第3話 ある商店街の記録

 水はその場所の気の流れや人間の意識を取り込みやすい、といった話を君は聞いたことがあるだろうか。水場は様々な現象が起こりやすい、中でも井戸はその現象が顕著だ。掘り起こした井戸には神様が住むともいう、井戸の状態を疎かにしたり、乱雑に扱うと天罰が下ると遥か昔から言われている。


 なぜそう言われるのか、地気の流れを汲む場であるから、土地の状態が人に影響を及ぼしやすい場であるから、土地を活かすのは水と土、水なくして人は生きられないからだ。人々に密接に関係している生活のための水場、その場所で何かが起こったらどうなるだろう、人の意識を変える何かが。


 人の体は知ってのとおりその殆どが水で出来ている。水の器、水をなみなみと湛えた瓶を隙間なく並べ一つの瓶を打つと振動が伝わり、周りの瓶の水にも波紋が起こる。最初は小さな波に過ぎないが、それが反響し、ぶつかり合いやがて瓶全体を揺るがすほどになれば、最後には何が起きるだろうか。



 バスを使い、目的の地区で降りる。バス停から少し歩くと、小さな町の商店街、というに相応しい街並みが見えてきた。この地区に足を運ぶのは初めてだった。市役所などの公的機関施設より遠く、中心街からも少し離れている。生活圏内でなければ特別な施設もなく、用事がない。


 薄汚れた陰気な軒が並び、どの店も文字の一部が欠けた看板を掲げている。こんな状態で商売になるのだろうか。建物の並びや道の張られ方が入り組んでいてわかりにくい。

 いつの間にやら脇道に逸れていて、迷いながらも進んでいると、建物の隙間に不意に白い顔が浮かび、驚き、足を止めて覗くと、狭苦しい壁に挟まれた奥の見えない暗がりの先に、顔の持ち主の背中がふらふらと消えてゆく。


 何故か追いかけてはいけない、追いかけたら二度と同じ場所には戻れない、そんな気持ちが沸き起こり、足が止まってしまう。そうして再び道筋を戻ると黒く煤けた電柱の影からやはり同じような顔が覗くのが見えた。


 おかしい、そう思い柱の裏を覗いても、何もいた形跡が残されておらず目の錯覚だったと諦めざるを得なくなる。何故かここ数日、あの手紙を目にしてから現実感が薄れていた。まるで悪夢の中で海を泳いでいるようだ。


 空気が粘ついていて、気味の悪さばかりが目立ち、一見人足が向かなそうな場所なのに、商店街からは喧騒が漏れ聞こえていた。


 行かなければ、そう思い汗をぬぐった途端、耳に人の声が届いた。活気とはまた違う、怒号のような言い争いが僕の耳に届く。


 言葉の内容は理解できないが、それは少しすると静かになり、数分するとまた聞こえる、それが繰り返されていた。気乗りしないながらも足を進め続けるとやがて、人だかりが見えてきた。近づくと客同士の罵り合いが聞こえてくる。


 「お前が先に俺の襟首を掴んだんじゃないか、下らないことしやがって」


 「なんでそんなことしなきゃあならない。下らないだと、こっちのセリフだ、妙な因縁つけんじゃねえよ」


 誰も止めには入らないのかと近づくと、当たりの人間誰も彼もがうすら笑いを浮かべ、事の成り行きを静観する構えで二人の男に注目している。それどころかどうやら楽しんでいるようで、より激しくなることを期待して煽ってやろうという気配まで見え始めていた。僕は腰が引け、不要な厄介事は御免だと無視して、通り過ぎようと足を踏み出した。


 すると不意に首が締り、一瞬息が詰り、意識が遠のいた。すぐに拘束感から開放される。どうやら襟首を後ろから掴まれたらしい。非難しようと後ろを振り向くと、周りの人間は僕のことなど眼中にないといった様子で、殴り合いを始めた男達を観戦し、顔を火照らせている。ヤジや罵詈雑言が飛び交う中、誰の目も僕の姿を捉えていなかった。


 犯人はこの中に紛れているのだろうか、探し出してやろうか、そう思ったものの、野次馬の下卑た笑みを目の当たりにして僕の熱は急速に冷めた。


 不意にこんなに怒りっぽかっただろうか、普段の自分と変わってしまった、そんな気がしてとにかくこの場所から早く去りたいという気持ちに押されだしていた。



 あの場所の井戸は、かつて霊水が出ると言われていた。冷たく清らかな地下水。祠がたてられ、小さな如来像も祀られていた。それが、一人の死で変わってしまった。あの井戸に身を投げ込んだ人間がいたらしい。ある宗教家が盲信の末に、唆されてね。霊泉と一躰になれば己を神格化できるなどと言われて。


 十数年前のことだけれど、当時、そうした神社仏閣への排他活動が活発していたらしい。この地域で新興宗教が流行りだしてね。市長が推進派だったらしい。裏には金の動きがあったらしいけれどね。どこにでもある話さ、事態が表面化しなければ問題にもならない。急にそうした建造物が壊されると知れば、当然地元の人間は反対するだろう、けれども、強固な信仰心も権力や集団による圧力、それに一度起きてしまった事実には弱い。


 まわりの人間がそれが正しいと言い続け、心の拠り所を折られれば、人の心は簡単に覆る。彼等は狂信的な信者を利用して自殺という形で死なせた。そうして最後まで残り、抵抗を続けていた人々の信仰心をも折った、その上での排他活動さ。

そうした活動を地道に時間をかけ、少しづつ行い、この町から他への信仰を消していった。古い者達は居心地の悪さからこの土地から離れ、周りの環境に順応な者だけが残った。用意周到ではあるが、強引な地ならしだ、今となっては何故こんなことをしたのか、わからないが。


 すまない、話がそれたね、今は井戸の話だったな。



 「あんた、私の足首掴んだだろう」


 僕が早足で歩いていると、耳元でしわがれた声がした。そちらに顔を向けると顔を歪めた老婆が腰をさすりながら私に向かってそう叫んでいた。周りの野次馬が今度は何が起きたと揃ってこちらに顔を向ける。


 「なんて事するんだい、これでもあたしは体が達者な方だが、骨でも折れたら」


 「なんだあんた、こんな歳のいった老人をいたぶったのか」


 老婆が全て言い切る前に声を遮って野次馬の中の一人の男が私にそんなことを言う。血走った目、口には傷ついたばかりらしい生々しい傷が未だ残っている。


 「違うんです」


 まずいと思い、咄嗟に謝るが、血走った目、泡立った口元を見る限り、どうみても聞く耳を持ち合わせている人達には見えない。


 「何が違うものか、言い訳するな、どうやら痛い目みないとわからんらしいな」


 理不尽な言葉に続いてそれに乗るやじが飛び交う。


 「良いね、痛い目見せてあげておくれよ」


 「いいぞ、勉強させてやんな」


 背中を冷たい汗がつたった。何を言っても通じないらしい。周りには好奇を寄せる目、目、目、咄嗟に右手で顔を庇い、指の隙間から相手の様子を覗く。振り上げられた拳が僕に届く瞬間、男の上体が後ろに引っ張られた。そのまま後ろに倒れ込む男の後頭部が他の野次馬の鼻面を強打する。人々の目がそちらに移った。


 僕はその隙をみて人の輪をかき分け、駆け出していた。背中で嬌声、叫び、怒声が飛び交っている。気にしては駄目だ、とにかく今はそれを無視してこの場を離れなければ。



 死体は何故か数十日の間見つからなかった。その間、飲み続けられていたにも関わらず。熱心な井戸の支持者は自分が死体入りの井戸を使用していたことにおののき、去ってしまい、残された井戸には誰も近づかなくなった。


 当然だろうな、誰も死体の浸かった水など飲みたいとは思わないだろう。それを好都合と思ったのか、推進派の連中が井戸に捨てたんだ、地蔵や如来像を崩して。見せしめの意味もあったんだろうな、逆らうとこうなると思わせたかった、誰も近づきはしないだろうに。そして、ただ埋めるのではなく、念を重ねるようにして井戸に封じた。


 それかららしい、井戸に引かれるという噂が立った。井戸口を埋めて全て平地に戻したのにその場で無意味に転んだり、脳溢血で倒れる者が出始めた。



 追いかけられている、そう思い暫く走った後、振り向くと乱された人の輪はすぐに修復されていた。どうやら彼等の興味は他に移ったようだ。怒号や罵倒の声が遠くから反響しているのが聞こえてきた。


 僕はモールの脇の径に足を進め、クモの巣のような狭く細長い道を迷いながら進み、時折何かに足を取られ、躓きそうになりながらも、なんとか苔と銀杏の木が数本植えられている10メートル四方の空き地に辿りついた。途中何度かあの気味の悪い顔を目にしたが、きりがないのでもう気にしないことにした。


 入り組んだ方向の分かりにくい道筋には辟易したが、いくら解りやすくてもあんな面倒に巻き込まれるのは二度とごめんだった。


 背の高い建物に挟まれ暗くじめついたその空き地には、木の板のようなものが地面に落ちていた。いや違う、それが蓋なのだろう。「三正上か時下袋」と意味のわからない文字が記してあった。その蓋の周りの地面に四つのパイロンが並べ置かれ、黄と黒のロープで囲われていた。本当にここであっているのかと不安になる。



 馬鹿なことをしたものだ。埋めたはずの井戸は形のない危険な穴に変わってしまった。暫くして井戸を埋めた土地自体が陥没を起こした。地下に巨大な空間があるのではなどと噂されたが結局誰も調べなかった。こびりついた泥は何日も体から落ちず、陥没を埋めようとやってくる重機は何故か穴に落ち、故障した。


 それからだろうな、放置された穴から無数の手が伸びる、そんな噂がたち始めた。実際に目にしてみると、あれは何と表現したらいいんだろうな。澱みのそこに溜まったヘドロのような気とでも言おうか、それが穴に引き込もうと人の体に掴みかかる。



 「それに近づくの、止めたほうがいいよ」


 僕が荒い息を整えるために休んでいると、背から唐突に声をかけられた。体が声に反応して身構えてしまう。


 「前にさ、陥没したんだそこ。元は井戸だったとか。いつ沈むかわからないのに、この辺の人達誰もそんな事、気にしてないの、馬鹿だよね。それにしてもこんな所にくる人、珍しい」


 振り向くと一人の少女が煙草を口にくわえながら私を見ていた。髪を無造作に伸ばしきりにし、目の周りをまるでパンダのように黒くアイシャドーで縁どりしている。唇も黒に塗られているため、地肌の白さが際立って見えた。あの手紙に書かれていた内容を思い出し、僕の堅く閉じていた口が自然と開いていた。


 「あなたは、もしかして彼のことを」


 知っているのかと問いかけようとすると、それを遮られた。


 「もしかしておじさんの知り合い? で、どうしたの、何しにきたの、おじさんは?」



 その手は地脈を流れて辺り一面に流出していた。あの穴から離れて出来るのは人の体を軽く引くくらいだ。けれどもそれで十分なのだ、あの辺じゃあ誰もが気を悪くしている。荒みきった人間に少しの苛立ちを加えれば、簡単にいさかいに変わる。誰もが相手が悪いと思い込んでいる。そうやって生み出された悪意がまたあの穴に吸われ、そして手の範囲が広がり、また新たな悪意を生む。今ではあの商店街を全て飲み込んでしまった。


 原因は明らかだ、他にあるとは考えない。過度に重なる暴力沙汰があの何人もを飲み込んでいる穴の存在を隠してしまっていた。


 井戸、今は私が蓋をしたその場所に少女がいるはずだ。彼女はかつて虐められていて、ある時あの元井戸の存在を知った。最初はいじめていた子に行って証拠をとって来いと言われたそうだよ。陥没した穴は埋められても数日で再び穴があいてしまい、縄を張るだけで放置されていた。


 彼女はそこまで行き、引き込まれそうになった。恐ろしいと思いながらも観察を続け、夜が近づけば引く手が増え、引く強さが増すことを知った。


 そうして彼女は井戸の中のものを利用していじめっ子を引き落とした、あの場所で金を渡すと言って。



 僕は少女が先程の野次馬の中に含まれていたのを覚えていた。なぜならば、一際異様に見えたからだ。彼女は大人の中に紛れた、たった一人の子供だったのだから。誰もが彼女から目を逸らしていた。彼女が動くと何故か野次馬たちの視線が外れた。


 「タバコも貰ったの、そ、大人に。知ってるんでしょ、そうだよ、沢山穴に落としてやったんだ。ほんと笑っちゃう、誰もが私を甘く見てた。誘えばカンタンに付いてくる馬鹿ばっかり。死んで当然の奴らだよ。手は私には優しかった。あの手はね、逃げようとすると引かれるんだ。逃れようともがけばもがく程強く吸い込まれちゃうの。


 あたしはね、死んでもいいって思った。だから手に任せたの、そしたら手は自然と離れて穴のそこにいっちゃった。私、利用されてばっかだった。お母さんにもお父さんにも何をしても嫌われて、学校でもいじめられて、だから、利用してやろうと思ったんだ」


 女の子はそう言って笑った。ざりざりと枯れ木が風に揺すられたような、乾いた木切れが剃り合う音が口から響く、口端から震えが始まり、それが全身に広がり、まるで痙攣するように笑った。それがピタリと止まる。


 「だけどね、あの人だけは違ったんだ。あたしに優しくしてくれたんだ。始めて正直にあたしのことを思ってくれる人と会えたと思った。だから、穴を塞がれても文句言わなかったし、穴に落とそうとしなかったの」


 それが良い事だったとは言えない、いじめがどれ程であれ殺すほどではなかったと君は言うだろう、しかし、少女が一人の力で助かる方法が他にあっただろうか。放置児童(ネグレクト)であり、助けを求めても暴力しか与えられない彼女を環境が悪かったとして、ただ現状に耐え続けろと君は言えただろうか。彼女の担任のように耐え続ければいつか現状が打開される日が来る、向かってみろ、立ち向かえば自体が悪化することはない、そんな無責任な言葉が信じられるか。私は彼女を責めなかった。


 そしてこれ以上広がる前にあの穴を塞いだ、しかし、あの中のものと妙な絆が出来てしまった彼女が、いつか再び穴を開けてしまうやも知れない。だから君には確認してもらいたい。彼女の様子とあの蓋が機能しているかどうかを。


 

 違う、普通じゃない。この子は何かがおかしい、僕はそれに気がついた。目の周り、そして唇のそれは化粧ではない。黒いものが一斉に動き出した、蝿だ、蝿が一斉に動き出した。これまで話していた間、一切動かなかった蝿が。そして下から覗く赤、赤紫で乾いた時の独特の臭いが僕に血であることを伝える。


 「最近ね、毎日が愉しいの。お腹も減らないし、何をしてても疲れないんだ、それにここから漏れ出した手が沢山、ちょっとづつ広がってるの。みんなちょっと触られただけで怒り始めてさ、それ見ただけで笑っちゃうよね。それに、この穴、井戸だっけ。ここにたまってる気がするの。なんか凄い事、起きそうだよね。そうすれば、あたしもこの中でお父さんやお母さん、あたしをいじめてたサユちゃんやみんなとも仲良くなれる気がするんだ」


 彼女がそう言って私の背を指さすと、丁度地面に置かれていた蓋が音をたてて震えていた。木が軋む音、そして下から突き上げる何か、僕は目を逸らし、足早にそこから去ろうと決めた。ここに救えるものなんて何も有りはしない。僕はただの人間で、確認くらいしかできないのだから。


 「もう行っちゃうの。もっとゆっくりしていけばいいのに」


 すれ違う瞬間、彼女が僕にそう言い、再び不快なあの笑い声をあげた。僕は足早に銀杏の木の脇を抜けると、狭い路地に戻る、すると足首を何かに掴まれ、激しく顔を地面にうちつけてしまった。


 痛みと恐れから朦朧とする意識の中で、起き上がる僕を指さしてけたたましく笑う少女の姿が、暑さの中で空気と共に歪んで見えた。僕は気力を振り絞り、立ち上がるとゆっくりと足を引きずりながら、二度と振り返らずにその商店街から去った。



 あの程度の蓋では、遠からず外れてしまうだろう。しかしもはや私にはどうにもできない。いつかあの、死を隠していた商店街の蓋も外れる。そうなればもう手が付けられない。君はあの場には近づかないことだ。間違ってもすべての人間を救えるなどとは思わないことだ。中途半派な哀れみなど残酷なだけだ。それに根拠のない過信は死を招く、絶大な力を持っていながら結局は崩壊したかつての宗教団体の様に。私にやれることはそう多くはない、次の場所も同様に。

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