綿貫さんの小さな嘘

 大学の桜は満開だった。


「渡瀬くん、おはよう」


 一年前と同じようにある入学式の立て看板を眺めていた僕は、後ろからかけられた声に振り返った。

 春休みに入ってからは会ってなかったから、この声を聞くのも二ヶ月ぶりだ。

 いつもと変わらない、優しい笑みを浮かべる彼女に、僕も微笑み返す。


「綿貫さん、おはよう。そっちも部活?」

「うん。新入生が来てもいいように誰か部室にいてくれって幹事に言われて――って、さっき送ったんだけど」

「ああ、ごめん。駅着いたから携帯しまっちゃっててさ」

 さっきの学科男子のメッセージに紛れて、彼女からも届いていたらしい。

「ううん、大丈夫。私が家出る直前に送ったってことは、そうだよね」

 大学の近くで一人暮らしをしてる彼女が送ったメッセージを僕が大学に着いてから見る、ということはこの一年で何度もあった。


「折角だし一緒に部室まで行こうか」


 僕の言葉にそうだね、と頷いて、彼女が僕の隣にそっと並ぶ。

 そして僕たちはこの一年間ですっかり慣れた、桜舞うキャンパスを歩き始めた。

 部室棟に行く途中にある体育館は、今まさに入学式をやっている最中だった。


「懐かしいね」


 ぽつり、彼女が言葉をこぼした。目線は体育館の入口に向いている。


「一年前にここで、渡瀬くんと出会ったんだよね。体育館に入る前は、まさかこんなに仲のいい男子ができるとは思ってなかったな」


「僕こそ、こんなに話す女子ができるとは思ってなかったよ」


 即座に返すと、彼女は軽やかに笑った。

 いつ聞いても嫌な気持ちにならない、むしろ一緒に笑いたくなる、そんな笑い声だ。

 彼女の隣にいると楽しくて、笑みが絶えない。

 ずっとこのままでいたいというのは、僕のわがままなのだろうか。


 体育館を過ぎ、その奥にある部室棟のドアをくぐる。

 エレベーターが基本使用禁止となっているこの棟では、僕らは部室のある四階までひたすら階段を上るしかなかった。

 結構きついので、自然とお互い無口になる。


 やっとのことで四階にたどり着いた時、突然隣を歩く足が止まった。

「あの……わ、渡瀬くん」

 少し息が切れ気味の彼女の声に、僕も足を止める。

「どうした?」

 ゆっくりと横を見ると、ちょうど彼女がトートバッグの中から小さな袋を取り出すところだった。


「あの、これ……と、友達へのプレゼントで焼いたんだけど、余ったから、よかったら食べて。味の保証はないんだけど……」


 赤いリボンで結ばれた袋を僕に差し出しながら、彼女は俯く。

 見ると、レースと小鳥があしらわれた小さなラッピング用の袋の中には、四、五枚のクッキーが入っていた。おそらく、チョコチップ。


「ありがとう。でも綿貫さん、あんまりお菓子作り得意じゃないって言ってなかったっけ?」

 尋ねると、僅かにその顔が赤くなったように見えた。俯いているからはっきりとはわからないが。

「た、頼まれたの。栄養科なら頑張ってよ、って……」

「そうなんだ、お疲れさま。渾身の作品、味わって食べるよ」

 下から誰かが上ってくる音がしたので、行こうか、と彼女を促して僕たちは階段から離れ、右に曲がった。

 曲がったら、僕たちの部室はすぐそこだ。

「あ、味の保証はないから、あんまり味わらなくていいよ……」

 ただ、彼女は俯いたままだった。

「いや、折角だしね。あ、じゃあ、ここで」

 二つ目の部室のドアの前で、僕は立ち止まる。

「あ、うん、またね」

 一瞬だけ顔を上げて僕の前から離れた彼女の顔は確実に赤く――


 そんな彼女がとても可愛らしくて、僕の鼓動は大きく跳ね上がった。


*


「お、ユキ、いいもん持ってんじゃん! 何、遅めのバレンタイン? 一枚ちょーだい」


 部室に入って鞄を下ろし、ジャケットを脱いだ僕は近くの椅子に座る。

 折角だからと先ほどもらったクッキーの袋を開けていると、背後からにゅっと腕が伸びてきた。


「うわっ、先輩! 違いますよ、友達の誕生日に作った余りってもらったんです」

 慌てて体をねじって、気配なく背後に立った幹事の先輩からクッキーを守る。

「へえ。もしかして綿貫ちゃんから?」

「そ、そうですけど?」

 ぱちっと目の合った先輩の不思議そうな目に思わずたじろいだ。

 僕と綿貫さんはたまにお互いの部室に顔を出すことから、先輩とも仲良くなっていた。顔を出す、というのは主に実験結果の共有のためなのだが、毎週のようにどちらかが部室に顔を出す生活を一年も続けていると、違和感なく互いの部室に入れるくらいにはなっていた。


「ふーん……」

 僕から離れた先輩は、先ほどまで座っていた一人がけの古いソファに戻っていった。


 バレンタイン。

 先輩の言葉を反芻して――僕は、二か月前、春休みに入った直後に綿貫さんとしたメッセージのやり取りを思い出した。

 突然、彼女からメッセージが届いたのだ。

 確か、内容は――


--

「そういえば渡瀬くん、好きなお菓子とかある?」

「お菓子? うーん、クッキーとかかな。甘さ控えめの」

「甘いの苦手なの?」

「程度にもよるけどね。ビターチョコとかの甘さなら平気なんだけど、普通のチョコは甘すぎて駄目なんだ。どうして?」

「あ、いや、ちょっと気になって。来週合宿あるから、そのお土産の参考にもしようかなって」

「そうか。楽しんで」

「うん、ありがとう」

--


 袋から取り出して一枚、口に入れる。

 甘さがだいぶ控えめな、ビターチョコのクッキー。

 あの日、僕が彼女に教えたそのものだった。


 もしかして本当に、遅めのバレンタイン、なのか?

 だとしたら、彼女なら、そうだと言ってくるんじゃないのか?

 少しだけ心の中で、気持ちが渦巻いた。


 無性に飲み物がほしくなり、僕はリュックから水筒を取り出す。

 そのついでに先ほどまでで溜まったであろうメッセージを確認しようと、携帯を取り出した。

 水筒の蓋を開けて一口だけ喉を通し、机に置く。そして僕は二十件ほど溜まっていた学科男子のメッセージを開いた。


 適当なことを言いまくる僕以外のメンバーに対し、「ちげーよ!」と齊藤が一喝して、回答を示したところで終わっていた。


『齊藤:何言ってんだよ! 今日は楽しいエイプリルフールだろ?』

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