画面を見せた。
「5分ほど前に、レーダーで本船に近付く二杯の船を発見しました。この二杯が今も真っ直ぐに、本船に向かって来ています」
レーダーの画面から目を離した具志堅は、そのまま双眼鏡を持ってウイングへと出た。双眼鏡を覗き込み、近付く二隻のボートを視認すると苦虫を噛み潰したような表情になった。
「おい、奴ら武器を持ってるぞ」
「はい」
「海賊か」
「だと思います」
「なんてこった」
双眼鏡を下ろし、近付く二隻のボートを遠目で見詰めていた具志堅は、ハッとした表情を汐里に向けた。
「あの連中はどうした」
具志堅が言っているのは三人の事だと察し、汐里は先ほどの吾妻の事を話した。
あの三人はこの船を守るために乗船した用心棒シップガードだ。汐里は吾妻の指示を具志堅に伝えた。
しかし具志堅は首を横に振った。
「たった三人で何が出来る。それに、俺の船で勝手な事させるか」
具志堅の発言に汐里は驚愕した。この期に及んで何を言っているのだ、この人は。今、この船に迫っている危機は、素人の自分達には対処し切れるわけがない。この手の専門家であるあの三人に任せた方が遥かに最善だと考える方が普通だ。
「何のために訓練をやっていると思ってる。すぐに全員を配置に就かせろ。放水用意」
「外を除いて各員が既にそれぞれの部署に着いてはいます。ですが、吾妻さんの指示では……」
外洋を航行する『アサヒ』は定期的に海賊対策の訓練を実施している。乗組員には各部署の配置が決められ、海賊の襲撃を受けた際の対策、行動は確かに訓練済みだ。だが、『アサヒ』の海賊対策処置とは通常の民間船舶同様、『放水』である。各所に取り付けられた高圧放水ポンプの放水によって、船に近付くものを寄せ付けないという方法である。実際にこの方法で海賊を撃退した例は存在する。
だが、必ず撃退できるというわけではない。要は忍耐のぶつかり合いだ。こちらが粘り強く立ち向かい、海賊側が転覆の恐れを抱いて諦めてくれればの話だ。もし海賊側が諦めずに向かってきたら――撃退できる保障はない。
それならばやはり、あの三人の専門家に委ねた方が良いのではないか。元々そのために乗ってきたのだから。
「この船の船長は俺だ。つべこべ言わず、さっさと動け!」
船長の命令に逆らえないのが船乗りである。逃げ場のない船上で常に頂点に立っているのは、船長ただ一人なのである。
恐怖と悔しさ、そしてどうしようもできないもどかしさに心を揉まれながら、汐里は再びマイクを手に取るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます