第3話 松野真司

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 オフィスへ向かう途中、いつものカフェでいつものコーヒーをテイクアウトした。俺はコーヒーにはうるさい方だ。ここのコーヒー豆はオーナー独自のルートで買い付けられ、彼の長い経験で培った独特のテクニックを駆使して客に提供される。朝はここのマンデリンを飲まないと、一日が始まった気がしない。

 オフィスに着くと、社長室の、都心を一望する一面ガラス張りの壁際に置かれた椅子にかけ、ゆっくりと朝のコーヒーを楽しむ。高層階にあるこのオフィスからガラスを通して見下ろし、道行く人々を眺めるのが俺は好きだ。いつも、「俺は自らの力でここまで来たのだ」という誇らしい気分にさせてくれる。

 まだかなり早い時間だというのに、通りは出勤する人々で埋め尽くされていた。この辺りには外資系企業が多い。つまり、結果を出せない人間は容赦なく切り捨てられる、厳しい世界で戦う人間が多いという事だ。自ずとモチベーションも高くなる。俺が数年前、起業するに当たってこの立地を選んだのは、それも理由の一つだった。人間というのは周りの環境に大きく左右されるものだ。志の高い人間に囲まれていると、自らも自ずとそうなる。逆もしかりだ。俺は常に、人生に対して意識の高い人間の中にいたいと思っている。

 俺はコーヒーの最後の一口を飲み干すと、デスクに向かった。

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 何だこれ。小説かな。平野は立ったままマウスで軽くスクロールしつつ首をかしげた。昨夜はいつの間にか寝入ってしまったらしいが、寝ぼけてどこかのサイトでもクリックして、ダウンロードか何かしてしまったんだろうか。タイトルからすると、SF小説かな。そんな事を考えながら、平野は何気なく椅子にかけた。

 ……面白そうだな。この主人公、カッコイイな。なんか俺の好みのキャラクターっぽいぞ。

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 えええええええ!?そうかあ?面白そうか!?おい平野。プロの俺から言わせりゃ、こういう、主人公が朝出勤するところから始まる書き出しとか最悪だぞ!?それにこの主人公、なんか嫌味な、意識高い系勝ち組オシャレ野郎……。俺は正直嫌いだし、こういうキャラクターは読者の共感を得にくいぞ。平野、お前の理想ってこういうのなのか……。

 なあにが、「朝はここのマンデリンを飲まないと、一日が始まった気がしない」だ。今どき陳腐するぎるぞ、それ。平野、お前よく平気だなあ。俺はダメだ。痒くなる。

 俺はちょっと乱暴にキーボードを叩き続けた。


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 デスクの上には、朝のうちに目を通さねばならない書類が山のように積まれている。それと、今日は雑誌が一冊置かれていた。俺はその雑誌を手にとった。ああ、あれか。

 それは先日取材を受けたビジネス誌だった。「オンライン学習ビジネスの革命児・松野真司氏に聞く、ベンチャーの未来」というタイトルで、俺の会社が特集されている。出版社が送ってきたのだろう。

 俺はパラパラとページをめくった。うん、写真も中々良く撮れているし、独自システムにより安価なオンライン学習サービスの提供を可能にした経営についても、良くポイントを突いた記事になっている。

 書類にひと通り目を通した後は、技術部との打ち合わせだ。うちで提供しているオンライン学習システムの、次期アップデートについて。

 打ち合わせの結果、アップデートの準備も、その他の現在進行中プロジェクトも、思いの外順調に進捗している事が分かった。もっとトラブルがある事を想定していたのだが。

 議事が一通り終わった後、スタッフは会議室からぞろぞろと出ていった。俺も軽く伸びをしてドアに向かおうとした時、ふと、大きなガラス張りの窓を通して、雲一つ無い青空が目に入った。良い天気だ。はるか遠くに富士山が霞んで見える。

 たまには緑の多いところで、ゆっくり休暇を楽しむのもいいな。俺の頭にふとそんな考えが浮かんだ。プロジェクトは思いの外順調だし、会社もだいぶ軌道に乗ってきている。通常の運営だけであれば、安心して任せられる部下も幾人かはいる。今のうちに、まとまった休みを取っておくのもいいかもしれない。

 例の件に本格的にとりかかる前に、そうしようか。あれをスタートさせたら、おそらくまた数年間は、数える程の休日しか取れない生活が始まるだろうし。

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 都心の高層ビルのオフィスに、雑誌の取材。大きなプロジェクト。忙しくも充実した生活。こういう男を、いわゆる勝ち組っていうんだろうな……。平野は溜息をついた。きっと休暇といっても、自分のように家族で海水浴と温泉なんてのとは違って、豪勢なんだろう。なんか、海外の高級リゾートとか。平均的年収で三人の子供を抱えた平野には夢のまた夢だ。平野は何となく劣等感を感じた自分に思わず苦笑した。小説の中の人物に劣等感を感じるなんて。だが平野は気づいた。この松野真司は、松田を思い起こさせるのだ。だから、読んでいて少し複雑な気分になる。読むのをやめようか。そもそも、このファイルは一体何なんだろう。

 だが根っから活字中毒の平野は、いったん読み始めるとどうにもやめられない。だからいつも夜更かしをして寝落ちしてしまうことが多いのだ。

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 なんかお前って……、反応が素直な奴だな、平野。ここまで作者の意図通りに拾うか普通。ていうか、活字なら何でも良いっていうタイプの本好きだろ、お前。俺は平野に語りかけた。読者がみんな平野みたいだったら楽なのに。俺はふふっと鼻で笑った。実際、書いているうちにだんだん平野に好感と親近感を持つようになってきていた。

 それにしても、普通の男ってのはこんな事で劣等感を感じるもんなのか。俺には良く分からない。頭では何となく理解出来るが、どうもピンと来ない。俺だって何とか食えている程度の物書きで、休暇で高級リゾートなんて別世界の話だし、営業の仕事はクビになったし、風呂には中々入らないし、実家は群馬で自転車屋を営んでいるけど、別にそれで松野真司のような人間に対して劣等感は感じない。だいたいこういう向上心の強い人間の生活は、大変そうだしな。

 それとも、結局のところ俺は好きな事をして生きているから、こういう人間を羨ましく思ったりしないのだろうか。


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腕時計を見るとちょうど昼時だったので、俺はまだ会議室に残っていた技術部主任の田口に声をかけた。

「おう、昼飯行かないか。ちょっと例の件の話もしたいし」

「ああ、いいよ」

 田口は俺の小学校の時からの親友で、大学卒業後は有名家電メーカーに務めていたものを、今の会社を起業する際に口説き落として来てもらったのだ。一応会社では社長と従業員の関係なので人前ではそれなりな態度で接するが、人目が無い時には学生時代と同じように気さくに話せる間柄だ。立場上、それに性格上、心を許せる相手が少ない俺にとって、信頼できるごく少数の人間の一人で、かつ、技術者として尊敬している人間だった。昔からどうにものんびり屋というか浮世離れしているというか、出世競争や収入などにあまり興味がなく、ひたすらシステムをいじったり開発しているのが幸せという男だ。どちらかというとビジネスマンというより職人や学者気質で、俺とは正反対のタイプだった。だが、だからこそ、友情が続いているのかもしれない。


「あの件の話、ちょっとしたくてさ」

 中華料理店の個室に席を取り、オーダーを済ませるとすぐ俺は切り出した。長い付き合いなので、話す時に余計な前振りが必要が無くて楽だ。俺はせっかちなので助かる。

「どうだ、いけそうか?」

「うーん、そうだなあ」

 田口は俺と対照的に、その性格をよく表すようなのんびりとした話し方で答える。

「技術的には特に大きな問題はないかな。基本的には現行システムの応用なわけだし。ただ、いくつかクリアしなけりゃいけない点はあるけど、今の所は予定通りいけると思うよ」

「……そうか」

 俺の心に安堵感が広がった。

 ウェイトレスが前菜を運んできて、田口はすかさず大好物のピータンを頬張った。

「でもさ。よくがんばるよな、お前も」

 田口が丸っこい目をぱちくりさせながら俺の顔を眺めつつ言った。

「そうか?」

「そうだよ。だって仕事だけでも、お前、寝る間もないくらい忙しいじゃないか。なのにボランティアワークまでしようっていうんだから。すごいよ」

 裏表の無い性格の田口は、二つ目のピータンをモグモグやりながら、心底感心したという顔つきで俺を見た。

「まあ、ずっとやりたいと思ってた事だからな。一応、時期を待ってはいたんだけど、会社がもう少し大きくなったらとか色々言い訳し続けてると、結局やらないで終わりそうだからさ。思い切って今始めてみることにしたんだ。でないと、言い訳しているうちに一生終わるからな。そういう人間もたくさん見てきたし……」

 その時、自分の言葉が自分自身にフラッシュバックを起こさせた。頭の中に、ある映像が突如浮かんだ。

 狭いアパートの四畳半で、小さな背中を丸め、酒を飲む父親の姿。その映像はまるで昨日の出来事のように、今もありありと心に描く事が出来た。

 言い訳しているうちに一生を終えた父の姿。

 俺が幼い頃、家庭はかなり裕福だった。時はバブル全盛期。不動産で一山当てた父は、狂ったような金の使い方をしていた。いや、彼だけでなく、おそらく日本中がそうだった。そういう時代だったのだ。

 貧しい家庭に育ち、郷里から単身上京して一財産築いた父は、そのコンプレックスからか一人息子の俺を幼稚園から有名私立に通わせた。幸い生まれつき頭の出来が良かったのか、俺は小、中学校、高校まで一貫して成績優秀で人望もあり、輝かしい未来が約束されているような生徒だった。その先に何が待っているのか、まだ子供の俺には知るよしもなかった。

 俺の人生が一変したのは、高校生の時だった。バブル崩壊。不動産価格の急激な下落。父は、全てを失った。

 俺が育った豪邸のような家は処分され、家族での狭いアパート暮らしが始まった。俺の大学進学の道は閉ざされた。高校だけはなんとか卒業したものの、多額の借金を抱えた父を支えるため、卒業後すぐに働き始めた。そして間もなく、母が出て行った。

父は、再び新しい人生を構築することだってできたはずだ。今までとは違っても、家族三人、ささやかで幸福な家庭を作ることだって出来た。だが父はかつての成功に固執し、失ったものの大きさに打ちのめされ、言い訳し続ける事に残りの人生を費やしてしまった。バブルのせい。時代のせい。政治が悪い。貧しい家庭に生まれたせい。ろくな教育が受けられなかったせい。

 あんな風にはならない。俺は父の背中を見ながらそう思って生きてきた。失敗することも多かったが、その度、経験を活かしてさらに上を目指した。そしてとうとう、この都内一等地の高層ビル最上階にオフィスを構えるまでになったのだ。

 父親や自分と同じ様に高等教育の機会を持てなかった子供達に、チャンスを与えたい。俺が主に東南アジア地域でビジネス展開をしている中で、都市部とは別世界のように貧しい地方の姿を目にする機会が多くあった。そういった地域では、児童労働すら今だに珍しくない。そんな場面を幾度となく目にするうち、現行の自社システムの応用で、遠隔地であることや貧困が理由で学校に通えない子供達にオンラインで教育の機会を与える、というアイデアを思いついたのだ。

 もちろんビジネスにはならない。なので田口にはあくまでも個人的に、技術的な面でのサポートを頼んだのだ。

「うん、出来る限りの協力はするよ。本来の業務があるし、その傍らって事になるけど」

「ああ、助かるよ。ありがとう」

 ウェイトレスが、メインの料理を運んできた。気の合う俺達は、しばし、無言の時間を楽しんだ。

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 そうか……色々苦労したんだな。この主人公は。それなのに社会貢献もしようなんて。偉い。カッコイイなあ。

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 デキる男にも色々悩みはあるもんなんだな。きっとこの松野という奴は、少し疲れているんだろう。そしてそういうところを、ふとした瞬間に宇宙人につけこまれたんだ、きっと。それにしても松野真司は嫌味な奴だけど、やっぱり志が高いんだな。ボランティアワークか。俺には真似出来ない。俺はちょっとだけ松野を見直した。


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 食後に出された中国茶を飲みながら、ふと、俺の口から思い出したように言葉が漏れた。

「違うんだよ」

 俺は軽く溜息をついた。

「俺は、ただ単に見返してやりたいんだ……」

 父がまだ景気の良かった頃には、美辞麗句を並べ立てて擦り寄ってきていた人々。バブル崩壊と父の転落と共に、手のひらを返したように見向きもしなくなった。

 高校の友人達。皆、俺の父親のような成り上がりでなく、由緒正しい、いわば「正統派富裕層」とでも言うべき家庭の子供達だった。あくまでも礼儀正しく俺に接しながらも、ゆっくりと距離を取っていった。それは氷のような冷たい拒絶だった。いっそ声に出してからかい、馬鹿にしてくれた方がよっぽど良かった。それならばまだ、怒りのやり場があったものを。世の中とはこうも残酷なものかと、17歳の俺は学んだ。その徹底的な残酷さは、怒りや悲しみのやり場すら残してくれない。

 やり場のない思いを、俺はひたすらのし上がって行くことに向けた。二十歳そこそこで始めたフランチャイズ飲食店の経営を皮切りに、様々なビジネスを経て、ここまで辿り着いた。ボランティアの事も、子供たちのためなどではなく結局のところ自分のエゴなのかもしれない。「俺はここまでの事ができる人間になったんだぞ」と、あいつらに上から言ってやりたいだけなのかもしれない。

 俺は今も飢えていた。何かが乾き、満たされなかった。しかし俺にはそれが何かは分からなかった。心のなかに穴が開いていて、そこを風が吹き抜けてゆく。三度の結婚でもその穴は埋められる事が無かった。焦り、飢え、それを埋めてくれる何かはどこにあるのか。金は、一時その空白を埋めてくれる。女も、時々。それと、人の賞賛と注目、名誉。

 だが俺には、それらは一時の鎮痛剤のようなものでしかないという事がうっすらと分かっていた。心の穴を完全に塞いでくれるものではない。だがどうすれば良いのか、俺には分からなかった。分からないまま一時の鎮痛剤に身を委ね、がむしゃらに働いていた。

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「あ、あれ?」

 平野は慌てて、画面をスクロールさせた。が、しかし、小説はここで止まっている。ファイルのこの先は、真っ白だ。

「せっかく、いいところなのに!」

 平野は肩透かしを喰らった気分で、マウスから手を離した。がっかりして画面を眺める。

 続きが気になる。面白そうな小説なのに……。

 しかし、不思議な既視感が平野の胸にこみ上げた。何か、この続きを知っている気がするのだ。

「前に読んだことがある小説だったかな……?」

 平野は首をかしげた。何気なく、手がキーボードの上に乗る。

 ピイィィィィーーー……ン…………

 低く微かに、どこからか響く電子音……。

 平野の目つきが変わった。手が、最初はゆっくりと、そしてだんだん早く、最後にはすさまじい速さでキーボードを叩き始めた。

 5歳の末っ子は一瞬テレビのヒーローから目を離して、背を向けた平野を不思議そうに見たが、その視線はまたすぐにテレビに戻って行った。


 平野は、一心不乱にキーボードを叩き続けた。妻が起き出して来、ずいぶん早起きなのね、お仕事?と声をかけた。が、平野はそれに生返事をしただけで、パソコンの画面から一瞬たりとも目を離さなかった。それほど、集中していたのだ。平野の妻は、急ぎの仕事でもあるのだろうと勝手に納得し、邪魔をしないよう子供たちを居間から遠ざけた。

 午後になっても、電波は一向に送信完了の気配を見せなかった。操られているとは言っても、平野は、自分の意識を完全に失っているわけではなかった。ただ、自分の指が自分にはあり得ない早さで勝手にキーボードを叩き続けている事に、疑問も感じなかった。平野は、自分が確信を持って書いてはいるものの、ストーリーがその先どうなるのか全く知らなかった。なので彼は、鈍った意識の底で、まるで一読者のように、自分自身が今まさに書いている小説の展開をワクワクしながら楽しんでいた。

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 ふふ。その調子だそ平野。がんばれ。何しろお前が小説を書き進めてくれないと、俺の原稿も上がらないわけだからな。


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 この島を訪れるには良い時期だ。数時間のフライトを終えて飛行機から降り立った俺は、思い切り背を伸ばし、良く晴れた青い空を眺めた。

 マレーシアの北に位置する小さなこの島は今、乾季の終わりに近づいている。東京より空が高く見えるのは何故なんだろう。俺は南国の湿った熱い空気を胸に吸い込んだ。俺はこの独特の湿気が好きなのだ。

 一週間の休暇なんて、一体何年ぶりだろう。ホテルにチェックインを済ませ部屋に入った俺は、広いテラスに出る両開きの窓を思い切り大きく開け放った。部屋は一階にあるが、ホテルが高台に建っているので海まで良く見渡せる。

 一週間ここでのんびり休暇を楽しみ、リフレッシュしよう。そして帰国したら、システムのアップデート、進行中のあのプロジェクト……。それに例の計画に本格的に着手する。

 俺は部屋に備え付けの冷蔵庫からビールを取り出すと、テラスの手すりに腰掛けてそれを味わった。南国で飲むビールはなぜこうも旨いのか。

 テラスの外は、ホテルの中庭になっていた。テラスから見渡すと、よく手入れされた色とりどりの花々が目を楽しませる。少し離れた所には噴水があり、吹き上げる水が優美な曲線を描いていた。

 その時、ふと、噴水のヘリに腰掛けている少女に俺の目が止まった。

 12、3歳位だろうか。高級リゾートホテルに似つかわしくない、とても貧しい身なりの少女だ。どこから入り込んだのか。それとも、従業員の子供だろうか。

 視線に気づいたのか、少女がいきなり振り向いた。俺と少女の目線が合った。

 少女は立ち上がり、小走りにこちらに寄ってくる。

 ……しまった。物乞いだ。

 東南アジアでの経験が長い俺は、子供の物乞いに物をやってはいけない事を心得えている。一度やってしまうと、子供は仲間を連れてくる。そしてその子たちに物をやると、また仲間が……。きりがないのだ。悲しい事だが、こういった子供達に手を差し伸べるには、もっと根本的な何かが必要なのだ。

 俺はさり気なくテラスを離れて部屋に入り、テラス向けて開いたガラス戸を閉めた。手にしていたビール瓶を部屋の中央にあるテーブルに置くと、ガラス戸を振り返った。

 少女はそこに立っていた。すばらしく大きな、黒目がちの目。少女は肩から大きな平たいカバンを下げている。少女はみすぼらしいそのカバンからゆっくりと紙を取り出すと、それを両手で支えてこちらに向けた。俺はそこに描かれた絵に思わず目を注ぎ、驚愕した。

 これは本当に、こんな小さな女の子が描いた絵だろうか。そうであれば、この少女は天才だ。

 そこには、南国の美しい鳥が見事に描かれていた。太い樹の枝に止まり、小首をかしげて振り返るような仕草でこちらを見ている鳥。鮮やかな虹色の身体と、長く優美な金色に輝く尾羽根。そしてその鳥の瞳は、少女の黒目がちの瞳にそっくりだった。もの言わぬ絵の中の鳥の、雄弁な瞳。華やかな色彩のその翼とは対照的な、悲しみと憂いを湛えた漆黒の宝石のような瞳……。

 俺はしばし物も言わずその絵に魅せられていた。しかしやがて窓の所までゆっくり歩いて行くと、ガラス戸を少しだけ開けた。途端、少女の顔に花のような笑顔が広がった。俺は片言のマレーシア語で、少女に話しかけた。

 少女は、こうして時々高級ホテルに忍び込んでは、自分で書いた絵を売って歩いているのだと悪びれもせず答えた。

 俺は彼女に絵の値段を聞いた。少女は屈託のない笑顔で、日本人の俺にとっては切なくなるほどのささやかな金額を答えた。仮にその10倍払ったとしても、まだ、失くしても惜しくない程度の額だ。だが明らかに、この少女の家庭の生活をいくらか支えるであろう金……。

 だが俺は、彼女の要求しただけの金額を支払い絵を買った。それ以上には渡さなかった。この少女は物乞いではない。小さな芸術家だ。

 嬉しそうに礼を言う少女に、ホテルの従業員に見つかる前に帰りなさい、もう来てはいけないよ、と伝え、俺は窓を閉めた。立ち去る少女の背中をずっと見送り、あの才能ある少女がいつか正当な教育の機会と、せめて最低限の衣食住が整った環境を得られる事を願った。

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 ううっ、と平野は喉の奥をつまらせた様な声を上げた。自らも父親である平野は、こういう話には非常に弱い。


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 ソファにゆったりと腰掛けると、俺は、たった今買った少女の絵を広げて眺めた。美しい絵だ……。そして悲しい絵だ。

 そこに描かれた鳥の顔は、俺に、いつまでも、あの少女を思い出させるだろう。

 俺はほとんど無意識に、さっきソファの脇に置いた手荷物からノートを取り出した。仕事上のメモなどを取るためのノートだ。まだ何も書いていないページを開くと、俺はビールを一口飲んだ。楽な姿勢でソファに寄りかかりながら、俺は、ビールが回ってほろ酔い気分になってきたせいもあり、楽しい気分でノートの上にペンを走らせた。あの少女の顔をスケッチしたのだ。

 高校時代まで、なんの苦労もない裕福な家庭のお坊ちゃんから借金を抱えた極貧家庭の息子に変身するまで、俺は小学校の時からずっと美術部に所属していた。いくつかコンクールで入選した事もある。まだ裕福で、大学進学を当たり前の事と思っていた頃には、美大に行こうと考えていた。

 子供の頃の俺は内向的で消極的で、一人で絵を書いているのが好きな地味な子供だった。人と争う事が嫌いだった。

 俺は自嘲するかのように、ふっと鼻で笑った。今の俺しか知らない人間は、この俺がそんな子供だったなんて信じられないだろう。だが変わったのだ。俺は。

 親父のようにはならない。俺を馬鹿にした奴らを、いつか見返してやる。そのためには、絵など書いている場合ではない。俺は現実的な人間になった。

 俺ははっと我に帰ると、手元のノートの落書きを見つめた。無意識に描いた少女の顔がこちらを見つめている。その無垢の瞳に俺は何かいたたまれなくなり、ページを切り取るとクシャクシャに丸め、ゴミ箱に放り投げた。紙くずはゴミ箱の淵に当たってぽんと飛び跳ね、床に転がった。

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……人にはそれぞれ、外からは見えない葛藤があるものなんだな。と、平野は首を傾げて考えた。こんな、松野のような成功者であっても。平野はキーボードを叩きながら、自分が松野に感じていた嫉妬や劣等感が少しづつ消えてゆき、代わりに親近感を覚え始めているのを感じとっていた。

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 俺と平野は同時にそれぞれの創作を進めていった。面白い位に筆が乗る。こんな感覚は久しぶりだ……。


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 翌日は朝からビーチで過ごした。砂浜の木陰でゆっくり本を読んだり、時々泳いだり。東京での忙しい毎日と比べると、夢の様な時間だ。昼時になったのでビーチから引き上げると、昼食を取るためにぶらぶらと街へ出た。適当に、良さそうなレストランを探す。東南アジアの食べ物は旨い。どこに入っても、それほど外すことはないので安心だ。

 俺はこじんまりしたオープンカフェの前で足を止めた。良さそうだ。ここにしよう。

 奥まった場所に席を取り、ぼんやりと通りを眺める。行き交う人々。観光客と物売り。――その中に、昨日の少女がいた。

 少女はカフェのオープンテラスのすぐ外側に立ち、通り沿いの席に陣取った観光客達に絵を広げて見せていた。だが、客達は冷たかった。あっちへ行けと手振りで追い払うか、完全に無視するかのどちらかだった。誰もが、この美しい島に似つかわしくない汚いものを見せられた、とでも言いたげな顔で少女を見ていた。

 俺の胸に、何か、熱いものがこみ上げてきた。それは憤りと言っても良い。少女を軽くあしらう見も知らぬ観光客達に、憎しみが湧いた。俺は、少女の姿と、かつての自分の姿を重ねていたのだ。

 絵が一枚も売れなかった少女は、足早にカフェの前から去って行った。


 午後は、街を観光がてらぶらぶら歩いて買い物をしたり、マッサージをしたりして過ごした。夕方ホテルに戻ると、クロークが、近くにある丘まで散歩してはどうかと薦めてきた。観光名所というほどのものでもないが、小高い場所にあって景色が良く、穴場だという。夕食前の散歩には絶好のコースだ、とクロークが言うので、俺は勧めに従ってその丘まで歩いてみることにした。

 丘の頂上からは、島のかなりの範囲が見渡せた。海岸線がくっきりと見える。俺は思い切り深呼吸した。南国の甘い香りの空気……。

 そしてそこに俺は、またしてもあの少女を見つけてしまったのだ。

 俺は苦笑した。いかにここが小さな島で、一度会った人間とまた顔を合わせることが不思議ではないと言っても、こうまで偶然が続くと、俺とあの少女は何か縁があるかのような気がしてくる。

 少女は座り込み、熱心にスケッチをしているようだった。横に置いたカバンから、何十枚もの紙の束がのぞいている。俺が傍まで行くと、少女は足音に気づいて顔を上げた。

 今日は絵は売れたかい、と俺は話しかけた。

 「ううん、ちっとも」と、少女は答えた。しかしその顔には、穏やかな笑顔が広がっていた。沈んでゆく夕日が、眩しくその笑顔を照らした。

 その瞬間俺は、何かとても、神聖なもの、尊いものを見たような気がした。

 貧しい、何も持たない少女。今日は絵は売れなかった。それなのに、なぜこの少女はこんな穏やかな顔で微笑んでいるのだろう。なぜこんなに……幸福そうに見えるのだろう。

 どうして、売れないのに書いているのかと俺は尋ねた。少女は、描くのが好きなのだと答えた。描いている時が一番楽しいのだと、無邪気そのものの笑顔で。

 俺にもそれは良く分かった。少女の絵からは、少女が愛情込めて描いていることが伝わってくる。

 俺は、自分が持っているものと少女が持っているであろうものを比べてみた。その差の大きさは……考えるまでもない。だがこの少女の笑顔は何なのか。なぜなのか。少なくとも、俺はこんな顔で笑えない。

 少女の描きかけの風景画を、俺は覗き込んだ。なんと美しいのだろう。素朴で、なんの虚飾もない絵だ。あるがままの自然の風景を写しとっている。俺は、この絵に比べて俺は、なんと多くの物を抱え込んでいるのだろう、と思った。

 なぜ俺は、好きだった事をやめてしまったのだろう。

 今の俺は、全て持っている。富も、名誉も、名声も。およそ人が羨むもの全て。でも、何かが欠けている。

 この少女は、何も持っていない。その「何か」以外。

 俺は全て持っているんだ。なのに、この空虚さは何なんだ。

 俺は打ちひしがれたような気分で、まだ絵を描き続けている少女を残しホテルに戻った。

 俺だって、そうしたかった。でも出来なかった。俺には他に、やらなければいけないことがあったのだ。だから……。

 おかしなことだ。俺は、あの少女に嫉妬していた。


 ベッドに身体を投げ出すと、仰向けに寝転がったまま天井をぼんやり眺めた。

 もし俺が。あの時、あのまま、好きな事を続けていたら。今頃ここに、どんな俺がいるのだろう。

 バカバカしい空想に、俺は思わず自分を嘲笑った。どうも、人間というのは暇だとろくな事を考えないらしいな。俺は起き上がってフロントに電話し、ルームサービスの飲み物と、それから煙草を頼んだ。

 煙草を吸うのは休暇中だけだ。普段は吸わない。百害あって一利なし。煙草を吸うのは、全く理にかなわない行為だ。だが今の俺は、何となく、理にかなわない事をしたい気分だった。

 ワイングラスを傾けながら煙草をくゆらせ、煙が天井にゆっくりと登っていくのを眺めた。こんな風にしていると、とりとめもなく、過去の事を思い出す。

「俺を見下した奴を、見返してやる」

 それが、長い間、俺の人生の目的だった。だが……。もしかして……。

 ちょうど、親父が過去の栄光に執着することに人生を費やしてしまったと同じように、俺は、他人からの羨望の眼差しを獲得することに人生を費やしてしまったのではないだろうか?何か大切なものを、切り捨ててしまったのではないか?ずっとずっと影のようにつきまとうこの空虚さは、そのためではないのか?

 俺の頭に、そんな考えが浮かんだ。 

 俺は空想してみる。違う俺を。

 ……下らない。

 俺は息を吐くと、煙草を乱暴に灰皿に押し付け、消した。

 考えたところでしょうがない。時間の無駄だ。それより仕事でもした方がマシだ。

 俺は持参したノートパソコンを立ち上げた。休暇中とは言え、処理しなければいけないいくつかの事、Eメール、確認事項……。完全にオフというわけにはいかない。

 それから、田口が作成してくれた、オンライン教育システムのベータ版ページにアクセスした。今回の休暇中に、動作確認作業を行なおうと思っていたのだ。

 東南アジアでの不安定で低速なネット環境で、果たしてどのくらい使用に耐えられるか、実際に体感してみなければいけない。

 システムというのはどうも、実際のユーザーを通りこして先走りしがちだ。そのため、設計した側からすれば親切で使いやすくしたつもりが、ユーザーからすると却って使いにくくなっていたり、ニーズに合っていなかったり、といった事がありがちだ。

 俺は自社のシステムは必ず、俺自身がユーザーになったつもりで一度は使ってみることにしている。その上で、使い勝手の良い仕様に柔軟に変更する。俺の会社のオンライン教育システムがとても使いやすいと高評価されているのも、こういった点に心を配っているからだと自負している。

 

 うーん。どうも、読み込みに時間がかかり過ぎるようだ。

 回線が低速な事を前提に、もっともっと軽量化を図る必要があるな……。俺はパソコンのUSBポートに差し込んだ、システム専用の接続機器を眺めた。

「読み込み中」の画面を眺めつついくつかの事柄をメモにとり、腕組みして読み込みが終わるのを待った。

 やがて動画が表示され、授業の音声が流れ始めた。……が、どうも音声がおかしい。なぜか雑音が入っていて、ひどく聞き取りづらい。俺は機器のUSB接続部を、緩んでいないか確認した。大丈夫だ。

 しかし、音声に何か電子音のようなものがかぶっている。どうしてこんな雑音が……。俺は訝しんだ。これはおそらく回線のせいじゃないぞ。ふと見れば、機器の上部に付いている、接続状態を表す小さなランプがすごい速さで点滅している。

 おかしいぞ。こんな風に動作する仕様じゃなかったはずだが……?

 ピイィィィィーーー……ン…………

 低く微かに、どこからか響く電子音……。

 しばらく作業してみたが、技術屋でない俺にはどうすることも出来なかった。

 まあ仕方ない。後で田口に話そう。ふと時計をみると、もう深夜だった。今日はこのくらいにしておこうか。いちおう休暇中だしな……。

 俺はパソコンの電源を落とそうと手を伸ばした。その瞬間、電子音がいっそう大きく鳴り響いたような気がした。

 ピイィィィィーーー……ン…………

 俺が覚えているのは、そこまでだった。

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