第11話 ある地下壕の記録

 長い夢が終わり、意識が暗い海の底から浮かび上がる。閉じたままの目の上で淡い光が踊るのを感じた。


 手のひらで光を遮りながら目を薄く開けば、辺りの暗闇をランプの光が払っていた。硝子の中で頼りない炎の種が身を震わせている。背中に感じる硬さ、熱を帯びた体、手足の節々が叫びを上げていた。


 どうやら僕はこの地下道脇に仰向けに寝かされていたらしい。暗がりの洞窟、並び立つ古びた木枠。半身を起こして頭をもたげれば、辺の様子が見て取れた。柱の鉄杭に掛けられたランプが、光の乏しい穴蔵を不気味に照らし、長く続く道行を光の点で示していた。


 坑道のような見たことのない場所、どうしてこんな洞窟に、考えてみるがまるで思い当たる節がない。確かあの火葬場で私は意識を失って、長い夢を見ていた気がする。ぼんやりとしていると、ゆらゆらと景色が揺れたように見え、頭が僅かに痛んだ。


 頭を振り、痛みを抑える。どうする、ここからでられるのか、これからどう動けばいいのか、冷静になろうとするほどに、忘れていた焦りが心の中を駆け上がってくる。あの火葬場で起きた恐ろしい結末、何もかもが燃えてしまった、僕はあの場所で、どうなったのか、倒れ込んだはずだ。にも関わらずなぜ僕はこんな場所にいるのか。病院ならわかる、しかし、こんな場所になぜ運ばれなければならないのか、それともあれは、あの長い夢の一部だったのか?


 いつから夢を見ている? 初めから夢だったのか、この街についた日からずっと、それとも学生時代からずっと夢を見続けているのか?


 こんな場所にいるから暗い考えにとりつかれるんだ、移動しなければと、どうにか気持ちを落ち着かせると、体についた砂や土を払うと、あたりを見回した。体についた土を振り払い、少しして冷静になると、土の香りと共に何か得体のしれない、独特のジャコウのような独特の匂いが混じっていることに気がついた。


 より匂いが強まる方向を意識し、天井に目を凝らせば、手ぼりのような荒い岩壁を這うようにして、白い煙が薄く伸びてきていた。下方から流れる空気が、立ち昇る煙を上方へと押し流しているようだ。


 上り坂を見上げればランプの光の筋が三本、道は三方向に別れていた。要所は木枠で岩盤を押さえてあるものの、充分とは言えない。いつ崩れるかもわからない岩壁と、狭苦しさから圧倒的な閉塞感芽生え、僕の気持ちをなえさせる、けれどもいつまでもこうして立ち止まっているわけにも行かなかった。


 立ち上がろうと横に体を傾け、指を地面に這わせると何か、滑りを感じさせるものが触れ、そちらに目を向けるとあらくごつごつとした床面中央には油膜の痕が伸びていた。


 それは透明な粘り気のある液で、てらてらと輝く岩盤が気味の悪いな生き物の肌を思わせ、私は嫌悪感から指を払うと即座に身を起こし、立ち上がって木枠に背をあずけた。


 ぎしぎしと鳴る柱の音を聞いて、ああそうか、もしかしたならば、ここはあの彩里と名乗った男が言っていた防空壕跡かもしれない、そう思い至る。なにはともあれ一先ずは出口を探さなければ。煙の流れを追って上に向かう。


 煙は三方向に別れず、真ん中の道にだけ登っている。他二方を覗けばどうやら上向きの坂は半ばで途切れているらしく、煙が貯まっている。あるいは行き止まりなのかも知れない。ならばと残された道を行くとすぐに扉が見えてきた。


 すぐに走りよって手をかける、鈍く光る黒々とした観音開きの扉、なんの技工も見られない無骨な鉄の塊、錆が目立ち朽ち始めているが、しかし、岩壁に隙間なくはめ込まれた鉄扉には外側にかんぬきでも付けられているのか、何をしてもびくともしない。


 煙は扉の前、天井に穿たれた岩盤の穴へと吸い込まれていく。仕方なく僕はこの香の様な煙の発生源を探すことにする。そこに何者か、この状況を教えてくれる人間が存在するかもしれない。


 引き返して先ほど起き上がった地点に戻り、更に下に向かい歩を進めてゆく。すると奥に広い空間が見えてきた。五百メートル四方程の空間、成程、防空壕を思わせる広さだ。空間の中には私が出てきた通路以外にも幾つも穴が存在していた。その合間に等間隔でランプが備え付けられ、中央で何かが焚かれている。


 その両脇に何か暗闇の中で蠢くものの姿が目にちらついた。これは、私以外に人がいるのではと思い、上がる煙に紛れたその姿を正確に把握しようとそろそろと近づく。これまでの経験上、僕の味方ではないかもしれない、それにこんな場所にいるのだからまともではないかもしれない、だからこそ慎重に動いた。


 近づくにつれ、それの姿が正確に見えてくる。あれは、違う、人じゃない、暗がりに横たわっていたせいか、遠くではわからなかったけれど、近づくと良くわかる。大きさが違いすぎた。それに形も人とは言い難い。


 それは肉塊だった。どす黒く変色した死体のような肉塊。たるんだ腹のように波打つ肉には出鱈目に体毛が伸び、その合間に目や口が模様のように浮かんでいた。上向きに揺れる黒目が恍惚の表情を思い浮かばせる。


 大量についた口からは幾つもの歯が不揃いに並び、隙間を抜けて涎が常に滴り落ちている。触覚や刺を思わせる突起は手や脚だった。到底意味をなしているとは思えない付き方をしている手足が緩慢に伸縮運動を続けていた。不意にその肉塊が寝返りをうつように転がる。すると下から巨大な顔が覗いた。一メートル程もある巨大な口。飛び出た目玉を覆う瞼は閉じたままだ。


 僕はカチカチと鳴り始めた根の合わない歯をどうにか閉じて、食いしばり、漏れる悲鳴を押さえ込もうと口に手を添えると後ずさりした。どうやらこの煙があの不気味なものの動きを抑えているらしい。もしあの煙が途切れたら、そう考えるだけで怖気が走る。


 瞼が開いた。考えが甘かった、そう思ったところでもう遅い。


 目の焦点が僕を捉える。すると体の目や口が移動し、肉塊の一部分に幾つもの顔が出現した。巨大な顔がときの声を上げるように叫ぶと、出鱈目に動いていた手足が一斉に息を合わせたようにその巨体を押し上げる。ムカデを思わせる動きでその巨体が迫ってきた。


 僕は痛みも忘れ、最も近い穴へと飛び込んだ。下へと向かうその穴に。


 幾つにも別れ続けるその穴の中を無我夢中で駆けずり回り、落ち着いた頃には自分の位置が全く解らなくなっていた。しかし、幸いというべきか、あの不快な肉塊からは逃げ切れたらしい。


 あれは一体何だ、これまでと同様にあれも人の成れの果てなのだろうか。扉前で助けを待っているべきだったと後悔しても既に遅かった。


 痛む体を押さえ、慎重に体を枠に隠しながら岩盤の道を歩いた。どこをどう歩いても足元にはあの透明な液が伸びていた。あの肉塊が余すところなくこの壕内を巡っているのだろうか。そうして迷い続けること数時間、見分けのつかない道を繰り返し行くうちに、やっと変化を見つけることができた。下に伸びる人間の影。


 ゆっくりと慎重に近づいてあの怪物ではない事を確認する。人だ、やっとまともな人の姿を見つけられた。


 岩盤に倒れ伏す人間、あれは、僕と同じ境遇の人間かもしれない。そう思い、駆け寄る。うつ伏せのその人物は一糸まとわない裸の男だった。体のどこにも傷は見当たらず、土汚れの酷い体を横たえている。何故かどこか違和感を覚えるも、僕はその人物の背に手を触れようとする。


 「なぜここへきた」


 触れた瞬間、その背に赤い斑紋が出来る。と、同時にその人物はそう言った。


 「あれ程、私達を探すなといったのに」


 まさか、いや、そんなはずは。そう考え、いや、怪しすぎる、と冷静になる。


 「私達は失敗したんだ。あの男を燃やす尽くすことは、叶わなかった。今更何をしに来た」


 その男が立ち上がり、振り返ると、その顔は見間違えようがない、確かにあの写真の父だった。


 「やっと、やっと会えた。ずっと探していたんです。父さん、僕を、僕を覚えていますか?」


 「お前は来るべきではなかった。何のためにお前をあの家にあずけたと思っているんだ。見ろこの歪な体を、お前もこうなりたいのか」


 父は己の腹を指してそう言った。腹の皺蠢き、目が開いた、その下には口が。そこについているのは鼻のない顔だ。あの、肉塊に幾つもついていた顔。それに違和感の正体に気がついた。手足の長さが微妙に違っているのだ。それに、性器が付いているべき場所にも何もない。出来損ないの人形のような体に父の顔がついていた。全く年を経ていない父の顔が。


 「私はあの、流逸に食われたんだ。今や私はあいつの一部でしかない。私は餌だ、お前がかかるように放たれたに過ぎない。良いか、早く逃げろ。すぐにあれがやってくるぞ」


 それでも僕はここで引き下がるわけには行かなかった。でなければ何のためにこれまでの事を続けてきたのか。


 「でも、父さん。聞きたいことが山ほどあるんです」


 僕の言葉を聞くと父の顔が歪み、痙攣するように震え、すぐに元に戻る。


 「そうだな、あそこならば少しでも時間が稼げるかもしれない」


 そう言い、すぐに僕の手をつかむと歩きづらそうに進み始めた。父の案内に従い、数百メートルも進むと木枠の後ろに窪みが存在する地点が見えてくる。父はそこで腰を下ろすとため息を一息付き、こちらに顔を向けた。


 「随分と長い夢を見ていた気がする。あれはあれで安らぎを得られるものなのだな。貴重な体験だが、少なくとも人の領域を逸してまで得るべきものではない。さあ、これを少し動かしてくれ」


 父が右手脇の岩盤に手を差し込むと岩壁が傾いた。人一人屈んで通れる程の穴がその先から姿を現す。僕は岩の蓋をどけると父はその中へと姿を消した。他に選択肢はない、父の後を追った。暗闇の中、父の声だけが僕の道しるべとなる。


 「知っているか、私は、かつては医師だった。お前の母、いや、三原君も見習いのようなものだったのだ。三原君のご両親には大変なご迷惑をおかけしてしまった。充分な資金を用意したとはいえ、人一人育てるというのは大変な労力なのだから。今更偽るつもりはない、感づいているだろうが、お前は我々の子ではない」


 わかっていた、わかっていたが本人からそう告げられるのは辛かった。嘘なんでしょう、自分は貴方の子供だ、そう言いたい気持ちをどうにか押さえつけ、僕は父の言葉にひたすら耳を傾けながら進んでいた。


 「私達はお前の本当の父親、つまり教団の教主であるあの男に奇跡を見せつけられたのだ。食事もままならない状態、内臓の大半が機能不全だったあの男の体は驚異的な回復を見せた、壊死した細胞がまるで新しい細胞に入れ替わっていた。中身を全てぶちまけて新しいものに変えたように。実際に目にしなければとても現実とは言い難い、そんな存在を見せつけられたのだ。まさに奇跡としか言いようのない現象を目の当たりにし、私は取り憑かれてしまった。


 死を生に百八十度転換させ、生物の枠を飛び越える現象、無限の可能性を秘めた医療を超える謎めいた力に魅せられてしまった。


 あの教団に移ってからの毎日は正に、驚嘆に価するものだった。私の常識はいかにこの場では通用しないかが証明され、当たり前の知識や常識が覆され、私がこれまでにやって来たことの無意味さを知った。だが、それらの殆どは人の枠を捨て切らなければ成し得ない、おぞましい作法ばかりだった。生命活動を終えた検体が腐りもせず、何日も動き続けるのを見た。脳が外され、動くはずのない死体が動き、あまつさえ会話するのを見た。人でないものがまるで人のように会話を交わすのを見た。


 口にするのもはばかられる儀式、いつしか私もそれらの作業に何も感じず、違和感なく順次できる段階に至り、気がついた。私が望んでいた医療とはこんなものではなかったはずだ、治すとはこんな行いではないはずだと。しかし、遅すぎたのだ。いいか、お前は人柱にされるために生かされていた。あのまま教団に残っていればいずれ殺されたはずだ」


 父の背を追い、引き離されないよう冷静に務めて這いずり進む。やがて奥に光が見えてきた。


 「あまり時間がない、実際には私はこの体を自由にはできんのだ。流逸に近づくことしか叶わない。このままいけばあいつの元にたどり着くだけだ。だが、いずれどこにいてもお前は捕まってしまうだろう。あいつは本当の化け物だ。生きた人間に恐怖を抱かせ、狩りを楽しんでいる。意図的に泳がせて必要以上の恐怖を植え付けている。しかし、その先にあるのは一体化だ。あの何もかもがひとつになる感覚、忘れられない。


 全てはお前の父が授けた秘技だ。どこからあれ程多様な方法を編み出したのか、三原君と止めようとしたが遅すぎた。既に街は地獄のような有様に成り果てていた。幹部と呼ばれる者達を見たことがあるか、ああなる前の幹部たちを。皆普通の顔をしていただろう、だが彼等は皆、元は社会的弱者ばかりだった。健全者から迫害を受ける者たちばかりだった。そうした者が力を得て考えることはなんだ? 自分も健全になり、世の中に溶け込みたい、そう思うだろうか? いや違う、一度植え付けられた劣等感はそんなものでは消えない。


 そうなれば、描く理想とは何か。他者が自分たちと同じレベルになればいい、誰もが醜く、容姿を気にしない、そんな迫害されない世界を作ればいい。そうした思想がこの教団の根本だった。


 流逸は行き過ぎた左足が不自由だった。先天的な病気、足の裏が上に向いてしまう奇形児だった。迫害のストレスから彼は過食症に陥り、自ら歩けないほどの巨漢に成り果てた。それがあの男に拾われ、数箇月で健全な体を取り戻した。通常では有り得ない話だ。


 それゆえ流逸は健全者にコンプレックスを抱いている。病院から送られてくる人間を恐怖の内に喰らい、人の肉を喰い、遂には人の姿を捨てた。あれは今の私と同じ、歪な人形に過ぎなかったのだ。まさか裏でこんなことになっていようとは。流逸は同様に人形にこの防空壕を掘り進めさせ、迷宮のように作り替えていた。より獲物に恐怖を味合わせるために」


 違う、違うんだ、僕はその背に向けて声を放つ、知りたいのはそんなことじゃない。


 「そんなことはどうだっていいんだ、どうして僕を引き取ろうと思ったんですか、母はどうしたんですか。血の繋がりがなくとも、僕はあなたが父だと思っていた。ずっと思っていたんです」


 どうしても知りたかった。なぜ僕は父と母とされる人の手に渡ったのか、どうして本当の親に捨てられなければならなかったのか。


 「私は、君の世話を三原君とずっとするように言われていた。これは本心だが、始めは煩わしさを感じなかった訳ではない。だがそれでも、いつしかお前を本当の子の様に感じ始めていた。だから助けたかった、これは三原君と共通の願いだった。私は考えあぐねていた。世界を作り替えるなど、馬鹿らしい、到底無理だと思いながらも、非現実的な事実を目の前にして、考えが揺らぎ始めていた。本当に世界は変えられてしまうやもしれないと。そして、押し迫る現実におののいた、このままでいいのかと。幼いお前を見て思い返したのだ、このまま、お前の父親に従い続けることはけして正しくはないと。しかし、気がつけば右も左も我々二人以外は皆、狂信的な信者ばかりだった。


 組織的に巨大になるにつれ思想はより危険なものへと変わり、その力も強大になりつつあった。これ以上は危険だ、この組織を一度崩すべきだ、そう考えが至った。だからこそ私達は、お前を助ける、教団を消す、その二つの願いを叶えるために君の父を殺した。後悔はしていない、私の心など毎日のように殺人が起こされる教団内で既に殺されていた、いや、それよりずっと前に死んでいたのかもしれない。今更それを懺悔しても意味はない、私はもう地獄に囚われているのだから」


 「じゃあ、あの手紙は父さんの協力者が書いたんですか」


 「協力者、私の協力者は三原君だけだ。他には居ない」


 「そんな馬鹿な、僕が受け取った手紙には確かにもう一人と書いてあったのに」


 僕にはもう、何がなんだかわからなかった。父と話せば全てがすっきりすると思っていたのに、それどころか余計に事態は複雑化している。ここに運んだのは誰なのか、僕の存在とはなんなのか、何故こんな状況に陥ってしまったのか。


 「それが何者かは解らない、だが油断するな。味方は居ないと考えたほうがいい。いいか、もうすぐこの穴から出る、その先には恐らく流逸が待っているだろう。お前はすぐに逃げるんだ。その内信者から肉の配給があるはずだ。機を見て逃げろ、それしか逃れる手はない。逃げ切れたら○○町郊外の電波塔に行け。そこに三原君が囚われているはずだ。そしてどうか、助けてやってくれ。私にはもう不可能なのだ」


 父の姿が穴の外に消えてゆく。その背中の斑紋が何かの文字に変わり浮かび上がっているのが見えた。


 これで終わりなのだろうか、もう会えないのだろうか。そんなのは嫌だ、嫌だがどうしようもない。僕は歯がゆく思いながらも出口少し手前で留まった。すぐに父の呼び声が穴の中に響いた。僕は注意しながらも穴の外に顔を出す。すると、やはりあの肉塊が目の前に横たわっていた。父の顔がその肉の中に埋没するように埋め込まれている。それが肉塊が転がることで向きが変わり、肉の下へと消えていった。


 私はすぐに穴に引き返す、この大きさの穴ならばあの巨体には入ることができないはずだ。


 「お前は勘違いをしているな」


 大音声が穴に響きわたる。見ればあの巨大な口、それに体に浮き上がった口の全てが同時に言葉を発していた。


 「俺は狂っているわけじゃあない、ただ救うためにこうして食ってやってるんだよ。格差も醜美も、性別も何もかも無い世界、幸せじゃあないか。これが俺のマニだ、救ってやってるんだよ。お前はあの方の子なんだろう、お前を食えば俺はなれるかなあ、神に。俺は知っているんだぜ、お前が仲間を殺して回ってるのをさ。あいつが苦労して水品、廻、八木、三原の尻を拭いてやったってのに、お前が台無しにしちまった。その上、囃子、荒熊、飾、彩里のマニまで崩しやがって。もう少しで上手くいくはずだったのに、何年取り戻すのにかかると思ってんだ。けども、俺は運がいい。彩里の下の人間のおかげで、こうして極上の食事にありつけるんだ。俺が、俺だけのま、ま、ま」


 僕の手が肉に触れていた。離れていたはずが、体が勝手に肉に向かって進み、その手が直接。手にはどこかで見た文様が浮いていて、それが肉に触れたとたん、全体に広がった。


 「あ、が、あ、おま、お前。う、う、嘘だ」


 僕の体が肉から離れ振り返ると、肉塊がより巨大に変化していた。と言うより、徐々に肥大化を続けている。肉がおしあげられ、膨れすぎた風船のように皮が張り詰めている。やがて肉が割れ、血のような赤が漏れ、それでも広がりは収まらない、血肉の波は通路全体に広がり、更に壁になりこちら側に押し寄せてくる。


 中心部には父の背中に見た文字が浮かんでいた。僕が僅かに穴の中に後ずさるする、と同時に肉が破裂した。バラバラに飛び散った肉片を体中に受けながら、僕の体に何かが入り込むのを感じていた。押し寄せてくる吐き気と虚脱感、意識が飛びそうになりつつも、それを抑える。いつもならばこの時点で気を失っていたはずだ。


 息を整え体を動かそうとしても体は動かない、不意に僕の唇が動いた。


 「もう少しだ、もう少しで私の体を取り戻せる」


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