シップガード

伊東椋

log.1 外航船


 ―――日本人の生活は、海運によって成り立っている。



 島国である日本は文字通り、四方を海に囲まれた海洋国家である。故に国民の生活に必要な食糧や鉱物資源のほとんどを海外からの輸入に頼っているのが実情だ。

 国内に資源などを共有させるにはまず海を越えなければ始まらない。日本は海外からの輸入の9割を船舶による海上輸送に依存している。このような船舶による海上での輸送手段を海運と言うが、日本は正に海運があって初めて成り立っているのであり、海運は日本人の生命線と言っても過言ではない。


 日本は長きに渡る平和を享受されている。そんな日本人の生活を根本から支えているのが海運であるが、必ずしも海運も完全に安全の上で成り立っているわけではない。日本から世界に繋がる海運は、複雑な国際情勢の影響を受けざるを得ない立場にあるのが常で、日本の船舶は政治的にも危険な海まで出なければいけないのもしばしばである。


 平和な日本とは裏腹な世界に立ち、日本人の生活を支える海運業界―――


 海運業界を悩ませる一つの懸案事項は、ある転回点を迎え、日本の海運時代は大きな変化を遂げた。



 それこそ――――





 空と海も同化するほどに真っ黒に染まったアデン湾の海を、大和郵船のパナマ籍船石油タンカー『アサヒ』が航行していた。複雑に絡められた不気味な闇を前にした10万トンを越える巨大な船体が、闇の中から何かに狙われている錯覚に陥るのも仕方なかった。

 「こちら船橋。 一等航海士です」

 レーダーを含めた電子機器と海図上に照らされた最低限の灯りしかない真っ暗な船橋。そんな環境でも彼女は既に苦の概念はほとんどない。慣れた手つきで船内電話の受話器を取り、ある番号に繋げた。

 「2330時、アデン湾航路に入ります。 はい、出力等は特にそのままで……。船長キャプテンからは、ただ『用心せよ』との事です。そうですね。はい、失礼します」

 受話器を戻し、彼女は闇の中にくっきりと映されるレーダー画面に視線を向ける。

 機関室への連絡を終えると、『アサヒ』一等航海士の佐倉汐里は肉眼では闇しか見渡せない目の前の航路をレーダー上で見詰めた。

 「今の所、通ってる船も少ないなぁ……」

 闇の中で、汐里はううん、と唸った。

 船乗りだった父から海に由来して名付けられた汐里と言う名前の通り、汐里自身もまた船に乗る人生を歩んで早10年。大手海運会社の一航海士になれたのは汐里にとっても幸運だった。商船大学を卒業し、勉強を重ねて一等航海士まで昇りつめたのも、亡くなった父に恥ずかしくない姿を見せないように努力した結果かもしれない。

 入社と同時に乗船し外航航路を往復して何年もなるが、出世する度にプレッシャーが増す海は汐里にとっても大変な職場だった。

 「ファーストオフィサー、コーヒーを淹れたのでどうぞ」

 「あ、うん……サンキュウ」

 汐里は同じ当直員のフィリピン人船員から淹れたてのコーヒーを受け取ると、小さな唇にそっとコーヒーの液面を触れた。

 「何もなければ良いですね」

 素っ気ない英語で言いながら悠長にコーヒーを飲むフィリピン人船員に、汐里はコーヒーが染みついた唇を舐めつつ答える。

 「そうだね」

 答える汐里はコーヒーを呑んで一息付いた表情で、目の前のアデン湾の海を見詰めた。



 世界各国の海運業界を脅かす海賊被害。アデン湾は海賊が最も多い海域として船乗りたちに恐れられていた。

 1990年代以降、無政府状態となり一部の治安が急激に悪化したソマリア周辺の海域で、通航する船舶に襲撃し船を乗っ取ったり身代金目的で人質を取る等の海賊被害が続出した。これを受け、日本を含めた世界各国が様々な対抗策を講じているが海賊被害は現代においても絶えていない。

 日本の船舶も海賊の被害に遭っているケースは既にある。海域には世界各国の海軍が警備に当たっているが、通航する船舶は簡単に安心などできるはずがなかった。

 「まぁ……何かあればどっかの軍隊が助けに来るでしょうから、いつも通り気長に行きましょう」

 呑気に言うフィリピン人船員の言葉に、汐里は味気ない表情になった。


 ――そういえば彼はこの航路は初めてだったか。新人に実感が沸かないのは無理もないか……


 最初は汐里も平和慣れした日本人として、正直彼のような柔な心構えだった頃もあった。しかし、航路をすれ違った別の船がすぐその後、自分たちが通った海域で海賊の襲撃を受けたと知った時は寒気がしたものだった。

 「(こんな船が襲われたら……ひとたまりもないなぁ)」

 夜闇に染まった不十分な視界。やむなくこんな時間帯に危険な海を通ることになったが、時間が命より貴重な会社の船にとっては仕方のないことだった。最近の海賊船はレーダーにも映らないと聞くからどうしようもない。しかも日本の船の唯一の防衛手段は放水しかないのだ。

 しかも積んでいるものが積んでいるものだから、よく話に聞くロケット弾なんぞを撃たれてもし大惨事になったら―――

 「(やめよ……とにかく無事に通ることだけを考えよう)」

 無事に、そして安全な航海を―――それだけはどこの海でも変わらない船乗りの心構えだった。


 

 しかしそんな風に危険が満載な海を、船は今日も日本を目指して通航するのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る