第12話 ある貸住宅の記録

 網が張られた様な薄暗い視界、己の意思に反して自由が利かず、不規則に揺れる体。目前には血溜まりがあり、中心部から湧き水のように半透明の黒霧が出続けている。


 思うようにならない体に意識だけが押し込まれた状態で、ただ、立ち、揺れに身を任せていると、岩壁の影から一人の男が現れた。仮面をその顔につけている事から、おそらく教団の人間なのだろう。


 「ここまで、計画に狂いはありませんね」


 「お前か、あと三つ、後三つで変わるのだな」


 僕の意思に反して、僕の口から勝手にこぼれ落ちた言葉に答え、男が頷いた。


 「後、長かった。私が一度死んでから随分と経ってしまったが」


 「必要な時間だったのです、そう思いましょう。澱みを溜め込んだ堰をやっと全て切れるのです。世界はよりあちら側に近づく。そうなればあなたも、街の人間も皆、一様に異形へと変わる、誰も蔑むものが居なくなる。素晴らしき世界を経験なさるまで、今少しでしょう」


 不意に仮面の奥の瞳が輝いて見えた。何もかもを飲み込み、何もかもを見透かしているようなそんな目線が私に向けられる。その瞳はまるで渦、様々な色に黒を混ぜ、暗い色調に染めた水が穴に吸い込まれてゆくような、奇妙な快感を覚える色合い。自然と体が視線をそらす。ぬるま湯の中に浸かっているような微睡みの中で、僕は何とか意識をとどめていた。


 「何を見つめている」


 勝手に動く僕の口、一体何が起こっているのだろう。


 「ほう、これは面白い」


 後≪うしろ≫と呼ばれた男が、向かってそう言った。睡魔に似た感覚が押し寄せてくる。深い水底に意識が沈められてしまう、沈んでしまえば楽になれる、そんな衝動をどうにか押さえ、僕は意識をとどまり続けていた。


 目を逸らして見ると男の眼光が仮面の奥に消えていた。あの不思議な色合いは失われ、ただの黒になっている。


 すぐに僕の唇が動き出した。


 「何が面白いんだ? 確かに悲願が果たせるとなれば喜ばしくもあるが、未だ道半ば、外の状況はどうなっている?」


 「あ、いや、面白いといったのはこちらの話、貴方との行いとはまた別の話。外の状況は芳しくありません。徂徠が何か感づいたらしく、先に変成を始めたようで」


 「成程、さもありなん、だな。これだけ派手に事態が動き始めれば気がつかない筈がない、奴も馬鹿ではないからな」


 「私も甘言を与え続けていたのですが。流石に誤魔化しきれない所まで来てしまったようです、もっとも、遅かれ早かれ始めていたのですから、変わりありません、良いでしょう」


 「変成に関してはそれでいいが、私はどう動くべきだ?」


 「ともあれ、貴方のお体のことを鑑みれば、安全を期して一先ず本拠に戻られてはどうでしょう?」


 「そうだな、まだこの体を操りきれてはいない。変成が始まった今、外の連中は私の姿を目にして、ただで行かせてはくれまい」


 「その点はご心配に及びません。これを」


 「守護の印、か。これに随分と助けられたものだ」


 それは幾度と目にしたあの紙切れだった。病院や美容室、奇妙な文字が記された紙切れ。


 「守護と言うよりは彼等と同じに見せかけるだけなのです、偽装と言うのが正しいかと。機は熟しました、幹部のあの方達は破裂寸前の風船のようなもの、針に触れれば弾け飛ぶ。それと同時に私たちの手にしている風船の紐は、今にも千切れそうです。彼らを縛る鎖ももう長くは持たない。力なきものに必要以上の力を与えれば勘違いを引き起こす。あの方たちは以前持ち合わせていた節操というものを失ってしまった。愚かにも貴方にとって変われると思っている。思い違いも甚だしい」


 男は鼻で笑ってそう言い捨てる。


 「冷たい奴だ、仲間だっただろう。それに、そもそも、そうなるようにけしかけたのはお前じゃあないか」


 「今更なんです、それに彼等も願いが果たされれば満足でしょう、人以上の力を得られただけでも満足でしょうに。例え世界が変わる、記念すべきその瞬間に立ち会えないとしても、ね。あなたもそれは知ってのことでしょう、教団を作ると確約した、あの日からずっと」


 「二人に裏切られたのは誤算だったがな、それさえなければもっと早く事は成っていた」


 「それはこの私の不測と致す所です。しかしながら人の心とは予想がつかぬからこそ面白い、時にどちらに傾くかわからない。金や力に寄り付かず、命をかけて偽善に走る人間がいることもまた事実、私はあの時の賭けに負けましたが、しかし貴方はこうして力を得、再び踏み出しつつある、今では些細な問題に過ぎません」


 意識が奥に引っ張られる。会話の続きを聞きたかった、そのために必死に貼り付いていた。しかし、意識が遠くなる。再び表に浮かび上がったときには、僕の体は豪から出ていた。


 体が辺を見回している。見覚えがある、ここは、僕の借りていた部屋の近所だ。何度も繰り返し目にした景色、慣れ親みを覚え始めた道行、そのはずが、今では日常からはかけ離れていた。


 弱々しく輝く太陽が空にあるのに、夜のようなとばりが降りて、空が膜に覆われ始めていた。黒い帯状の霧が町中に流れている。その中で腰を屈め、目を血走らせた住民たちが虚ろな表情で徘徊していた。髪が乱れ、服が破れかかり、目は血走ってまるで狂人の様相の住民達。街をゆく車の姿は無く、街中の壁や電柱に車体が突き刺さっていた。


 一体、何が起きたんだろうか。電柱に備え付けられた拡声器からは金属をすり合わせた時に発せられる不協和音が延々と流され、時折それに混じり、引き伸ばされた人の声、聞き取れない言語が、耳の奥で鼓膜を揺らし続けていた。


 一人の狂人が僕と目を合わせる。途端に眼球が左右に触れ始め、四つん這いで駆けてくるが、僕の目の前で止まり、動作を止めてしまった。


 「全く、面倒なことになったものだ。これでは実に動きにくい、あと少しだというのにこんな下らん事態に煩わされる事になろうとは」


 そう言って僕の体は借りていた部屋の下の階、丁度真下の部屋へと入ってゆく。部屋を開けた瞬間。広い空間が待っていた。外観からは別の標識が備え付けられ、いくつも部屋が用意されているように見えたが、どうやらそれは違っていたらしい。くもりガラスとドアの向こうは、各部屋の壁がぶち抜かれ、全ての部屋が繋がれていた。そして壁際に幾人も、仮面を着け、座禅を組んでいる。


 目の前には祭壇があり、奥に仮面をつけた三つ頭、六本腕の阿修羅像が控えている。台座上に干からびた死体が横たわっていた。それを囲むようにして四人が顔の前に手を組み、祈るように片膝を付いている。


 血涙を流す少女、血の気が感じられない白面の青年、枯れ木のような肌、苔むし、文様を浮き出させた緑色の肌、鬼のような形相を顔に張り付かせた人外の異形、獣面で毛むくじゃらの男。その誰もが近い間に目にした、見覚えのある者だった。


 井戸の前に居た少女、卵封じの青年、森で見た異形、飲食店の店主。目に力はなく、体は硬直し、全く動かない。既に事切れている風に見える。そして中心の干からびた遺体の顔、それが私の顔にそっくりだった。


 僕の体は祭壇に近づき、遺体の顔に触れた。すると遺体の目が開き、私の体から力が抜けた。同時に僕の意識は体の奥へと吸い込まれてゆく。


 光が見えた。覚醒を自覚して感覚が戻る、見回してみると何度も経験したとおり、やはり、そこは自分の部屋の中だった。机の上には手紙が置かれている。いつもの手紙だ。僕は気持ちが整理できずにいた。下がりきらない溜飲、これまでに経験したことのない気持ち悪さが、胸の中でしこりになっている。どうしても確認しなければならない、この階下を確認しなければ、あれが夢でなかったと確かめなければ。逸る気持ちを抑え、手紙を手に取り、その文に目を通す。



 君もこの部屋を紹介される際、嫌な思いをしただろう、許してやってくれ。この部屋の下の階は祭壇となっている。下は教団の聖地とされる場所なのだ。だからこそ賃貸住宅を紹介していたあの者達は、指示されながらもそれを拒んでいた。


 犠牲となった者達を祀るための施設。そんな場所を大々的には作れない、だからこその偽装だ。結果的にそれが役に立った。位の高い教律師と同等になるために、信仰心の厚い者たちは自らの命を差し出して教律を深めた。断食の末の死はより強大な力をその場に篭らせる。皮肉だと思わないか、元は我々を散々蔑み、死んでしまえばいいと罵っていた者達が我々を崇め、その命まで差し出す。


 さて、ここまでの君の行動は実に素晴らしいものだった。初めに感謝の意を伝えよう、ありがとう。今更偽る必要はない。今こそ告げよう、この手紙を書いたのは君自身だ。こんな事を言われても信じきれまい、混乱するだろうが、君は自分の正気を疑う必要はない。君は気が狂ってなどいない。


 君の意志で手紙を書いたのではなく、書いた事を知るのは君の体のみだからだ。私は君がこの部屋に導かれてひと月の間、ゆっくりと君の体に私の魂を馴染ませていた。二週間ほどで君が寝ている間、少しだけ体を拝借出来るようになり、動かせる時間を徐々に増やしていった。気がついているだろう、各地で君は記憶があやふやになっているはずだ。君が私の思う場所に進んでくれた御陰で、随分と手間が省けた。


 最初の手紙以外のもの、後に君が、自身で読むことになるであろう手紙は全てその際に書いた。私の特性を継ぐ君は意思が強い人間だ、だからこそ、私は君が気を失ったり、寝ている時以外、君の体を自由にすることができなかった。そして、この乗っ取りが誰にでも効くわけではない、大まかな事はさておき、君ももう分かっていると思う。私は君の本当の父親だ、君が父親と母親だと思っている人物は代理の役割を果たすための人間だった。


 君は生まれながらにして栄誉を受ける筈の人間だった。世界の作り替え、変成を行う大役を、君は授かるはずだった。だが、全てがあの二人の手によって狂わされてしまったんだ。私は計画の主だった人間もろとも殺されてしまった。


 だが、それで終わりではなかった。私の仲間は私が死んでも計画を進めていた。私を復活させ、変成を行い、涅槃業をなすそのために。彼らのために、犠牲となった多くの人間のために私は事を成さなければならない。だからこそ、君の協力が必要だった。


 騙していたわけではない。君も両親だと思っていた人物にたどり着いただろう。それに、そのもう一人にも話す機会を私は与えてやるつもりだ。次は電波塔に向かうといい、そこに君の便宜上の母親が囚われているはずだ。詳しくは私からは語らない。君が彼女から経緯を聞く機会を失わせるような野暮はしないつもりだ。


 君は巨大なうねりの中に巻き込まれている。しかし、この先、道を間違えなければ中心にたどり着けるはずだ。それには私の助けが必要だろう。頼む、私の助けを拒まないでくれ。その先にある未来は決して悲惨なものでは無い。だからこそ、信じて欲しい。終は近い、間も無く私の、そして君の宿願が果たされるだろう。さあ我息子よ、進むべき道を誤らず、私の指示に従って欲しい。



 頭が割れそうだった。何を信じろというのか、何もかもが計画されていたことだったのだろうか、僕がこの街に呼ばれ、父や母を探すことも、それとも祖父母に預けられたことも。その何もかもが、図られた出来事だったのか、そんな事が有りうるだろうか、いったい僕は何ものなんだろうか、普通の人間ではないのか。確かに通常の人間よりは肌の色が薄く、血管が透けて見えることがあるかもしれない、しかしそこまで顕著ではなかったはずだ。


 それとも、私の父とされるあの教祖のように、これから違いが顕著に現れ始めるのだろうか。考えてみれば私は異形と呼ばれる人たちに、昔からあまり嫌悪感を抱かなかった。それが普通だと思っていた。


 異常だと知ったのはそうした人達が仲間と共にいる時、目に触れた瞬間、彼等が顔をしかめたり、避けようとするのを目の当たりにしてからだった。しかし、彼等も裏で悪し様に言おうとも、面と向かって悪いようには言わない。僕にはそれが分からなかった。外見的な違いがそれ程悪いことだろうか、それも個性じゃないかと、いや、それどころか、そうした違いに嫌悪感を感じることが信じられなかった。それが取り立てて異常だとは思っていなかった。生まれつき私は彼らのような、身体的な変わり者の人権を単純に尊重できる人間なのだと思っていた、しかし、ここにきてそれは違うのかもしれないと思い始めていた。ある種の愛着のような感情が、奥底にあるのではないか、そんなふうに。


 自我が崩落を始めそうだった。頭の先からつま先までが、自分以外の物に変わっていってしまいそうでおののいていた。僕はいてもたってもいられず立ち上がると部屋のドアを開け、わき目も振らずに下の階へと駆けた。真下の扉を蹴倒す勢いで押すと、簡単にドアが外れた。頭の中で見た、あのままの風景が部屋の中で広がっていた。坐禅を組んでいた一人が崩れ落ちる、すると仮面が外れ顔が覗いた。それは燻された枯れ木のように変わり果てた亡骸だった。同時に周りの人物たちの全ての仮面が外れる。やはりどれもこれもが落くぼみ、固く口を閉じた黒々とした亡骸だ。


 嫌でも目に入る阿修羅像、それと祭壇を囲む四人。彼らの体が色の抜けた白に変わり果てていた。その石膏のような体に細かい網目の罅が入り、砂のように崩れ落ち、舞い上がった破片が空気へと溶ける。白い煙が完全に消えると部屋の全貌が姿を現した。


 目を向けると祭壇にあったはずの教祖の亡骸は消えていた。阿修羅像の仮面が音をたてて落ちる。下から覗いたのは赤く滾る六つの目だった。見たことのある顔、それは水品、廻、八木と呼ばれていた幹部たちの顔だった。


 途端、跳躍したそれが天井に張り付いた。六本の腕、二本の足が器用に動き、重力を無視して天井で逆向きに立ち上がる。其々の頭が首を傾け、顔を巡らせて私の姿を捉えた。


 「この地は御柱とされる者達の侵されざる地」


 「犠牲を惜しまない貴き者達の聖地に何故足を踏み込んだ」


 「我らに飲み込まれたいのか、我らの供物となるか」


 僕があまりのことに竦んでいると、独りでに口が動く。


 「わからないのか、私はもうこちらに居るというのに。そう救いの手が何度も差し伸べられるとは思わないことだ。少し早いが、お前達にも先に行ってもらう必要があるか」


 そうして札が一枚、手から飛び立つ、それを受けるために六本の手が胸の前で交差する。しかし、札はそれをものともせず弾くと、目の前の異形の胸を貫いた。


 「何故、あなた様は移動されたのでは。待ってください、我をあちらに送らないでください。あの闇に戻りたくはない、お願いです、私だけでもお傍に」


 「我らは宿願の時まで共にいるはずなのでは、こんなはずでは、消えたくはない、消えたくは、我らにはまだやれることが有るはずだ」


 「成程、やはり一度死んだ身、願いが叶うならばここで、消えるのも悪くはない、一足先に参ります」


 口々に三つの首が別々に言葉を発し、断末魔の雄叫びをあげ、やがて罅割れ、体が三つに裂けて崩れた。天井から落ち、その体が砕けて散り散りになる。そのうちのひと欠片、転げ落ちた首が私の目の前まで進み、視線が合うと何か言いたげな表情のまま固まり、他と同様に掻き消えた。


 「いいか、今更他の土地へ向かおうとしようと最早無駄なのだ、今の者達の力で私の力はより強まった。忘れるな、この体は最早お前だけのものではない。札ももう持ち合わせていない、守るものはないのだ、無理はするな、部屋は安全だ。夜を待て、今は留まるべきだぞ。それと暫く水は口にするな。水道水は止めておいたほうがいい」


 動くままにしておいた口が唐突に動かなくなる。夢であって欲しい、この街でおきたことの全てが夢であって、そう思うも、体を伝う痺れ、そして痛みが、何もかも現実だと告げていた。


 奇矯な声に驚かされ、僕が振り向くと、音を聞きつけてやってきた狂人の群れを目の当たりにした。服が破け、傷つき血にまみれた体、折れて正常に動かない手足をものともせず動き回り、辺りの壁や鉄柱に体を打つけている。


 こんな状況ではとてもではないが無理だと部屋から出ることを諦めた。斜めに指す日差しが彼等の影を絡み合わせ、別の生き物のように見せていた。世界は変わり始めていた、そしてこの変化を引き起こさせたのは僕だった。もう、父や母のことなど問題ではなかった。どうにかして戻さないと、こんなことを望んではいなかった。なぜこんなことになってしまったのか。


 暫くして日が落ちると、街に響いていた音が消え、彼等は暗闇の中に溶けるようにして去っていった。足の震えをそのままに、僕は部屋から飛び出す。なぜか電波塔の位置は頭の中にすでに記憶されていた。後悔しようとも、やり直そうとしようとも、どう転んでも最早、僕には彼等の望む以外の道は残されていないのだ。何をするにしても可能性は彼らの望む場所に向うこと、そこにしかない。


 祖父母と共に過ごしたあの生活が懐かしかった。なぜ彼らの言うことを聞かなかったのか、あの人たちはこんなことに加担していなかったはずだ。自分たちに血の繋がりが無いと知っていたはずなのに、僕にあんなによくしてくれた祖父母。なぜ彼等の遺思を守らなかったのか。


 そう考えながらも、闇をかきわけて私の足は既に電波塔へと向かっていた。そうだ、僕の代理母だったあの人なら、何かこの状況を覆す何かを教えてくれるかもしれない、あの穏やかな日々に戻る方法を知らせてくれるはずだ、そんな一縷の望みに縋りながらも。

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