第6話 案の定

 仕事場に戻りデスクにかけた俺は、ふぅ、と息をついた。

 ……宇宙人か。いやあ驚いたな。

 俺は大きく背を伸ばし、椅子の背もたれに寄りかかった。背もたれがたわんで身体を心地良く受け止めると、一種の緊張感から開放された。

 仕事用デスクトップの画面が目に入った。画面上には、書きかけの、俺の、「宇宙人小説家の陰謀」ファイルが開かれたままになっている。

 俺は椅子に深くかけなおすと、書きかけの部分を目で追った。


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 松野の好きにさせてやっても、いいじゃないか……

 平野の太い指が、驚くほど滑らかに、素早く、キーボードの上を動き始めた。

 ピイィィィィーーー……ン…………

 低く微かに、どこからか響く電子音……。

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 平野はこの後どうなってしまうのだろう。そして松野は……?

 しかし、俺にはもう続きを書くことはできないのだ。俺は頭を後ろに垂れ、目を閉じた。

 さっきまでの、書いている間の高揚感が俺の胸に蘇る。ここしばらく無かった感覚だった。平野健一を、そして松野真司を創り出している間、俺は幸福だった。仮にそれが、宇宙人の電波に操られてした事だったにしても、だ。

 だがそれも終わりだ。平野健一は、松野真司は、中途半端なまま、もうこの世に現れる事はない。奴らとはお別れだ。

 ……コーヒーでも飲むか。俺は閉じていた目を開き、身体を起こした。


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 のろのろと立ち上がると、部屋に備え付けのコーヒーメーカーのスイッチを入れる。コーヒーが出来るのを待つ間、テラスへ向けて開いた大きな窓から、遠くに見える雄大な山並みをぼんやりと眺めた。気づけばもう夕刻だ。南国の夕日の鮮やかな朱の色と、それを背景にそびえ立つ山々の黒が、見事な対比を成している。

 テラスに出てそこに備え付けられたテーブルに腰掛け、熱いコーヒーを啜ると、俺はようやく人心地ついた気がした。

 なんという、穏やかな充足感だろう。仕事で結果を出した時に感じる勝利感とは断じて違う。もっともっと、優しい充足感だ。俺は今日一日、何の得にもならない事に時間を費やした自分に気付き、激しい驚きに襲われた。そんな事は今までにあり得ない事だった。それをする事でどういう利益になるか。人にどう評価されるか。いつの頃からか、俺の物事の判断基準はそこにあった。結果や評価を考えずに行動するなど、俺にとっては……、ずっと、ずっと長い間、忘れていた事だった。

 俺は沈んでゆく夕日を見ながら、今まで、こんな安らかな夕べがあっただろうか、と自分自身に問いかけた。思えばあの時からずっと、俺の人生とは競争と同義語だった。あいつらを見返す。そのために勝利し続け、ひたすら上に登らねばならない。人生とは、競争に勝ち、獲得すること。それ以外の意味など、考えている暇は無かった。

 だが……、何かが違うのではないか。人生とはそんな単純なものではなく、もっと、何か、生存競争以上の意味があるのではないか。俺の心の片隅にはいつも、そんな疑問がくすぶり続けていたのだ。

 しかし俺は今、その答の僅かな断片を掴んだような気がしていた。ただ夢中になって何かをする。それは、人にこんな充足感を与えるものなのか。

 俺の胸にあの少女の姿が浮かんだ。今の俺は、彼女をまるで親しい友のように感じた。今の俺もきっと、あの夕日の朱に頬を染めた少女と同じ表情を浮かべているだろう。鏡を見なくても分かる。

「続きを書かないで……」

 頭の中に、あの電話の声が響く。

「嫌だ」

 俺はボソリと呟いた。

「俺は嫌だ。途中で止めるなんて嫌だ」

 今度は、強く声に出して言った。

 俺はコーヒーを飲み終え、パソコンの前に戻った。再び、俺の手が滑るようにキーボードの上を動き始めた。

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 平野にはまるで、松野の声が本当に聞こえたように思えた。

 ずっと自分を押さえつけ生きてきた松野が、心の赴くままに没頭したのだ。利益も評価も関係なく、そんなものから完全に自由になって、ただ子供のように夢中になったのだ。気の毒な松野。ずっとがんばり続けてきた松野。

 ……いいじゃないか。これくらい。

 松野を止めようとする事に、平野は抵抗を覚えていた。それはまるで、幼い子供から何か大切な物を無理やり取り上げる事のように感じた。

 平野の手はいっそう早く動き始め、安っぽいノートパソコンのキーボードはパチパチと音を立てた。

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 松野が感じている喜びがどんなものか、俺にはよく分かる。

 俺もそれを良く知っているからだ。まだ子供の頃、画用紙にクレヨンで書いた手製の紙芝居らしきもの。おやつも食べずに一心不乱に書き上げた、俺の処女作だ。大得意で母親に読んで聞かせた。今にして思えばまったく訳の分からないストーリーだったが、読み終わると母は盛大な拍手をくれ、すごい、将来はきっと大作家になれると言って俺の頭をなでたものだ。思えばこの時こそ、俺が人生で初めて「創造する喜び」を知った瞬間だった。

 勉強もせずにひたすら投稿小説を書いていた、中学、高校時代。同級生達が女の子と遊んだり部活に熱中したり、華やかな生活を送る頃、おれはひたすら書いていた。人にどう見られようと、大好きな事に没頭する時間は何より幸福だった。

 俺はなるべくして、物書きになったのだ。

 しかしデビューしてプロになり、その大好きだった事は「仕事」になった。「義務」と「責任」が発生し、つらい事も多くなった。投げ出したくなった事も、一度や二度じゃない。でもそんな時でも、心の底にはいつも、あの幸福感があったのだ。俺はそれを少し忘れかけていたかもしれない。松野は俺に、それを思い出させてくれた。

 そうだ、松野。書きかけたものを、途中で止めるなんて出来ないよな。最後まで書かなければ。いや、書きたいのだ。宇宙人の電波のせいだろうと何だろうと。

 だって、結末はどうなるんだ?俺達の三人の、桜田洋一と平野健一と、松野真司の小説は。

 俺のエアピアノソロが、カシャカシャと旋律を奏で始めた。

 不思議な連帯感が生まれていた。俺と、平野健一と、松野真司の間に。俺達三人は互いに異なる世界に存在しながら、同じ感覚を共有していたのだ。


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 夜は更けていったが、俺の目には、眩しく光るモニター画面以外の物は映らなかった。

 そして夜明けの光が窓辺を照らす頃、精魂尽き果てた俺はソファに身体を投げ出した。ぐったりとしてしばらくの間重い瞼を閉じていた俺は、頬に熱を感じて目を開いた。見れば、昇ったばかりの太陽が次第に角度を変え、天井近くに備えられたステンドグラスを通し、様々な色の光を俺の顔に優しく投げかけていた。俺はゆっくり頭をもたげると、光を背景にまとう天使を象ったそのステンドグラスの、神々しいまでの美しさに思わず見とれていた。身体は疲れ果てていたが、不思議と、苦痛な疲労感ではなかった。むしろ今までに味わった事のない、体中に染みわたるような、心地良いとすら言える疲労感だった。

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 小説の中での松野に合わせるように、平野に届いていたらしい電波は、ようやく一時中断の兆しを見せ始めた。

――プッ……プープツー…………

 電話での通話が終了した時の様な電子音の反響を残し、ようやく電波は停止した。そして平野も、ぐったりと椅子に深く腰をおろした。

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「……さん」

「…………」

「……お父さん!」

 心臓が痛い程飛び跳ねた。うぉうっと動物のような声を出し、心臓発作でも起こしたのかと思うほど驚いて振り返った。腰が半分椅子から浮いている。腕の皮膚の表面が、まるで電気でも通ったようにピリピリとしていた。

 そこには、いつの間に部屋に入ってきたのか、娘が立っていた。没頭していて全く気づかなかった。

「な、なんだ!」

「……ノックしたけど返事ないから」

 娘は仏頂面で答えた。

「夕飯どうするの?」

「え?夕飯?お母さんまだ帰って来ないのか?」

「遅くなるから、って昨日言ってたじゃない。お金置いとくんで適当に食べてねって言ってたけど、置いてくの忘れちゃったみたい」

 ……そういえば、そんな会話を聞いたような聞かなかったような。

「いっつも、全然聞いてないんだから」

 俺は大げさに驚いてしまった自分が急に恥ずかしくなったのと、娘に指摘されたのがしゃくに触って、黙って机の引き出しから財布を取り出して娘に札を渡した。

「じゃあこれで適当に何か……。お父さんには、そうだな、おにぎりでも買ってきてくれ。あとついでに煙草も」

「……1000円で?」

 娘は眉をしかめて俺の顔を見つめた。

「……未成年者は煙草買えないよ」

「そうなのか?」

 娘は大げさな溜息をつき、部屋を出て行った。俺が何をしたっていうんだ。


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 書き終わった部分を読み返していた俺は、思わず吹き出した。どうもこの桜田という奴は、好きな事に没頭する分、関心の無いことには全く気が付かないらしいな。この少女が苛立つのもよく分かる。だが本人も、自分がちょっと変わっている事を理解していて、少しの劣等感を持っている。だからこそ、平野のような普通を絵に書いたような人間になってみたいと空想するのだろう。

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 全く、人間っていうのはつくづく、無い物ねだりだなあ。

 平野は驚いた。自分のような、特に何の個性も無い人間になってみたいという感情が、平野にはいまいち理解出来なかった。が、何となく嬉しいような誇らしいような、良い気分になった。人に羨まれる事などあまり経験がない。松野真司のような人間なら、常に大勢の人に目標として見上げられる事に慣れているのだろうが……。

 あれ?何かおかしいぞ。

 平野は首をかしげた。

 どうして松野が、俺の事を知っているんだろう?ああそうか、松野が書いている小説家、桜田洋一が平野の事を書いてるから松野も知って……あれ? 

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 娘が買ってきたおにぎりに手も付けず傍らに置いたまま、ガシャガシャとやかましい音を立てながらキーボードを叩き続けていた俺の手が、ピタッと止まった。

「松野が書いている小説家、桜田洋一」だって?平野はそう言った。いや書いた。

 桜田洋一って……俺だよな?うん。小説家だ。これを書いている……はずだ。あれ?書くのはやめたんじゃなかったっけ?いや、今書いてるな。何でだっけ?

 あ、そうか。松野真司が書き続けているからだ。きっと。だから平野も書き続けて……。あれ?

 何だか俺はちょっと疲れてる気がするぞ。これも宇宙人の仕業なのだろうか。


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「松野真司」だって?……ちょっと待て。それは俺だ。何で俺の名前が小説に出てくるんだ?……何だかおかしいぞ。そもそも俺は、どうして小説なんか書き始めたんだ!?

 いきなり立ち上がった俺は、目眩に襲われた。

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 これがその、電波のせいなんだろうか。ぼんやりした頭で、平野は考えた。

 何だか、意識が遠のいていく……。

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 いや、もう電波は関係ないのかもしれない。俺が、俺自身の意志で書いているのかもしれない。もう良く分からない。今ここで書いているのは、誰なのか。俺の手はまるで誰か他人の手のように、勝手にキーボードを叩き続ける。

 目の前の色彩が、急に彩度を落としていった。驚く間もなく、いつもの見慣れた仕事部屋の光景が、真っ白になっていった。ああ、貧血なんて高校生の時、真夏にスタンドでバイトした時以来だ……。妻を呼んだほうがいいだろうか。俺は慌てて立ち上がったが、それが良くなかったらしい。平衡感覚を失い、身体が倒れかかった。俺は咄嗟に手を伸ばして何かに捕まろうとしたが、俺の手は机の上に置いてあったタブレットの上で空しく滑った。薄れゆく意識の中で、


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 俺は白い光に包まれ、自分の身体がゆっくり沈んでいくような感覚に身を任せた。何だかむしろ心地良い様な、このままどこまでも遠くへ沈んでいってしまいたいような、

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 非日常的な感覚……。だんだん意識が遠のく……。胸に広がる不安感……。

 ……ちょっと待て!!

 これはまさか話に聞く、心筋梗塞というやつでは!?いやいやまさか俺に限ってそんな。まだそんな歳じゃないし。いやでも確か誰か芸能人で、俺と同い年で倒れた人がいた気がするぞ。まずい。保険は入ってるけどやっぱりそういう問題じゃ、

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