第5話 ᐄᐁᒃᒁヰΘΘΩᐴᐶᒠΣσЯ⊿
――ポーン。遠くで何か音がした。
――ポーン。少し間を開けてもう一度。
俺は慌てて周りを見回した。まるで突然、何者かの見えない手によって現実に引き戻されたようだ。
――ピンポーン
何のことはない。玄関のチャイムが鳴っているだけだ。
――ピンポーン
うるさいな。妻は何をしているんだろう。さっさとドアを開けてやってくれ。俺はイライラしながら心の中で呟いてから、そういえば妻は今朝、友人と展覧会だか何だかを見に行くと言って出かけたのを思いだした。
しかし娘は家にいるはずだが。きっとまた部屋にこもって、ヘッドフォンで大音量で音楽を聞いているのだろう。俺は軽く溜息をつくと、仕事場を出て玄関に向かった。
「はい?」
苛立ちを抑えつつ勢い良くドアを開けると、誰かが、危うくドアにぶつかりそうだったところを飛び退いた。
そこには、全身グレーの服を着た小柄な少年が立っていた。
俺という人間は、どうも咄嗟の時には考える機能が停止してしまうようだ。
俺はとりあえずその怪しげな客を居間に通し、もてなす為にコーヒーを入れ、彼と向かい合わせにソファに腰掛けた。間に置いたテーブルには、淹れたてのコーヒーが良い香りと共に湯気を立ち上らせている。
春だ。開け放した窓の外から、鳥の声が微かに聞こえる。なんて平和な空気だ。いつも通りの日常。その中に突然現れた、この……。
少年は遠慮がちに、言いにくそうに切り出した。
「ええと、その……。もうだいたい、話の方はお分かりかとおもうんですが……」
彼はそう言いながら、ソロソロと慣れない手つきで名刺を差し出した。受け取った俺の手が軽く震えた。見覚えのある名刺。さっき、小説の中で、他ならぬ俺自身が書いたのと同じ名刺……。そして確かに彼の言う通り、彼の話が何なのかは俺にももう察しが付いた。信じがたいが、この訪問の事すら、俺は心の何処かで予期していた気がする。
「あの、この名刺の文字がちょっと……名前が……」
俺は何を言えば良いやら分からないので、とりあえず名前を聞いておこうと、そう切り出した。すると少年はちょっと悲しそうな顔をした。
「ええ、それ実は僕もこまっちゃったんです、その、名刺をつくる時に。僕の惑星では、個人で名前をもつという習慣がないんです。それでどうしようと思ってグーグルで検索したら、僕みたいなのをこちらでは『うちゅうじん』とよぶとわかったので、それが『なまえ』だと思って名刺にそう印刷したんですが……。ちがってましたか?」
「うーん、ちょっと違うかと。名前といっても、そもそも普通名詞と固有名詞っていうのがあって……って、いやちょっと待って!」
俺は思わずソファから身を乗り出した。
「君、本当に、ほんとうに宇宙人!?」
「はい、そうです!」
宇宙人、治安維持局の方からの派遣員か何かの彼は、嬉しそうな笑顔で元気よく返事をした。
「惑星ᐄᐁᒃᒁΘΘᐴᐶᒠの、ᐄᐁᒃᒁΘΘΩから地球にきました。よろしくおねがいします」
彼は、ペコリと、不思議で不自然なお辞儀をした。
もうどこからつっこんだら良いか分からないので、とりあえず俺は宇宙人に、普通名詞と固有名詞についての文法上の講義をしてやった。やっている間にいくらか気持ちが落ち着いてきた。そして俺と宇宙人との間にも、少し打ち解けた空気が流れ始めた。気の合う相手というのは、初対面の時に何となく分かるものだ。俺はこの若者とは波長が合うような気がした。とりあえず、すごく礼儀正しいし、悪いやつではなさそうだ。口下手そうな所にも、親近感が湧く。
宇宙人。にわかには信じ難かったが、良く考えてみれば、2023年に計画されているという火星移民団の出発まで、もう10年を切っている。そういう時代だから、こんな事も別にそれほど驚くような事じゃないのかもしれない。いけないいけない。作家として、固定観念で物事を決めつけてしまう事や、古い考えに固執してしまうというのはあるまじき事だ。創作する人間は常に柔軟であるべきだ。反省しなければ。
そんな事を考えているうちに、だんだん、俺の心にじわじわ嬉しさがこみ上げてきた。これは素晴らしい機会だ。宇宙人と直接話す事なんて、そうめったにあるもんじゃないぞ。作家として、この経験を生かさない手はない。そう思うと、作家魂のようなものが俺の心を落ち着かせた。
とにかくなるべく長居してもらって色々話を聞かせてもらおうと、俺は内心密かにほくそ笑み、コーヒーのお代わりをカップに注ぎ、お茶菓子をテーブルに並べた。そしてなるべく気さくな調子で話しかけた。
「どうぞ、ご遠慮なく。えっと……」
なんと呼べばいいのか。
「名前が無いというのは不便だね……。よし、とりあえず君のことはグレイ君と呼ぶのはどう?」
「グレイ?なぜですか?」
「宇宙人の名前としては定番だよ」
「そうなんですか。ぐれい……。なんかカッコイイですねえ!ありがとうございます。じゃあ僕のことは、ぐれいってよんでくださいね!」
グレイは名前を気に入ってくれたらしい。笑顔でクッキーを頬張る。喜んでもらえて良かった。俺もクッキーを手に取った。
「ええと、その。今日はわざわざ遠くから、どうも……。その、君の惑星がどれくらい遠いのかは知らないけど、遠路はるばる大変だったね」
しかし。グレイの大きな黒い瞳が、きらきらと輝いた。
「いえ、ぜんぜん!むしろ僕、ずっと前から来たかったんです。だからもう、うれしくてうれしくて!」
「そうなの?でも地球に来たかったんなら、まあアメリカとかヨーロッパとかなら分かるけど、こんな小さい国でがっかりしたんじゃない?」
「ぜんぜんそんなことありません!」
グレイは顔を真赤にして、ソファから立ち上がらんばかりの勢いで言った。
「僕、日本の文化とか、アニメとかマンガ、大好きなんです!」
「え……」
俺は思わず絶句した。
「マンガを原文で読みたくて、にほんごもべんきょうしました!」
グレイは熱く語る。
「あと日本食もすごい興味あって!この仕事がおわったら、ぜひ本場の『スシ』を食べにいきたいです!!」
……こいつ。海外のまとめサイトとかによくいる、日本オタクの外人だろこれ。どこが宇宙人だよ。と俺は思ったが、あえて言わなかった。
「そ、そうなんだ……。いや、日本人として、そういう風に言ってもらえると嬉しいよ……」
それにしても、知らなかった。クールジャパン、聞いてはいたが結構すごいんだな。俺はちょっと感心した。
「そうか。じゃあ、仕事を早く終わらせて、ゆっくり観光できるといいね」
俺がそう言うと、グレイはハッとした表情になった。
「あ、すっかりわすれてました」
そうだ。宇宙人との交流にすっかり夢中になって、俺もすっかりグレイの本来の訪問目的の事など忘れていた。
「そう、桜田さん。どうか、小説のつづきを書くのをやめてください。僕はそれを止めるためにきたんです。陰謀を止めるために。松野さんも平野さんも、あれだけ言ったのにぜんぜん聞いてくれないし……」
「ちょ、ちょっと待って!電波を受信して小説を書くっていうのは、俺の小説の中の話で、ええと、あくまでもフィクションで……」
「やっぱり、まだ気づいてなかったんですね」
グレイは溜息をついた。
「桜田さん、あなたは電波を受信しています」
「……え?」
これは一体どういうことだろう?俺は混乱した。
ええと、宇宙人にコントロールされているのは誰だったっけ?松野真司?じゃなかった、平野健一だ。あ、違う。両方か。で、宇宙人小説家に操られる男の小説を書いてるのが俺、桜田洋一。そしてその桜田洋一が主人公の小説を書いてるのが……あれ、誰だったっけか?だんだん、わけがわからなくなってきたぞ。ええと、整理しよう。まず、俺の書いてる主人公は誰だっけ。そうだ、平野健一だ。普通の男平野健一。宇宙人に操られて、松野真司の話を書くんだ。そして平野の書く小説の中で松野真司も、宇宙人に操られて小説を書く。宇宙人に操られて小説を書く男の話を……。
松野真司を書いているのが平野健一。平野健一を書いているのが俺。桜田洋一を書いているのが、あれ?
どうも俺は、書き始める前にきっちりプロットや設定を作りこんでおかないタイプなので、途中で自分でも混乱することがよくある。一応プロなんだから、しっかりしないとな。同業者の中にはそういう作業を病的なまでに綿密に行って、まるで設計図のような青写真をしっかりと完成させてからやっと書き始めるという人もいるが、俺はどうもそういう書き方が苦手だ……。
「桜田さん!桜田さん!」
グレイの呼びかける声にはっと我に返った俺は、グレイの大きな目をまじまじと見つめた。
「順を追ってご説明しますね」
グレイが言う。
「僕の故郷の星のある小説家、地球の方からすると、いわゆる宇宙人小説家ですね。そいつがなんらかの陰謀をたくらんでいるらしいという情報を、治安維持局が入手しました。調査にのりだしてようやく電波の受信先がはんめいしたので、まずは松野さんに電話でけいこくしたのですが、ムシされてしまいました。そこで僕が直接対応するために、治安維持局特派員として地球まで出張してきて、こんどは平野さんを説得したのですが、だめでした」
さっきまでとは打って変わって、グレイの表情は真剣そのものだ。つられて俺の顔の筋肉も強張った。
「で、桜田さんにおねがいにあがったわけです。桜田さんが小説を中断してくれれば、平野さんも松野さんも、いくら書きたくてももう書くことはできません。桜田さんがいわば最後の砦なんです。どうか書くのをやめてください。あの宇宙人小説家からの電波を、きっぱり拒否してください!」
「……俺?俺が電波を受信してるの?今?」
「そうです」
俺はまだ混乱している。受信しているなんて言われても、実感が……。
いや待てよ。実感が、あったじゃないか!?そもそも、そのアイデアでこの小説を書き始めたんじゃなかったか?
しかし俺はまだ抵抗を試みた。
「で、でも。やっぱり何かの間違いじゃないのか?第一、俺はアンテナになるような物、持ってないよ。そんな電波受信できるような。平野と松野はそれぞれ、手作りラジオと、なんかシステム専用の接続機器とかいうので受信してたみたいだけど」
「桜田さんの場合は、脳に直接おくりこまれているんだとおもいます」
グレイはさらりと怖い事を言ってのけた。
「ちょっ、直接!?脳に!?」
「ええ。桜田さんは小説家、いわゆる創作をする方ですし、そういう方は、ええと、なんていうんでしょうね。いわばアンテナ内蔵型とでも言いましょうか。脳内に、いろんな電波を受信できる機能がもともと備わっているものなんですよ」
……アンテナ内蔵型脳。面白いアイデアだなこれ。使えそうだ。俺はテーブルに置きっぱなしにしていたメモ帳にそれを書き込んだ。
「あの……」
グレイが不思議そうに見ている。おっといけない。
「ええと、つまり話をまとめると、宇宙人小説家が俺に電波を送って、宇宙人小説家に電波を送られて小説を書く男の話を書かせていると。そしてその小説の中で男は、宇宙人小説家からの電波を受信して小説を書く男の話を書いていると」
「そうです。そしてとにかく重要なのは、いますぐ書くのをやめるということです」
急にそんな事言われても……。そもそも、ここに至って俺は始めて根本的な事に気づいた。
「で、でもさ、その……、そいつの目的は何なんだ?俺に電波を送って操る事で、一体何が起こるんだ?その宇宙人小説家の陰謀ってのは、結局何なんだ?」
グレイの顔に困惑の色が伺えた。
「それはその……。ええと、まだ分かっていません」
「そうなの?」
「は、はい」
「…………」
「と、とにかく、それはいま、調査中です。どちらにしろ、治安維持局はこの陰謀を阻止しないといけません!」
グレイは力説した。正義感の強い若者のようだ。
「あのさ、参考までに教えてほしいんだけど。その宇宙人小説家って、どんな小説書いてるの?」
俺の言葉はグレイの想定外だったらしい。丸い目をクリクリさせたが、持参したカバンから小さな端末を取り出した。
それは地球で言うなら電子書籍端末のようなものらしい。グレイはそれを俺に手渡し、簡単に操作方法を教えてくれた。宇宙語から地球の様々な言語への翻訳機能も付いている。
おお。俺は感動した。俺は今、地球外のテクノロジーに触れている……。
俺は気楽にしていてくれとグレイに伝えてから、宇宙人小説家の小説を読み始めた。
一心不乱に読み続け、最後まで一気に読破した。
ふぅ、と溜息をついて、端末を膝の上に置いた。
……面白かった。
物語は、王家に忠誠を誓ったある騎士の話だ。滅亡する運命の王家に、最後まで忠誠を貫いて死んでゆく。わりと使い古された設定だが、にもかかわらず個性を感じさせる作品だ。繊細な感性で、冒険あり、恋愛あり、友情ありの多彩で先の展開が読めないストーリーを綴っている。それだけはない。独創的な視点、個性的なキャラクター。何より文体が美しく、かつ、テンポが良くて読みやすいのに感心した。
何というか、魅力的だった。説明の出来ない魅力、というものがある。たとえ多少まずい所があっても、そういう魅力がそれを補ってしまうのだ。一度読み始めたら最後までやめられない、そういう、人を物語の中に引きずり込む不思議な魅力があった。
素晴らしい。いやほんとに。これほどの読後感は久しぶりだ。俺の目にはうっすらと涙すら滲んでいた。俺は男のくせに涙もろいのだ。
「どうでしたか?」
グレイが尋ねた。俺はグレイに端末を返しつつ、感想を述べた。つい興奮し、事細かに熱く語ってしまった。文芸オタクと思われるだろうか……と思ったが、グレイは熱心にうんうんと頷きながら聞いてくれた。いい奴だ。心なしか嬉しそうですらある。俺とグレイの間に、オタク同士の間に芽生える一種の連帯感が生まれた。
「しかし、分からないな。こんな良い作品を書く作家が、恐ろしい陰謀を企むなんて。どうしてなんだろう」
俺は悲しい気分に襲われ、溜息をついた。
「……ええ。ですから、阻止したいのです。桜田さん、どうか、小説のつづきをもう書かないと約束してください。書きつづけたら、きっととりかえしのつかない、おそろしいことになるに決まっています。ですから……」
「分かった。約束するよ」
「それを聞いて安心しました。ありがとうございます。小説を書くのさえやめてしまえば、もうだいじょうぶです。桜田さんの身も安全ですから」
「うん」
「あ、もうこんな時間。では僕、そろそろ失礼しますね。長々ともうしわけありませんでした」
「あ、こちらこそわざわざ。何のお構いもしませんで」
宇宙人グレイは、またあの変なお辞儀をペコリペコリと数回繰り返すと、
「では、くれぐれもよろしくおねがいします」
と念を押し、帰っていった。
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