第9話 マニの町3

 マニの町は、中央の広場から四方八方に伸びる街道があり、今、ガルムらが歩いているのは、港から北へ、町の中央につながる街道だった。その町の広場の更に北に、この辺りを治める領主の館がある。

 多分、この町には秩序と言うものはなく、街道から無秩序に伸びるいずれかの路地に入り込めば、複雑に分岐と合流を繰り返して、迷路になっていて、人は方向や位置を見失うに違いなかった。

 町の主要な街道だが、衛兵の詰所があるかと思うと、その横が大きな商家だったり、その横にはバナナの葉で屋根をふいただけの粗末な小屋の隅に、薄汚れた物売りが座っていたりした。一歩路地に入って小屋の向こうに見えるのは娼家に違いない。

 肩や腰の線が露になった薄手の貫頭衣を身に纏った女達が道を行く男達の品定めでもするように声をかけていた。そんな人や町を包むように広い空間全体が赤く、その夕焼けにルシュウたちを染めていた。

 ガルムは街道沿いに見つけた両替商に立ち寄って、金の小粒の一つを差し出した。両替商は小ずるく目を光らせながら値踏みするように言った。

「六千ゼタというところか」

「儂を田舎者だと侮りおるか」

「では、七千ゼタではどうかね?」

「一万三千」

「こんなちっぽけな金粒にそんなに払ったら、こっちは干上がっちまわあ」

「では、一万二千」

「お客さん、互いに初対面だ。ここは挨拶代わりにどちらも譲って、一万というところで手を打たないかね」

「よかろう。ただ、この町のことを聞かせてくれ」

 そんな会話で、金の小粒を貨幣と交換、貨幣を革袋に入れるガルムを眺めて、ルシュウは首をかしげていた。ルシュウの疑問はルトにもよく理解できる。ルトが生まれ育った村では物々交換が主で、貨幣で物をあがなう習慣はなかった。ましてや、ルシュウにとって理解しかねる出来事に違いない。二人を未熟だと笑うことはできない。彼らが感じた違和感や不安は、様々な価値観を持った物を、貨幣という得体の知れないものの分量で推し量ろうとする不自然さである。ガルムはそんな二人の疑問に気づく様子もなく、両替商に問うた。

「領主のンタルガ様の事だが……」

 ガルムは老人と共通の話題から話を始めるのが良かろうと考えたのである。しかし、両替商の返事は意外だった。

「いったい、いつの話だね。ここは、とっくにチムガの領地だよ」

 ガルムはここでチムガという名を初めて聞いた。ガルムがこの地を離れるときには聞かなかった名である。

(よほど、注意しなければ)

 ガルムはそう自分を戒めつつ、同時に両替商に過ぎない男が、領主の名をチムガと憎々しげに呼び捨てにする様子に、新たな領主の人物像を思い浮かべていた。ただそんな動揺を表情には出さずに質問を重ねた。

「そのチムガとは、どんな人物なのだ?」

「ただの薄汚ねぇ人殺し様さぁね」

 両替商は吐き捨てるように口にした言葉を継ごうとしたが、店の外の人影に気づいて、突然に口ごもった。ガルムが振り返ってみると、何かを探し求める兵士たちの姿が見えた。

「それで、その薄汚い人殺しがどうしたのだ?」

「いや、もう言えねぇ」

 怯えるように口をつぐんだ両替商に、ガルムは彼の心根を察した。そして、ルトにあごをしゃくって、店の入り口を示して、用は済んだと告げた。チムガという領主は領民に嫌われているばかりではなく恐れられてもいる。そして、情報網を張り巡らせて領主に敵意を抱く者を狩り出しているのだろう。

「宿を探さねばならん」

 ガルムはそう考えた。町の雰囲気が変わっている。宮廷で武術指南をしていたと自称するガルムにとって、二十年ぶりのムウ帝国の町は、昔とはかってが違うのである。ガルムは経験的に、情報不足のまま生きる恐さを知っていた。権力者の動向など、長年この地を離れていたガルムの知らねばならない事は多い。

「酒場が良い」

 この男は呟いた。酒場ならそういう類の情報を仕入れるのにうってつけだろう。通例、ムウの酒場は宿泊施設を持っている。宿泊施設と酒場の区別がつかないことすらある。今夜の宿の確保にも便利なのである。手頃な酒場の前に、客引きの女がいた。

「いくらだ?」

 ガルムは女に値段を聞いた。女は値踏みするようにガルムを眺めつつ言った。

「一晩で五百ゼダでどうだい?」

 女が提示した金額の高さに、ガルムは女の勘違いに気づいた。この娼婦はその金額でガルムの夜の相手をしてやると言っているのである。

「違う。宿は一泊いくらだ?」

「お一人さん、二十ゼダ」

 女は不機嫌に短く言った。その口振りに、辺境者を馬鹿にする態度があからさまに滲んでいた。

「高すぎる」

 ガルムは思わず本音を漏らした。彼が犯罪者同然のトラブルを起こして、この地から逃れてから二十数年、その間に様々な物の価値が大きく変わっていることを認識できないでいる。女は短い哄笑で答えただけだ。この金額以下で泊まれる安宿が、他に何処にあるのかと言うのである。

 ガルムは腹立ち紛れにルトを叱りつけた。

「ルト、あまりキョロキョロするものではないわ。剣士である事を自覚せい」

 確かにルトにとって何もかも珍しく、目移りしてしょうがない。このマニの街のたった一本の街道さえ、彼の育った街の、全ての町並みを合わせたよりも、にぎやかで立派だと感心しているのだった。ガルムはルトを叱りつけつつ、懐具合を気にして女に宿泊費を値切る、という剣士らしからぬ事をした。彼の習性でもある。この時、ルシュウという有力なスポンサーを思い起こした。そのルシュウの姿が見あたらない。

 ガルムはルシュウを見失ったのかと思い、内心慌てた。何しろ彼らの金蔓なのである。しかし、すぐにルシュウの姿を人混みの中、取り分け、人々の好奇心の視線の輪の中央に見つけた。ルシュウは果物売りと向かい合って何か交渉でもしているらしい。

ルシュウはどうやら、代価を支払うという行為を覚えたらしかった。しかし、その行為の不慣れさにガルムが舌打ちをした。

「あの馬鹿めが」

 ルシュウは一個のトマトの代価に、金の小粒を渡そうとしているのである。それは人が十年は優に生活できる額に違いない。果物売りは、降って湧いたような好運に戸惑っているようでもあり、また、小ずるそうな目の奥で、これには何か裏でもあるに違いないと疑っているらしい。人々はそんな果物売りと気前の良い少年を囲んではやし立てているのだった。

 ガルムは威嚇するように腰の剣をちらつかせて、人々の輪に割って入ると、小粒を奪い取って皮袋に戻し、自らの貨幣を果物売りに渡した。

「これでよいな」

 ルシュウはしばらく首を傾げていたが、やがて手の中のトマトが自分の所有物になったことを知ったらしい。少年は無邪気な笑顔で言った。

「タダノ・ガルム、いい人」

「タダノ・ガルムではない。儂はガヤン・ガルムである」

 ルシュウの笑顔に、ガルムは出会った時と全く変わっていないことを知った。ガルムはルシュウを物陰に引きずり込んで人目から隠して、金の小粒が入った革袋は背負った荷物の一番下に大切にしまっておけと身振りで伝えた。既にかなりの量の金の小粒をルシュウから奪っていて、ガルム自身は旅の費用に困りはしない。しかし、いつ再びあの金が必要になるかも知れない。金の小粒を奪っても不満を感じさせないよう、その価値はルシュウには教えず、しかし、無駄遣いをさせないようにさせねばならない。

 別の小さな革袋に貨幣を五、六枚入れ、ルシュウの首にかけてやった。

「よいか。大切に使え」

 ガルムの言葉にルシュウは素直に頷いた。この貨幣がトマトと交換できたことはルシュウは学んでいるだろう。その証拠に、ルシュウは手にしたトマトと、首にかけてもらった革袋を交互に眺めていた。

「オレ、大切に使う」

 そう言って機嫌良く笑うルシュウを眺め、ルトは親方の吝嗇ぶりに眉を顰めた。

(たった、五、六枚かい?)

 ルトの見るところ、ガルムの懐には50枚を超える貨幣がずしりと重く入っているはずだ。ガルムは弟子の視線に気づくこともなく、宿を探して歩き始めた。


「ルシュウ、『懐が重いときはスリに合い。腹が軽いときにはスリになる』って知ってるか?」

 ルトは振り返って、ルシューの存在を確認すると、わずかな知識を振りかざしてみせた。ルシューはわずかに首を傾げて応じたので、ルトは得意げに言葉の意味を語った。

「泥棒にあうってことだ。こんな街では、お前みたいなのが一番危険だから気をつけた方がいいな」

「うむ。気を抜くなよ。お前のように隙だらけなのが一番の獲物だ」

 ガルムもまた注意深く周囲を伺いつつ、二人にそう言って聞かせた。この町は活気はあるが、人々に他人の隙を窺うようなずる賢さを感じさせた。ガルムには、まだこの気前の良いスポンサーを失う訳にはいかないのである。元の通りから分岐したこの細い街路にまで人が溢れてぶつかり合う。身をかわして、人を避けなければ歩けないなど、辺境生まれのルトには信じられないことだった。

 一瞬、少年だとガルムとルトは考えた。肩に届く長い髪を首もとで束ねているが、視線やきりっと結んだ口元は、まだ幼いが、男性の精悍さがある。その少年が何かに追われるように、ガルムの前方から、人をかき分けるように駆けてきて、ガルムとルトの脇を二人にぶつかるようにすり抜けた。

「すまない」

 少年は人の善い笑顔をルトに向けて、僅かにぶつかったことを詫びつつ駆け抜けた。ルトはその少年の笑顔に、何か女に感じるような艶かしさを感じて、多少の罪悪感に顔を背けた。次の瞬間のことである。

「きゃぁぁ、何しやがるんだよぉ」

 二人がすれ違ったばかりの少年の声である。ガルムとルトが振り返ると、少年は逃れようと首を振ってもがいていた。が、まるで紐の端でも掴むように、ルシュウの手がその少年の束ねた髪を掴んで放さない。 

「ルシュウ」

 ルトは非難を込めて声を荒げて、ルシュウの行為を叱りつけた。しかし、ガルムとルトはルシュウの大胆な行為で、勘違いに気づいた。それは少年ではなく少女だった。ルシュウは少女の貫頭衣の袖口から胸元に無造作に手を入れ、皮袋を一つ取りだしたのである。その時に、その人物が反射的に胸元をかばう仕草は、女性のものだった。

「これ、ガルムのもの」

 ルシュウは自分が少女の胸元に手を突っ込んだ事には罪悪感も無く、少女にそう言った。

ガルムは懐に手をやった。案の定、貨幣の入った皮袋がなく、見事にスリ取られて、少女の懐を経て今のルシュウの手にある。少女は胸元を抑えたままルシュウの傍らにうずくまっている。

「こ、こ、この野郎」

 少女はルシュウに悪態の言葉を吐きかけたのだが、ルシュウが自信をもって断言した迫力に押されて口ごもった。

「黙って、もらう。良くない。返す」

 ガルムとルトがスリの少女に駆け寄ろうとしたときに、二人に石つぶてが飛んだ。ガルムは身を翻して避け、ルトは避け損ねて分厚い胸板で弾いた。

 次のつぶてがルシュウの手に飛び、ルシュウは少女の髪を掴む手を放して石を避けた。

「ネア、兵隊だ」

 それは若い男の声だった。ネアは振り返ってバンカの姿を確認し、もう一度ルシュウを振り返った。

「覚えていろ!」

 ネアはそんな怒りのこもった叫びを残して、通りを駆け去っていった。胸元をかばう様子は、せっかく掏った金袋を横取りされた怒りでなく、無垢な胸元に無造作に手を突っ込まれた驚きと腹立たしたに違いなかった。


 バンカの言葉通り、騒ぎを聞きつけた兵士が三人来て、ガルムらの返答を聞こうともしないで、矢継ぎ早に脈絡の無い質問をした。

「流れ者か?」

「盗賊を逃したのではあるまいな?」

「何処から来た?」

「盗賊の手先ではないか?」

「名前は何という?」

 目がこずるく光っているという点で共通しており、ガルム達を疑い犯罪者と決めてかかっている横暴さでも共通点がある。その無礼さにルトが不平を言った。

「馬鹿め。スリを捕まえるのが、あんたらの仕事だろうが」

「だからこうしてお前達を調べておる」

 兵士たちから見れば、明らかに蛮族のルシュウに不審を抱きそうなものだが、彼らの興味はガルムとルトに向いている。蛮族の少年を脅しても得られるものは無いだろうが、ガルムやルトなら金になると踏んだのかもしれない。

 それを察したガルムが、兵士の一人の腕をとり、掌に何か握らせた。

「手間を取らせた。些少だが」

 ガルムはそう言い、ルトとルシュウを連れて人混みをかき分けてその場を立ち去った。兵士は手の中の金銭を見て、彼らを追わなかった。ガルムは経験的に、役人や兵士に握らせる金銭の相場に、間違いがなかったことを知った。

 ガルムは宿を決めた。これ以上、街中でトラブルがあってはかなわぬと考えたのである。

「今夜の宿を願いたい」

 ガルムは手近な酒場に入った。酒場の中は、地面よりやや高くしつらえた床の所々に敷物が敷いてあり、辺境者のガルムの目から見ても、質の悪そうな数人の男があぐらをかいて杯を傾けていた。この酒場の常連らしかった。奥の壁を隔てて厨房があり、愛想の悪そうな飯盛り女が、汗をかきつつ、いくつかの得体の知れない素材をごちゃ混ぜに煮込んでいるのが見えた。その脇に小さな階段があり、二階が宿泊場らしい。先客は飲み食いに熱中するように見えながら、新客をちらちら伺う様子が見て取れた。

「雰囲気が悪い」

 ルトはそう呟いたが、親方の判断に口に出して逆らうことはしなかった。ルシュウは、せき込むように鼻で小さく咳きをした。この中に気に入らない臭いや雰囲気を感じとったに違いなかった。小柄な老人がひどく愛想良く彼らを出迎えた。

「全く、お前さんたちは楽しい連中だねえ」

 この安酒場であり安宿の主人だった。すっかり禿上がった頭の輪郭の中の小さな丸い目に愛嬌がある。主人はスリの少女のこと、役人とのトラブルなど、ガルムたちが遭遇したトラブルを語ってみせた。

(油断がならない)と、ガルムは思った。

 酒場の主人は笑ってはいるが、目が時折ギラリと光って隙を見せない。しかし、こういう一癖ある人物の方が、裏の事情を熟知している。油断はならないが役に立つ人物なのである。

 年は五十を少し過ぎた頃か、ガルムの方がやや若い。ガルムは自分と仲間のために食事と酒を注文した。毛色の変わった客に興味を抱いたのか、愛想が良いだけなのか、主人は呼ばれもせぬのに酒壷を抱えてやって来て、ガルムの前に腰を下ろした。主人の顔がやや赤く、息に酒臭さがある。

 ガルムは目の前で笑っている主人に来訪の意を語った。

「儂は都の武術大会に出るのだ」

「おいっ」

 酒場の主人は、楽しげに常連客を振り返って声をかけた。

「お客人達は、武術大会に参加される剣士様だ」

 常連客はガルムの心を逆なでするようにげらげら笑った。不躾な笑いなのだが、事情のわからないガルムには侮辱されている気にもなれない。酒場の主人はガルムと向き合って笑い声の理由を語った。

「へっ。お前さんら、死ぬぜ」

「どういうことだ?」

「今わなぁ」

 思わせぶりに口を開いた主人は慣れ慣れしくガルムの肩を叩いて言葉を継いだ。

「聞きてえか?」

「興味がある」

 ガルムが頷づき、主人は思わせぶりに言った。

「皇帝がなぁ、病に臥せってるんだよぉ」

 女がテーブルに杯を運んで酒を注いだ。チラリと酒場の主人を見たのは、少年にも杯を渡して良いのかと許可を求めているらしい。主人はかまわねぇと言うように顎を振って言葉を続けた。

「いいか。皇帝には子供が六人いる。上からシュラッグ、ハムラ……」

 彼は指を折って数えた。そして一杯目を干したガルムの杯を、運ばれてきた酒壺を傾けて満たした。

「このうち、シュラッグ、ハムラ以外はただの阿呆よ」

 ルトは貴族の情勢に興味はない、しかし、酒というものに興味を抱いたことはある。ただし、口にするのは初めてだった。液体は白く濁っていて、酸味の中に僅かだが、もとの果物の甘みが残っている。飲み下した液体から鼻に抜けてくる芳香を、ルトは悪く無いと考えた。ルシュウはガルムらの話が分からぬらしい、ただ、くんくん鼻を鳴らして、器の中の香りを嗅いだが、酒の香りが気にいらなかったのか、そっぽを向いた。それから、小鉢に指を漬けて味わって、中身が蜂蜜だと確認したらしい。

 飯盛り女が気を利かせて、手まねで側の皿に盛ったメダリに付けるのだと教えた。椰子から採った澱粉を水で練って焼いた物をメダリと言う。ムウの人々の主食の1つである。ルシュウは素直に女の手つきを真似て食し、メダリが気に入った事を、歯をむき出した屈託のない笑顔で教えた。

 飯盛り女も笑顔で答えたが、口元がひきつっていてぎごちない。どうやら久しぶりの笑顔であるらしい。


 酒場のあちこちから、うさん臭そうな連中が新顔の様子を伺っている。しかし、ルトが見るところ、一番奥で杯を傾けている男が何やら気がかりだった。男は背を見せたまま振り返らないが、酒場の常連客のなかに男の動作を、ちらちら、うかがい見るような所があり、常連の中の顔役らしい。

 ルトが何かを言いかけると、主人が杯を押しつけて、腰を下ろしたままでいよと、手まねをした。ルトはやむなくその顔役の男の特徴を、尖って禿上がった頭頂部の形のみ記憶するのに止めた。主人は陽気に話を続けた

「そんな中で皇帝がくたばってみな、都どころか国内は真っ二つだぜ。戦争に決まってんじゃねえか。おおっ。若けぇの、いい飲みぷりじゃねぇか」

 主人はルトに酒をついだ。そして自分自身、別の酒壺に唇をつけて、ごぶりと一口飲んで言葉を続けた。

「今は静観してんのが一番ってもんよ。どうせごたごすりゃあ儲け口なんていくらでも見つかろうってもんさ」

「不忠ではないか?」

 ガルムは言った。空きっ腹に酒を入れて、半ば酔いが回っている。

「不忠? 利口モンの吐く言葉じゃねぇ」

「剣士は神と皇帝の名の下に死ぬものだ」

 そんな師匠の言葉にルトはげらげら笑った。突然に忠義に目覚めた師匠の姿が面白かったのである。まるでこの酒場の主人のほうが酔っぱらう前の師匠のようではないか。

「こやつ、酔うておる」

 ルトを評したガルム自身、視線が定まらない。二人の男がその視線の中に入ってきて、妙に親しげにガルムに酒をついだ。酒場の主人は面白い時を過ごしたと礼を言い、席を辞した。

 それがガルムの記憶に残ったこの夜の最後の光景だった。今夜は、酒が空っぽの臓腑から、指先に至るまで行き渡って心地よく、杯をつかむ指から力が抜けた。やってきた男たちは親切にも、意識を失って重量感のあるルトを支えて二階の寝所に運んだ。ルトを見守って男たちの背を追うルシュウが階段の半ばでガルムの容態を振り返ってみると、飯盛り女がルシュウが飲まなかった酒と、テーブルの酒壺に残った酒を窓から外に捨てていた。

 寝床で心地良い寝息を立てるルトは、ルシュウが運んできた二人の荷を置く物音にも、ルシュウ自身が背負った網袋の荷を置く音にも目覚めなかった。男たちは二人がかりでガルムも寝床に運んできた。ルシュウはガルムとルトを運ぶ男たちの親切に身を任せていて、酒場の主人たちがガルムたちが飲んだ酒壺に怪しげな薬を入れていたとは気づかないでいた。

 ルシュウも旅の疲れが出たように無邪気なあくびをし、背負っていた荷を傍らに、ルトの荷を枕代わりに床の敷物に身を横たえた。その腕の中にはルシュウの剣がある。ルシュウはまるで幼児がぬいぐるみでも抱くように、この大切な剣に寄り添って寝る習慣なのである。ルシュウの剣を一瞥した男に、酒場の主人は首を振ってみせた。この剣を奪えば、この少年が目覚めて騒ぎ出すかもしれない。少年が枕にした荷を奪っても同じ。

 もし、この主人がもう少し注意深ければ、少年が枕にしたガルムの荷の中に金の小粒が入った金袋を見つけただろうが、みすぼらしい風体の辺境者が、そんな高価の物を所有しているとは想像がつかなかったらしい。

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