第7話 ある美容室の記録


 あの病棟で経験した出来事が今だに信じられない。異常な病室を抜けてから二日が経っていた。どうやって病院から家へ帰ったのか、どういった道を辿って帰ったのか、その辺の記憶が曖昧でどうにも思い出せずにいる。思えばこれまで足を向けたどの場所でも、帰りの記憶が曖昧で薄らいでいる。あれだけ恐ろしい体験をしたんだ、当然なのかもしれない、しかし、なんだか僕は自分が恐ろしかった。


 本当に僕は無事に生きているのだろうか、それとも、どこかの場所で既に死んでいるのではないか、などと考えてしまう。それに伴い、ここ数日の出来事が現実で起きたとは思えず、長い眠りの中で悪夢を見ているのではないかと言う気持ちになっていた。いつも浸っていたあの夢の世界、それが少しずつ現実に染み出してきているような、いや、そんなはずはない、僕は正常だ、間違いなく狂ってなんていない。そう思わないとやっていられない。


 再びあの病室を訪れれば新しい情報が得られるのではと思うものの、どうしてもあの場所には戻れなかった。再びあの病棟に侵入を試みたが、できなかったからだ。病院の敷地はまるで空気感が変わってしまっていた。院内服を着た目を怒らせた患者が何故か周辺を徘徊し、誰も連れ戻そうとせず、それに加えて病院への来客だろうか、私服で目の定まらない人々がふらふらと公園内をいつまでもさまよっていた。


 人が途切れるどころか増え始め、昼も夜も病棟周りから人が途絶えなかった。まるで僕が監視されているようで、どうにもこうにも隙が見つけられず、一先ず後に回すこととして、拾った手紙の指示にしたがい、新しい情報を探し始めた。



 バスに乗り指定された区にたどり着くと、時折道の脇で表情を失い、佇み続ける人の姿を見かけるようになる。老若男女、年齢や性別に決まりはなく、誰もがただ、気配を消して立ち尽くしていた。そうした人達の脇を通り抜け、同様に立ち尽くす人たちを脇目に、歩道橋を渡る。


 階段を登ると目的の店が目に入った。店の外観を眺めていると、ふとした拍子に歩道橋上に立ち止まる人々に声をかけられた。罵声以外の声は久々だ。


 「あんた、あの店に行くつもりか、今流行りのパワースポットなのかな。でも、別に自然の中でもないし、街のど真ん中だからそんなこともないよなあ。ありゃあ不思議な場所だよ。切ってもらってるとさ、記憶がさあ、抜けるんだ。気持ちいいんだよなあ。ここを知るまでずっと寝不足だったからさあ、実際すごく助かってるんだよね。ホント、精神的に疲れてたんだけど、それは無くなった。悩みなんてどうでもよくなるんだよ」


 弛緩しきったどこか虚ろな顔のままで男が目を合わせずに僕にそう言った。彼は始まりと同様に、突然興味を失ったように言葉じりをすぼませて、やがて元の状態へと戻った。 


 僕はすぐ近くの橋の欄干に両腕を載せ、店に目を向けている女性に本当ですか、と聞いた。彼女は顔の向きを変えず、どうにかこちらの耳に届くかという様な小さな声で私の質問に答えた。


 「髪に触れられてる間、すごく眠くなるのよ。最初は、体が疲れてるから、いつも寝ちゃうのねって思ってたの。でも違うのよね、疲れてなくても寝ちゃうんだもの。体は疲れるんだけど、心は軽くなるのよ、不思議でしょう」


 そう答えると、やはりそこで会話は終わったのだと言わんばかりに私の問いかけに何も答えてはくれなくなってしまう。僕は仕方なく歩道橋を下ると店に向かった。


 店の前に二人の男性が立ちすくみ、鏡を見つめている。僕は通してくれと二人にそう言うと、思い出したように顔を上げると僕の顔を認め、お互いの顔を見合わせ、両脇にどいてくれる。その様子からどうやら深い知り合いではないようだ。気になって、先程の二人と同様にこの店に対する印象を聞いてみた。


 「なんつうの、いらついてさあ、誰かを無性にぶん殴りたくなることってあるだろ、そんな時、外からここの店の中見たら、よくわかんねえんだけど入りたくなったんだよな。俺、別に髪なげえわけじゃないし、美容室なんて興味なかったんだけどよ。あそこって髪洗うだけでも入らせてくれんだよな、料金も安いし」


 隣の男が頷いてから話を続ける。


 「もうね、随分と通っているんです。この街に住んでいると、色々なことが腹立たしくなるんです。これって一種の病気ではと疑ったこともあるんですが、かかりつけのお医者は気のせいだとおっしゃいますし、気分転換にこの美容室に足を向けたんですけれど、だいぶ心が軽くなりました。不思議ですよ、今ではもう欠かせません」


 そして答え終わると元の状態に戻り、何も話してくれなくなってしまう。私はこれまでの場所のような恐ろしさはここに感じないものの、やはり何か、得体のしれないものを感じていた。


 あの記録に書かれていたように、こうした人達がこの辺りに多い理由が、この店に存在する何かなのだろう。



 君の疑問に対する答えは少しは得られただろうか、この先は彼等の拠点を追う足取りになるだろう。幹部である者達は教律師と呼ばれていた。信者に指示を与えながら彼等は裏でまた別の行動を行なっていた。例の病棟の彼女のように。


 ○○町○丁目の理容室、「姿見」に行ってもらいたい。別に君に髪を切ってもらいたい訳ではない。実に巧妙に隠されてはいるが、あの美容室も通常のものとはかけ離れた目的で作られたものだ。店員は知らされていないので何も知らないだろう。透明ガラス張りの店構えで室内は全面ガラス張り、店奥一面に設えられた凹面鏡。一見通常のものと変わりがないように思えるが実際は違う。床の強化ガラスはマジックミラーで凹面鏡の下に鏡合わせのようにもう一枚、斜めに鏡が張られている。角度、反射を追って地下室の奥に本体が隠されているのだ。



 ふとガラス張りの外壁から店の中の様子を覗くと、遠くではわからなかった店員や客の姿がつぶさに見て取れた。外側は現代風にアレンジされているものの、店の中は古臭い空気がそのまま取り残されている。黄色に変色した壁紙、数年前に貼られたままの広告が色褪せたまま貼られ続けている。レジの横には珍しいダイヤル式の黒電話が鎮座していた。そんな店内で、彼等は何故か時間が止まってしまったように動きを止めていた。動いているのはレジ横で新聞を読みふける中年男性だけだ。


 僕が店の中に入ると、チャイムが店の中に鳴り響いた。すると動きを止めていた店員のハサミが動き出した。外では動いていないように見えた、ただの見間違えかと考え、僕はここに来た理由を言うために店長に取り次いでくれと頼んだ。


 すると新聞を読んでいた男性が店長だと答え、店の奥で少し待っていてくれと私を奥の部屋へと通した。部屋には数人の従業員が待機していて、其々が外の人々と同様にぼんやりとした様子で椅子に座っている。


 僕は店長が居ないことを利用して、彼等に店に異常がないか問いかけてみた。彼らはお互い見合わせ、一人ずつ簡単にまとめて僕に話をしてくれる。


 「なにも知らないですよ。変わった鏡だなあって勤め始めてからずっと思ってはいましたが、別に美容室では不思議ではないですし、ただ変わった鏡があるというだけですから、何故か体は疲れますけどね。偶にお客様の髪を持ったまま我を忘れてしまうときがあるんです。でも店長には怒られませんし、感謝しています。いけないとは思うんですけれどね」


 「なんというか、長続きしないんすよ。客も店員も、疲れちゃって。俺もそろそろダメかもなあ。なんて言ったらいいか、時折意識なくなるんす。気がついたら家に居たり、街中で立ち止まってたり。なんなんすかね、でも不思議と怖くならないんすよね。なんだろうな」


 「少し前にここに派遣されて、始めたばかりなんですけど、実はちょっと怖くて、辞めようかと思ってるんです。だってみんな普通じゃないですよ。この街全体が変なのもあるけど、このお店の人達、みんな生気が抜けたみたいに動きが止まるときがあるんです。でも、誰も気にしてないし、私も最近別にそれが普通なんじゃないかって思うようになってきていて、それがすごく怖いんです。私じゃなくなってきてるみたいで」


 丁度三人目の彼女の言葉が終わる頃、店長が部屋に顔を見せる。私は手紙の中に同封されていた鍵を彼に見せ、その上であなたがこの店のオーナーなのかと聞いた。


 「オーナー? いや違いますよ。ほら、レジ横に黒電話があるじゃないですか、今時あんな電話珍しいと思いますけどね。あれから偶に指示の電話がかかってくるんです。人を雇ってるのは私ですし、実質私がしきっているようなものなんですけどね。ただ雇われた時から、あまり鏡の前に立つなとは言われてますね。お客さんもしかして、店長の知り合いですか? 実はもう随分と店長の姿見てないんですよ。十年以上になるかな、まあ、声も聞いてますし、亡くなっては居ないと思います。良いお給料を貰ってますから、文句はありません。それは、床の扉の鍵、もしかして前にお越しになられたあの方とお知り合いですか? なんでも店長のご友人だとか、あ、はい。では私は外しますね。いえ、店長に誰かがこの鍵を開けよう頼むことがあれば、離れるようにと申し付けられておりますので。貴方がもしお入りになられるのであれば、申し訳ありませんが、三十分ほど部屋のドアに施錠させていただきます。ウチの職員に妙な噂をたてられても困りますので」


 店の裏に物置用の部屋が在る、事情を話して入れさせて貰うといい。床の鍵穴に鍵を差し込み、扉を開ければ階下へと続く階段が現れるはずだ。それは螺旋の鏡と呼ばれている。加工が驚くほど精緻で、切子細工のように鏡の中にある特殊な模様が描かれている。



 正面から眺めるのはお薦めしない、丸ごと奪われてしまうやもしれないのでね。これは封じ込めの鏡だ。店の鏡の反射を合わせた先にこの鏡が安置されている。鏡の中の彼はこれを用いて店に来る客や働く店員の魂を少しずつ奪っている。魂とはいわば、精神のかたまりようなものだ。それが少しずつ削り取られてゆけば、人はどうなると思う、肉だけの空っぽな容器が残るのだろうか。そうはならない、人の体と魂は堅く縫いつけられている、残滓は必ず残るが、だからといって削り取られて無事で済む訳がない。


 それに奪われても半身の場所を本人が忘れることはない。だからこそ、客や店員は奪われた魂の欠片を欲して再びこの店にあしげく通うが、その結果なおのこと魂を奪われてゆく。魂の全てが失われれば何も行動が取れなくなり、その先は衰弱死か、あるいは心不全や脳死等の突発的な死か、どちらにしても終わりへの道のみしか残されていない。



 話を聞き、僕は店長に部屋へと通してもらった。質素な部屋には首だけのマネキンが鏡台の前に並び立てられ、ウィッグ、ハサミ、洗剤などの職業道具が置かれていた。店長が床に置かれたダンボール箱をどけると、埋め込み式の扉の姿が現れた。それではと部屋から出ていく彼を見送ると、私は鍵を差し込み、取っ手を引っ張り上げて扉を開いた。


 覗いた真っ暗な空間から、微かにかび臭い空気が上に向かって流され始めていた。使われていない埃の積もった階段に足跡が付けられている。この手紙を書いた本人のものだろうか。やがて階下の空間にたどり着くと、以前使用した懐中電灯を点け、壁のスイッチに触れた。押し込むとバチバチと音が立ち、天井と部屋に色が灯る。


 蛍光灯が輝き、目が眩んだ。部屋の中は乱反射で目を開いていられず、光の奔流の中のような有様だ。やがて乱反射が収まり、光が収束していった。薄目で見渡すと、僅かばかり景色が見える。やがて目が慣れてゆく。部屋の壁中に鏡が貼られ、反射した光がある一定方向に向かって集束されていた。それはやはり鏡だった。集められた光がことごとくその鏡の中に吸い込まれていた。


 その鏡だけ、鏡なのに反射がない、暗い色を湛えるばかりのその立てかけられたガラス板がなぜ鏡なのかと言えたのか、円形の枠縁、鏡面の中に僕の姿が浮かんでいたからだ。背景も何もかもが暗い闇の中、私の姿ばかりが鏡の中に存在していた。



 私がここに気がついたのは、この地区の人間は何故か生気がないからだ。薄くなった精神では感情が抱けない。彼等の言質をたどってここを知った。元凶が地下にあることは想像がついたが、鍵がない。そんな現状を変えたのはあの病棟の彼女だった。彼女はこの美容室がまた、幹部の一人が経営するものだと知っていた。そして鍵を預かっているとも。私はその鍵を彼女から奪い、彼に会うことに成功した。どの道あの場から動けない彼女にはこの鍵は必要のないものだった。


 私達、教団の教律師達はお互いの仕事について、さわり程度話すことはあっても、具体的な内容は何も知らなかった。ある種の到達点に誰がいち早く辿りつけるか、そればかりを競っていてばかりで、協力はしなかった。だから私は自身の仕事以外、彼等の素性や行なっていた仕事を知らなかった。私の取り組みはいずれ君に明かす時がくるだろう、だが、今はまだ答えられない。



 不意に眩い光が失われる。暗い部屋に鏡だけが枠型に光を放ち、やがて映り込んだ僕の姿が鏡の中で渦にかわり、その中に溶けて広がった。


 高速で逆巻き始めた肌色の渦が再び像を取り戻したとき、それは僕の顔とは似て非なる青白い痩せた面立ちの男性の顔に変わっていた。鏡全面に浮かぶ生首のような顔、それが僕に向かって問いかける。


 「あ、あなたがここに来るのは知っていた、聞いていたからだ。わ、私は己の肉を失って随分と久しい。と、当時はこれこそがマニへと到達するための術だと信じて疑わなかった。た、他人の魂を奪い続けることで、到達点へと至る。よ、良く言うだろう、肉体は不浄なものだと。わ、私はし、信じていた。超然と存在する姿見の中の世界。偽りを映さずありのままを移し込む鏡の美しさ、そこには穢れなき世界が創り出せる。こ、これにより、より高度な存在になれるのだと。


 しかし、私は、果たせなかったのだ。お、思い描いた結果とは、全く違う、望んだ理想はこんなものではなかった。た、他人の魂は無垢ではない、様々な穢れを含んでいた。ひ、人々の心とは陽に対し、圧倒的に陰の比率が高いのだ。さ、支えきれない量の陰気、ストレスが、ど、同時に私に流れ込んでくる。わ、私の魂はあれらに徐々に侵食されてゆく。い、今では最早、こうして話せる時間も限られている。わ、私は、ま、混ざり合った意思に飲み込まれ、ただ貪るだけの怪物に成り果ててしまいそうだ。


 そうなる前に、どうか、お、教えてくれ。あ、あの男が、それとも彼女がマニに到達したのか、お、教えてくれると言っていた。う、裏切り者がどうなったか知りたいか、だ、だったら先に彼女の結果を教えてくれ」


 鏡から漏れ出す重なり合い、響き続けるひび割れた声に向けて僕は一言だけ、彼女は失敗したみたいだ、とだけ答えた。彼女が求めたものがなんであれ、あれが成功だとは到底思えない。


 「や、やはりか。ふ、ふふ。む、虚しいものだ。か、考えてみれば、我々は誰もが浅はかだった、か、体を捨て、心のみとなった時、私には染み付いていた執着が肉体と共に無くなった。し、しかし、私は信仰を押し続けた。肉体を捨てたあの瞬間こそが、純然たる自分であったのに。ひ、人は神になどなれない、私ごときが、も、求めるべきじゃなかったのだ。これでは自分は不純物の結晶、化け物になるだけだ。あの方でなくてはならなかった、これが間違っていると気がついたときには、止められなくなっていた。で、電話線が何者かに切られ、この術を止める手段は失ってしまった、それから終わらない地獄が続いている。あなたにわかるか、自分を失ってゆくことの恐ろしさが。


 か、かつては支配力、権力や財力、宗教をうたいながら俗習、下らない事に随分と執着していた。幹部の誰もがいがみ合い、我先に願いを叶えようと走り回っていた。他人の精神に押しつぶされ全てが消えてゆく、の、残ったのは彼女に対しての哀れみだけだ。私と同様にはなって欲しくなかった。完成された個を失って欲しくはなかった。


 君の目を見ればわかる、彼女は壊れていただろう、願いに押しつぶされていただろう。他人の魂などに触れるべきじゃ無かったのだ。わ、私も彼女も未だに救済を求めている。あ、あれからどれだけの時間がたったのか。


 あ、あなたはこれを知るまいが、ほ、本当のあなたの親は、あ、あの裏切り者の二人では無い。これを伝えるために私は今日まで残されてきたのだろう、さあ、お、お願いだ。この鏡を練り上げたあの方の血筋であるあなたならば、き、きっとこの鏡を壊せるはずだ。た、頼む。わ、私が飲まれる前に、こ、この鏡を割ってくれ」


 意識が遠のくような衝撃を覚えた。僕が、両親と血のつながりが、存在しなかったのか?新しい疑問がぐるぐると頭の中を回り始める。


 「く、くそう、あいつめ、部屋の電灯に細工をしたんだな、ああ、は、はあやく。早くしてくれ。ああ、早く」


 あの鏡の男も君に頼み事をするだろう、だが、けして、聞いてはならない。あれはまた嘘つきだ。どうにかして鏡から開放される術を探るだろう。何を言われても何もしないことが重要だ。いいか、両親の情報が知りたければ言葉を交わすだけで辛抱して欲しい。私はあの部屋の鏡を二枚を残して全て割った。


 こうすることで今以上に被害者は増えることはない。けれど、以前削られた人間に関してはどうしようもない。彼等はまた、この先ずっと店に訪れ続けるだろう。だがけしてもう彼等の魂は元に戻る事はない。混じり合った魂は最早溶け合い、別のものとなっている。



 突然部屋に破砕音が広がった。暗い部屋中で何か、ガラスのようなものが端から割れていく。男の言葉が途切れ、鏡の中の顔が渦を巻いて溶けた。やがて巨大な目が鏡の中に浮かぶ、それが分裂を始めた。


 何十が何百に何百が何千に、泡が弾けて増えるように鏡全体が泡立ち細かな目で埋められてゆく、ああ、駄目だ、見ていては駄目だ、そう思っていても目が離せなかった。ああ、意識が持っていかれてしまう。


 途端、再び硝子の砕ける音が唐突に響く。と、部屋に光が戻った。あたりの様子は様変わりしていた。あれだけあった鏡が全て割られている。床に散乱するガラス片が針の山のようにそそり立っていた。はじめからこうだったのか、それともこの部屋に来てからこうなったのか、僕には解らなかった。靴の裏にもいくつかガラスが刺さっている。怪我をしなかったのが奇跡だ。


 ふと焦げ臭さを感じて頭上を見上げると、電源から伸びる露出した電線が、天井から吊り下げられていた一枚の鏡を支えていた紐を焼き切っていた。落下した鏡は床に散らばるガラス片に埋もれ光を失っている。


 変わらないのは部屋の中心の鏡だけだ。電話線が繋がれた、あの男の顔が浮かんでいた奇妙な鏡。けれども今では何も映さない丸縁のガラス板が静かに椅子に鎮座していた。彼が言っていたことは本当だろうか、それとも手紙のとおり別の思惑から偽の情報を渡そうとしたのか。僕は鏡の裏の新たな封筒をみつけ、その手に取った。



 なぜこんな回りくどい事を、と君は思うだろう。けれど君にはいつでもこれを辞める権利がある。情報が得られ、君が知りたい真実が得られたならばこれ以上続ける必要はない、だからこそ、この先は一つずつ指示をしてゆくつもりだ。


 もし気が進まなければ辞めてくれて構わない。先はまだ長い、しかし私は、君がこの自分探しの旅を続けてくれると思っている。なぜならば、これを続けることによって君だけではなく、この街全体の人間を救うことになるのだから。君はそれを知っていて放棄できる人間では無いと信じているからだ。それではまた会おう。

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