第7話 マニの町1

 ルシュウたちを乗せた船が目指すマニの港は、ムウ大陸の東南に位置する。古くから大陸東の対岸に点在する植民市との出入り口である。

 帝国の都サクサ・マルカはこの港町から北西百三十ガジルの位置にある。現代の単位に換算して約九十kmの距離になる。しかし、ン・ハム山の麓に突起のように隆起して連なるウスル山系の峰々に遮られて、この地域と都を直線で結ぶ道はなく、街から都に続く街道は西から北東へと迂回して、その距離は人の足で、なお八日を要するのである。ただ、商人を除けば、この町と都との間を行き交う者はなく、この地で生まれた者も、この地に流れついた者も、この地から生きて離れることはなかった。


 この町の片隅に、仲間内で「早駆けのバンカ」と呼ばれている青年がいた。歳は十八歳である。眼光は利発そうに輝いているが、時折小ずるく光るものがある。体は細身だが骨格が頑丈で、素早しっこく精悍な印象を受ける。成り上がろうという大望などほど遠く、ただ、仲間内の賞賛だけが生きることの目的のように、無鉄砲な行動を取る若者である。

 つい先日も、領主の館に忍び込むという危険きわまりないことをした。目的は盗みではなかった。警備の兵士に厳重に警護された領主の館に忍び込んで生還したと言うことを仲間に自慢するためである。

 バンカは物陰に身を潜め、周囲をうかがいながら舌打ちをした。領主の配下の兵士たちが町を徘徊しており、その数がいつになく多い。バンカの誤算といえた。領主が館に忍び込まれるなど、名誉なことであるはずが無く、普通ならそれを隠して警備のみ厳重にするだろう。数多くの兵士を町に繰り出して、盗賊や盗品を探索するなど、バンカが領主にとってよほど重要な物を盗み出したと言うことである。しかし、今のバンカは自分が気ままに手にした物がそれほど重要な物だとは考えてもいない。

 バンカの心は領主の鼻をあかしてやった痛快さのみで満たされていた。ただ、彼は慎重さも失ってはいない。侵入したときに顔や姿を目撃されるようなヘマはしていないが、盗み出した鏡をどこかに隠しておかねばまずかろうと考えていた。

 バンカの背後には賑やかな町の喧噪が広がっていたが、そこに兵士たちの雰囲気が混じり始めた。彼はその危険を察して、港へと足を向けて兵士の姿を避けた。彼が住まうネッタ地区とは、領主の館を挟んで反対方向に見えるが、港の河口から、町の北に沿って流れる河を遡れば、町の中心を避けて帰れるのである。

 二つの岬が沖合に突きだして、外洋の波を遮って、海面はさざ波で輝いていた。湾内には幾艘もの商船が浮かんでみえる。港中央の桟橋では、港湾人足たちが商船が荷の積み込みで忙しく働いていた。

 そんな岬は入り組んだ海岸線を持っていて、河口近くの小さな入り江にバンカたちが利用する小さな船着き場がある。突然に、彼に声をかける者があった。

「バンカ」

 青年に呼びかける口調がきつい。バンカは振り向きもせず声の主の名を言い当てた。

「ネアじゃねぇか。どうしてこんなところに?」

「たぶん、あんたと同じ。町中は兵士が多くて、商売もあがったり」

 ネアと呼ばれた少女は肩をすくめてそう言った。

「それで、港で商売ってわけかい?」

「まあね」

 バンカは手にした包みを背後に回して、ネアの視界から遮った。ただ、勘の良いネアはそれに気づいて問うた。

「バンカ。それは?」

「良いじゃねぇか。気にするな」

 領主の館に忍び込んだとき、その証拠となる物でありさえすれば、盗む物は何でも良かった。ただ、いくつもの宝物の中で鏡を選んだということは、ネアに与えて彼女の歓心を買いたいと考えたからに違いない。

 しかし、ほとぼりが冷めるまではどこかに隠しておかねばならない。ネアに見せて彼女の賞賛を得、更に鏡を彼女に与えて歓心を買うのは、しばらく待たねばならないのである。

「じゃあ、俺は帰るからな。お前はしっかり稼ぐんだぜ」

 バンカは新たに入港した船を指さして、それだけ言い残すと、身を翻して河口に停泊している小舟に向かって駆けだした。ネアは商売に専念することにして、バンカを見送る不審気な視線を、船から降りてくる裕福そうな乗客に転じた。


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