宇宙人小説家の陰謀
桜井あんじ
第1話 桜田洋一
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タン!と、叩きつけるようにEnterキーを押す。これはまだパソコンのキーボードのキー一つ一つが今の物より大きくて重く、しっかりタイピングしなければいけなかった頃の名残だ。俺は最近のキーボードのペコペコ感が物足りない。一昔前のものは叩くとガショガショとやかましい音がしたものだったが、俺はその音と感触が好きだった。一心不乱に文章を叩いている時、気分はまるでソロを弾いているピアニストだ。手つきだけなら似たようなものだろう。俺はミュージシャンにはひとかたならぬ憧れを抱いている。子供の頃習っていたピアノは、俺にセンスが無かったらしく、ろくに上達しないままやめてしまった。ミュージシャンにはなれずその代わり作家となった今、その未練らしきものを、キーボードをピアノ代わりにして文章に叩きつけているのだ。いわばエアギターならぬ、エアピアノだ。
さて、たった今、華麗なエアピアノソロと共に書き上げた俺の新作が印刷されて、一枚また一枚とプリンターのトレイに出てきた。たまらない、開放感と充実感。プリンターの音でこれほどの快楽を得られるのは、たぶん小説家を生業とする俺のような人間だけだろう。
ふう、と充足の溜息をつき、庭に向けて開いた大きな窓の外に目をやった。新緑の季節。俺の好きな季節だ。曖昧な季節。曖昧な気温と曖昧な天気。芸術とは、曖昧さから生まれるものだ。お、このフレーズはいいぞ。使える。俺はいつでもいい言葉を思いついた時にメモできるよう、手元から離さないようにしているメモ帳にそのフレーズを書き留めた。こういう、日常で浮かんだささやかなフレーズなんかに肉付けをして、小説にするのだ。
窓からの緑は、いつも、行き詰まった時に心をなだめてくれる。自宅の中で一番いい場所にしつらえたこの仕事部屋は、俺のお気に入りの場所だ。
壁際の簡易キッチンに向かい、キャビネットを開けてコーヒー豆の袋を取り出す。俺はいつもキリマンジャロだ。家族も友人も俺がそれを好きなのだと思っているが、本当は違う。実は俺はコーヒーの味なんてよく分からない。第一、書いている最中は馬鹿みたいにコーヒーを飲み続けているのだ。味なんてどうでもいい。要はなんとなくコーヒーの味と色をしている飲み物ならなんでも安心なのだ。それはまるで乳飲み子が、ただ本能で母親の乳を吸うのに似ている。煙草にしてもそうだ。一説によると、一部の喫煙者はニコチンに依存しているのではなく、「口に何かを含んでいる感触」に依存しているのだそうだ。確かに、口に何かを含んでいると人間は本能的に安心する。要するにこれも母親の乳と同じ、ということだろう。
俺がキリマンジャロばかり選ぶ理由はもちろん、小説、「キリマンジャロの雪」だ。ヘミングウェイだ。だから、作家ならキリマンジャロだ。第一、言葉の響きが良い。「キリマンジャロ」だ。かっこいいじゃないか。もちろん行ったことなどないが、この名前だけで雄大な山並みが頭に浮かぶ。その頭頂部を、複雑な形に結い上げ飾り付けた女の髪のように美しく、万年雪で装ったかの山の姿が目に見えるようだ。まあ存外、実際に行って近くで見てみたら失望するのかもしれないが。女と一緒だ。遠くから思い馳せればこそ、夢を見ていられる。
まあとにかく、作家ならコーヒーはかの巨匠に敬意を表し、キリマンジャロだ。彼がキリマンジャロを好んだかは全く知らないが。
そのキリマンジャロをコーヒーメーカーにセットする。コーヒーメーカーがコポコポと独特の音を立て始めると、良い香りが部屋に漂う。書いている最中にも何度もコーヒーを淹れるが、その時はこの良い香りを意識することも無い。しかしこうして作品を書き上げての一杯を淹れている時には、まるで今初めて嗅覚を得たようにそれに気づく。
プリンターはまだ黙々と仕事を続けている。俺は出来立てのコーヒーをカップに移すと、窓際に置いたテーブルへ行って椅子にかけ、煙草を取り火をつけた。
一つの作品を仕上げた後に、それを印刷しながら味わうコーヒーと煙草。世の中に、これ以上の至福の瞬間は無いと俺は断言する。世の中の流れは残念ながら俺の希望しない「健康」という方向に向かっていて、妻なども口うるさく「禁煙、禁煙」と喚き立てるが、俺はやめる気はないぞ。
プリンターが静かに停止した。俺は立ち上がると部屋を横切り、ドアの近くに置いたプリンターのトレイから分厚い紙の束を手にとった。
元のテーブルに戻って腰掛けると、手に持っていた煙草を備え付けてある灰皿に押し付けた。コーヒーのカップをうっかりこぼしたりしないように少し脇へよけてから、紙をテーブルの上に置いた。
緊張感を伴う時間だ。俺はたった今書き上げた俺の作品を、1ページ目からゆっくりと読み始めた。
俺の作り上げた空想の世界で、架空の鳥がその虹色の翼を羽ばたかせ、主人公を背に乗せて飛び立って行った。
「桜田洋一」
ゆっくりと丁寧に、読み終えた原稿に署名する。
もちろん今時、入稿はデータをメールで送るだけだ。紙に印刷されたものは必要ない。にも関わらず、最初にプリントアウトした原稿に手書きの署名を加えて保存しておく、これは俺の習慣だ。まあ単なる、おっさんのこだわりだ。サインするのにも万年筆を使う。どうも俺は妙に芝居がかっているというか、形から入るところがあると昔からの友人などは言うが、実際その通りだろう。心の中では認めていても、そう言われると気恥ずかしいのだが。
ああ頭が痒い。だいたいいつも風呂に入らないのが三日目くらいになると、痒くなってくる。不潔と思われるだろうが仕方ないのだ。作家というのは書くのに没頭してしまうと、普通の人間としての機能が全て停止する。眠るだとか食べるだとか風呂に入るだとか、そういうのは違う世界の出来事になってしまうのだ。俺の場合は幸いにも、食べる事だけは、妻がおにぎりだとか作業しながら食べられるものを用意してくれるので、無意識に一日一度位は食べているらしい。しかし中には三日間位は全く食べずに水だけというようなストイックな作家もいるそうだ。特に女流作家は極端な人が多い。ある女性などは、創作中は一切食べずに胃液を吐き続けるとか。本人はそれを「つわり」と呼んでいて、それがくるとアイデアがどんどん浮かび、原稿がスラスラと進むのだそうだ。なのでそれはいわゆる「産みの苦しみ」というやつなのだろう。その話を何かで読んだ俺は、つくづく女はバケモノだという認識をさらに強くしたものだった。
女で思い出した。腹が減っていた。俺は簡易キッチン横の壁際に取り付けた電話を取り上げ、内線をかけた。俺は集中して書いている時に邪魔されるのが死ぬほど嫌いだ。なので俺が仕事部屋にいる時は、よほどの緊急時でない限りドアをノックしたりするなと家族には言い聞かせてある。
午後四時。この時間なら妻はキッチンだろう。短縮ダイヤルのボタンを押すと呼び出し音が鳴り、妻が答えた。
「終わったよ。何か食うものないか」
すぐに夕食の支度が出来ると妻が言うので、俺は先に風呂に入ることにした。
あーっ、とおっさんくさい声を出して、湯船につかる。面倒くさいが風呂は好きだ。好きだが面倒くさい。風呂もまた、女のようだな。と、俺は考えて、フフフと一人湯船に浸かりながら笑った。
風呂から上がってリビングのソファにどさっと疲れた身体を投げ出し、窓から吹き込む風に心地よく当たっていると、隣接しているダイニングキッチンの方から妻の話し声が聞こえてきた。
何だろう。俺は聞き耳を立てた。
「ね、もうそんなに気にしないのよ。よそはよそ、うちはうちなんだから」
どうやら妻が話している相手は、中学生になる娘のようだ。娘が何か答えたが、声が小さく聞き取れない。が、どうも泣いているようだ。
何事か。俺は慌てて立ち上がった。開け放されたダイニングキッチンとリビングの間のドアにそっと近寄ると、中の様子を伺った。
娘がこちらに背を向け、肩を落としうなだれている。
「だって、みんなが……」
「いいじゃないの。みんな、有名人のお父さんがいるあなたが羨ましいのよ」
妻は軽口を言うと、娘の肩に手をかけて、目線を合わせるように顔を覗き込んだ。励ますように優しく微笑んでいる。
俺はどうしたらいいのか。ドア付近でうろうろとまごついている俺に気づくと、妻は、「あっちに行ってろ」と言わんばかりの合図を目で送ってきた。が、娘は俺に気づいて振り返った。俺に話を聞かれた恥じらいと怒りが入り混じった、まだ涙の滲んだ目で俺を睨みつけると、さっと身を翻し、廊下に面した方の入口から部屋を出て行こうとした。俺は、父親としてこういう場合には何か言わなくてはと焦った。
「おい。あ~、えーと……、小遣いでも欲しいのか」
「……!」
娘の無言の非難が鋭く突き刺さり、俺は、「しまった、またやってしまった」と、後悔した。妻は苦笑を浮かべている。
俺はまるで言い訳するように頭を振った。そもそも俺はウマイ言葉を言うとか、気を利かすとか、とにかくそういうのが大の苦手なのだ。人に言うと、「作家なのに」と笑われるが、書くのと話すのは似ているようで天と地ほど違う。書くというのは時間を書けて何度も何度も推敲し言葉を選ぶことだが、話すというのは咄嗟のことだ。そして俺は、その咄嗟に気の利いた事を言える人間ではない。それどころか、焦るあまり、黙っている方がマシな程の失言をしてしまうことがよくある。非常によくある。そもそも話す事が得意なら、作家になんてなっていない。今頃営業マンでもやっているだろう。というかやったことがある。三ヶ月だけ。首になった。
ましてや相手は、繊細な感情の塊である年頃の中学生の女の子だ。男親にとっては一種の化け物だ。俺はいつも腫れ物に触れるようにして彼女を扱ってしまう。娘のその繊細さに対する俺の感情は、一種の恐怖に近いかもしれない。同じ年頃の娘を持つ父親なら、分かってもらえるだろうか。
「もういい」
小さな声で吐き捨てると、彼女は俺の脇をさっさとすり抜けてキッチンを出て行った。
「もうすぐご飯できるわよ!」
妻が背後から叫ぶと、
「後でいい!」
という返事が遠ざかりながら聞こえてきた。……やれやれ。
ため息をつきながらキッチンカウンターの椅子を引いて座ると、妻は俺の前にコップを置き、冷蔵庫からビールを取り出して注いでくれた。俺は気恥ずかしさを隠すように、わざと大げさなおっさん臭い仕草でそれを一気に飲み干した。
うまいはずの風呂あがりのビールが、苦い。
「……まったく、お父さんたら」
妻の一言で、気恥ずかしさよりも落胆と心配のほうが強くなる。
「どうしたんだ、あの子」
「うーん。別に大したことじゃないのよ。ただ学校で、クラスの子にちょっとからかわれたのよ」
妻は俺のグラスに再度ビールを注ぎながら言った。その動作が何となく、ビールで話をごまかそうとしているようにも見える。
「何をからかわれたんだ?」
「別に大したことじゃないんだけどね。ただ繊細なのよ、女の子は。特にこれぐらいの年頃は」
いつもハキハキと物を言う妻にしては、どうも歯切れが悪い。さっきの会話から判断しても、どうやら俺に関係あるらしいが……。
「なんか俺の事なのか?」
「うーん、あなたの事と言えばそうなんだけど……。あのね、あの子の作文が学校代表に選ばれて、市のコンテストに参加する事になったのね……」
「本当か!すごいじゃないか!」
俺はニヤついた。さすがは俺の娘、血は争えない……
「それを、さすが作家の娘だから、とか何とか言ってからかう子がいたらしくて」
「……!そ、そうか……」
「ほら、難しいのよ。うちはあなたの仕事がちょっと普通と違うでしょ?世間に名前も知られているわけだし。それを、色々言うような子もいるのよ。子供ってほら、残酷なとこあるでしょ」
妻がお椀に味噌汁をよそいながら、慎重に言葉を選びつつさりげなく言った。俺は思いがけないことに驚き、戸惑ってしまった。
「普通と違うって……。だってそりゃ、サラリーマンの家庭とは違うだろうけどさ、そんな事でからかったり馬鹿にしたりするような子がいるもんなのか?」
「自分が中学生の時の事思い出してみれば、分からなくもないでしょ。この年頃の子供なんて、誰かがどこかしら他人と違うだけで、深く考えもせずにからかったりするじゃない」
……確かに。
「おいまさか、いじめにあってるとかじゃないだろうな!?」
「そこまで深刻な話じゃないわ、大丈夫よ」
妻が笑いながら俺の茶碗を差し出したので、俺はとりあえず胸をなでおろし、好物のトンカツにとりかかった。
テラスに出て食後の一服をしながら、なんとなくモヤモヤしたものを煙と共に吐き出す。
……普通と違う。か。
それでいいはずだ。だってそれが俺の仕事だ。普通と違うからこそ、他の人間にはない視点で物事をとらえ、それを独自の発想で創意工夫して小説にするのだ。
分かっている。妻が言ったのはもっと単純な、俺の社会的立場だとか生活環境だとか、そういうことに過ぎない。深い意味は無い。にも関わらず、その「普通と違う」という言葉は、小さな刺のように俺の心に刺さっていた。
あれはまだ、今の妻と出会う前の事だ。結婚まで考えていた女性がいた。多少地味ではあったものの、優しい、良い女だった。当時営業マンを首になったのをきっかけに思い切って専業作家になったものの、中々ヒット作が出ず苦悩していた俺の心の支えだった。学生の頃からずいぶん長く付き合っていたし、年齢的にもちょうど良い頃合いだったから、なんとなくこのまま結婚するんだろうと思っていた。苦しい生活の中で節約し、何とか指輪を買ってプロポーズした。当然、受けてもらえるものと思い込んでいた。しかし、彼女からは、「ごめんなさい」という返事が返ってきた。俺は腹に強烈なパンチを食らった思いで、精一杯の努力で声の震えを抑えながら、理由を聞いた。
彼女は、「普通の生活がしたい」と答えた。
複雑な家庭で育った彼女だった。彼女の夢は、父親がいて、母親がいて、子供がいる、ごくありふれた家庭を持つことだった。とてもささやかな夢だ。家族そろって夕食を食べて、おしゃべりし、テレビを見る。週末には家族そろって出かける。そんな理想を、彼女は胸に描いていた。可愛い子供たち。おおらかな母親。家庭を大切にする優しい父親。なんの変哲もない、どこにでもいる、「普通の」サラリーマンの父親……。
俺には言うべき言葉が何も見つからなかった。俺はそういうタイプの人間ではないと、はっきり自覚していたからだ。創作に没頭すると、周りの事なんて一切構わなくなってしまう。生活時間は夜型だったり、昼型だったり、バラバラだ。小説がうまく進まない時は、機嫌が悪くなって周囲に当たり散らすことさえある。ひどく気まぐれで予定を立てるのが大の苦手。おまけにちょっとした放浪癖があり、突然何日も家を開けて彼女を心配させた事も度々あった。ものの考え方や感じ方、「変わっている」と、子供の頃からよく言われた。
……普通の父親。普通の男。
普通って一体何なんだ。「普通」こそが、俺には一番難しかったのだ。
小説家としてだんだん評価されるようになってからは、一種の開き直りみたいなもので、「俺はこれでいいんだ」と考えられるようになった。しかし「普通」へのコンプレックスと憧れは、いつまでも俺の中でくすぶり続けている。俺が俺である限り、おそらく一生手に入らないであろう、「普通」への羨望。
俺は自分の仕事が好きだ。好きで選んだ道だ。それを誇りに思ってもいる。給料をもらうためだけに毎日仕事に通う人間も多い中、そう言える俺は幸せ者だろう。だからこそ、自分が誇りに思う事を誰かに否定されるのは辛いものだ。ましてやそれが他人なら笑って済ませることもできるが、大切な一人娘では。俺は溜息と共に煙草の煙を吐き出した。
もし神様が、俺を別人に生まれ変わらせてくれると言うならば、俺は、「普通の男」にしてくれと頼むだろうか。ふとそんな事を考えた。
「今回はいつもの異世界ファンタジーではなく、ちょっと趣向を変えてSFファンタジーっぽいものを」と、担当編集に言われている。が。
……浮かばない。
……何も浮かばない。本当に、なんにも浮かんでこない。アイデアが。
一つの作品を書き上げてつかの間の安らぎを得、そしてまた次の作品に取り掛かる。その繰り返しだ。いわば、終わりのない産みの苦しみなのだ。でもそう考えてみると、創作する人間というのは、男でありながら本来は女性しか味わえないその産みの苦しみと歓喜を味わえる人種、という事になる。かといってそれが幸福かと言われると、うーん、と考えてしまうが。
そうだ、そんな話はどうだろう。男が出産する話。ある平凡な青年が、うーん、そうだな。何かの理由でマッドサイエンティストの実験体になる。そのマッドサイエンティストは人口子宮の研究をしていて、それで……。
うん、なかなか面白そうだ。それにオリジナリティがあるぞ。俺はいつもそうしているように、メモ帳に男の出産についてのアイデアを思いつくままに書き連ねていった。
……ダメだ。
……何かまとまらない。着想は悪くないと思うんだが。どうもストーリーが発展していかない。それにどうも心理描写につまってしまいそうだ。まあ、そりゃそうだ。出産なんて、男の俺にとっては未知の領域の最たるものだ。取材をする手もあるが、どうもピンと来ない。俺は溜息をついて、キーボードから手を放し大きくのけぞって伸びをした。
……所詮、自分の中にないものは書けないか。
仕方ない。このアイデアはいったん保留だ。もっと他に何かこう、どんどん筆が進むようなアイデアはないか。
ハードボイルドっぽいのなんかどうだろう。せっかくマッドサイエンティストが出てきた事だし。宇宙を彷徨う孤独なヒーロー対マッドサイエンティスト。ちょっと古いか。でも読者は以外と、「お決まり」ってやつが好きだ。こっちは何とか今までにないもの、新しいものを作り出そうと日々頭を悩ませているというのに、読者からの感想などを読むと拍子抜けすることがよくある。ちょうど、ミュージシャンがテレビでいつも同じ往年のヒット曲ばかりを歌わされるのと一緒だろう。
俺はしばらくの間、再びメモ作りに没頭した。
……ダメだ。
書いては消し、また書いては消し。他にもいくつかのアイデアを出してはみたものの、いっこうにまとまらない。いわゆる筆が進まないというやつだ。こういうものを無理に書き続けていっても、所詮どこかでつまってしまう。万一書き上げたとしても、あまり良い出来にはならない。これまでの作家生活の経験上、俺には分かっていた。
良い物が書ける時はちょっと違う。アイデアがまるで天から降りてくるように湧いてきて、そのアイデアに沿って書き始めると、まるで自分が何かに操られてでもいるようにどんどん書き進めていく事が出来る。時々、本当に自分が書いているのかと少し怖くなることすらある。多くの作家たちがこの現象について語るが、俺はこれを密かに「宇宙からの電波」と呼んでいる。人に言ったら笑われるだろうが、実際本当にそんな感じなのだ。宇宙のどこかにいる誰か、おそらく宇宙人の小説家だろう。そいつが電波を送って俺を操り、自作の小説を俺に代理で書かせているのだ。そして一人密かに「俺は天才かもしれない」などとほくそ笑んでいる俺に、失笑しているのだ。宇宙のどこかから。
おっ、このアイデアは使えるんじゃないか。宇宙人小説家が電波を送ってある地球人を操り、小説を書かせる。そしてその裏には大いなる陰謀が隠されていて……。うん、いいぞいいぞ。面白いじゃないか。
宇宙人の電波を受信する主人公はどうしようか。そうだな、中年の男。ちょうど俺ぐらいの。その方が書きやすい。それで……そうだ……。
昨夜の、妻との会話がふと頭に浮かんだ。
書いてみようか。「普通の男」を。俺と対局のような人間を。
俺は主にファンタジーものを書く作家なので、少女や少年や果ては擬人化した動物までも、ありとあらゆる主人公を書くが、やはり個性的ないわゆる変わった人物、つまり「普通」でない人物を書く事が多い。小説なのでどうしてもそうなりがちなのだ。なぜなら、普通の人間には、普通のことしか起こらない。小説になるようなドラマは起こしにくいのだ。でも、このストーリーなら……。いわゆる普通のサラリーマンが、ある日突然宇宙人からの電波を受信して操られ、小説を書くのだ。面白いじゃないか。よし決まりだ。主人公は普通の会社員。名前は……そうだな。「平野健一」でどうだ。うん。ものすごく普通っぽい名前だ。いいぞ。タイトルは……そうだ。「宇宙人小説家の陰謀」なんてどうだ。
調子が出てきたみたいだ。よし決めた。このアイデアでいこう。
さて、書き出しは……どうしよう。普通の男の生活はどんなものだろうか。通勤途中、仕事をしながら、同僚と飲みながら、どんな事を考えているのだろうか。
三ヶ月で営業マンを首になったのが、俺の唯一の社会人経験だ。なので、こういう普通のサラリーマンを書くとなると、想像力だけが頼りだ。
例えばこんな感じだろうか……。俺はゆっくりとキーボードを叩き始めた。
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