第2話 平野健一

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 何かとても大切な物の様に、スマートフォンを両の手のひらでしっかり包み込むようにして顎の前辺りで掲げているのは、痴漢に間違われないための防御策だ。平野健一はなるべくオフピーク通勤を心がけているので、今彼が乗っているこの通勤快速の車内はそれほどギュウギュウ詰めというわけでもない。この路線もピークの時間帯には乗客同士の身体が密着して息もできないほど混みあうが、まだ今の時間はそれより早いので多少の余裕がある。人に押されてウッカリ女性の身体に触れてしまうようなことはまずないだろうが、念には念を入れ、両手は誰からも良く見える位置に置いておく。生来気の小さい平野は、トラブルは未然に防ぐ主義だ。

 平野は、まったく油断も隙もない世の中だなあ、と思う。こうして通勤中にネット上に出回る日々の話題を読んでいても、とんでもなく非常識だったり、どこか病んでいる、おかしいような人間の話題が満載だ。まったくとんでもない時代になったもんだ、と平野は溜息をつく。

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 俺はキーボードを叩く手をふと止めた。

 この男と俺とは、考えていることがだいぶ違うな、やっぱり。そりゃそうだろうな。俺も打ち合わせに出向く時など、たまに通勤ラッシュ時の電車に乗ることはあるが、この男、平野と違って俺は、他の乗客が俺をどう見ているかなど考えたこともなかった。

 俺は普段から電車に限らず、公共の場所に出る時は人間観察を怠らない。なぜなら俺のような生活スタイルではどうしても、一般の社会人とは感覚がずれてしまうことがある。しかし俺の書いたものを買って読んでくれるのは、あくまでもその一般の人々なのだ。なので俺はいつでも、普通の生活を送る人々の様子に神経を集中し、観察する。話をしている人がいれば聞き耳を立てる。こっそりメモをとることもある。たまに観察している人と何度も目が会ってしまったり、その人をキャラクターにした面白いエピソードを考えついたりして、気が付くと一人でニヤニヤ笑っている事がある。そういう時に訝しげな視線を投げられたこともあるし、少し注意した方がいいかもしれない。うん。平野の言うとおり、こういう世の中だしな。

 俺は再び手を動かし始めた。


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 平野はふと、視線を感じてスマートフォンをから目を上げた。間に二、三人の乗客を挟んだ所に、女子高生が俯き加減で電車に揺られている。その子とうっかり目が合ってしまった。平野はドキリとした。慌てて、視線をスマートフォンの画面に戻す。

 毎朝するようにニュースサイトをくまなくチェックし、今日の話題を頭に入れておく。これは長年身についた営業マンの習慣だ。平野自身の興味とは関係無く話のタネを集めておくのは、お客さんとの会話のためだ。

 経済……大手家電メーカー、軒並み赤字決算発表。スポーツ……テニスの高校生選手がウィンブルドンで活躍。芸能……人間国宝の歌舞伎俳優、都内の病院で肺炎のため死去。享年92歳。

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 お、俺と似たようなとこもあるんだな。そうだよな、仕事はどんな仕事でも大変だし、こういう地道な努力が大切なんだよな。

 俺の手がキーボードを叩くスピードが、少しづつ早くなっていった。


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 ふと視線を上げた平野の目に、車内吊り広告が飛び込んできた。大ファンである、有名ハードボイルド作家の新刊。シリーズものの最新作だ。

 ……しまった、すっかり忘れてた!

 平野は心の中で呟いた。今日が発売日じゃないか。出社の前に、駅で本屋に寄らなくては。

 広告を眺めていた平野は、再び視線を感じてそっと辺りを伺った。さっきの女子高生だ。また目が合ってしまったが、どうやら女子高生は平野を見ていたような気がする。

 何だろう……。広告からスマートフォンに視線を戻した平野だが、チラチラと横目で女子高生を観察してみた。やはり相手も、平野の方を盗み見ているようだ。

 これはもしかして、と平野は思い当たった。女子高生の中には、痴漢の冤罪を着せて、黙っていてやるからと金をせびるような子がいる、とネットで読んだことがある。この子はもしかしてそういう類ではないのか。平野は少し怖くなった。途中下車して、離れた方がいいだろうか……。もう一度チラリと目を上げた平野と、女子高生の目がかち合ってしまった。その途端、女子高生は心なしか頬を染め、今度は俯くだけでなく、逆方向を向いてしまった。

 これは……。平野は動揺した。

 今のは何だ。

 まるで授業中の教室で、好きな男の子と目があった女の子みたいじゃないか。と平野は思った。少なくとも、痴漢の濡れ衣を着せようとしているようには見えなかった。それによく見れば、今時珍しいくらいのまじめそうな子だ。長く伸ばした黒髪が綺麗な子だ。

 大人の常識が、平野の心に沸き上がる考えを必死に押さえつけようとしていた。しかしそれは、まるで湯船に浮かぶプラスチックで出来たおもちゃのアヒルのように、沈めても沈めても平野の心の表面に浮かび上がった。

 もしかしたら、もしかしたらだけど……。この子は俺に気があるのか?    

 心の中で呟いてしまってから、平野は思わず赤面した。平野は38歳。なんとも微妙な年齢だ。決してイケメンの渋いオジサマでない事は自覚している。でも同期の何人かはもう既に立派な「オジサン」になっているが、平野はまだそこまでは行っていない。と思っている。会社の若い子に、三児の父親には見えないと言われた事もある。ただ、太っているという程でもないが、腹回りにはそれなりにぷよぷよした肉が乗っている。でもちょっとだけだ。

 いやしかし……あれくらいの若い子から見れば、みんな同じおっさんだろう。いやでも、もしかしたらあれだ、いわゆる「老け専」?だっけ?とかいうやつじゃないのか?同年代の若い男の子より、大人の男に魅力を感じるってやつ。大人の男っていうなら、平野はもちろんそうだ。平野は無意識に背筋を少しだけ伸ばした。ほら、例えば、片親で父親がいないとか。それで父親への憧れから、頼りになる優しい大人の男に惹かれるとか。ちょっとませてる子で、同年代の男の子が子供に見えてしまうのかもしれない。

 平野は、高校時代密かに好きだった同級生を思い出した。勉強もスポーツもルックスも人並み、目立たない存在だった平野には高値の花だった彼女。同じクラスになった一年間で言葉を交わしたのは、事務的な連絡事項だけだった。卒業式の日に告白しようと一大決心したものの、なんと彼女は盲腸で卒業式に出席できなかったのだ。肩透かしをくらった告白の決心は、その後実行されることは無かった。あの女子高生は、その時の彼女に心なしか似ている、と平野は思った。

 平野が甘い思い出に浸っているうちに、下車する駅が近づいて来た。ああもうお別れか……。平野は未練がましく、女子高生の後頭部を眺めた。またこの電車で会えるだろうか。そういえば、以前にも同じ時間帯の電車で見かけたことがある気がするぞ。平野は思った。それなら、また会える事もあるかもしれない。平野の顔がぱあっと明るくなった。

 いつもより軽い足取りで下車した平野はトイレに寄った。入り口を入ってすぐの、大きな鏡の前で立ち止まる。うん、なかなか俺も捨てたもんじゃないかもしれないぞ。悪くない。決してイケメンではないが、長い営業マン生活のお陰で、少なくとも、清潔感と人当たりの良い雰囲気は身についている。そう、そいうところが意外と……と、ニヤッとした平野は気づいた。

 チャックの前が開いていたのだった。

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 アハハハ。この平野っていうのは、カワイイ奴じゃないか。

 俺はさっきまであんなに不調でアイデアが浮かばなかったのが嘘のように、どんどん書き進めて行くことが出来た。よし、来たぞ来たぞ。これがいわゆる、「宇宙からの電波」だ。どうやら平野じゃなく、俺に電波がきているらしいな。

 俺はさらに書き進めていった。


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 久しぶりに、「おばちゃん」にするか。

 勤め先のビルを出た平野はそう決めて、足早に歩き始めた。

 正午を五分程回ったところだ。オフィス街のビルというビルから、一斉に人が流れ出して来る。まるで蟻の群れだ。

 外回りに出ている事の多い平野が、昼食時に会社にいるのは久しぶりの事なので、せっかくだから、お気に入りの「おばちゃん」に行くことにしたのだ。勤め先のすぐ近くにある、平野行きつけの「おばちゃん」は、ここがオフィス街になる前からずっとがんばって営業しております、という体の、古ぼけた食堂だ。しかしいったん中に入れば、みすぼらしい外観からはちょっと驚いてしまうぐらいの人気店であることがすぐ分かる。裏通りにあるにも関わらずこの繁盛ぶりの秘密は、手頃な値段でボリュームたっぷりの揚げ物だ。

 平野は大好物のカツ丼を注文し、グラスに入った冷たい緑茶を一気に飲み干した。アルバイトの店員が近寄ると、おかわりを注いでくれた。氷が、カラカラとグラスの中で音を立てる。

「もうそんな季節かあ」

 平野は一人、心のなかで呟いた。去年の今頃は何をしていたっけ。少し考えてみるが、あまりよく思い出せない。一昨年だったら、二番目の子が小学校に入学したことを覚えているのだが。

「きっと、こうして歳をとってゆくんだな」

 平野は少しの間ぼんやりしていたが、買ったばかりのハードボイルド小説がカバンにあることを思い出すと、カツ丼を待つ間読もうと思った。この店はボリュームもあるしうまいのだが、なにしろこの昼の混雑時でも「おばちゃん」一人で調理場を切り盛りしているので、ちょっと時間がかかるのだ。

「平野」

 声をかけられて顔を上げると、知った顔が目に入った。大学時代の同期、柴田だ。柴田もこの近くの会社に勤めていて、やはり「おばちゃん」の常連なので、時たまこうして会う。

「おう、柴田」

 平野も軽く手を上げて挨拶すると、柴田はここいいかと簡単に聞いてから、平野のいたテーブル席にかけた。

 注文を済ませた柴田は、いきなり体を平野の方に乗り出すと言った。

「おい、聞いたか、松田のことさあ」

「え、なに、知らないよ。松田がどうかしたのか」

 思わぬ時に思わぬ名前を出されて、平野はどきりとした。

 松田も、平野と柴田の大学の同期だ。同期の中でもずば抜けて頭の回転の早い、優秀な男だった。かといって近寄りがたい秀才ではなく、むしろ人好きのするタイプで、人望厚くいつも人に囲まれていた。エネルギッシュで、サークル活動やら何やらで忙しく飛び回り、なかなかのイケメンで女にもてた。卒業後は、平野の母校からは異例だったが、誰もが名前を知っているような総合商社に就職した。そして当時平野が付き合っていた彼女が、松田に乗り換えたのもその頃だった。

「テレビ出るんだってさ」

 柴田が、息を荒くして言った。

「テレビ?」

 平野は驚いて思わず聞き返した。

「ほら、日経なんとかっていう番組あるだろ。なんか新しい商品とか、ベンチャー企業とか紹介するやつ」

「ああ……」

 平野も何度か見たことがあった。

「それの今夜の放送がさ、松田の会社の特集なんだってさ」

 松田が商社を退職して起業したのは数年前だ。アジアの経済発展が著しい地域で、学生やビジネスマン向けにオンライン学習サービスを提供するベンチャー企業を立ち上げたのだが、それが今大成功を収めているらしい。平野も何となく同期の間の噂では聞いていたが、あんな有名なテレビ番組で紹介される程とは思っていなかった。


 平野はその夜、番組にチャンネルを合わせた。

 商社マンの経歴と堪能な語学力を活かし、堂々とした態度で海外のビジネスマンたちと交流する松田。アジアでのビジネスの展望について、独自の視点を語る松田。インドネシア都市部にある、豪邸と呼んだ方が良いような家に住み、高級車を運転手に運転させてオフィスに向かう松田。バイタリティと若々しさのあふれる雰囲気はそのまま、大学時代、平野が遠巻きに眺めていた頃のままだった。

 番組が終わった後、平野はマンションのベランダに出て煙草を一服した。あまり広くない家の中はすぐに匂いがついてしまうので、家族を気遣い、煙草はベランダで吸うと決めているのだ。

 平野がふと目線を上に上げると、よく晴れた春の夜空に、少しばかりの星が弱々しく輝いていた。

「たとえば」

 平野は考えた。

 人生は選択の連続だ。あの時ああしていたら、こうしていたら……。後から考えてもしょうがないが、小さな選択が後々になって大きな違いを生む事もある。

 平野は松田に、新しく立ち上げたベンチャーに来てくれないかと頼まれた時の事を思い出していた。

 平野はどちらかと言うと、目立たないタイプの営業マンだ。外資系によくいる、派手な見かけとキャラクターで自己顕示欲が強く、営業成績をひけらかすのが上手いタイプとは違う。

 しかし実際のところ営業成績はそう悪くなく、誠実な人柄と信頼のおける安定した仕事ぶりで、しっかりした良質固定客を捕まえることが出来ていた。それは平野自身も自負していたものの、やはりこういうタイプにスポットが当たる事は稀だ。

 松田のような人間が、自分の仕事ぶりをどこからか聞き出し評価してくれた事は、平野の自尊心を満足させた。そして平野は、松田によって自尊心を満足させられた自分に気づいた時、二度までも完全に松田に敗北したと悟ったのだ。

 松田はなんの裏もなく、平野の営業マンとしての実力を買ってくれたのだ。それは分かっていた。しかし、平野の中の何かが、松田の申し出を断らせた。

 当時、一番下の子が生まれたばかりだった。ちょうど米国の経済危機の影響で、世界中に不安感が満ちている時だった。平野の勤め先は中小だが歴史のある古い体質の会社で、その時世でもリストラなどという可能性は低く、平野は安定した生活を約束されていた。一方ベンチャー企業などに行けば、一寸先は闇だ。大きな成功を収めるかもしれないが、さっさと倒産してしまう可能性も大いにある。まだ小さい三人の子と専業主婦の妻を抱えた平野には、冒険する事は出来なかった。

 と、平野は断る理由を説明した。自分自身に。しかし、本当はそれだけではない事を漠然と気づいていた。彼女を取られたことに対するこだわりか。いや違う。それだけでもまだ充分ではない。なぜ断ったのか、平野自身にも結局良く分からなかった。多分、「プライド」なのかもしれない。

 小さい男だなあ。俺は。平野は夜空を見上げながら思った。今も、テレビで見たばかりの松田の成功への嫉妬が、胸のなかに小さな渦を巻いていた。

 平野は家族をとても大切にしていた。子煩悩な良い父親だった。妻もしっかりした女で、良くやってくれている。仕事も色々とストレスはあるものの、まあ順調だ。全体的にみて、そこそこ幸せであると思う。

 でも……。

 俺でない俺。違う俺。もしあの時違う選択をしていたら、今ここに、違う平野健一がいたのかもしれない。そう考えずにはいられなかった。

 でもまあ、あれだけ頭も顔も良くて女にもてて、全てに恵まれているような男なら、成功するわな。平野の心に卑屈な考えが湧き上がった。そして平野はとたんに恥じた。

 いや、違う。平野は頭をふった。松田のような男と自分は、全然違う。確かに松田は生まれつき頭の良さや行動力を備えていたかもしれないが、人一倍努力家で、強い向上心があったのだ。そういう人間だからこそ、成功したのだ。臆病さのあまり、「そこそこ」で満足してしまう自分のような人間とは違うのだ。平野には、今までの人生を振り返ると、「あの時ああしていたら」と思えるような事が山ほどあった。気が小さく思い切った行動が出来ず、いつもツメが甘い部分が自分自身にあることを、平野は承知していた。

 平野は部屋に戻るといつも読書する時に座る椅子に掛け、読みかけの小説を開いた。胸の中に渦巻く不快な感情をかき消そうと、小説に集中しようとした。

 平野は本好きだ。社会人として、父親として、充分に立派な大人の平野だが、心の中にはどこか空想的な少年の部分が残っていた。そういう部分が平野を、時間を見つけての読書に向かわせた。

 読みかけていた、平野お気に入りのシリーズ物小説の最新作では、渋いヒーローが今まさに悪人と対峙しようとする緊迫した場面だった。だが、いつもなら時間を忘れて読み耽ってしまうような場面なのに、平野は集中できなかった。

 松田の、東南アジアの日差しによく焼けた顔が脳裏にちらついた。

 平野は本を膝の上に伏せると、どこを見るとは無しに、目線を上に向けた。少し蒸し暑いくらいの春の夜だ。天井ではシーリングファンがゆっくり回っている。そういえばテレビで見た松田の豪邸の部屋にも、シーリングファンがあった。

 そのゆったりとした動きを眺めながら、平野はぼんやりと空想にふけった。

 ベンチャー企業で成功し、テレビに出演する平野。立派な豪邸に住む平野。そのうち自伝だとか、「平野健一に学ぶ・成功する起業」とかいうようなタイトルの本なんか出版したりして。平野は一人にやついた。

 本好きの平野なので、学生時代、短編小説の類をちょっと書いてみた事もあった。しかし自分に文才がないと悟るのに、そう長くはかからなかった。

 平野はそのことを急に思い出し、松田のくれたチャンスに思い切って飛び乗れなかった自分を思い出し、「結局、俺って奴は何も大きい事はできない人間なんだな」と、自嘲気味に笑った。バカバカしい空想をしていた自分に気づき、平野は一人赤くなって顔を伏せた。目線の先には、膝に置いたハードボイルド小説。

 もし俺が今また小説を書くとしたら。と、平野はふと考えた。

 俺とは全く正反対の、そう、何かを成し得る人間を書きたい。自分とは正反対の、意志の強さと非凡な能力を持った、例えばこの小説のヒーローのような。そう、例えば……松田のような。

 本の表紙にしゃれたフォントで大きく印刷された、作者の名が目に入る。小説家ってやつは羨ましいな。平野は思った。小説家なら、自分の空想の人物をいくらでも好きなように創りだすことができる。そして自らその人物になりきって、小説の中で活躍できるのだ。フィクションの世界でなら、理想の自分になれるのだ。そして金までもらえる。

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 いやそんな甘いもんじゃないんだけどなあ。俺は手を止めると、心の中で平野に反論した。第一、プロなんだから、何でも好きなように書けるって訳じゃないんだぞ。売れなきゃ意味ないんだから。サラリーマンと違って、売れなきゃ次の仕事は来ない。幸い俺は今のところ何とか生活出来ているが、実際いつ食いっぱぐれるか分からない。

「ダメになるかもしれない」という不安は、むしろダメになる事そのものよりもやっかいだ。自由業である以上、常にその不安と付き合っていかなければならないのは宿命だ。家族を抱えている身にとって、それはとても重たい事だ。毎月必ず決まった額の給料が振り込まれる平野には、想像するのが難しいかもしれないが。

 それだけじゃないぞ。編集は無茶な事ばっかり言うし、読者は気まぐれで飽きっぽいし。あと、こんなに頑張ってるのに、可愛い一人娘にまで責められるしな。

 まあでも、平野の意見もまんざら的外れではない。自分の理想、「違う自分」を小説に託すというのは、平野の言う通りだ。

 人には誰でも心の中に、空想という名の小さな世界を持っている。そして強い強い自己意識と同時に、その小さな世界に自分自身を溶けこませ消してしまいたいという矛盾した願望を持っている。いい大人ですら。しかし現実の世界でそれは不可能だ。だからこそ人は小説を読むのだ。現実には有り得ない完全な夢を見るために。それが幻想、ひいては嘘、虚構の世界であると分かっていても。おっかなびっくり、果たしてどこまで幻想を信じて良いものか、自分の心の奥底と現実世界のルールを天秤にかけてその重さを探りながら、幻想の世界にそろりそろりと片足づつ踏み込んでゆくように、ページを繰るのだ。

 うん。確かに俺は平野の言う通り、幸福な人間かもしれない。何しろ俺はその空想を具体的な形にし、職業作家としてそれを他人に分け与える事も出来るのだから。

 そう考えれば、平野も俺も同じだな。と、俺はふと気付いた。俺も平野と同じく「違う自分」を空想し、「普通の男」である平野健一を創り出したんじゃなかったか。そうだ、平野は俺が創り出したんだった。俺はその事を急に思い出し笑ってしまった。うん、今日はずいぶんのって創作しているな、俺は。こんな風にキャラクターが生き生きと動いてくれる事はなかなか無い。自分が創造した人物だという事を忘れてしまう程に。しかしやはり平野は俺で、俺は平野なのだった。


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 休日の朝はだいたいいつも昼近くまで寝ているが、昨夜遅くまで読書していた平野は、その日はいつもよりさらに遅く起きた。昨夜はどうやら読んでいる間に眠ってしまったらしい。平野が目を覚ました時、枕の脇に開いたままの本が添い寝していた。

「お父さん、そろそろ起きてくれないと。間に合わないわよ」

 ちょうど妻が部屋に入ってきて声をかけた。一瞬何の事だったかと考えたが、すぐに、今日は一番上の子と「親子で参加する春休み工作教室」とかいうのに行く日だったと思い出した。

 パジャマのまま、朝食が用意された台所のテーブルにつくと、テーブルの上には今日のイベントの案内が置いてあった。大きく印刷された、「手作りアンテナで電波を受信!ラジオを作ろう!」の文字。近所の市民センター主催の春休みイベントだ。

 息子はかなり楽しみにしていたらしく、もうすっかり準備が整っている様子だった。


 桜だ。

 毎年この季節には、日本人に生まれて良かったとつくづく感じる。

 平野は満開の桜を仰ぎつつ、市民センターへの近道、近所の団地脇の遊歩道を息子と二人歩いた。平野の長男は小学六年生。以前より口数が少なくなった事に平野は気づいた。少し前まで、こんな風に歩く時には、ひっきりなしに学校での出来事やサッカークラブの試合のこと、友達のこと、うるさいぐらいとりとめもなくしゃべり続けていたものだったが。

 いつの間にか成長しているんだな。平野は感慨深げに息子を眺めた。いつかこの子も大人の男になるんだな、などど、当たり前の事を考えた。いやその前に反抗期があるぞ。口数が少なくなっているのは、早くもその前兆か。

 平野はこの息子が生まれた日の事を思い出した。やはり、こんな風に桜が満開の朝だった。そういえば誕生日はもう来週じゃないか。週明けに、欲しいと言っていたゲームソフト、買いに行かなければ。


「やった!聞こえたよ!ね、今聞こえたよね?お父さん?」

 息子が、大はしゃぎで平野に言った。父子で協力し、苦心して作り上げた手作りラジオは、ちゃんと電波をひろっていた。

 平野はちょっと感動した。文系の平野はこういうものはどちらかと言えば苦手で、今日もこの親子教室に参加を決めたはいいものの、ラジオなんてうまく作れるのだろうかと多少不安でもあったのだ。

 しかし今、ラジオはきちんと動作している。たどたどしくも電波を受信し、人の声らしきものを聞くことができている。平野は、子供の頃に好きだったプラモデルを思い出した。物を創作する喜びを味わうのは、ずいぶん久しぶりの気がする。満足感が平野の胸を満たした。

 今日は参加して良かったな、と、帰り道、平野は息子と話しながら歩いた。

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 そうそう。そうなんだよ。平野。物を創るっていうのは、そりゃ楽しい事なんだ。それに中毒になった俺みたいな人間が、小説家になったりミュージシャンになったり、絵かきになったりするんだ。そして、売れなくても、やっぱりやめられないんだ。

 良かったな、息子にいい経験させてやれて。

 ……お前は良い父親だな、平野。

 俺は一人、心の中で平野に呟いた。俺は娘が小さい頃に、そういう、親子で参加するなんとかっていうようなやつには行った事が無かった。

 小さな後悔が軽く俺の胸をついた。しかし当時俺はようやく売れ始めた頃で、大変な時期だった。娘と接する時間も心の余裕も無く、ひたすら創作に没頭していた。なんとか売れ続けたかったのだ。仕方の無いことではあったが……。先日の娘の、非難がましい視線が脳裏に蘇る。今、娘との関係が上手くいかないのは、そういう所に根本的な問題があったのだろうか。などと俺は考えた。椅子を引き、目線を天井に上げる。

 おっと、まずいまずい。俺は姿勢を正した。考え事は後だ。今は作業に集中しないと。

 なにしろ俺の「宇宙からの電波」は、ひどく気まぐれだ。いつ始まっていつ終わるか全く分からない。だからこそ、それが来ている時には一気に書いてしまわないとすっかりダメになってしまうのだ。


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 息子は大得意で、持ち帰ったラジオを家族に披露した。ラジオからの音声はかなり雑音まじりなものの、きちんと声が判別出来るほどには聞こえる。

「あら、すごいのね。ちゃんと聞こえるのねえ」

 平野の妻はすっかり感心している。態度にこそ出さないものの、平野も内心得意だった。アンテナの部分は、精度を上げるために平野もだいぶ頑張ったのだ。

「すごいでしょ」

 息子は満面の笑みで自慢している。

 親子合作のラジオは、春休み明けに学校に提出されるまで、リビングのテレビ脇の棚に飾られる事になった。まだ小さい下の弟二人には、触らないようにという厳命が下された。二人は並んで棚の淵に両手を揃えて乗せ、ラジオと彼らの兄を尊敬と羨望の眼差しで代わる代わる眺めていた。


 だいぶ朝寝坊してしまったせいだろうか。平野はどうにも寝付けなかった。

ベッドから抜け出すと、寝静まっている家族を起こさないよう、静かに階下に降りた。冷蔵庫から冷たい麦茶を出してグラスに注ぎ、キッチンと続きになっている居間のソファに腰を下ろした。

 妙に目が冴えている。身体は程よく疲れているのに、頭がはっきりしていて眠くない。

 基本的に健康で、いつも寝付きの良い平野には珍しい事だった。どうしたというのだろう。平野は手にしたグラスの麦茶を一口飲み、テーブルの上に置きっぱなしになっていた本をパラパラとめくった。まあいい。明日も日曜で休みだし。そうだ、どうせだから……。

 平野はお茶のグラスを持ったまま、部屋の隅に置いてあるデスクに移った。そこには家族共用のパソコンが置いてある。椅子に腰掛けると、平野は電源を入れた。伝票の整理が少し溜まっている。月曜は客先に行かなきゃいけないし、今やっておけば週明け楽だ。

 平野は会社のメールアカウントにアクセスすると、作業を始めた。


 数枚の伝票を片付けた頃、平野は、妙な音が聞こえてくるのに気づいた。

 何か、ごく小さい、機械の動作音のようなものだ。低く小さくどこからか流れてくる。こういう電子音は少しでも物音を立てていると気づかないものだが、部屋が静かな時にいったん気になり始めると、とことん不快なものだ。平野は立ち上がると、音の発生源を求めて耳をそばだてた。居間とキッチンを隔てるカウンターテーブル脇の、冷蔵庫だろうか。やれやれ。まだ年末に買ったばかりなのに。平野は傍まで行くと冷蔵庫に耳を近づけてみた。しかしそこからは何の音もしない。

 どこからだろう。辺りを見まわした平野の目に、棚の上の、工作教室から持ち帰ったラジオが目に止まった。

 もしかして……。平野はラジオに近づくと、耳をすました。 

 やっぱり。ラジオから、ごく小さく、不思議な雑音が流れてきている。

 困ったな。平野は溜息をついた。息子の大切なラジオだ。やたらな事をして壊してしまうわけにもいかない。平野はラジオを持ち上げ、くるりとそれをひっくり返したり、軽くつついてみたり、振ってみたりした。しかし音は止むことはなかった。平野は途方にくれ、両手でラジオを持ったままじっとそれを眺めた。

 平野が覚えているのは、そこまでだった。


「お父さん!おとうさんってばぁ」

 平野は驚いて跳ね起きた。と、危うく椅子から転げ落ちるところだった。五歳の末っ子が、小さな手で平野の背中を揺すっている。

 平野は自分が、昨夜は机につっぷしたまま寝入ってしまったことに気づいた。目の前には電源が入ったままのパソコンの画面で、スクリーンセーバーが動いている。

「お父さん、だめでしょー。こんなとこで寝ちゃあ。ちゃんとおふとんで寝ないといけないんだよお」

 いつも母親に自分が言われているのと同じ事を言う息子に、平野は苦笑した。

「わかったわかった」

 時計を見るとまだ7時前だ。やれやれ、日曜だというのに子供は早起きだ。

 息子はテレビをつけるとソファに座り込んで、それきり大人しくなった。

 平野はキッチンに行きコーヒーを入れると、息子にはコップに牛乳を入れてテーブルに置いてやった。息子の隣に腰掛けると、テレビの戦隊ヒーローものを息子と一緒にぼんやり眺めた。

 ふと、パソコンの電源が入りっぱなしになっていたことを思い出し、デスクに行くとマウスを手にとった。スクリーンセーバーが解除される。

 平野は目を見張った。画面上には、文字がびっしり入力されたファイルが表示されていた。

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 よし。来た来た。おれはほくそ笑んだ。ついに平野が電波を受信して、小説を書き始めたぞ。やれやれ、ここまで結構長いな。読者が退屈しないといいんだが。まあでも、ここまで来たら後は、平野はどんどん書いて行くだけだ。宇宙人にコントロールされて。電波はひっきりなしに届いて、平野は休むヒマもないのだ。寝食を忘れ創作に没頭するのだ。創作に……。

 キーボード上の俺の手が、はたと止まった。

 平野の書く小説とは一体どんな物なんだろう。

 ありきたりの小説じゃだめだ。ストーリーは?キャラクターは?

 そうか、これはこの小説の中で重要なポイントだぞ。読者を納得させるだけのものでないといけない。そうでないと、この小説全体が、迫力のないものになってしまう……。

 俺は少し椅子を引き、大きく背を伸ばして唸った。まるで絵画の鑑定家がするかのように少しモニターから目を遠ざけると、目を細めて今入力した画面上のファイルを眺めた。宇宙人に操られた会社員、平野健一の書く小説とは……?

 ……そうだ!これだ!

 突然、それこそ雷が落ちるようにアイデアが浮かんだ。

 平野の小説は、宇宙人からの電波を受信して小説を書く男の話なのだ。いわゆる、「作中作」というやつだ。

 そして平野も俺と同じように、自分の密かな空想、「違う自分」をその主人公に託すのだ。

 俺は再びキーボードを叩き始めた。


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 何だこりゃ。平野はパソコンの画面を眺めた。

 昨夜は計算ソフトを開いて、伝票の整理をしていたはずだ。きっと何かの拍子に間違って関係ないファイルを開いてしまったのだろう。   

 ええと、これは何のファイルだろう?

 ページ上部には、大きめの文字サイズでカッコ書きのタイトルがあった。

「宇宙人小説家の陰謀」

 何だこの変なタイトルのファイルは……。

 平野は何気なくそれを読み始めた。

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