log.3 乗船

 汐里も今がそうであるように、汐里の父もまた船乗りだった。

 汐里が船に乗っているのも、当然、父の影響が大きかった。外航船の船長だった父はほとんど家にいなかったが、それでも休暇の間に遊び相手になってくれた優しい父が汐里は大好きだった。

 一度だけ、父の船に乗ったことがあった。横浜に寄港した父の船に、母と一緒に尋ねた幼少時代。あの経験が汐里の船乗りを志すきっかけになった。

 汐里は父のような船乗りになるために高校を卒業後、商船系の大学に進学。卒業後は大和郵船に就職し、外航船の航海士として現在に至る。 

 「それじゃあ、お父さん。行ってくるね」

 父の仏壇に線香をあげ、父の遺影に向かって手を合わせるのはいつも汐里が船に戻る前の恒例の儀式だった。昔風の固物を連想させるような父親で、小学生の頃、いつも予定が合わない父が初めて授業参観に来た時はクラスメイトたちに怖がられていたほどだった。そんな外見に寄らず子供が好きな性格で優しい父だったが、汐里が高校3年の頃、交通事故で帰らぬ人となった。

 大学に合格し、入学する姿を父に見せることが叶わなかったけど――今、汐里は父が立っていた場所に近付きつつある。

 いつか、父のような船長になることを夢見て――




 二ヶ月の長期休暇を終え、汐里は『アサヒ』へと帰船した。また暫くはご無沙汰になるだろう日本の風景。次に帰ってくる頃は、日本はどんな風に変わっているのだろうか。テレビを付ければ知らない芸人がお茶の間を笑わせていたり、新しい曲が流行っていたり、総理大臣が変わっているかもしれない。世間の流行は船に乗る者にとっては縁のないものだった。

 しかし違う意味の世間の流れは時折、海運業界にも影響を及ぼすことがある。汐里が『アサヒ』に帰船するとほぼ同時期、それは『アサヒ』に起こった。

 「新たな乗組みですか?」

 明日の出港に備えた夜、娯楽室に集まった席上で『アサヒ』船長の具志堅孝は酒を呑み交わす皆の前で口を開いた。

 「そうだ。 明日の出港前に新たに三人ほどウチに乗船してくる」

 「ここで新人ですか」

 同じ日本人船員の貝塚機関長が興味ありげに呟く。汐里を含め、『アサヒ』に乗船している日本人船員は三人しかいない。

 「何人ですか?」

 「三人とも日本人だよ」

 「ほお、日本人ですか」

 外航航路の船員は、人手不足や人費削減等の諸々の理由でほとんど雇い外国人船員の比率が高い。船長は日本人であっても、他の船員がほとんど外国人なのは、日本の外航船にとって珍しいものではない。内航は日本人船員しか乗れないが、外航は様々な国籍を持つ人間が一隻の船に乗り込み、そういった船員事情が事実上日本の海運を支えている。

 パナマ籍船の『アサヒ』も事情は同じだ。ほとんどの船員は東南アジア系の外国人である。

 「デッキとエンジン、どちらに来るのですか?」

 汐里の部下に当たる航海科のフィリピン人航海士、マルコが片言の日本語で問いかける。

 「実はどちらでもない。 今回乗り込んでくる奴らは特別だ」

 「?」

 首を傾げる一同に、具志堅船長は説明を始める。

 「一つ聞くが、今回俺達の向かう先はどこだ?」

 「いつも通り、中東――ペルシャ湾です」

 「その途中には何がある?」

 頭の中で世界地図を思い描き、想定する航路を引く―――東京を出航し、東、南シナ海を通り、マラッカ海峡を通過。インド洋に進出、アラビア海に出て、ペルシャ湾へ―――

 ちなみに、マラッカ海峡からペルシャ湾まで至るほとんどの海は、海賊が出没している海域である。

 「そう、俺達は“いつも通り”海賊が出てもおかしくない海を渡ってはるばる6500マイルの航路を行く」

 6500マイルは約1万キロになる。中東に向かう往路が15日、原油を持ち帰る復路は18日かかることになる。1回で輸送できる石油は220万バレル。国内消費量の約半日分に相当する。

 そしてその途中には海賊被害が報告されている海域が数多く存在している。世間一般にはあまり知られていないが、二日に一度は必ずどこかの船が海賊の被害を受けているのである。数が多過ぎて、逆に報道されないのである。

 近年の海賊被害は、世界各国の奮闘虚しく増加傾向にある。東南アジアのマラッカ海峡では日本籍船の乗員が人質に取られた事件が起こった事もある。一般世間に周知されるようになったソマリアの海賊は、同国沖とアデン湾から、東方のアラビア海や南方のケニア沖まで活動範囲を拡大し、被害報告は急激に増加している。

 海域には世界各国の海軍が警備し、日本からは海上自衛隊も参加しているが、全体的な被害は増える一方だ。

 「特に日本の船は銃も持ってないから、海賊にとっては格好の獲物だ」

 世界各国の船舶は護衛用を目的に銃器を所有している船が多いが、日本の船は持っていない。武器はなく、金がある。これ程美味しい獲物は他にないだろう。

 「日本としてもソマリア沖に海自の護衛艦を派遣して、対策を講じているがそれも限界を感じたらしい政府が新たな対策として日本の船に“特別乗員”を乗せる法律を作った」

 汐里たちが日本にいない間、国内では海賊対策として新たな法律が制定されていた。

 それはこれまでの海賊対策とは全く異なる新たな試みであった。

 その新法に基づき、政府関係機関から派遣される船の用心棒。

 それが――

 「シップガード……?」

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