log.8 海猿
「えっ! じゃあ海猿?」
職業を明かせば必ずと言って良い程、返ってくるリアクションがこれだ。それは別に、いきなり猿などという失礼極まりない発言をするのは如何なものかという抗議をしたいわけではない。その『猿』とは、海上保安庁という組織が爆発的に世間一般に浸透するようになったきっかけと言われる映画、ドラマの事だ。その印象が一般人に浸透し過ぎて、こう言われるようになってしまったのである。
それは別に良いんだ。むしろ組織が有名になる事は、特にお偉いさんは嬉しい限りだろう。
自分たちは映画のイメージだけで見られるのは多少面倒くさいというだけだ。
「別に海上保安官が全員、潜水士ってわけじゃないけどな」
むしろ潜水士なんて全体的な割合だとごく僅かだろう。一般人が想像する以上に、潜水士というのはエリート組に属する。
「かっこいー! ねえねえ、どんな事してるの?」
聞いてねえ。こちらの訂正はどうでも良いらしい。
自分の興味があるものしか知ろうとしない相手に適当な相槌を打ちながら、三島は今回の合コンに訪れた事を後悔していた。
「そもそも俺はその呼ばれ方、好きじゃないんだよ。だって、『猿』だぜ?」
なんて事は言わないけれど。
やはり面倒くさい事には変わりない。
自衛隊と同じように男性の比率が圧倒的に高い海上保安庁も、出会いの場というのは限りなく少ない。このように相手のいない部下たちを憂いた上司が合コンを設ける事も珍しくない話だ。
第五管区の寂しい男たちを集めた合コンは、神戸の三宮で開かれていた。
彼女がいない三島はいつもこの寂しい男たちの組に入れられ、頼んでもいないのにこのような場に連れていかれるのだが、上下関係が厳しい海保において、上司の好意を無碍にする事は絶対に許されない。先輩や上司が床を指して「これは天井だ」と言えばそれは天井だし、やっと残業を終えて帰宅した直後に「呑んでるから今すぐ来い」と言われても全力ダッシュしなければならないのだから、上司の気遣いも感謝の涙を浮かべて甘えなければならない。
ああ素晴らしき海上保安庁。保安学校時代を思い出して、三島はビールをあおった。
「た、大変なんだね。海上保安官って……」
「……ん?」
どうやら、全部口に出ていたらしい。
さっきまでキャピキャピしていた女が、いつの間にかひいていた。
周りにいた女性たちも、三島の話を聞いていたのか、皆微妙な表情になっていた。
そして巻き添えを喰らい、三島に恨めしい視線を向ける同僚たち。
またやってしまった。
しかし反省する間もなく、三島は何杯目かわからないビールをあおるのだった。
「いや、反省しなさいよ」
話を聞いていた汐里が、呆れたような視線と指摘を向ける。
時計の針は三時半を示していた。ちなみに午前、である。まだ朝日も昇っていない時間帯だ。
汐里は乗組員の労務管理などを含めた書類の作成を終えて食堂で夜食を食べようとしていた所、通りかかった三島に声を掛けられ、何故か娯楽室まで連れていかれて酒を付き合わされていた。
娯楽室には船員が持ち込んだゲーム機や漫画本が置いてある。他の船員たちもここで漫画を読んだり、ゲームや麻雀などに興じる事がある。こうして酒を酌み交わす事も少なくない。
まさかこの男と二人で飲む事になるなんて、夢にも思わなかったが。
船橋での一件以来、汐里と三島の間には徐々にコミュニケーションをする機会が増えていた。
「吾妻さんは謙遜ってわかるけど、あなたのは本当にモテないって事がわかるわね」
「んだとこらぁ?」
すっかり頬に朱色を帯びさせている三島の顔を、汐里は半ば呆れがちに眺めていた。
「ていうかお前、もうすぐ当直だろ。仕事の前に酒なんか飲んでて良いのかよ?」
一等航海士である汐里の航海当直は4時から8時(及び16時~20時)までである。別名をヨンパーワッチと言い、日の出や日没がある昼夜の境目で忙しい時間帯からベテランワッチの愛称がある。
「あんたが付き合わせたんでしょ! それに、これはノンアルコールですぅ」
さすがにアルコールが入った状態で当直には入れない。特に汐里が担当するヨンパー直は、視界が悪い日出前後の見張りをするなど、事故率の高い危険な時間帯だ。ヨンパー直がベテランワッチと呼ばれる所以である。
「何だよ。付き合い悪いな」
「
一応用心棒として乗り込んでいるくせに、護衛する対象の国民の目の前で酒を飲んでこんな醜態を晒して本当に良いのか海上保安官。
「今は勤務時間外だから良いんですーっ」
公務員も人間なんだよ、という屁理屈を言いながら、三島はまた缶を開けた。
「そもそもなー、保安官ってのも案外見えない所でやってるんだぜー? 航海中、釣りをしちゃいけないのに釣りをしたり、後は―――」
「ストーップ! あなたたちのためにも、それ以上は言わない方が!」
聞いちゃいけないようなカミングアウトを、汐里は寸での所で制止した。
「ていうか、釣りしちゃ駄目なの?」
船上で釣りをする事自体は、漁船以外にも、タンカーなどの商船にも趣味でする者は普通に居る。だがそれは海上保安庁だと禁止行為らしい。
「当たり前だろ。じゃあ逆に聞くが、パトカーに乗ってる警察官が、パトロール中にコンビニに寄って弁当を買っても良いと思うか?」
よくは知らないけど、確かにどこかで聞いたような気がする。パトカーに乗ってコンビニで弁当を買うという行為に対し、ある者は公用車を私用に使っていると批難するだろう。それと同じように、海上保安庁にも言える事なのだ。
「海でパトロールする巡視船から、食糧調達だろうが娯楽目的だろうが竿を握るなんて許される行為じゃないだろ」
「そうなんだ……」
それくらい許してやれば良いのに。公務員っていうのはやっぱり色々と面倒くさいんだね。
さすがにそれは飲んでいる場でも口には出せなかった。
「別の竿は握らないとやってられないけどなーっ」
「最低」
いくらアルコールが入っているからと言って、セクハラは許される行為ではない。
「あなたって、酒癖が悪いのね」
「……自覚してる。こんなんだから、皆に迷惑かけちまうんだろうなぁ」
あれ。いきなりションボリしだした。
どうやら本人なりに気にしている様子だった。
なんだ、本当は思い切り反省してるじゃない。
なんだか意外な一面を見ている気がする。
「俺一人がモテないならまだ良いんだよ。だが、俺のせいで他の奴らにも女が行かなくなってるのはさすがになぁ」
「あなた、合コン行かない方が良いんじゃない?」
「上司の好意を無駄にできるわけない」
「じゃあせめて酒飲むのはやめたら?」
「それができたら苦労しねぇよぉ~」
「面倒くせぇ」
だんだんと汐里の方も辛辣になってきていた。
だが、汐里はふと考えた。三島は酒を飲むと、自分の本性というか、普段じゃ見られない姿を晒してしまうようだ。それを本人も自覚しているようにも見える。しかし彼はそれも厭わずに、汐里を飲みに誘った。
ある意味、信頼されるようになっているのだろうか?
船橋で言葉を交わして以来、この男の中で自分に対する何かが変わったという事なのだろうか。
よくわからなかった。
だが、他人の知らなかった情報を蓄積していくというのは、案外楽しいものだ。
他の二人の事も、もっと知りたい。酒を飲ませたら、知らなかった一面を知る事ができるのかな。
一緒に過ごしていく内に、人は人を知る。
そして、この男の事も。
―――やっぱり汐里は恋愛すべきだと思う! 恋は女を女にするものなんだから!―――
何故か、親友の言葉が一瞬、脳裏に浮かんだ。
ふと、ソファーに身を沈ませて項垂れる三島の顔を見る。
「………………」
この男を知れば、私にも何かが変わるのかな。
汐里はそんな事を漠然と考えながら、当直の直前まで三島との時間を過ごしてみた。
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