第4話 警告
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なんだこの音は。うるさい。まだ眠いんだ……。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
なんだか聞き覚えのあるメロディだな……。
俺はゆっくりと目を開いた。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
電話だ!俺は跳ね起きた。
ソファの前のカフェテーブルに置かれた俺の携帯が、けたたましい音を立てている。ちらりと時計に目をやると、もう朝だ。俺は自分がソファで寝入っていた事に気づいた。
何だ、こんな朝っぱらから?
携帯はしつこく鳴り続けている。休暇中なのを分かっていてわざわざ電話してくるのであれば、もしかして会社で何か重大なトラブルでも……?俺は慌てて電話を取った。
その途端、
「あ!もしもし!?」
と、電話から、まるで待ちかねていたかのような声が響いた。そしてその声は間髪をいれず喋り始めた。
「あ、あの!松野さんですね?僕、……ともうしますが」
「……え?」
知らない声だった。少年……、高校生位の少年の声に聞こえる。名前が聞き取れなかった。聞き返そうとしたが電話の主は俺にその間を与えず、一気にまくしたてた。
「とつぜんお電話してすみません!あの、その、僕、じゅうようなお話があって!どうかきいてください」
相手は日本語で話している。だが、時々どこか不自然なイントネーションがあった。流暢に話せる外国人のようだが、俺が今までに聞いたこともないアクセントだった。
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お、なんだなんだ?平野は多少疲れてきた指にも関わらず、ものすごい速さでキーボードを叩きながら同時に読み、この先の展開に期待をふくらませた。
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……あれ?なんか急展開してきたぞ。電話してきたのは誰だ?ていうかこんな展開俺は考えてなかった。うーん。キャラクターが勝手に動いてストーリーを創る。創作の、理想的な形だ。俺はうんうんと一人頷いた。
多少おこがましい考えだが、やはり俺にも、それなりに才能ってやつがあるのかもしれないな……。
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「あ、あの」
突然の、覚えのない相手からの電話。俺はすっかり目が覚めた。
「あの、それで、話というのはですね。あの、松野さん、きいていらっしゃいます?」
どうも電話の相手は、極度に緊張しているらしい。
「あ、はい。聞いてますが。あの、失礼ですがどちら様」
「すみません!!僕のにほんご、ききとりづらいでしょうか?まだ勉強中でして、あまりうまくないもので……すみません」
言葉は良いのだが、どうも会話のテンポが不自然だ。しかし、やはり外国人か。それで納得した。俺は丁寧に返事をした。
「いえ、大丈夫です。とてもきれいな日本語でお話されてますよ」
「あ、ありがとうございます!」
電話の声だけで、ひどく嬉しそうな様子が伝わってきた。俺は黙って相手の話の続きを待つことにした。おそらくセールスか何かなのだろうが。
「それで、あ、あの。ほんじつは、小説の件でお電話したわけなんです」
「……小説?」
「はい。松野さんが、ゆうべ書きはじめられた小説です」
……?なんだこいつは?
「あの、ちょっと。間違い電話じゃないでしょうか?何のことか僕にはちょっと分からないんですが」
話しながら俺は無意識に、テーブルの上でスリープ状態になっていたパソコンに手を触れた。スリープが解除される。
俺は目を見張った。画面上に、文字がびっしり入力されたファイルが表示されていたのだ。
何だこれは。俺はモニターの画面を眺めた。
昨夜は確か、ベータ版システムの動作チェックをしていたはずだ。そしてどうも作業中に寝入ってしまったらしい。何かの拍子に間違って関係ないファイルを開いてしまったのだろうか。
ええと、これは何のファイルだろう?
ページ上部には、大きめの文字サイズでカッコ書きのタイトルがあった。
「宇宙人小説家の陰謀」
何だこのふざけたタイトルのファイルは……?
「松野さん?」
電話の声で俺は我に返った。
「あ、はい、すみません。ええと、それで小説の件という事ですが……」
言いながら、俺は目の前のファイルを眺めた。
……小説?まさかこれの事か?
情けない事に、俺はすっかり混乱していた。
「すみません、どうもお話がよく分からないんですが……」
「はい。ごもっともです。どうも、もうしわけありません。ご説明します!」
電話の相手が、軽く息を吸い込むのが分かった。
「僕、治安維持局のほうからお電話しております。ある人物が、そちらでなんらかの陰謀をたくらんでいるらしいという情報を入手しまして、ちょうさをおこなっていたのですが、それに松野さんがまきこまれているという事実がわかりましたので、とりいそぎご連絡したわけなんです」
……?一体何なんだ、これは。陰謀?俺が巻き込まれる?
しかし電話の相手は、俺の返事を待たずにたたみ掛ける。
「本来であれば治安維持局の担当官がおうかがいして対応させていただくんですが、なにしろこちらは遠方なので……。しかし事は急を要しますので、ともかくお電話させていただいたんです」
「え、ええ、はあ。それで……?」
「小説のつづきを、書かないでください」
……は?
続きを書くもなにも、俺が小説なんか書くわけがない。この俺が。
一体何なんだ、この電話は。
「いいですね、もうぜったいに、つづきを書かないでください。でないと、おそらくたいへんな事態になります。ことによると、手遅れになってしまうかもしれません。ですから……」
プツッ。俺は電話を切った。馬鹿馬鹿しい。朝っぱらから。下らないイタズラ電話だ。
俺は溜息をつき、ルームサービスで朝食とコーヒーをオーダーするために立ち上がった。
シャワーを浴びてからテラスに置いたテーブルでゆっくりと朝食を取り、食後のコーヒーを楽しんでいる間、ふと、さっきのファイルの事を思い出した。何なのだろう、あれは。
俺は片手にコーヒーカップを持ったまま、ノートパソコンを置いたテーブルに戻り、ファイルに目を通し始めた。
それは一種の小説だった。主人公は一人の小説家だ。彼は、陰謀を企む宇宙人から発信される電波に操られ、ある小説を書く。自分が陰謀に巻き込まれているとは気づかないまま……。
俺は普段、フィクションの小説などは読まない。そういったものは時間の無駄だと思っている。読書というのは、何らかの知識を身につける為にするものであって、実利のない本を読む人間の気持ちが俺には理解できない。
だが俺はふと思った。今は休暇中だ。たまには時間を浪費するのもいいかもしれない。普段読まないだけに、その小説はひどく新鮮なものに感じられたのだ。何気なく、俺はそのファイルを読み進めていった。
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いるいるいるこういう奴!平野は一人で勝手に憤った。読書の楽しみを知らない奴。可哀想だよなあ。平野はちょっとした優越感に浸った。
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俺も同感だ平野!作家として、こういう人間の存在は寂しい限りだ。本は、知識を得るためだけのものじゃないんだ。そうだよな平野。
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主人公の小説家は、天然というか、マイペースというか、俺とは対局にあるような人間だ。好きに生きている。周りに何と思われようと気にしない。頭の中は小説の事でいっぱいだ。金銭欲や名誉欲があまりない所は、少しだけ田口を思い出させる。読み進めていくうち、俺はだんだん、この主人公にひどく苛立ち始めてきた。あの少女と、主人公が重なった。気楽で幸せな奴らだ。ただひたすら好きな事に邁進する人間。何の計算もなく。……どうしてそんな事ができるのか。俺には全く理解できない。
――だが。俺はうっすらと思い出していた。かつての俺を。俺だって、あの頃はそうじゃなかったか。俺を取り巻く人生が一変した、あの時までは。
……もし俺が、あのままだったら。今頃俺はもしかして、この主人公のような人生を送っていたかもしれない。好きなように生きる人生。もし別な人生を選べるとしたら、俺は、今の俺にある地位や金や権力を捨て、そんな人生を選ぶだろうか……?
だがしかし、小説は途中までで終わっていた。俺はモニターの画面をスクロールしてみたが、ファイルのその先は白紙になっている。
何となく……何かが……、俺に、その先を書いてみたいという気まぐれを起こさせた。そう、違う自分になったつもりで……。
俺はほとんど無意識に、キーボードの上に手を乗せた。
――その時だ。さっきの電話の声が頭に響いた。
「続きを、書かないで下さい」
俺は一瞬ぞっとして、キーボードに乗せかけた手を止めた。
まさか、さっきの電話で言っていたのは、これの事なのか?
馬鹿な。俺が小説を書くなんて、予言者でもなけりゃ言い当てられるはずもない。しかし何となく、俺はためらった。
だが……。俺の中に、書いてみたいという衝動が沸き起こっていた。それは、俺の、違う人生を覗いてみたいという願望だった。あの時、もし違う道を選んでいたら。違う俺になっていたら……。
ピイィィィィーーー……ン…………
低く微かに、どこからか響く電子音……。
「あああ!ダメです!書いちゃダメーーー!!」
どこか遠くから声が聞こえた気がしたが、それはフェードアウトしていった。
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トントントン。
軽くドアを叩く音に、平野はビクツとして飛び上がった。すごい速さで振り返ると、そこには妻が、逆に驚いた顔で立っていた。
「お客さんが見えてるわよ」
「……客?」
妻が、居間にその客を通してきた。かなり小柄な男だ。平野はそんなに身長が高い方ではないが、その平野よりさらに10センチくらいは低いだろう。グレーの春物コートの胸元から、やはりダークグレーのネクタイとスーツ、そしてそれより幾分か明るいライトグレーのシャツの襟元が覗いている。かなり目深にかぶった黒に近いグレーの帽子の下からは、色白の頬と、異常に大きい黒目がちの瞳が平野を真っ直ぐ見つめていた。
……宇宙人!?
平野の頭に、咄嗟にそんな考えが浮かんだ。
思わずそんな連想をしてしまい、平野は吹き出しそうになるのをこらえた。
……小説のせいだ。
「あ、どうも、はじめまして。とつぜんお伺いしてすみません。あの、僕、ᐄᐁᒃᒁΘΘΩの方からまいりました」
男は突然、早口の甲高い声で切り出した。
「……え?」
どこからだって?早口でやたら長ったらしい言葉を言われて、平野は聞き取る事ができなかった。しかし平野の戸惑いを無視して、男は続けた。
「本日は、あの、ご承知かとおもいますが、例の件でおうかがいしたんです。お時間よろしいでしょうか」
男は丁寧な言葉づかいで話しつつ、平野に名刺を差し出した。平野は何の事やら理解できないまま、差し出された名刺を反射的に受け取った。そしてそれに目を落とすと、仰天してしまった。
ほとんどの部分は、印刷が潰れているような、怪しげな文字らしきものが羅列されているだけで読み取ることができない。そもそも日本語の文字なのかも判別がつかない。ロシア語の文字か何かのようにも見える。しかし、中程に唯一読み取ることの出来る部分があり、そこにはこう書かれていた。見覚えのない奇妙なフォントで。
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ヱᐄᐁᒃᒁヰΘΘΩᐴᐶᒠΣσЯ⊿
ᓰöðכףख़ᐇᐉᐘᒌᐕᒤᒥਔאװᐶᑔᗖᐴᒶᐹᑝמםכצץן
ሂሌਗझञᘲᐰᑙᙠᙡमबᑠᑤᑮᐏᐗफऩᏍᏎᐃᐄᑁᑃ
ᗑሄህቓቝልሌᏑᏫᏩᏪᐶ うちぅジん
ᗠᘅᗚᗼᗵᗄᗱᐸᑄᐱᑂ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
平野は二度、見なおした。だが間違いなくそこにはそう書かれていた。
うちぅジん……。うちゅうじん。宇宙人。宇宙人!?
そんな馬鹿な。いやでも、グレーは宇宙人のいわばシンボルカラーだ。この男は見るからに、まるで……。だがしかし、わざわざご丁寧に「宇宙人」と書かれた名刺持参で、玄関のチャイムを鳴らして訪ねてくる宇宙人なんて聞いた事がない。普通ほら、何かに乗って上から降りてくるもんだろう。光ったりなんかして。それで人間をさらっていったりとか、とにかく何か傍若無人な振る舞いをするもんだろう……?
平野の妻がお茶を出しに来た。訪問者と向かい合ってソファにかけ、その嗅ぎ慣れた良い香りを吸い込んでいるうち、平野の頭がようやく働き始めた。
ちょっと待てよ。これはいわゆる訪問販売詐欺ってやつじゃないのか。そういえばネットで見たぞ。「消防署の方から来ました」とか言って、言葉巧みに、年配者に高価な消火器なんかを売りつけるあれだ。そうか。それならまだ納得がいく。
しかし、詐欺師がこんないかにも怪しまれそうな格好をしているものだろうか。普通、詐欺師というのは、いかに善人に見せかけて相手を騙すかが腕の見せどころなんじゃないのか。しかもあの、わけのわからない名刺。
「あ、あの、どうぞ……」
平野は半ば恐る恐る、客にお茶受けの和菓子を薦めた。
「あ、これはわざわざどうも。恐縮です」
男はグレーの帽子を被った頭をペコリと下げ、まるで首から上だけ動かすような不自然なお辞儀をした。
「あ、いえ……その……はあ」
平野も思わずつられてしまい、訳の分からない事をモグモグとつぶやきながら、ペコリとお辞儀を返した。男はさらにペコペコと何度かお辞儀を繰り返したが、その時になって帽子を被ったままだった事に気づいたのか、慌てて帽子を取った。それで平野は初めて、その男の顔をよく観察する事ができた。
男の顔はまるでどこか子供のようにも見えた。何を考えているのか読み取りにくいが、それでいて人好きのするような不思議な顔だ。特徴的なのは、かなり黒目がちな大きな丸っこい瞳だった。ずいぶん若いようだ。まだ20代前半……いや、事によると10代のようにすら見える。少年と言った方が似つかわしいようだ。それとも、その瞳のせいで童顔なだけなのだろうか。
少年は和菓子をまじまじと見つめている。その瞳が、心なしかさっきより大きく開いているようだ。
「あの、ところで今日はどういったご用件でしょうか……」
ともかく沈黙を破るために、平野は自分から切り出した。和菓子を見つめていた少年は、その言葉ではっと我に返ったかのようだった。姿勢を正し平野の方に向き直ると、
「ああ、どうもこれは失礼しました」
と、慌てて茶碗をテーブルに置いた。
「本日は例の受信の件でおうかがいしたわけなんです」
「……受信?」
平野は一気に気が抜けてしまった。
なんだ、NHKか。
そうか。あの名刺の「宇宙人」っていうのは、ちょっと変わっているけど、きっとNHKに受信料の回収を委託された業者か何かの社名なんだろう。ようやく訳が分かって、平野はほっとした。
「申し訳ありませんが、そういうのは全部妻に任せておりまして、私ではよく分からなくて。ちょっと今呼びますので……」
ソファから立ち上がりかけた平野を、自称「宇宙人」は、おかしな顔でぽかんと見つめた。
「あ、あの。ええと。奥様ではなくて……。平野健一さん……で、まちがいないですよね。平野さんがいま現在受信しておられる、小説の電波の件なんです」
今度は平野の方がぽかんとする番だった。
何を言っているのだこの男は。やっぱり詐欺か何かなのか?
平野と「宇宙人」の少年は、お互いにまじまじと見つめ合った。話が噛み合っていない。
だがしかし、彼は平野と違う事を考えていたようだ。
「あの、すみません。僕やっぱり、どこかへんでしょうか?」
「えっ?」
想定外の質問に、思わずマヌケな声で返事してしまい、平野は急に恥ずかしくなった。そしてその質問の意図が、平野があまりに相手を不躾に眺め回していたせいだと気づいて、思わず相手から目を逸らし俯いてしまった。
「お伺いするまえに、いろいろとこちらの習慣を本でしらべて、失礼のないように気をくばったつもりなのですが……。なにぶんまだ来たばかりでなれていませんもので、お気にさわる事がありましたら、もぅしわけありません……」
「ああ、そうだったんですか」
平野は呟いた。なるほど、それで、この不思議な顔立ちと雰囲気も納得だ。外人さんだったのか。そういえば流暢に話すので気がつかなかったが、アクセントに少し不自然なところがあるし。きっと苦労人の留学生か何かで、アルバイトして生活費をまかなっているんだろう。ジロジロ見たりして失礼な事をしてしまったと、平野は申し訳なく思った。
少年はスーツの胸ポケットから一冊の本を取り出してパラパラとめくり、中の文章を読み上げた。表紙には、「にほんのせいかつガイドーKONNICHIWA JAPAN!」と、書かれている。
「『初対面の時は最初に、氏名等を記入した、名刺と呼ばれる小型のカードを渡す。この際、ペコペコと何度もしつこいほどお辞儀を繰り返すこと』とあるので、そのとおりにしたつもりなんですが……」
心なしか肩を落としている少年に、平野は慌ててフォローした。頑張っている外人さんに、失礼な態度が原因で、自信を無くさせてしまったらいけない。
「いやいや、大丈夫ですよ。きちんと礼儀正しく出来てます。大丈夫です!」
「本当ですか?よかった」
宇宙人の顔に笑顔が広がった。笑うと、どこかあどけない、少年らしい顔つきになった。
「ところで……。さっき何か受信がどうとか仰っていたと……」
平野は再び話を戻した。
「はい。そうなんです。結論からいうと、平野さんの身に、きけんがせまっているんです。僕はそれを警告しにきたんです!」
茶碗を口元に運ぼうとしていた平野の手が、思わず止まった。平野はそのままの姿勢で、あまりの事に何と言ったら良いやら分からず少年を見つめた。
「き、危険……?」
「はい。小説、書かれてますよね、いま。宇宙人小説家から電波を受信して。すぐにやめてください。でないと、なにがおこるかわかりません」
少年は真剣な表情で言った。平野は驚愕した。なんでこの少年が、俺が今日書き始めたばかりの小説のことを知っているんだ?
「えっ……、ちょっと待って下さい。えっと……。何で小説の事知ってるの?それに宇宙人小説家とか電波とかってどういう事ですか?」
平野はすっかり混乱していた。だが少年はあくまでも冷静だ。
「もちろん知っていますよ。ただ、治安維持局のほうでも宇宙人小説家がなにかの陰謀を企んでいることはつかんだんですが、その内容とか、こまかいところまではわからなくて。ですからいっこくもはやく、なんらかの被害がでるまえに、小説を書くのをやめてもらわないといけないんです。こちらに来るまえに、松野さんに電話でおねがいしたんですが……」
少年は溜息混じりに言った。
「ご存知のように、きき入れてもらえなかったので。こんどは平野さんにお会いして、直接おねがいしようとお伺いしたんです。平野さんが書かなければ、必然的に、松野さんも書けませんからね」
「…………!」
あまりの事に、平野は絶句してしまった。
とにかく、続きを書かないように。男は何度も念を押し、呆然としたまま「はあ、はい、どうも」などと繰り返すしかできない平野を置いて帰って行った。
一人リビングのソファに腰掛けた平野は、ずいぶん長いこと呆けていた。
平野はあまり機転の効く方ではない。が、そんな平野にも、自分が何かとんでもない事に巻き込まれているという事だけは分かった。さもなければ、頭がおかしくなったのか。
……考えてみれば、そもそもおかしな事だらけだ。小説を書くなんて今まで考えてもいなかったのに、さっきまでまるで何かに取り憑かれたように書いていた。昨夜もおそらくそうだったのだろうが、全く記憶が無い。
……とにかく、もうやめだ。気味が悪い。
平野は、さっきまで入力していたファイルを閉じてしまおうとパソコンに向かった。
平野の視線がふと、文章の最後の部分に止まった。
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……それは、俺の、違う人生を覗いてみたいという願望だった。あの時、もし違う道を選んでいたら。違う俺になっていたら……。
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平野のマウスを握る手が止まった。
違う自分、か……。
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ピイィィィィーーー……ン…………
低く微かに、どこからか響く電子音……。
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平野はほとんど無意識に、両手をキーボードの上に差し出した……。だが、ちょ、ちょっと待て!思わず手を止め、心の中で自分自身に語りかけた。
……分かってるのか?このまま書き続けてしまったら、大変な事が起こるかもしれないんだぞ!さっきそう言われたじゃないか!
松野が書くのを止めないなら、俺が止めないと……。
だが、平野には、松野の事が少し理解できる気がしていた。違う自分になってみたいという松野の思いは、まさに平野と同じだったからだ。これまで歩んできた人生も何もかも自分とは違う松野が、自分と同じような空想を胸に秘めている。そう思うと平野には、何だかこの松野真司という人物が、まるで昔から知っている友人のように感じられた。
平野は呟いた。
松野の好きにさせてやっても、いいじゃないか。
平野の太い指が、驚くほど滑らかに、素早く、キーボードの上を動き始めた。
ピイィィィィーーー……ン…………
低く微かに、どこからか響く電子音……。
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