第39話 異変
頂上では、ガルムらを包んで飛び交っていた蝶は何処へともなく去った。先ほどの乱舞が夢のように、今は一匹の蝶を見つけることも出来ないのである。薄紫だった空が赤い。夕焼けの赤さではない、深い赤みを帯びた空に白い雲が浮かんでいる。
しかし、ガルムらを緊張させたのは、そんな色ではなく、チムガの兵士の声が聞こえている事だった。兵士たちが呼び交う声が谷間に響き、徐々に近づいてくるのである。
ガルムは周囲を見回した、先導者のネアは疲労で放心状態にある。もともと体力を回復しきってはいないのである。もう一方のルトが背負ってきた少女ウルニは、倒木にしがみついたまま動くのはイヤだと言わんばかりである。ルトも未だ肩を上下させている。
(これでは逃げ切れぬ)
ガルムはそう思った。
この上は一戦してガヤン・ガルムの名を残すのみとガルムは彼自身荒い息をしつつ思った。兵士の声が近づいている。響いてきた女の悲鳴は、残された女官達のものか。
(間もなく)
ガルムはそう戦いを決心し、ルトも親方の様子をうかがいつつそう観念したらしいのだが、異変が起きた。意外にも兵士達の声が遠ざかって行くのである。その声の内容は充分に聞き取れないが、遠ざかっているのは確からしい。ガルムはそれがチムガの死を示すことを知らない。
頂上の四人は、身動きせず、言葉一つ交わさず放心状態にあった。もはや密林に埋もれて兵士の声が聞こえない。突然に、彼らは命を救われたのである。
「儂は運に恵まれている」
ガルムがそう呟いた時、やや疲れた足どりで近づく者があった。ルシュウである。
「生きていたか」
ルトがルシュウの生還を素直に讃えた。
「バンカ。剣、取り戻す。バンカ、死ぬ」
ルシュウは一言で顛末を語った。ネアはやや伏し目がちにじっと考えていたが、やがて顔を上げて断言した。
「私たちは生きましょう」
ルトは生きると言い切った少女の表情が、幼いながら美しいと思った。たしかに、ここは生きる場所ではない。ルシュウはバンカの死を悔やむ悲しげな表情をしていたが、振り返ってじっとルシュウの顔を眺めたネアの心情を察したように、口元を崩してわざとらしい笑顔を作った。
四つ向こうの峰は見晴らしが利き、そこを下ると湧き水がある。その地形をこの少女は知っていた。複雑な高低差のある尾根道が続き、彼らを苦しめたが、ルトは黙って重い荷を背負ってネアに従った。背負われた少女もおびえたように黙っていた。ガルムも生きるために歩いた。
ネアが進むべき方向を定めると、背後にいたルシュウが、その先を確認するように駆けて、振り返った素直な笑顔で、安全を伝えて戻ってくる。バンカの死を眺めた悲しみは固く心に秘めて、この苦しい境遇で浮かべる、その笑顔の素直さ。
(どうして私たちは、この少年のように生きられないの)
何の欲もなく、素直に人と悲しみや喜びを共有している。少年のその生き方がうらやましいと思ったのである。この後、長く旅を共にすることになる少年が、その生き方を通して、ネアに初めて伝えたメッセージかもしれなかった。
ルシュウは時折、空を見上げつつ何かを呟いた。
ネアも空の色がおかしいと思いつつ黙って先頭を歩いた。
疲労した体を時折休めつつ、五人は四イド(約三時間)の間、歩を進めた。陽が落ちかけて薄暗い。
しかし、目的の峰に到着すると、確かに見晴らしが利いた。山の民がシャーガと呼ぶ峰である。ガルムをやや失望させたのは、麓にマニの街が見える点である。随分と歩いたつもりだ、しかし、彼らがさまよった尾根道はマニの町をぐるりと取り囲んで、意外に近くマニの街を眺めることが出来るのである。その先に海が水平線の彼方まで広がって、今はほとんど沈んでしまった夕日に染まっていた。間もなくその色も失ってしまうはずだ。
ネアはそれ以上進まなかった。この峰をマニの街と反対側に下れば水場があるという。しかし、日暮れの方が早いと考えたのだった。誰も文句は言わなかった。少なくともここには、彼らが体を休める平らな場所があった。昼間の彷徨で、夜の山道を下る危険を皆知っている。
ルシュウは手際よく火をおこした。皆、火を囲んだが、黙ったままだ。やがて昼間の疲れが出、思い思いの格好で眠りについた。
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