第8話 マニの町2

 一方、マニの港を目前にした船の上では、ルトが船酔いに苦しみ続けていた。しかし、昨夜までの凪が嘘のように、船は帆に風を受けていた。空は明るく広がって、高さが計り知れない。海は深く澄み渡って、その色を複雑に変えた。その広大な空間の中に、時折気まぐれのように現れるいくつもの小島の影やサンゴ礁を抜けて、順調な航海を続けていた

 出航以来、ルシュウは毎日飽きることなく、刻々と変わる海の色を機嫌良く眺めて、通りかかる船員を捕まえては片言の言葉で、質問を発した。

「あの人、何?」

「アレはな、海の下で魔物が火を吹き上げているのだ」

 水夫たちはようやく少年の癖に慣れていた。今、少年が指さして「あの人」と言ったのは、海面の一部が黄土色に濁って変色している現象についてらしい。らしいという事を察して、少年の質問に答えてやったのである。

 人や生き物、鯨が吹き上げた潮や、風の流れ、海流が作り出す海の色の変化、そして今目撃している海底火山の噴火の予兆まで、全ての現象がこの少年にとって、自分と同じ世界を生きる「あの人」なのである。

 時には馬鹿げた質問もあったが、どの船員達も至極まじめくさって答えてやっていた。このルシュウという少年の屈託のない笑顔に引かれているのである。中でも、ガルガという老水夫がルシュウをかわいがっていた。

「あれは筋が良い。儂が一人前の水夫に鍛えてやっても良い」

 他の人間には気むずかしいガルガは、ルシュウに対してのみ朗らかに、ルシュウの水夫としての才能を褒めた。

 しかし、ガルガにとって残念な事に、ルシュウは微妙な言い回しでその申し出を断った。

「山歩く。風吹く。とても良い」

 少年が話す言葉の文法は乱れているが、一つ一つの単語の発声は明瞭でしっかり聞き取る事が出来る。そして聞き取った言葉を、この少年の無邪気な笑顔とともに解釈すれば、彼の意志をくみ取る事が出来た。少年は大地の上で、土や草の香りがする風に吹かれながら生活することを望んでいるのである。ガルガはため息をついて、この少年を弟子として自分の元に縛り付けるのをあきらめざるを得なかった。自分の希望や都合でこの少年をとどめようとするなど、風を手で捕まえるのと同様に難しい。ルシュウという少年は、ほかの人々を拒絶するわけでもなく、そんな雰囲気を漂わせていた。

 この朝も、ガルガは船首に座ってじっと前方を眺め続けるルシュウを眺めて同じことを思った。この少年はどれほど長くサクサ・マルカを求めて旅をしていたのだろう。今のルシュウは人々を信じてサクサ・マルカに近づくことを信じて疑わない様子である。そう考えると、残念だが、この少年を無事にムウに送り届けることだけが、自分の義務であるかのような気がして、ガルガは残念な思いをため息して吐き出さざるを得なかった。

 

 機嫌良く前方を眺めていたルシュウだが、突然に硫黄臭い深いな臭いに包まれて顔をしかめた。

「あの人、臭い息を吐く」

 ルシュウはそんな言葉で状況を評した。海の下で魔物が吹き上げた吐息が、風向きが変わって、吹き付けてきたのである。機嫌の良い表情から、不愉快な表情に切り替わる、そのルシュウの表情の素直さに、水夫たちは声を上げて笑いあった。

 ただ、ン・ハム山の噴煙と同様に、海の底から吹き上がる噴煙がいよいよ勢いを増して、やがて大地すら揺さぶって、彼らの運命を左右することに気づいた者は居なかった。船は海の底の魔物が吹き上げる危険な吐息を避け、ムウ大陸沿岸に散らばる大小の島々の間を抜け、ムウの大地の南岸沿いに航行し、港町マニに着いたのは、ン・ハム山の噴煙を見つけてから二日目である。


 夕刻、三人の船客が船を降りた。船を降りたルトは、地面に酸っぱい唾液を吐きつけて言った。

「もう金輪際、こんな船に乗るものか」

 老水夫ガルガがそれを聞きつけて言い返した。

「おお、お前なぞ、一生大地にしがみついて生きるがいいや」

 ルトは振り返って、ガルガをにらみつけたが、言い返す元気もない。老水夫がルトに何かを投げてよこした。ルトが受け取ってみると堅焼きのパンである。

「腹の足しにしろ」

 老水夫はそう言って作業を続けた。辺境出身の大男は、もう振り向きもせずに堅焼きのパンを振ってみせた。礼のつもりである。三人はそうやって船に別れを告げた。最後にルシュウがガルガを振り返って、右手の拳を胸に当てて軽くお辞儀をした。その仕草が日常の動作のように自然だったので、誰も、それがムウの貴族が行う正式な感謝の儀礼の動作だとは気づかなかった。

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