log.2 下船

 中東から原油を積載した『アサヒ』が東京港に到着し、八ヶ月の乗船勤務を終えた汐里は久方ぶりの日本に足を踏み入れ下船した。

 結局何事もなくアデン湾を通過し、その後も無事に日本まで安全な航海を続けられた『アサヒ』は東京港に着岸。汐里は久方ぶりの長期休暇に羽を伸ばそうと考えていた。

 下船して初めての週末。汐里は地元の横浜に帰省した後、中学時代からの友人と会うために行き付けの喫茶店に向かった。汐里は実家暮らしだが、地元の中小企業に就職した友人も学生時代から地元暮らしである。汐里は長期休暇だから関係ないが、やはり友人と会うためには向こうの予定を合わせることが当たり前だった。

 「久しぶりだねー、汐里。 元気してた?」

 「うん。 渚も元気してた? 彼氏とは上手くいってるー?」

 「もうっ、二人の時にあいつの話はやめてよっ」

 「まぁまぁ。 詳しい話はなかで聞かせてもらいましょうか」

 汐里は友人の渚と共に喫茶店へと入る。校則が厳しかった中学校時代。生徒だけで喫茶店に行くことすら禁止だった固い学校だったが、憧れでこっそりと友達で行ったのが始まりだった。そこから数えても結構残っている喫茶店は最早二人にとっては思い出深い場所である。日本を離れる周期が長い汐里にとって、帰る度にこの店が残っていることを確認するのは、とてもほっとさせられる。

 「やっぱりここのコーヒーは美味しいなぁ」

 「汐里、なんか年寄りくさいね」

 「ちょ……ッ!? 同い年、同い年! ていうかなんでッ?」

 「うーん、汐里って会う度に感慨深い所を見せるというか……うん、普通の同年代の娘にはないものを持っているというか」

 「なにそれ……? 結構傷つくよ……」

 「あはは、でも汐里って童顔なんだからさ。 見た目は全然若く見えるよ」

 「なんかあまりゲージが回復しないよぉ……」

 女らしさの欠落を指摘されることは一人の女性としては耐え難い侮辱だった。歳の割に童顔な汐里は見た目こそ可愛い系の部類に入るが、対して友人の渚は会う度にますます女っぽいと言うか、大人の女性の魅力を引き立てている気がする。

 「ねえ、渚……どうすれば女らしくなるかなぁ」

 「……なんかごめん、私も言い過ぎた。 でもね、汐里。 汐里も全然女の子だって!」

 「それは私の童顔で女の子っぽいだけでしょ? 私は大人の女性としての魅力が欲しい」

 と言いつつも、実際汐里自身も大人の女性の魅力とは何なのかよくわかっていない。正直自分が何を言っているのか本当に理解していないのかもしれなかった。

 「歳は充分大人なのにね……」

 「うぐ……」

 思えば船に乗って、女らしさが渚のような周りにいる一般の女性より意識が欠けていったのかもしれない。いや、意識をしていなかったつもりはなかったが……もしかしたら無意識と言う可能性もある。大体あんな環境にいれば、女らしさはたまに邪魔になってしまう時がある。実習生の頃から父のような船乗りを目指してきたことが原因だったとしても、どれにしても今の状態は自分が選んだ道の結果なのだ。

 「うーん、でもそうだね……強いて言えば……やっぱり男がいれば何か変わるんじゃないかな」

 「男?」

 男なんてごまんと周囲にいたが……

 「違う違う。 恋愛としての男よ。 つまり彼氏」

 「ああ……」

 「……ちょっと。 なんでそんな遠いものを見るような目をしてるのよ」

 商船大時代から培われてきた男性に対する耐性は、おそらく目の前にいる渚よりある意味付いていることだろう。男の比率の方が当然のように圧倒的に多かった船上の世界。自分を含め、少なからずの女性もいたが、船の上の生活は様々な現実を汐里に与えてきた。

 「実習生同士でのカップルもいたけど、私には恋愛対象になる男の子はいなかったなぁ……。そういえば、恋愛に関しては間違いなく意識が欠落してたかも……」

 男子実習生と共に過ごした実習生活、共に学んだ環境が汐里に恋愛に対する鈍さを生んでしまったのかもしれない。渚は突然机を叩いて「それよ!」と叫んだ。がちゃんとコーヒーのカップが揺れ、汐里は驚いて渚を見た。

 「結論! やっぱり汐里は恋愛すべきだと思う! 恋は女を女にするものなんだから!」

 「れ、恋愛……」

 周囲の視線もお構いなく、渚は呆気に取られる汐里を前に意気揚々と言葉を続けた。

 「私にも4年ぐらい付き合ってる彼氏がいるけどさ。 やっぱり彼氏がいるといないとじゃ違うよ、女の意識というかさ」

 「そういうものなのかな……」

 「私が言うんだから間違いない!」

 結構大きい胸を自信満々に張る渚を前に、汐里は呆気に取られたような表情だったが――その口元を、クスリと緩めた。

 「そうだね……うん……」

 実際、渚は自分よりずっと女性として綺麗だと思う。いつも彼氏のことを話す渚を見ているけど、その時の渚は普段の渚とはまた違う顔をするのだ。 

 「もしかして余計なお世話だったかな?」

 「ううん、私も……ちょっとは、そう思うかなぁって」

 「でしょ! 汐里も、良い男見つけなよ!」

 「うん、そうだね。 ありがとう、渚」

 「えへへ、親友のためなら何でも相談に乗るよ!」

 「うん」

 久しぶりに会い、こうして友人と話すのも楽しい一時。職場と日常では全く異なる世界だが、それはまた日常の価値を強く実感できるものでもあった。

 私も色々と頑張ろうかな……汐里は決意して、馴染みのある甘いコーヒーの味をもう一度楽しむのだった。




 ――とは言ったものの、家に帰った汐里は自室のベッドに転がり、愛用のフクロウのぬいぐるみを抱いて悩んでいた。

 「出会いの場がなくちゃ、男なんて見つかるわけないよね……」

 最低でも半年以上、下手をすれば一年は日本に帰ってこれない女と付き合おうとする男など果たしているのだろうか?

 男は船、女は港――と昔から言われていたが、今や海の上も女性の社会進出が進んでいる中(女性乗組員だけの船も存在する)、そんな古臭い言葉は意味を成さない。というか自分は女だが船である。港で待ってくれる男が本当に存在するのかどうか甚だ疑問だ。

 いつまで経っても男の気配が見られない汐里を心配に思ってか、最近になって母がお見合い話を促すようになったが、くどいようだがこんな船ばかり乗ってる女を、果たして貰ってくれる男は本当にいるのか?

 だからと言って、一般的に結婚していない女性の船員がいないというわけではないが――自分に当てはめると、やはり疑問や不安が膨らむばかりなのだ。

 「男、かぁ……」

 ぬいぐるみに埋めた顔を半分出し、はぁ、と息を吐く。

 大学での実習の実習生時代は、周囲はほとんど男子ばかりだったが、恋愛経験は皆無と言って良かった。

 今の職場でも、周りはほとんど外国人だし、歳が近い日本人男性はあまりいない。

 そうだ、子供の頃の恋愛経験を軸に考えてみよう。

 初恋は小学校二年生の担任教師だった……二度目は六年生の頃の割と仲が良かった男子……3度目は中学2年の担任教師で、高校の頃はバスケ部の顧問だった……ちょっと待て待て待て。


 落ち着いて冷静に整理しよう。


 もしかしたら今までの恋愛、四人中三人が年上の教師ではないか?

 いや、女の子として年上の男性に好意を向けるのは別におかしいことではない。

 よし、もう一度落ち着いて自分に聞いてみよう。


 では、好みのタイプは?


 それはやっぱり、優しくてそばにいたら安心できるような……そう、まるで父のような男性――



 「………………………」



 拝啓、お父様―――


 思春期以降、恋愛経験がない上にもしかしたらのファザコン疑惑浮上の私に、果たして恋ができるのでしょうか。

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