第4話 ある放置区の記録

 人の手を容易に入れられない場所がある。


 そう言われれば地盤が異常にもろかったり、草木も生えない強アルカリの土壌であったり、強固な岩盤が地中に存在していたり、掘り起こしても石ばかりな不毛の土地であったり、そう言った土地自体の整備が困難なケースをまず想像するだろう。


 それらについては資金と時間さえかければ物理的な工事でクリアできるだろう。


 だがそうした問題とは別に、中には工事に取り掛かろうとすると、漏れなく事故や人死が起きる、触れることで何かしらの災厄が起こる、と言った土地がある。忌み地や癖地、祟場と呼ばれる土地、そうした場所も存在するのだ。君もいずれ、この紙に記された場を巡れば、思い知ることになるだろう。


 元来そうした土地は抑えられてきた。地鎮法や慰霊碑などを建てることで障りを抑えることができる。しかし、中にはそれが効かない場所もある。そうした空間はそれ以上障りを外に漏らさないために、石碑などで結界を張り、脅威を空間内に収めるために触れられず、静かに碑と共に封印され続けている。本当の忌み地には触れない、それしか対処法が無いのだ。


 バスで一度駅まで向かい、そこから目的の停留所までのバスに乗り換える。どうやら一日に数本しか出ていない路線らしく、これを逃したら数時間またなければならなかったようだ。


 窓の外の景色は郊外に向かうにつれ、建物がまばらになり、やがて一軒も見えなくなった。色彩を失わせるどんよりとした曇り空、動きの見えない厚い雲はここ数日、変わりがないように空に蓋をしていた。


 何もない景色を見つめるうちにうつらうつらとしてしまい、はっとすると地名がアナウンスされ、丁度何人かの客がバスから降りるところだった。目的の停留所の前までバスが進んでいたらしい。乗り合っていた客の姿は、今の人たちで最後だったのだろうか、いつのまにやら姿を消している。


 僕は目的の地名のアナウンスを受けて降車ボタンを慌てて押した。降りる際に運転手が訝≪いぶか≫しげな視線で私を見ていたのが印象的だった。


 小さな山小屋のような停留所から出て、辺を見回すと、畑以外本当に何もない場所だった。停留所裏の斜面を見上げると車一台ほどの幅しかない、細くくねる道回りに広大な畑が広がっている。なぜこんな場所に停留所があるのか理解できない。表側にはガードレールが敷かれ、その先に谷が走っている。険しい斜面には杉の木林が出来ていた。道を渡り下を覗くと二十メートルほど下に川が流れていた。


 川面に浮かぶ白い岩石、そのどれもが仮面のような目鼻の窪みがあり、こちらを見つめている、そんな気がして頭を振り、気持ちを改めてせせらぎの音に耳を傾けると、それに混じり人の声のようなか細い声が聞こえる。


 僕はどうしてしまったのか、これまでの経験からおかしくなりかけているのだろうか、せせらぎに何故か人のささやきに耳を立てているような居心地の悪さを感じ、この川の水もあの井戸に通じているのだろうか、ふいにそう思い、そんな考えを振り払いながらすぐに引き返した。そして畑の間の道を登り丘の上を目指した。


 やがて登り切ると、丘の向こう側にミニチュアのような街の姿が見えた。


 山裾の畑が広がる、開墾された土地の一角にその森はあった。街の中心部からはだいぶ離れ、辺に目にするのは緑ばかりだ。なだらかな丘には似たような形の家々が並び、息を潜めたベットタウン、そして背中側から生暖かい風がゆるりと吹き始めていた。


 傘は持ってきていない、雨が降り始めた面倒だ、そう考えて私は丘の上から坂道を風に押されるようにして下る。人の気配は感じられず、死んだように静かだった。ただ、生ぬるい風が時折嫌な音をたて、僕の体にまとわりついた。


 森の周りだけ田畑が荒れ果て、丈を伸ばした草がもうもうと生い茂っている。そんな草むらを裂くようにして、草葉を無理に体で押し倒したような道が出来ていた。僕は絡みつく草を押し分けて森の裾まで進んだ。


 見上げると、暗く、鬱蒼と茂る緑が闇を湛えて一つの塊のように聳≪そび≫えていた。



 あの場所の謂≪いわ≫れは解っていない。いつの頃からもわからない時代から風化した石柱に四方を固められ、ずっと森で有り続けていた。この街の中で、あの一角だけは開発がすすめられていない。申し訳程度に広がる田畑の中で、何故か浮かび上がるようにして、あの森だけが残されている。別に信仰が根付いていた訳でもなく、ただ単純に手入れされていない土地だ。


 けれども、かつては畏怖があった。理由は誰も知らないが、忌み恐れられる土地だと。森の周りだけは開墾されていたが、区画の存在は恐れられ、避けられていた。しかし、街の開発推進という大きな波には逆らえなかった。


 特定の宗教以外、畏怖の対象などあってはならないと四隅の石碑は砕かれ、森に手が加えられる事となった。



 足元には蝉の死骸が落ちていた。体にまとわりつく湿気が不快だ。もう、どれだけの時間が過ぎたのか解らない。この森に足を踏み入れてどれだけの時間が過ぎたのか。


 こんなはずではなかった。ほんの千メートル四方しかない森なのに、何故出られないのか。乱雑に伸びる木々、其々にはい回る蔦、地面はおうとつが激しく、木の根がお互いを侵食し合っている。木の根に腰掛け、かれこれ何時間、いや、何日こうしているのか、もはや時間の流れも良くわからなくなってきている。


 手には鳥の屍を握り締めていた。朝の草露一滴で一日を乗り切ることは不可能だ。稀に持ち込まれる空のペットボトルに水を貯めようにも、数時間で貯められる量はたかが知れている。だからこの手の中の物を手放せなかった。空腹に任せて無我夢中で羽をむしり取り、肉に歯を食い込ませる。ここに迷い込んで数日もすれば、飢えは半身に染みつき、体に同化して常に忘れられなくなっていた。


 視線を感じて頭上を見上げると薄く伸びた顔の皮が広がっていた。その口は開閉を繰り返し、何かを必死に伝えようとしているみたいだ。自然と舌打ちが出る。煩い、もう出てくるんじゃない、お前のことなど知るか、そう心の中で叫ぶと、それはやがて伸び広がり、霧のように四散して葉陰の中に消えた。



 重機を入れ、石碑が取り除かれると車体が平地で傾いた。奇跡的に死者は出なかったが、重機は動かなくなり、作業者は次々に体調を崩した。やがて森を起点として生き物の姿が消え始める。野良犬や野良猫、カラスの死骸が次々に木々の隙間から姿を表し始めた。


 気味が悪いと口々に作業を止める職人たちを余所に、作業を強行した土建屋の社長は失踪、社を変えて依頼をしようが作業は一向に進まない。結局計画は白紙となった。


 それきりだ、新たな石碑が建てられることもなく、区画は放逐≪ほうちく≫された。私が訪れるまで動物の死骸は消えることがなかった様だ。あそこは墓場だよ、死界の淵の森だ。


 一説によるとその場は古い神が祀られていたそうだ。今は忘れられてしまって誰も覚えていない神。異形の神の像は崩されてしまって今では確認できない。



 森の中で葉が擦れ合う音が響いた。木々の幹が軋む。ギシギシと音を立て葉が擦れ合い漣が起きる。同時に体が即座に反応を起こす。音を立てることなく静かに立ち上がると中腰になり、木の裏に隠れると息を潜めた。殺されるわけには行かない、まだ殺されるわけには。


 木々の影に身を潜ませながら音の元を探す。ある程度の闇には慣れていた。息づかい、体の動きは最小限に、地面に手をつき、獣じみた四足で緑の中をうねり歩く。



 私は街である男に出会った。女好きのする優男で会話上手、一見、人畜無害な人のいい男だが、あの男は背中に幾人も背負っていた。文字通り人を食った男、怪物と言って差し支えない人間だ。私の前で身についた死臭を誤魔化すことなどできなかった。


 私は自分も人殺しであると偽ってその男に近づいた。疑り深く、慎重な男は私の言葉などどこ吹く風で何を冗談を言っているのだという調子だったが、私もそこで怪しまれ、殺人の対象にされるわけには行かなかった。


 だから私は人体の欠片を用意していた。君も知っているであろう、ある交差点の電信柱、その影に落ちていた指の一部だ。事故で亡くなった何者かの一部、私は男との交渉のために回収し忘れられていた人体の切れ端を手に入れ、冷凍保存していた。あの男はそれを目を細めて眺め、その指に触れると、確信に満ちた笑いを浮かべ、自分は他人とじゃあ狩りはしない、けども狩の相談なら受けてもいいと言った。そして、口の中から何者かの指をのぞかせた。こいつを口に入れているといつの時も緊張を途切れさせず、油断しないでいられるのだと。



 やがて葉の上に落ちたカラスを発見する、と同時に体が弛緩した。それはまだびくびくと痙攣を続けていた。カラスは今、この森に来たばかりなのだ。


 立ち上がり、顎を伝う汗を手で払い、根を跨ぐと足がついて行かず、前のめりに倒れてしまう。体を打ち付け、根と苔、草に体をこすられながら窪みに倒れ込む、と、耳を塞ぎたくなるような嫌な音が体の下で鳴る。


 何か粘性の高い柔らかなものを押し潰した時に聞こえるような、あの嫌な音。薄目で背中を見ると、腐りかけの濁り目が自分を見ている。犬だ、もはやミイラ化しかけている犬が背の下で潰れていた。鼻腔を駆け上がる腐臭が吐き気を誘発させて喉奥から酸が駆け上がる。起き上がろうと前かがみになると死骸の肺を押しつぶしたからか、犬の口から息が漏れた。


「ぐふぅ」



 あの男は恐らく半信半疑だったのだろう。当然同じ人殺しだと言われたところで、実際に私が人を殺害する現場を見たわけではない。信用したわけではないといった態度がありありと見て取れた。


 しかし、人間の指を簡単に手に入れられる人間など限られている。だからこその半信半疑だ。元より私はあの男と共に行動するつもりなどないし、人殺しを行うつもりもない。


 だが興味を得ることはできた。それで十分なのだ。そこで私はあの放置区の場所を教えた。普段から死体があふれ、誰もが立ち入りを拒む、しかし心の弱い者はその魅力に、なぜか逆らえないあの森の場所を。


 まただ、あの声、あの息遣い、脳裏を焦がすのは強烈な記憶だ。首にかかる指、膨れ上がり紅潮してゆく肌の色、言葉にならない断末魔とも言うべき息が漏れる、ぱくぱくと開閉する口、ああ、確かにあれは初めて殺した、あいつの口から出た音だ。


 あれからもう何人殺している、解らない、立ち入れば帰る道のないこの森で、何人この手にかけたのか。あれは幻なのか、それとも何度も繰り返しあの女を殺し続けているのか、喉を駆け上がる不快感が、潮が引くように消えてゆく。今更、死骸なぞ何を恐ることがある。考えてみればこれまで幾重にもなる死骸を踏みしだいて歩いてきているじゃあないか。


 足元をよく見てみろ、苔にまみれた死骸、死骸、死骸の山だ。生きたものの姿は人間以外見たことがない。見かけるのは熱を失った動物の死骸ばかり。時折雨のように降り注ぐ昆虫、カラス、雀などの鳥類、それ以外、動くものは人間くらいしか目にしない。


 私はあの男と森で待ち合わせをした。私は予め元石碑が存在した位置に新たな結界石を置いていた。それにより中から外へと脅威が漏れることを防いだのだ。あの男は森に入れば、それきり外には出られない。あれだけ死の匂いを体にまとわせた男だ。だが、あの男は恐らく死にもしない。


 私の他には誰にも知られることなく、被害者の体を細かに砕き、丸ごと飲み込んできていながら、周りの目を欺き続けた慎重さと、運を兼ねそろえたあの男のことだ。極限に囚われようと、死体を貪ってでも生きながらえるだろう。


 それに時折この森に入り込む興味本位の愚か者達を全て止める事は不可能だ。彼等があの男の食事となっても止める手段はもはや私にはない。今の私にはやらなければならないことも多く残っている。



 唐突に目の前で石が跳ねた。どこからだ、身を低くして森の中を巡る、どこだ、どこにいる。獲物、俺の獲物は。ああ、乾いた、乾いた喉が血の熱を求めている。柔らかな肉にこの歯を咬ませたい。血の流れるあの熱い肉の塊に。ああ、俺はどうしてしまったのか。こんな獣じみたやり方は俺の作法じゃない。ああ、あの男、あの男の言葉を信用したばっかりに、ちくしょう。必ず、必ずまた会うことが叶えば殺してやったのに。あれはなんだ、乾きが、くそ、ああ、俺が、俺で無くなっていく。



 残念ながら私が張った結界は元に存在していたものよりだいぶ弱いものだ。かつてのものは入るものも拒み、出るものも拒んでいた。しかし今では誰でも自由に入り込める。生きる力の弱いものはただ近づくだけであの区画の中に飲み込まれてしまうだろう。


 そして生命力を土地に奪われ、死んでしまう。あの男は死神のようなものだ。だから君は近づくべきではない。だだ、確認して欲しい。あの男はいまだ生き続けているだろうか。石碑の近くに私のサインを置いた、その位置から森の奥が見えるはずだ。石でも投げ込めばあの男が反応を見せるだろう。


 大丈夫、あの男からは外の世界は見えない。しかし、もし碑に異常を確認したならば、何よりも先に逃げるのだ。何よりも先に、あの男に見つかっていないことを祈りながら。



 僕は森の木々から僅かばかり離れた場所から外を一周すると結界とされる石に異常が無いことを確認した。途中、何故か草むらの中にあの教団の看板が寝かされていたがそれも気にしないことにした。歩いている、その間も常に森から虫の死骸が散見できた。やがてあの草の道に戻り、すぐ近くに杭があるのを発見する。側面に「壱病噴街十向土」とある。


 杭の前に立ち、そこから森の木々の隙間を体を傾けながら確認する。するとある角度からだけ森の奥が綺麗に見渡せた。私はそこに向かって拾った石を投げ入れた。すると素早い影が木々の間を縫うように動いた。やがて姿を見せたそれは最早人の姿はしていなかった。


 ぼろぼろの衣服を破り、木の皮の様な皮膚が覗いている。頭の毛髪の間から何本もの角のような硬質の物体が飛び出していた。肌色ではなく緑と茶が入り交じった体色は、それが動いていなければ居場所を確認できない。やがてその何かは森の草葉や苔の中に溶けるようにして消えた。



 最早あの男は人以外のものに成り下がっているだろう。けれども外の世界で人を殺すことは無くなるはずだ。殺すことも殺されることもあの中では楽しむことはできない、ただ一匹の獣に成り下がるだけだ。野生の中での命のやりとりとなればそこに罪は無いだろう。あの区の中の溢れ出る死はあの男が食い止めている。しかし、この先結界が破られた時、放たれた獣を止める手段を私は持ち合わせていない。獣が死んだとしても、そこから漏れるものが他に移る事を、止められる人間は存在するだろうか。


 済まない、君はまだ無事で居てくれるだろうか。そしてまだ、続けてくれるだろうか。それでは次に移ろう。

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