第40話 新たな旅立ち

(いったい、夜明けまであとどれくらいあるのか?)

 ルトは夜明けが待ち遠しく、蔦の葉をしゃぶりつつ思った。何かを嘗めると少し唾液が出て、乾きに耐えられそうな気がするのである。風があったが、汗を吸った貫頭衣を通して体温を奪って寒い。ルシュウが黙って火の番をしているらしい。ルトが横になっている位置からルシュウの横顔が火に照らされて見える。誰も話す者は居なかったが、皆は起きているらしい。時折、誰かが身動きをする物音が、肌寒さに身を屈していているようで堅苦しい。

「何か?」

 突然にルトは何かを感じ取ったた。何か違うと思うのだが、何か分からないのである。心臓の鼓動が耳に大きく、全身に伝わって震えるようだった。ルトは不安に耐えきれずに、上半身を起こした。

 乾いた喉を通過する呼気が荒い。

 風が植物をなぶる音があった。

 時折、火の中で樹脂がはぜている。

 突然に、火が掻き立てられ、炎が大きく燃え上がった。ルシュウがそこいらの樹木から剥ぎ取った樹皮を火にくべたのである。ルシュウが不安を隠さずに言った。

「ルトォ、オレ、恐くなる」

「本当。何か、静かだわ。静かすぎる」

 ネアも起きていたらしい、両手を支えにして半身を起こした。

「うむ。何やら」

 そう頷いたのはガルムである。植物が風になぶられる音や炎の中に響く音に音に囲まれて、ネアが耳を澄まして繰り返した。

「変よ、静かすぎるわ」

 山をよく知るネアの経験からすれば、夜の深い闇の中であっても、眠りに就く前の鳥の鳴き声や獣の遠吠え、猿が枝を渡る音など数え切れない音に満ちていた。雲一つ無い夜空から、冴えた月が山の峰を照らすのみで、今は山に生き物の声がなかった。ネアの心をかき立てる得体の知れない不安感と同じものがこの世界を包んでいて、生き物は全て巣の中で恐怖に縮こまって黙しているように感じられた。彼女たちが耳を澄ます中で、突然に声が響いた。

「みず」

 今し方、目を覚ましたに違いない少女が、かん高い声で叫んだのである。昼間、彼らに命を救われた視察司の少女である。彼女には下さいとか、欲しいという言葉が必要がなかった。ただ、水という言葉でよく、彼女はそれによって飲料水が得られるはずだった。そういう境遇にいた少女である。

「みずっ」

 少女は繰り返したが、そのかん高さを増した声音に回りの人々は、ひどく迷惑に思ったが、黙ったままで、少女の相手をする者がない。自らの乾きに耐えて、声を発するのが億劫なのである。

 しかし、皆はこの少女に気を取られて不安を忘れた。表情に出せない腹立たしさが不安を覆い隠したと言っていい。昼間、蒸し暑い中で死にものぐるいで駆け回って、絞り尽くすほどの汗をかいた。今、焼け付くほどの渇きに苦しんでいるのは少女だけではない。

「水はどこ?」

 繰り返す少女の問いにガルムが生真面目に答えた。

「ありませぬ」

「死にそうよ」

「今しばらくお待ちあれ」

 この暗闇の中で水場を探して険しい山道を彷徨うなど危険きわまりなく、運良く水場を見つけたとしても、元来た道を見つけてここへ戻って来る事など出来ないだろう。しかし、要求が満たされない少女は周囲の人々をなじった。

「不忠者め。お前たちは、私が喉が渇いているのに平気なの?」

 少女とガルムの会話は、僅かながら不安を忘れさせてくれたが、この少女のワガママは同年代のネアの耳に障った。

「飲みに行けばいいわ。水場なら、ここを下ったところよ」

 ネアが指さす先は、漆黒の中に落ち込むように斜面があって、下る道がない。幼い視察司はその暗闇の恐怖に黙りこくった。ルトが少女をなだめるように言った。

「もうすぐ、夜が明ける。そうすれば下りの道が見えるはずだ」

 東の空が僅かに白いことをルトは言ったのである。


 この時、最初に、ネアはビウクウかと思った。精霊の死んだ樹木が倒れたのだろうと考えたのである。珍しいことではない。しかし、それはきっかけに過ぎなかった。

その物音が幾十に連なり、更に幾百倍の轟音になって山を振るわせた。彼らは上半身を起こすということすら出来ずに、地面に伏せた。地面の上で彼らの体が跳ね回り、体を支えることが出来ない。互いに何かを大声で叫んでいるのだが、言葉に意味が無く、地の震える音に彼らの耳がふさがれた。

いったい、その震動がどのくらい続いたのか、彼らは推し量ることが出来なかった。ただ、息づかいの荒い自らの呼吸が聞こえ、地鳴りの終結に気づいたのである。黄泉の底深くに吸い込まれるのかとも恐怖したのだが、彼らは未だ地の上にいた。

 ようやく、体を支えて立ち上がると、幾本もの巨木が倒れて、大きく切り開かれた空が、夜明け前の薄明かりで赤く変わっていた。やがて光が増して周囲のシルエットの姿形を明瞭にし、人々の表情まで鮮明にした。呆然とたたずむ人々には、驚きのみの表情の変化がなかった。目の前に見える恐ろしげな結末を信じる事が出来ないのである。

 山はざっくり抉れて、その海側の斜面に地を露出し、その先にあるべきものがなかった。海が黄色く濁って、今し方飲み込んだばかりの、マニの街の神殿の尖塔の先のみが、黄色の濁りから見えていたが、それも折れて海面に没して消えた。


 彼らが目にしたものは、この後に百万人の人々と共に海没するムウ大陸の終末の始まりだった。彼らは互いに黙りこくって言葉がなかった。東の空から朝日が射して人々の目を射て我に返らせた。少なくとも、この瞬間、彼らはこの地で生きていた。

「オレ、サクサ・マルカ、行く」

 ルシュウがどろりと濁った海に背を向けてそう宣言した。

 皆は顔を見合わせたが、立ち去ることに反対する者はいなかった。彼らには既に引き返す道が無く、北方の山の峰をいくつか越えて、サクサ・マルカを目指すしか無いのである。

明暗や高低や方向の定まらない道が彼らを待っていたが、ルシュウの素足の指が力強く地を捉えて、彼らは新たな運命に一歩を踏み出したのである。

                


                    

             ムウの残照 第一部 ~自然児ルシュウ~ 終わり

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