log.9 マラッカ海峡
中東から日本がある東アジアへ向かうには、必ず通らなければならない海峡がある。それがマラッカ海峡だ。長さが900キロメートルにも及び、狭い海峡の間に数多の島が浮かび、船の往来も膨大だ。
この狭いマラッカ海峡も、海賊が出没する海域として危険視されている。マラッカ海峡にある何千もの小さな島々と、そしてそこから注ぎ込む多くの河川が、海賊が行動しやすい環境として適しているのだ。
だが、国内の政情が不安定なソマリアや情勢が複雑なペルシャ湾などと違い、マラッカ海峡はインドネシアやマレーシアなどの強力な海軍が居る国々に囲まれているので、本来なら海賊が行動し辛い地域のはずだ。しかし現実は世界有数の海賊出没地帯として有名。それは海峡の周辺を囲う国同士の対立が背景にあった。
マラッカ海峡に入った『アサヒ』の船上では、甲板部の者たちが海賊対策を講じていた。同じく海賊が出没すると報告されているアラビア海やペルシャ湾などを通過する際も同じ事をしているが、マラッカ海峡を通る際も必ずと言って良い程、それは行われている。
放水による迎撃や操舵室への経路の封鎖といった訓練は常日頃から実施されているが、甲板上にワイヤーを張り巡らせるのも対策の一環だ。
鉄条網のように尖った針を各間隔毎に生やしたワイヤーを甲板上に張り巡らせる事で、海上から昇ってきた海賊を船に上がらせないようにするのだ。
甲板の部員たちがワイヤーを張り巡らせた直後だった。船橋内に緊張した声が上がった。
「チョ、チョッサー。あれ、海賊ですか?」
新人の三等航海士のフィリピン人が、左舷側から前方を横切ろうと現れた小さな船を指差した。日本で船員養成の教育と訓練を受けた彼は、先輩のマルコ達よりも日本語が堪能だった。しかし彼は入社してからまだ二年目であった。
汐里は横切ろうとする相手船に向かって、汽笛を鳴らした。相手船は小さな白いボートだった。だが、相手船は『アサヒ』の方を見向きもせず、一目散に対岸の方へと走っていく。
間もなくして、『アサヒ』の傍に別の船がやって来た。先ほどのボートよりはずっと大きいが、日本の巡視艇並みの大きさ。角ばった船橋に、紺色の船体。マストにはインドネシアの国旗が風に靡いていた。
「あれは海賊なんかじゃない」
代わりに答えたのは、丁度船橋に上がっていた三島だった。速度を落とす『アサヒ』の前方を、インドネシアの船が先ほどのボートの後を追うように走り去っていく。
「さっきのはおそらく密輸船か何かだろう。それを、今のインドネシアの警備艇が追っていったんだ」
「という事は、あれはインドネシアの沿岸警備隊?」
すっかり船橋で言葉を交わす事も珍しくなくなった中で、汐里は何の躊躇もなく三島に訊ねた。三島もまた至って普通に答えていた。
「いや、インドネシアに沿岸警備隊は無い」
「えっ?」
三島の発言に、汐里は素直に驚いていた。
「海軍はあるが、俺達のような治安当局は無いんだ。今の警備艇は、インドネシア警察の船だろう」
道理で巡視艇にしても頼りなさそうというか、小さい船だったなぁと思った。三島の説明では、インドネシアには沿岸警備隊もないので日本のような巡視船も持っていないらしい。海軍の艦艇を除き、あるのはさっきのような警備艇と、非武装の災害対策船だけと言う。
「て事は、この海峡の警備はインドネシア海軍が担当してるの?」
そこで何故か、三島が難しそうな顔になった。
「……はっきり言うと、あいつらはあまり海賊の方に関心を寄せていないんだよ」
「ええっ、どうして?」
「俺、昔、合同訓練でこっちの方に来た事があるんだが」
と言うと、三島は過去に自分が経験した事を話し出した。
海上保安庁は他国間との連携や交流を深めているが、東南アジア諸国においても人員を派遣し、合同訓練を実施する等、協力体制の構築にも励んでいる。
三島もまた合同訓練の名目で、インドネシアに派遣された経験があった。
海賊の出没が頻繁に報告されているマラッカ海峡の現状を目の当たりにした日本は、自らを主導に、各国で協力して海賊を撲滅するための『アジア海賊対策地域協力協定』を提案し、これを発効させた。
この協定の発効により、シンガポールに海賊に関する情報を収集・提供するための情報共有センターを設置し、ここに海保からも職員を派遣した。
このISCの設置により、海賊が頻繁に出没するマラッカ海峡に、海賊から各国船舶を守る。又は海賊に襲われた船を助ける等、各国による協力体制が構築された。
「この協定に基づいて日本も海上保安庁の職員を派遣して、インドネシアを始めとした加盟国各国に沿岸警備隊を創設させようと考えた。俺はその一環として、インドネシアとの合同訓練に派遣された」
三島の話を聞いていく内に、汐里の中で様々な意味での驚きや関心が芽生えていた。
日本が海上保安庁を通して各国に治安当局を作らせ、海峡の治安を守ろうとしている事。それ以上に、三島がそんな大それた事に関わっていた事があるという事実にも衝撃だ。
「それで、訓練はどうだったの?」
「……散々、とまでは言わないが。まぁ良くもなかったな」
そう言いながら、三島の口から漏れた小さな溜息は、全てを物語っているようだった。
「そもそもあいつらは訓練の意義を理解していなかった。おかげで最初の訓練は予定通りにはいかなかった」
沿岸警備隊が存在しないインドネシアでは、海賊対策というのは未知の領域に等しかった。
元々インドネシアには領海を警備する単一の沿岸警備隊が無い代わりに、海軍や海上警察局、運輸省海運総局などと言った別々の組織が個別に事案に対処していると言ったような有様だ。
しかも各機関の権限は曖昧で、利権を巡る争いも絶えず、内部の腐敗が進んでいる。更にインドネシア海軍とその他の諸機関との間には確執があり、連携など叶わないような状態だった。
そして最も強力とされるインドネシア海軍は、相手国であるマレーシアとの対立で、海賊対策よりも自国の領海警備を優先してしまっている。
これが、マラッカ海峡で海賊が多く出没する理由の背景だ。
「だが、海保もめげずに体制強化のために努力を続けている。組織がバラバラなら、それぞれに職員や専門家を送ったり、インドネシア政府に古い巡視艇も提供した。インドネシア側も沿岸警備隊の創設に取り組んでいる最中だ」
海上保安庁による各国への支援は今も続いている。職員や専門家などの人員を派遣するなどの人材教育プログラム、巡視船艇といった装備の援助や船舶航行安全システムの無償提供など、様々な支援と連携を深める事で海上安全・海上保安に関する能力を向上させようとしている。
「何故、そこまでするのか?」
三等航海士が思わず訊ねていた。
だが、それは汐里も同じ思いだった。
どうして日本から遠く離れた海でも、そんな努力を続けているのか。
「世界と繋がらなきゃ生きられないのに、世界の窓口である海を見捨てて、生き続けていられると思うか?」
どんなに遠くても、それは『海』である限り、決して無関係ではない。
このマラッカ海峡から海賊が排除されれば、この海峡を通過する物流が安定して流れるようになり、日本のライフラインの安全が保証される。それは日本、そして船会社――汐里たち船員も恩恵を受ける事は間違いない。
「海上保安庁は、『海』を守るのが仕事だからな」
それは、全てを守る事を意味する。
汐里は彼らの本質を垣間見た気がした。彼らという存在を、自分はもしかしたら勘違いしていたのかもしれない。
いや、単純に無知だった。彼らが守っているのは海のように広く、大きく、雄大なもの、そして同時に文字通り、『海』なのである。
汐里は、彼らがこの船に乗ってきて良かったと思った。
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