第23話 ルシュウ侵入する
やがて、バンカが先頭になり、ルシュウを誘導して駆けた。彼らは川辺に出た。昨日ルシュウが矢を射た川辺である。川は街を取り囲む山と平地を遮るように流れ、チムガの館の北を流れて、丁度、山と街を遮るように海に出る。
その川に面した柵が他よりやや越え易く、歩哨の兵士も少ない事をバンカは知っていた。(高い柵を越えるのに手を貸さねばならない)
バンカはそう考えていたのだが、ルシュウはバンカと同じように軽々と柵に取り付き、それを越えた。足音も立てずに、柔らかく着地をしたのである。バンカはこの少年の身体能力が、自分と同じかそれ以上だと気づいて舌を巻いた。
前回、バンカが侵入したときに比べると、確かに見回りの兵士が多い。バンカは闇の中で屈んで、ルシュウに小声で言った。
「牢は向こうだ」
館の敷地内、東側の一郭に、これから処刑する囚人の為の牢がある。バンカは数カ月を掛けて、敷地に入った大工や園亭や下働きの下女から彼らの知識を仕入れた。それらの知識が整理されて、バンカの頭の中で館の絵図面として有る。以前、侵入に成功したのはあながち偶然でもないのである。
「こっちだ」
バンカはルシュウを誘導して、樹木の陰、建物の陰、地面のくぼみに伝って駆けた。振り返ると、ルシュウが一歩も遅れずにいる。
(あんた。いい盗賊になれるぜ)
バンカは口には出さずにそう褒め称えた。
練兵場のやや北西に館の別宅とも言うべき建物があり、それが罪人を収容する牢の目印になると、バンカは井戸堀りの人足から聞いた事がある。
その建物の西側に、地面を大人の背丈ほどに斜めに掘り込んだ穴が幾つもあり、その穴を上を塞ぐ格子の蓋の下から、囚人のうめき声を聞いたと言うのだった。
たしかに、囚人を閉じこめる牢は、その場所に有った。地面を掘り抜いた穴の縁に格子がついていて、囚人らしい人々のうめき声が聞こえるのである。穴は人が一人か二人入れる程度の大きさで、地面を斜めに掘り込んで囚人が斜めに身を横たえる様にしてあり、その穴に格子の蓋をしただけの、処分の決まった囚人を処刑まで閉じこめて置くだけの簡素な牢である。
その穴が七つある。そして穴の前には兵士が二人。
(兵隊は片付ければ良い)
バンカはそう考えた。困ったのはネア以外の囚人についてである。ネアを救いだせば他の囚人が騒ぐだろう。しかし、バンカはネアを救い出すのに精一杯で、他の囚人まで一緒に連れ出すことは出来ない。
「しょうがねぇな」
バンカはずるく呟いた。バンカは歩哨の兵士を眺めた。バンカの目からみて、兵士達には一つの行動の規範がある。今、二人の兵士はひどくまじめに見回りをしている。これは間もなく交代の兵士が現れる際の現象だった。今、あの二人の見回りを襲っている時に交代の兵士が現れてはやっかいだった。
(やるとすれば、新しい見回りに変わった後だ)
バンカはそう考えながらルシュウを導いて別宅に接近した。ルシュウはそんなバンカの意図を悟ったのかどうか、バンカの背後に黙って付き従った。
二人が入り込んだのは別邸の外部に隣接する家畜の飼料小屋である。耳を澄ませて状況を探るバンカは舌うちをした。無人のはずのこの離れの館に男どもの話声がするのである。しかし、この別邸に接する飼料小屋は内部に出入口はない。バンカたちが隠れているこの部屋に入るためには、家人は先ず家の外に出る必要があり、気を配っていさえすれば、中で騒いでいる者どもとは顔を合わすはずはなかった。
そして、中の男どもはひどく陽気で、下卑た冗談が飛び交わせていた。酒でも入って酔っているに違いない。そんな連中がわざわざここにやってくることはあるまい。
(品の無い連中だ)
バンカは館の中から聞こえる男共の声を聞いてそう思った。バンカはルシュウに飼料小屋の奥に腰を下ろすように手振りで伝え、ルシュウは黙ってそれに従った。
好機を待たねばならないという点で盗人と猟師は似ている。ルシュウもバンカも待つ事を苦にはしなかった。唯一点、交代の兵士が来るという好機まで、彼らは一言も交わさずに、ただ、一ダンガジル(約70メートル)ばかり先の牢があるはずの闇を見て過ごした。家の中では相変わらず馬鹿騒ぎが続いていたが、一人ずつ酔い潰れているらしい。声が静まり、男たちのいびきが壁を通じて漏れ聞こえた。バンカが背後に気を配っていれば、ルシュウが漏れ聞こえる声に首を傾げ、やがて何かを悟ったように笑顔を浮かべたのに気づいたに違いない。
やがて時が来た。一組の兵士に一本の松明の明かり、二つの炎が交錯し、一つが遠ざかるように消えた。牢番の兵士が交代したに違いなかった。バンカはルシュウに目配せをしてその位置で待てと言い、居心地の悪い飼料小屋を出た。
まず、バンカは一人目兵士の背後から組んで、有無を言わせずに喉を掻き切った、即死だった。二人目の兵士の背後から駆けるように近づいて、声をかけ、振り向くところをナイフで兵士の胸をナイフで刺し貫いた。バンカは顔面から滴るほどに返り血を浴びたが、兵士は声も上げずに倒れた。
バンカは飼料小屋に向かって手招きし、ルシュウを呼び寄せた。バンカはしゃがんだまま小さく短く少女の名を呼んだ。
「ネア」
七つの牢のいずれからも、返事がない。
一つ目の牢の中を覗いたバンカは、ナイフを使って牢の穴を塞ぐ格子を結ぶ縄を切り放ち、中の囚人に南を指して言った。
「逃げろ」
「恩にきる」
牢の中にいた男は一言いい、南へとよろよろ走り去った。次の牢は空で、三つめの牢には老人がいた。バンカは格子を外して南を指した。
「じいさん、逃げろ」
しかし、老人は足腰が立たないようである。四つ目の牢の囚人は既に死体になっており、ネアは五つ目の牢にいた。一人で立てぬほどに衰弱しており、意識がほとんど無かった。とりあえずルシュウにネアの身を託し、バンカは残った二つの牢を開け、中の囚人に短く念を押すよう言った。
「逃げろ」
そのバンカの指は南を指している。ネアの牢に戻ると、既にルシュウがネアを担ぎ出しており、西に方向を取って軽く駆けている。
「方向は良い」
バンカはそう考えた。西の練兵場を抜ければ、人気が少ないルートを最短距離で柵までたどり着けるのである。そして、南に逃げた連中が兵士の注意を引きつけてくれるはずだ。バンカは危険なルートを囚人たちに教え、逃げるための囮に使うつもりなのである。
バンカがルシュウを追おうとした時に、先ほどの老人が牢から這いずり出て叫んだ。
「連れて行ってくれっ」
必死である。老人はここで惨い死を待っていたのである。
「連れて行ってくれっ」
老人は甲高い声で必死の声を上げた。その声に詰め所の兵士が気付いたらしい、何やら騒がしくなった。バンカは老人に向かってナイフを投げ、老人の声を制した。
(惨い処刑をされるよりは)
バンカはそう思ったが、決して良い気持ちではない。しかし、広がった騒ぎは治まる気配がない。ただし、その騒ぎはバンカから見て南の方に片寄っている。バンカの企み通り、先に逃がした囚人たちが兵にみつかり、その注意を引きつけてくれているのである。
バンカは西へルシュウの後を追った。ルシュウは先ほどの飼料小屋でバンカを待っていた。柔らかな藁の上にネアが横たえられており、ルシュウは荒く息をついている。少女とはいえ、気を失った少女の体は重い。バンカが担いでも似たようなものだ。
ルシュウは喘ぎつつ、呼吸が整うのを待てないというように言った。
「お前、殺す。お前、正しい? オレ、良く分からない」
バンカが兵士や老人を殺したことを責めているらしい、しかし、その理由が少女を救い出すことにあることも分かっているのだろう。
しかし、バンカはルシュウと無駄な議論をしている暇も、休んでいる暇もなかった。こんなに牢に近くて、隠れるのに絶好の場所は、真っ先に兵士達の探索の網にかかるに違いないのである。ぐずぐずしていれば、兵士たちは南に逃げた囚人たちを始末した後、まだ見つからないネアを探して、この辺りまでやってくるだろう。
ルシュウとバンカが交代で担いで走れば、柵まで逃げ切れるかも知れない。バンカの誤算は予想外に早く、兵士達に感づかれた事である。そして、訓練を受けた兵士の動きが早い。兵士たちはそつなく四方を固めているようだ。
「逃げきれるか?」
バンカはそう思い、焦ったが、ルシュウは壁の向こうを睨んで、耳を澄ませて何か考える素振りである。バンカはひどく焦って言った。
「急げっ」
ルシュウがネアの体を抱えるように抱いて立ち上がったが、その方向はこの飼料小屋に隣接する別邸の周囲に沿った方向である。
「あの馬鹿、どこに行く?」
そう怒鳴りたい気分だが、大声が出せる状況ではない。バンカもネアを背負うルシュウの後を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます