第38話 チムガの最後

 一方、尾根を駆け戻るバンカは、ネアとの議論でやや熱くなっていた。チビのバンカやスクルらの無惨な死体を思い出したのである。

「畜生。殺してやる」

 バンカは歩きつつ、そんな言葉を繰り返した。そう呟く度に憎悪が増幅するようである。そして、その憎悪がバンカの方向を狂わせた。微妙な地形の凹凸の中に、方向ばかりか自分の位置さえ見失ったのである。ツタを払いつつ右の斜面を登っては戻り、羊歯に足を滑らせつつ、左の倒木や岩の凹凸を下った。

樹木から漏れる陽が赤味を増している。間もなく陽が暮れるのだろう。そうすれば益々身動きがとれなり、彼らはチムガを襲うチャンスを逸してしまうに違いない。そういった意識がバンカを更に焦らせ、地形を読ませない。

「バンカ。待つ」

 ルシュウが言い、足を留めた。目を瞑って自分の目的を放棄したようにも見える。

「ルシュウさん……」

「黙る。良い」

 ルシュウはなおも黙って立ち尽くしている。土の香りがする。風が樹木を鳴らしている。その何の変わりばえもしない物の中に微細な変化を読みとったらしい。

「剣、ある。あっち」

 ルシュウは断言し駆け出した。バンカにはルシュウの判断を否定できなかった。ルシュウを追って駆け出したが、ルシュウの歩みが早い、彼もまた日暮れを心配しているのかも知れない。バンカはルシュウを見失った。しかし、間もなくルシュウ自身ではなく、ルシュウを走らせた兆候を、バンカもまた捉えたのである。バンカは伏せた。兵士の声とそれを叱咤するチムガの声が混じっていた。

「近い」

 バンカはそう思ったが、近いどころの話ではない。斜面のすぐ下にチムガ自身の姿が見えるのである。兵士につかず離れず、兵士を背後から追うように最後尾に位置している。そして左手に持っている物は、ルシュウの剣に違いなかった。チムガは自らの剣は腰に帯びたままで、ルシュウの剣を振り回して兵を指揮しているのである。

「はんっ」

 バンカはほくそ笑んだ。バンカの居る場所から谷底へ下る斜面の中間に、僅かに張り出した箇所を繋げて細く刻まれた道である。あの細い不安定な足場では、長刀を振り回す事などおぼつくまい。極力接近して、短刀で一気に切りかかれば勝機はあると、バンカは考えたのである。もはや、どこかで見守っているはずのルシュウの存在など忘れ去っていた。

「チムガ」

 バンカの誇りがそう叫ばせた。チムガの背後斜めから十数歩の位置である。振り返ったチムガは、突然に背後に現れ、短刀を構えて駆け寄る青年に驚きを隠せない。

「やった」

 バンカは思った。あと数歩踏み出せば、彼の短刀の切っ先がチムガに届く距離である。チムガがルシュウの長刀を鞘から抜く隙に、バンカは領主の脇腹から内蔵を抉ることが出来るだろう。

 しかし、傭兵上がりのこの男はこういう状況にも場慣れしていた。チムガはこの接近戦では戦いの邪魔になるルシュウの剣を惜しげもなく捨てた。ルシュウの剣は投げ捨てられて斜面の蔦に絡まった。振り向いたチムガの手がバンカの短刀を持つ手を強く捉えた。しかし、バンカにも勢いがあり、その切っ先がチムガの衣服を僅かに切り裂いた。

 チムガが大した負傷もしていないのは、兵士を振り返って言った事で知れた。

「ただのネズミである。お前達は先を急げ」

 そして、チムガは襲撃者に眼を戻して残酷な笑みを浮かべて言葉を継いだ。

「全く、油断のならないネズミよな」

 そして、バンカの右手を軽々と捻って、その体を引き寄せ、バンカの腹を蹴った。バンカが血の泡を吹いた。

「畜生」

 そう思いつつも、腕力の差がありすぎ、バンカは反撃できない。チムガは、なおもバンカの腕が折れるのもかまわず引き寄せ、頭部を掴むと、土にめり込むほどの強さで地面に叩きつけた。その様子がネズミをなぶる猫の執拗さに似ている。更にチムガはバンカの頭部を掴んだまま、状態を観察するかのように引き起こした。

 バンカの脳裏に、殺された人々の姿浮かび声が響いたのだが、彼らが何を言っているものか分からない。わずかにバンカは後悔の念と共に呟いた。

「すまねえ」

 次の瞬間のバンカの目に、チムガが腰に帯びた長剣が目に入ったのと、ルシュウの声が響いたのとどちらが先だったのだろうか。

 チムガの背後にもう一つ人影が現れた。先の道でチムガを待ち伏せしていたルシュウである。待ち伏せの横あいからバンカに進入されてしまったのである。

「バンカ、離す」

 感情を抑えた声でルシュウは、バンカを解放しろとチムガに命じた。言葉で命じたのみならず、既に矢を放っていたのはこの少年の感情の現れだったろう。チムガはバンカの頭部を掴んだ腕を射抜かれて手を離した。支えを失ったバンカは、まるで支えを求めるように、未だ折れていない左手でチムガの腰の長剣の束を握った。バンカの体がチムガから離れ、バンカが握った剣が鞘から放たれる重々しく鋭い金属音がし、バンカの手にチムガの抜き身の長剣がある。その音と反射光がバンカを我に返らせた。

「ざまあみろ。みんな、仇は討ったぜ」

 そう短く言ったバンカの眼に涙が滲んでいた。チムガは声を発しなかった。ただ信じられないことが起きたと言うように、自分の腹から背に通った剣を抜くような動作を力無く二度三度行い、血にまみれた手のまま斜面を転がり落ちていった。バンカが最後の力を振り絞った剣が、チムガを刺し貫いたのである。

「バンカ」

 ルシュウが声をかけたが、返事がない。ルシュウは蔦に絡まっていた自分の剣を拾い上げ、斜面を登り始めた。間もなく異変に気づいた兵士達が戻ってくることに気づいているのである。

 ルシュウは立ち止まって、バンカを眺めた。

「バンカ、生きる」

 ルシュウはバンカの体を揺すったが、バンカは眼を見開いたまま瞬きををしなかった。泥と血にまみれた顔には口元にほほえみが浮かんでいたが、その表情は堅く凍り付いていて生気はなかった。

 ルシュウの肩が激しく上下する様子が見受けられ、彼の呼吸が荒い。今のルシュウにはバンカの死体を背負って運ぶ体力はなかった。


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