[3]
万引きの少女を捕らえてから1週間後、真壁は自転車で管内を巡回していた。
その後、少女は退学処分を受けたという。通っていたのが進学校だったため、校則は特に厳しいのだろう。商店街からは万引きが減ったという。少女には仲間がいた。盗みが悪いと分かっていても、仲間がいると罪悪感がマヒしていく。
真壁は署長公舎の前に来て、自転車を停めた。署長公舎はよく過激派のターゲットにされていたので、必ず巡回するよう地域課課長から直々に言われていた。巡回した証明にハンコを押すことになっていたが、その用紙を見て真壁は憤然とした。
前に押されていたハンコが、真壁が2日前に巡回した時に押したものだった。
最近の「北一交番」の評判が悪いというのは本当だった。交番には真壁の他に、定年退官が近い警官が2人つめていたが、彼らは「ゴンゾウ」だった。彼らは巡回せず、ただ机に座ってお茶を飲んでいるだけで、たまに来る落し物があると、真壁に事情聴取をやらせて遺失物届を書かせた。
真壁が積極的に街を巡回するようになったのは体がうずいただけではなく、「仕事を覚えたい」という思いがあった。下僕のように顎で使われている状況から、一刻も早く脱したかった。
真壁がハンコを押して巡回に戻ろうとしたとき、署長公舎の前に建っていた雑居ビルから男が出てきた。年齢は40代ぐらいで、風貌はヤクザ者だった。その男は真壁の制服姿を見るなり、急に背を向けるようにして歩き出した。
真壁はさっと追いついて、男に声を掛けた。手に小さな紙袋を持っていた。すると、男は急に暴れ出し、真壁を怒鳴りつけた。
「この野郎!お前、手ぇ組んでんだろ!
「どういうことだ?」
「おかしい。なんで、俺を職質した。お前、分かってんだろ、俺のこと」
「何も知らない。アンタと今、はじめて会った」
すると、男は急に大人しくなり始めた。
「あ、そう」
「手に何、持っているの?」
「俺は荻窪から薬を買いに来ただけだ」
「どこで買って来たの?」
「薬局で貰ってきたに決まってんだろ」
そして、男はズボンのポケットから財布を取り出し、大久保病院の診察券を見せた。手に持っていた紙袋には薬局の住所が書かれていたが、「北区」となっている。中から、白い粉薬が入った小さなビニール袋が5つ出て来たが、どれも赤い字で「i」と書かれている。真壁が袋を調べていると、急に男がしゃべり始めた。
「いやぁ、まいったね。新宿に来ると、おまわりさんの職質が凄いらしいから」
「ところで、iって何だ?」
「いやぁ、それは分からないけど・・・薬局の人が書いたんじゃない?」
「何でiなんだ?」
「いやぁ、分かんない。自分で書いたのかもしれない」
「中に何が入ってんだ?」
「風邪の薬」
「じゃあ、見せてくれ」
真壁が手にとって見ると、どうも普段自分が使っているような風邪薬には見えない。
「これ、風邪薬じゃないんじゃないか?砂糖か塩に見える」
「あ、おまわりさん、凄いね~。それは塩なんだ」
真壁は怒鳴りつけたくなる気持ちをぐっと堪えて口を開いた。
「そうか、塩か」
「実はウチのお婆ちゃんから、塩は縁起物だから持って行きなさいって言われた」
「だけど、何でiって書いてあるの?」
「これはお守りなんだよ。勝手に開けたりしたら、アンタもバチが当たるし、俺もバチが当たる。お婆ちゃんからは、絶対に開けるな・・・」
男は真壁の後ろに眼を向けると、急に怒鳴り始めた。
「オメェ、上岡じゃねぇか!てめぇ、この野郎、一言もしゃべんねぇで!」
「だって今、若い人の指導をしているから」
聞き覚えのある声だった。真壁がさっと振り向くと、1週間前に新宿西署の廊下ではち合わせした中年の男が立っていた。真壁が呆気に取られていると、男が急に走り出した。
上岡が怒鳴った。
「逃げたぞ!」
真壁は走り出して50メートルも行かないうちに男のシャツの後襟を掴んで、地面に引き倒した。なおも暴れようとするので、後から追いついた上岡が男の手首を掴んで一気にひねった。骨が鳴る小気味いい音がして、男は悲鳴を上げて静かになった。
上岡が薬物担当の捜査員を呼んだ。捜査員が白い粉薬を試験管に入れ、試薬をたらすと青藍色に変わった。覚醒剤だった。ビニール袋の上に赤い字で書かれていたiは覚醒剤の俗称の1つ、アイス(ice)を略したものだった。
上岡が試験管を男に見せつけた。
「いくらで買ったんだ?」
「1個、3万円の風邪薬だ。まいったか!」
真壁と上岡はパトカーで男を新宿西署まで連行した。5階の組織犯罪対策課で手続きを終えて、真壁が交番に戻ろうとしたとき、上岡が呼び止めた。
「あの男は浜中組のチンピラでな。オレが昔つかまえた時も、1個3万の風邪薬だってほざきやがった。ヤクザは成長しないモンなんだな」
「はぁ」
「覚えておいた方がいいぞ。署長公舎前の雑居ビル、あれは浜中組の事務所が入っている。ま、歌舞伎町の中だったら、百は近い組の事務所があるがな」
真壁は嫌な予感がしていた。
「歌舞伎町の交番に就いてみる気はないか?」
そら、見たことか。
「私もいずれ就いてみたいと思いますが・・・まだ新宿に就いてから1か月は経っていませんし、今はまだ右も左も分かりませんから」
「そんなことは心配しなくていい。試験的でいいんだから」
上岡の口調はどこか有無を言わせない感があった。
「じゃあ・・・やってみます」
「ああ、やってくれるか!じゃ真壁君、3日間だけ休暇やるよ。いいのを捕まえてきてくれたからね」
上岡は上機嫌で答えた。真壁は上岡が地域課課長代理を務める警部だと分かるのに、大した時間はいらなかった。
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