log.6 ペルシャ湾

 遂にペルシャ湾に入ると、『アサヒ』は目的地を目前にしても尚、より一層の警戒を続けながら航行していた。

 今回の最初の目的地は、アラブ首長国連邦のダス島。東京を出航して3週間。無事に着岸する事ができた。

 島の沖合に着くと、『アサヒ』は巨大な船体と陸地まで伸びているパイプラインを通し、大量の原油を積み込む『荷役』という作業に入る。ここで一日かけて100万バレル(13万5000トン)の原油を積み込む。

 荷役の監督管理は、一等航海士である汐里の役目だ。

 船に原油を積み込む間、汐里は荷役中の安全、管理を担当しなければならない。

 ガス島で原油を積むと、今度は50マイル先にある隣国カタールのハルル島で残り半分の原油を積む。今回の航海で積む予定の原油50パーセントを積んだ『アサヒ』は、次の目的地であるハルル島を目指し、ガス島の沖合から出航した。

 5時間かけて、『アサヒ』はカタールのハルル島沖に到着。ここでも荷役を行い、タンクを一杯にする。

 ガス島とハルル島、合わせて200万バレル(27万トン)の原油が積み込まれた。

 ここで積み込まれた原油が、日本国内でガソリン、軽油、灯油等に使用される。

 無資源国である日本は、こうして生きるのに必要な油を、遠い中東の国々から輸送するのだ。

 しかし原油が豊富な中東は、世界の中でも最も複雑な地域でもあった。

 原油を満載した『アサヒ』は、いよいよ日本への帰路に着くため、インド洋を目指す。

 このペルシャ湾は海賊以外にも、様々な中東諸国に囲まれた国際的にもとても複雑な海域だ。しかしこのペルシャ湾は遠く離れた日本にとっての命綱でもある。輸入する原油の9割をこの中東から運んでいるのだから。この航路では数時間ごとに他国のタンカーの他、当該海域を警備する世界各国の艦船ともすれ違う。

 船橋には具志堅船長の他、汐里を始めとした各航海士が揃っていた。多くの船舶が行き交うペルシャ湾を抜けるまでは、船長の指揮の下、船は進む。白い制服に身を包んだ『アサヒ』航海士たちの他、紺色の作業服に身を纏った三人の海上保安官も立っていた。

 彼らは航海中の警備の他、出港の際には積荷や船内各所の点検まで行い、異常がない事を『アサヒ』の乗組員たちに伝えていた。たった三人だけで10万トン級のタンカーの中を調べたというのだから、汐里は驚くしかなかった。

 ただ一人、そんな三人の存在を無視するかのように、航海の指揮を執っている具志堅の傍らで、汐里は一等航海士として補佐に立っていた。

 その時だった。『アサヒ』の左前方から、民間の船とは色も形も異なった船が近付いてきた。汐里はそれを認めると、傍にいたフィリピン人甲板員に信号を送るように命じた。

 その一部始終を、三人の特別乗員は不思議そうに眺めていた。『アサヒ』の左前方から近付いてきてるのは、ペルシャ湾を警備している軍艦であった。

 『アサヒ』がその軍艦に向かって何かの信号を送った。何人かの『アサヒ』の乗員も、すれ違う軍艦に向かって手を振っていた。吾妻がたまらず汐里に訊ねる。

 「今、何を?」

 「あっ、えっと……。今、すれ違った艦に感謝の信号を送ったんです」

 どうしてそのような事を?と顔で問いかける三人に対し、汐里は当たり前のように答えた。

 「このあたりの海は、世界中の海軍の艦が海賊から私達を守ってくれているんです。彼らのおかげで、私達は安全に航海が出来る。だから、すれ違う時はああやって『ありがとう』って伝えているんです」

 多分他の船もやってるんじゃないでしょうか?と一言付け加えて、汐里は航海に戻った。その時、一瞬だけ三島の感心したような珍しい顔を見たような気がするが、この時の汐里にとって三島の存在はそれ程気にするものでもなかった。



 ペルシャ湾を抜けて二日後、インド洋に出た『アサヒ』は東南アジアの方向へと舵を取っていた。夕日が海をオレンジ色に染め始めた頃。マルコが淹れてくれたコーヒーを飲みながら談笑していると、三島が船橋にやって来た。

 珍しい出来事に、汐里は一瞬呆けてしまった。吾妻はよく来る事はあるが、三島が一人で船橋に上がってくる事は日本を発って3週間の間、そうそう無かった事である。マルコが慌てて三島のコーヒーを淹れ始めるのを尻目に、汐里は三島に話しかけた。

 「珍しいですね、貴方がブリッジに上がってくるなんて」

 汐里の言葉に、三島は怪訝な表情を浮かべた。そんな反応は予想外だ。

 「別にそんな事はないさ。俺もたまには来ていたぞ」

 「え、そうなの?」

 少なくとも汐里は今回が見るのは初めてだ。しかし三島の言う事が嘘ではないようで、コーヒーを持ってきたマルコが同意するように頷いた。

 「そうですよ、彼がここに来るのは初めてではないです」

 そう言いながら、彼が三島にコーヒーを手渡す光景はなかなか親しげだ。あれ?いつの間にそんな仲良くなってるんだ、この二人は。

 「マルコの淹れるコーヒーは格別だからな」

 三島もそんな事を言いながら笑っている。そしてマルコの方は照れ臭そうに、明らかに嬉しそうな反応だ。やはり三島は汐里以外の船員(具志堅を除いて)には人気が高い。

 「随分と仲がよろしいですね」

 「何だ、その姑のような言い方は」

 な、お前こそなんだその言い方は!と口から吐き出しそうになるのを寸での所で飲み込む。しかしそんな汐里の表情を見て、何を言いたいのかは三島の方も察したらしい。

 「なに、実際あんたの言う通り『珍しく』この時にここへ上がってみようと思っただけだ。あんたとはそれ程話した事もないしな」

 「どういう風の吹き回しですか?」

 三島の言い方からは、やはり汐里が居る時間帯を見込んで船橋に上がってきたという風にしか聞こえなかった。

 乗船当初から汐里自身もいけ好かない男だと、三島にはあまり関わろうとしなかった。三島もまた女である汐里には他の船員のようには近付いてこようとはしなかった。

 こうして二人向き合って言葉を交わすのは、もしかしたら乗船以来かもしれない。

 「あんた、この航海をどう思う?」

 余りに唐突な内容の質問に、汐里は意味がわからなかった。しかし三島の方は何故か本気にしか見えない。

 「あんた、前に言ったな。ペルシャ湾で軍艦とすれ違った時、あいつらのおかげで自分たちは安全に航海が出来るって」

 「言いましたけど?」

 それが何だと言うのだ。しかし忘れかけていたが、三島もまたこの船を守るために乗ってきた海上保安官シップガードだ。その事を思い出して、汐里は俺達にも感謝しろよと言いに来たのか?と思った。

 「おい、勘違いするなよ。別に俺はあいつらに言って俺達には感謝の一言もないのかと僻んでいるわけじゃない」

 汐里の読みを看破するように、三島は言った。

 「むしろ、俺達は感謝なんて期待していない。ただ自分の仕事をやっているだけに過ぎないんだからな」

 少なくとも俺は、と一言付け加えて。

 一体何が言いたいのとちょっと苛立ち始めた汐里に、三島は言葉を続ける。

 「俺が聞きたいのは純粋なもんだよ。安全に航海が出来る、お前はそう言ったが本当にそう思ってるのか?」

 「………………」

 汐里は疑問に思った。どうしてそんな事を聞くのかと。

 あの時に汐里が言った言葉に嘘偽りはない。実際、世界中の国があの海域に軍艦を派遣して警備をする事で、自分たちのような民間の船舶は積荷を運ぶ事が出来るのだ。特にペルシャ湾に通ずるオイルロードは日本経済の生命線だ。断たれてしまえば、日本国民は嘘ではなく飢え死にする。それ程までにあの海は日本にとっては重要なものなのだ。

 故に日本も海上自衛隊が警備に加わったり、多国籍軍に対して給油活動等も行っている。国内では反対する声もあるが、あの海を何としてでも守らなければいけないのは日本自身なのだ。

 しかしそれでも海賊被害が根絶されないのもまた事実。海賊による民間船舶への被害は一向に減らない。

 危険なのは海賊だけではない。日本企業の船がテロ攻撃を受けた例もある。産油国での紛争が起こって、自分達が戦火に巻き込まれる可能性だってある。

 「……嘘じゃないわ、本当にそう思ってる。確かに完全に安全とは言えないかもしれない。実際、私自身もこの海を通るたびに海賊に襲われないかとヒヤヒヤしている。だけど、そんな危険な海を渡っているのは私達だけじゃないし、私達を守るために戦ってくれる人達も居るんだよ」

 その戦ってくれる人達の中には、貴方達も含まれている。

 私はそれを理解しているつもり。汐里は断言した。

 三島はジッと汐里の方を見据えていたが、納得したかのように頷いた。

 「わかった。お前がどういう考えを持って、この船の舵を握っているのか」

 汐里の前から歩を刻み、船橋の窓から水平線へと視線を向けながら、三島は言う。

 水平線に沈む夕日が射すオレンジ色の光をバックに、三島が汐里の方に振り返った。

 「俺は最後までこの船とあんた達を守り抜こう。何があっても、な」

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