第10話 ある男の記録2


 僕の手のひらに指が添えられている。小さな体、幼い頃の記憶、この温かな指は、手のひらは誰のものだろう。顔を上げても光の影になった女性の顔が、どうしても見えない。背伸びして、両手を上げてどうにかその顔を見てやろうとすると、その顔が私の近くまで降りてきて、何か言葉を発するが、その言葉もくぐもっていてわからない。綺麗な、透き通るような肌の、白く細い指。


 僕の小さな指でも簡単に傷つけられてしまいそうな指、強く握ると、その手は急に皴だらけの節くれだった手に変わってしまう。驚いてもう一度面を上げると、私の頭上にある顔は困り気味の眉根を寄せた祖母の顔だった。


 とお耳に聞こえる祭囃子、あたり一面に暗闇が降りていた。


 提灯の灯、裸電球の帯、行き来する色とりどりの浴衣。青色の防水シート、流線を描きながら游ぐ金魚の群れ。僕は祖母に手を引かれ、人の群れの中を歩いた。僕の瞳はあの青々としたシートの上でせわしなく游ぐ、数々の赤い色に吸い寄せられる。


 気がつけば僕は祖母から離れていた。余所の子供たちに紛れ、金魚の動きに夢中になっている。


 目で追いかけていた金魚が丸い紙にすくわれてゆく。薄い紙の上で踊り狂う金魚、紙が破れ、落下する。その水音を聞きはっとし、不意に我に返る、周りを見回しても祖母の姿は見当たらない。不安と焦りが同時に押し寄せて来て、立ち上がり振り返る。すると私の頭に皴だらけの手が降りてきて、僕をなでまわす。


 祖母がすぐそばにいた、そう気がつき。私の心は落ち着きを取りもどす。


 「夢中になるのはいいことさ。でも、いいかい、手を離しちゃだめだ。危ないことが多いから、目移りする物が多いけど、道はちゃあんと見とかないとね。迷ったらおしまいさ。ほらあの金魚みたいにすくわれて、どこへともなく連れて行かれてしまうよ」


 そう言う祖母の笑顔の中に僅かに影がさしている。すぐにこう独り言を続けた。


 「すくわれたのは足だろうか、それとも命だろうか。助けているつもりだけれど、こんな事しかしてやれない。私にはもうわからないよ。だけどね、私達は少なくともお前に救われたんだ。いいや、今も救われているんだよ。だから、今は何も心配しなくていい。私達がついているから」


 鮮やかで鮮明な記憶。色あせても忘れられない大切な思い出。不思議と一言一句、脳に染み付いているあの時の言葉、当時の僕に、その意味は分からなかったが、今ならば両親に見捨てられた僕を想っての言葉だったのだとわかる。


 あの頃にはわからなかった微妙な表情の意味が、今なら理解できた。しかしなぜ、こんな昔のことを思い出すのだろう。祖父母は私が居るからこそ、両親を探そうとはしなかった。そんな祖父母の想いを、私は今更ながら、ないがしろにしている。


 水に映り込む私の顔、その後ろに沿う祖母の顔が金魚の跳ねで揺れた。意識はその映像と共にないまぜになり、暗転を始めると次の映像が浮かび上がる。


 白い壁、薄暗い屋内、壁に並べられた仮面。面を下げ、音量わずかに囁く人々。その声色はどれもが音程を失った作られた音のように無機質に聞こえ、感情も読み取れず、性別すら判断できないほどに虚ろだった。


 「いよいよ、大願を成就すべき日が決まりそうだ」


 「遂に我らの願いが果たせる日が解るのね」


 「そうだ、この日のために我々は会ったのだ」


 薄暗い建物の中、縦長のテーブル、六脚の椅子が両側に計十二脚並べら、れそれぞれ六人の男女、十二名が腰を下ろしていた。顔には仮面がついている。そう、あの仮面だ。それらの人物たちが、僕には意味が分からない内容の会話を繰り返している。回らない頭、理解できない状況、夢を見ていると分かっているのに夢とは別に僕の意識だけが乖離していた。まるで別の人間の体に迷い込んだように。


 意識していないのに僕の口から言葉が出る。


 「さあ、成果を告げよ。我々の教律がいかな結果を得ているのか、まずは彩里(あやり)、お前からだ」


 声が違った、僕の声じゃない。その声にそれぞれが一言、夢の中の僕に対して挨拶を済ますと、再び椅子にかけ、仮面を外した。


 その後一人が立ち上がる。彩里とは、まさかあの火葬場にいた人外のことだろうか。


 「黒火はあれより、更なる成長を続けております。いずれ、涅槃業までには間に合わせます」


 「では飾」


 聞いたことのない声、そしてその声に反応する女性。仮面を外す、下から艶のある顔つきが現れた。見覚えのある顔、仮面工房の女の顔がそこにあった。全く変わらない、あの時のままの顔。


 「はい、姉の仮面は御意のままに。完成は近くあるでしょう」


 彼女の報告が終わると、報告が繰り返され、しばらく見ない顔が続いた。


 「八木」


 厳い体つきに獣じみた体毛、そして口から覗く鋭い八重歯。そんな男が答える。


 「獣の技は後僅かで、完遂致します」


 「廻」


 細面に切れ長の目、火傷のような傷跡が顔反面を覆っている。長い髪を手で払い、男が答える。


 「井戸の角枠、住人たちの啀み合いも絶えず、滞りなく進めております。」


 「水品」


 坊主頭に大きめの眼球、左右非対称の輪郭、引きつった口を震わせ、発音を濁らせながら男が返す。


 「荒魂封じ、着々と進めております」


 「流逸」


 たわんだ顎や頬、重力に引かれ、下がる瞼と唇。伸びきった髪や髭が目や口を隠しきっている。性別のわからないそれが呼び名に答えた。


 「食識業、今の所欲に溺れることなくどうにか」


 「荒熊」


 この男は見覚えがある、あの鏡の中に浮かんだ顔だ。隻腕、痩せぎすで張り切った肌、収縮し切った瞳孔、気迫のある眼光をたたえている。顔面に不健康そうな顔色、こけた頬が震え、声を絞り出す。


 「顆餓魂渡、すべからく良好状態を保っております。」


 「囃子」


 ひっつめ髪に浮き出た頬骨、小さな顔をより目立たせている。妙に神経質じみた険しい顔つきにはどこかあの病棟のミイラの面影があった。その女がこう答えた。


 「精々降、あと僅かにて達するかと」


 「徂徠」


 短髪に角張った輪郭、片目に眼帯をつけた壮年風の男が話す。


 「悔湊、他の者と同様に察せられることなく黙々と」


 「後」


 顔の輪郭が黒に塗り潰されて見えない。その中で浮かぶ黄色い目、薄く開いた口の中の歯が不意に蠢いた。黒が晴れる、しかし、現れたのは平凡な顔だった。どこかで見たことのあるような、しかしすぐに忘れてしまうであろう顔。


 「特に問題なく、平常に進めております」


 「三原」


 呼ばれた女性の面影に覚えがあった。肩が落ち僅かに体が震えている。疲れが見て取れる表情、荒れた肌と乱れた髪。虚ろな目がしばたいた。彼女の罅割れた唇が動く。


 「囲いは完成しております。後は獲物を入れれば問題なく進むでしょう」


 「宮ケ瀬」


 面長の顔に短く整えられた髪。眼鏡に蓄えられた口ひげ、目の下には何重もの皺がより、目が赤く血走っている。この顔も見たことがある。そう、写真でだ。男が最後に告げた。


 「仰せのままに処理しております」


 宮ケ瀬、そして三原、聞いた苗字、間違いない、僕の父と母だ。僕は一体、ここはどこなのだろう。そして僕の口からでた声は、僕の知る人物の声ではなかった。何が起きている、感覚がなく、水の中にいるような、不鮮明な視界。


 「宮ケ瀬と三原は残れ。ではそれぞれ、事を進めるように」


 一瞬視線が名を呼ばれた二人のもとに集まる、間を置いて全員が同時に返事をすると、一人、一人と部屋から静かに出てゆく。


 やがて、部屋の中に三人だけとなると、視線が宮ケ瀬に合った。


 「どうだ、あれはまともに育っているか」


 口から滑るように自然と言葉が漏れる。私の自由にはならないようだ。


 「それなのですが、本当にあの子を使うのですか」


 「あの子は、あの子でなければいけないのでしょうか」


 宮ケ瀬、つまり僕の父、そして三原、母がそう答えた。


 「今更何を言っているんだ。我々が出会ってからずっと決めていたことじゃあないか。良いか、これは私の血筋でしか果たせない事なのだ。だが、事を成した後、私が居なくなってしまうのでは意味がない。わかるだろう」


 父の顔が辛そうに歪む。何か物を言いたげな表情を浮かべた。それをよそに母が告げる。


 「こんな事、本当に正しいのでしょうか」


 と、これまでのやりとりを盗み聞きしていたのか、部屋の出口の影から一人の男が現れ、批難を込めた口調で会話に割り込んだ。


 「今更ここにきて何を言っているんですか、もう我々は戻れない所まで来ているんですよ。世界を変えるため、私達の共望する未来のため、犠牲は必要でしょう。ましてやあれは要点の一つ、外せない素材なのですから」


 出口奥からの光が男の顔を影で隠している。やがて全ての情景が溶け出して闇の中に消えてゆく。


 再び視界が安定した際に現れたのは天井だった。暗闇の中ぼんやりと浮かぶ板の木目、祖父母の家の天井だ。あの頃は木目の模様が人の顔に見えて恐ろしかった。祖父に寝る時も姿勢を正せと言われていたものの、慣れるまで僕はずっと横向きに寝ていた。


 眠れない夜はあの布団の中で様々な空想を巡らせたものだ。そう、あの夢でしか見たことのない世界への旅。


 夜中に目が覚めれば隣で眠る祖父母の正確に繰り返される寝息が僕を安心させてくれた。預けられた当初、二人の顔はいつも強ばっていた。まるで動物の扱いに慣れていない大人のような対応。そんな表情が徐々に柔らかに変わっていった。数年も経てば冷たかった印象が、暖かに変わっていった。


 家に慣れていない頃の僕が、静かに体を横にして祖母の寝顔を見詰める。祖母は僕を見ていた、見開いた眼が確かに僕の目を真っ向から捉えていた。僕は恐ろしくなり、どうしたの、と呟く。すると祖母はなんでもないの、なんでも。さあ、寝なさい。寝なきゃあ明日が辛くなるでしょう。そう言って上を向いて目を閉じる。そうだ、そんな事がなんどもあった。


 悪い夢でも見ているのだろうか、うなされ、目を覚ました祖母が、何故か僕を忌々しげな形相で見詰める。そんなことも何度かあった。薄々気がついていたことなのだ。


 籍も入れずに別の名字を使う父と母、似ても似つかない顔。僕に聞こえないようにと、僕が寝た後に耳にしたことのある祖父母の会話。記憶違い、僕の頭の中での想像、どれも現実ではない、間違いだと思っていた。間違いだということにしていた。


 けど、僕のこの疑念はいつまでずっと、しこりのように心に染み付いて、けして消えることがなかった。だから僕は直接両親とされる二人にあって話が聞きたかった。本当に私は二人の子供なのか、血が繋がっているのか、けれども、僕があの家で過ごした十数年、あの十数年は嘘じゃなかった。決して祖父母は僕をないがしろにしなかった。最後には私の手を握り、どうしようもなくなったら私達を思い出せ、必ずお前の傍にいるからと言ってくれた。だからこそ、今でも祖父母は僕の信じられる唯一の家族なのだ。


 視界が霞む、祖母の安らかな寝顔が徐々に輪郭を失ってゆく。


 再び天井、しかし、こちらは見たことのない天井だった。長く太い梁、高い屋根、額から流れる汗を腕が拭う。


 「わかっている。もう、そう長くもたんだろうな」


 耳打ちされるか細い声。先程と変わらず、声の音程は感じられない。


 僕の腕は水に濡れた布をつかんでいた。僕は正座をしてわずかの間、天井を見ていたらしい。涙がその瞳からぼろぼろと溢れた、脇にはタライ、中には冷えた水が張られていた。


 正面を見据えると畳の上に布団がしかれ、その上で痩せこけた男が寝ていた。無精髭が伸びきっているものの、顔の表情は引き締まっており、力がある。けれどもその表情が時折、魂が抜けたように弛緩する。肌には稲妻のようなひび割れが走っていた。いや、違う、血管が透けているのだ。静脈と動脈、赤と青の血管が異常に透けて、浮いていた。


 「良いか、この家系は長生きできん。人を使う才能は何故か誰もが持って生まれるが、揃って短命の、この繋がりだけは解くことがかなわん。どんな健康な相手とも、血の繋がりを持てばやがては滅びる。俺もずっと隠してきたのよ、お前の母と出会うた時にはな。いつか、嫁を取る年になる頃には、お前も覚悟しなければなるまい。代償がこれとは、ご先祖も考えて欲しかったものよ」


 蝉が背中で煩く鳴いている。


 「戸だ、その戸を開けてくれ」


 男がそう言って咳をすると口から赤黒い血が一筋、つつと流れ落ちた。男の影に重なるように見知らぬ女性の顔が見えた。目を見開き、瞳孔の色が失われ、髪が乱れきった、こと切れる寸前の表情。そんなでありながら、どこか懐かしさを覚えるようなそんな顔つきの女性。輪郭がどこか、僕の面に似ている、そんな女性の顔が。背を焼く太陽の光が僅かばかり熱を増した気がした。崩れ落ちるように手をつくと、畳に伸びる影に意識が飲まれてゆき、再び場面が変わる。


 差し込む光の筋がまぶたの上を炙る。夏の日差しが突如現れた茶色の映像の中で座る私に降りてきた。


 「この街の施設の配置を見てください」


 目深に被った帽子のつばが突然、眼前に現れてそう切り出した。テーブルの上には地図が置かれている。どこかの喫茶店、いや、この場所はあの仮面工房の喫茶店だ。


 「これが何だって言うんだ、今の俺に関係があるのか」


 地図上には中心部に六つの点、外周部に六つの点が打たれていた。繋げば歪な六芒星が出来上がる配置に。


 「見事なものでしょう、前市長の府、現市長の秘書の内留、建設会社社長補佐の布袋が推し進めた計画らしいんですが」


 「しかし、なんでお前がそんな事を知っているんだ。こんな場所に呼び出して何故、俺が」


 「実は彼等は私の親族なんですよ。計画は整いつつある。しかし、まだ足りないものがある、私達は欠けた最期の部品を探していた。それで、やっとあなたを見つけたんだ」


 「一体何の話だ」


 「何、簡単な話です。貴方さえ居ればこの世界を変えられるやもしれない、そういう話です。私達はこれまで何度も世界を変えようとしてきました。事実、変えられた場所もいくつかはあるのです。けれど、その全ては一部で終わってしまっている。まるまる全てを変える、とは行かなかった。

変えるのはそう難しくない、人の心の力とは面白いもので、一人が生じさせる力は小さいが、それが何十、何百となると恐ろしい、強大な力になる。利用できれば、世の中を変える事なぞ造作もない」


 「全く話が見えないが」


 「貴方のご両親、既にご存命ではないでしょう。皆貴方の一族は皆長生きできない、そうでしょう。貴方の奥さんもすぐに亡くなってしまった。」


 「俺を馬鹿にしにきたのか、あいつを失ったばかりの俺を」


 「違いますよ、私が言いたいのはね。今は悲しんでいる時ではない、ということです」


 帽子の男が袖から一枚の紙を私に提示する。紙には何かの図系が描かれていた。それを目にした途端、体の奥底が疼いた。腹の底でなにかが破裂するような熱を覚える。


 「ほら、感じるでしょう、繋がりを。血が疼くでしょう。大丈夫あなたなら全て叶えられる。あなたなら神になれるはずです」


 僕が強ばる指先で紙を折り曲げ、視界から外し、激しい動悸をどうにか抑えようと落ち着かせていると帽子の下から覗く目が怪しげな光を帯びて輝いていた。


 「なにも悩む必要はありません。道はもう出来上がっている。後は歩むだけなのですから」


 空虚な胸に染み込むように入り込む言葉。私の意識はその瞳の輝きの中に落ちていく。


 景色が変わると狭い空間に閉じ込められていた。暗闇の中で煙が充満している。徐々に煙は下に降りてきていた。足元には三人の死体。水品、廻、八木と呼ばれていた人物の死体。舌を出しきり、膨れ上がり、青ざめた顔には既に生気は感じられない。


 「何故だ、あいつは俺は死なないと言ったじゃあないか、ここまできてなぜ俺が死なねばならんのだ。俺もまた、父や、あいつのように死ぬのか、いやだ、死ぬのは嫌だ。おれはあいつを蘇らせねばならんのだ、あいつに、あいつにもう一度会うために」


 膝を抱えた僕の口から、とめどなく意味の無い言葉が漏れ落ちる。心の中はどうしようもないほどに絶望が広がっていた。迫る煙と同様に僕の意識にも煙が降りてくる。


 やがて痛みを持って、意識が覚醒へと導かれてゆく。僕の記憶と何者かの記憶が交じり合う、長い、脈略のない夢が、終わろうとしていた。

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