第四章 『ブラックボックスの猫』
1 坂井陶也の解答
川村正樹が警察に事情聴取された、という話は一両日中に学内に知れ渡った。彼が刑事に連れて行かれるところを、何人かの学生が目撃したらしい。
手錠等で拘束された様子はなかったので逮捕ではなく、任意同行というかたちにすぎないが、学生たちの反応は敏感だった。多くの人の目には、彼が参考人というより事件の容疑者として映った。
ただ実際のところ、どうして彼が捕まることになったのか、証拠や動機は何か、など肝心な部分について知る者は、警察以外ではごくごく少数の関係者に限られていた。その少数の一が文芸部員だった。
谷本聡子と三上賢太は部室にいた。二人とも、中央の机を囲むように無造作に並べられたパイプ椅子に座っていた。
しかし向かい合っているわけではなく、どこか意思の抜けたような表情で床に目を落としたり、窓を眺めたりしていた。
小島美沙希と小野田稔はいなかった。
入り口のドアノブの回る音がし、二人は同時に顔を上げた。
川村正樹だった。
正樹は室内にいる二人の姿を見て、一瞬動きを止めた。ノブを握ったまま、中に入ろうとした姿勢のまま、二人の顔に目を留めた。
先に口を開いたのは聡子だった。
「大丈夫だった?」
だが正樹は答えず、ドアを大きく押し開いた。そして背後を振り返った。
「います・・・二人とも」
正樹の後から現れた人物を見て、聡子は少し意表をつかれた。
「あれ、小野田君? …どうしたの、その格好」
小野田稔は黒っぽい背広姿だった。上下をきっちりと着こなし、ネクタイまで締めている。
小野田は黙って入ってきた。
聡子は怪訝に思った。一目見ただけで、明らかな違和感があった。昨日までと、雰囲気が一変している。
それに、なんだか表情も不自然だ。鋭さを備え、目には厳しさを含んでいるように見える。あの頼りない生白い顔つきとおどおどした態度とは、容易に結び付つかない。年齢も、十歳は上になったような――。
正樹はちらりと小野田に目をやって、手前のパイプ椅子に腰を下ろした。
正樹の様子も、どことなくぎこちない気がした。小野田に気を遣っているのだろうか。そういえばさっき、正樹は小野田に対してなぜか敬語を使っていた。
聡子はにわかに不安をおぼえ、賢太を見た。賢太も驚いた表情をしていたが、聡子が目を向けると、ひるんだように視線を外した。
――何?
聡子の頭に、嫌な感じの疑問が過(よ)ぎった。
小野田は聡子の前に立った。
「谷本さんに三上君、君たちに、ちょっと確認しておきたいことがある」
口調も声色までも違う、と聡子は思った。
誰だ、こいつは。正体不明の人間に対する恐れが湧き上がり、不安がふくれあがる。
「あなた、だれ?」
だが、またしても小野田は答えず、背広の懐に手を入れた。
取り出された物を見て、聡子は息を呑んだ。小野田の手の握られた、鈍く黒光りする手帳に、聡子の目は釘付けになった。
――まさか。
驚愕の思いを隠せない聡子を見下ろし、小野田は言った。
「警察だよ」
「冗談でしょう?」
提示された警察手帳に目を奪われながらも、聡子には信じられなかった。
小野田は表情を変えず、手帳を縦に開いて見せた。そこには、制服姿の小野田の上半身を移した写真があった。小野田は、その写真の上の部分を人差し指で押さえた。
聡子は目を見張った。写真にではない。
――小野田君じゃない!
氏名の欄に、 “坂井陶也 ”と記名されていた。
そのとき、小野田の背後にさらに人の気配がした。聡子は混乱をきたした頭のまま、無意識にそちらに目を向ける。
「! …」
思わず出そうになる驚愕の声を、必死に呑み込む。
混乱が凍結し、頭の中が真っ白になった。
部屋の入り口、坂井という警官の後ろに立つ二人の人物。一人は聡子のよく知る人間であり、この大学で最も身近にいる人物、すなわちルームメイトの小島美沙希。そしてもう一人は、聡子の最もよく知る人間で、かつては自分の家で最も身近にいた人物。
すなわち、実兄である西川一郎の姿があった。
*
その前日。
Y県警の坂井陶也は、ある人物を訪問した。
先刻の五十嵐学長の話から、その人物に対し早急に確認しなければならない重要事項が生じていた。事件が収束に向かいつつある感触に気持ちが高まり、自然と足が急いだ。
ただその一方で、深く冷めた感情部分もあった。興奮とは裏腹の、暗鬱な気分が胸に重く沈んでいた。
坂井は、西川事件を追っていればいずれはこういう事態になることを、どこかで予感していた。その人物とは、三年前の西川事件以来の付き合いだった。当初は事件の関係者として追及すべき捜査対象だったのだが、西川の実刑が確定してからは逆に、世間の過剰な風当たりから擁護すべき存在になった。いやむしろ、西川が起こした事件の他方の被害者といえるかもしれない。事件の真相には疑問を残しながらも、その人物に対しては同情していた。
またそれに加え、その人物の一風変わった人柄に妙に惹かれるところもあった。同情と興味からしばしば接するうちに、割合気軽に付き合えるようになっていた。
坂井は目的の場所に到着した。こじんまりしてかなり古びたアパートだった。これまで何度か訪れて、おなじみになった場所でもあった。
五十嵐との会話が長引いたせいか、もうとっくに陽は落ちていた。依然として空は曇ったままで、星も月も厚い雲の帯に遮られている。
高揚した気分はとっくに消え去っていた。坂井は、己の心を占めつつある重い感情を振り払うように、アパートの階段を駆け上った。
二階の右端がその部屋だった。ドアの前に立ち、インターホンを押す。
――出てくるかな。
おそらく、中にいるのは間違いない。その人物が一日中ほとんど外出しないことを、彼は知っていた。
しかし、在宅中でも呼び出しに応じて玄関に出てくるかどうかは別問題である。これまで用事があるときは、たいてい電話やメールで済ませ、会う必要があるときも事前に連絡を入れて確認するようにしていた。
だが今日は切迫した事情もあり、何の連絡もしていない。その人物の性格からいって、いくら相手が既知の人物であっても、突然の訪問に応対してくれる可能性は決して高いとはいえなかった。
ガチャッ、と目の前のドアが動いた。
坂井は少し前に出て、外側のドアノブを掴んだ。相手が再び閉めないようにするためだ。
わずかに開いたドアの隙間から、その人物が坂井と目を合わせた。
「やあ、待ってましたよ」
坂井の予想に反し、その人物は歓迎するようにドアを大きく外に広げた。
「でも、もうちょっと早く来るかなと思ってたけど」
坂井は意表をつかれながらも、とにかく話を切り出すことにした。
「話があるんだ」
「だろうね。でも、とりあえず中に入ってくださいよ」
坂井は頷き、玄関に足を踏み入れた。
「何の用件か、君には分かっているようだね」
部屋の奥に向かう背中に向かって、坂井は言った。
「宮田和彦君。いや――」
坂井は鋭い視線をその人物に投げかけた。
「西川一郎」
相手も坂井を見返した。だが、その目には笑みが湛えられていた。
「やだな」
宮田は、苦笑しながら両腕を広げた。
「その名前で呼ぶのはやめてくださいよ。社会的に何かと都合が悪い」
「でもそれが本名だろう? 宮田という苗字には、社会的に何の正当性もない」
まあね、と宮田は言ったが、
「社会的に正当な名前で、不当な扱いを受けることはあるけどね」
とため息をもらした。
坂井はそれには答えず、短く言った。
「三年前の事件についてだ」
「そうだと思った」
「あの事件について、さっき五十嵐学長に話を聞いてきた」
宮田の眉がわずかに動いた。
「五十嵐学長の見解は、西川事件の真相は別にあるというものだった。つまり、犯人も別にいるということだ。彼の話を聞いて、俺もそう確信した」
宮田の表情から、笑みが消えた。
「その犯人が、僕だと?」
坂井は答えなかった。その無言が、宮田の問いを肯定していた。
宮田は、再びため息をついた。
「根拠は?」
「あの事件に対する西川の供述が虚偽のもので、かつその結果どうなり、どういう効果を生んだかを考えれば、彼の決死の行為の目的は君以外にないだろう、ということだ」
「息子である僕を庇うためであると?」
「それしか考えられない」
「そうか・・・うん、まあそうなるだろうね」
宮田はひとりで数度頷いた。
「わかった。それなら僕を連れて行けばいい」
坂井の前に両腕を差し出す宮田の態度に、坂井の方が慌てた。
「ちょっと待て。まだこっちは何の説明もしていないし、疑問点もある」
「別に構いませんよ。そのへんは警察署でゆっくり伺いますよ」
「いや待て」
これではまるで立場が逆だ。
「そういうわけにはいかない」
宮田の手を押し戻しながら、一方で坂井は宮田の変に潔い態度に違和感を抱いていた。
警察の追及に対しまったく動揺せず、やけになっているようにも観念したふうにも見えない。終始落ち着いた態度。あの事件当時の、西川昭の態度を想起させる。やはり親子だからか、しかし――。
目の前に立つ宮田――西川昭の長男、一郎は、あくまで静かだった。
「まあ、とりあえずここで話をさせてくれ」
坂井は一郎に向かって片手を突き出し、床に腰を下ろした。
そして、先刻五十嵐から聞いた話を説明した。
「・・・自分の生命と引き換えにできる存在、自らの死刑によってどうしても生かしたい人間は誰か。そんな人間は、普通はいない。しかしもしいるとすれば」
そこで言葉を止め、坂井はじっと一郎の目を見つめた。
一郎は静かに見返した。その瞳に、動揺や狼狽の色はまったく見られない。何らかの意志が感じられるような強さも帯びていない。ただ坂井から向けられた視線に焦点を合わせているだけ、といういつもどおりの無機質な両眼だった。
坂井は、ふっと短く息を漏らした。
「・・・しかしどうも、そうだとも言い切れないようだな。君の態度をみると」
「そうですか? 妥当な線だと思いますよ」
「だから、その態度だよ」
坂井は一郎の顔を指差し、顔をしかめた。
「まるで他人事のような態度。なのに自身の犯行であることを否定しない。本当に事件の犯人だとしたら、明らかに不自然だ。取り調べのときの西川昭のようにな」
真相はさらに別のところにある、一郎の様子から坂井はそう直感した。
「・・・まったく」
今度は一郎が溜め息をついた。
「坂井さんこそ、普通の警察ならそんな疑い方はしない。被疑者が犯行を認める態度をとったら、それで役目は終わりのはずだ。いちいち冤罪の可能性なんか探らない。保釈や減刑をほのめかし、犯行を認めれば即送検、認めなければ認めるまで拘束する。嫌疑をかけられた者は、それが嫌だから、嘘でも自白したほうがましという心境にさせられる。だから、冤罪の問題はなくならない。警察が欲しいのは真相の解明なんかじゃなく、自分が捕らえた被疑者の “同意 ”なんだ」
一郎の口調がわずかに熱を帯びた。
「自白のみで有罪にされることはない。けど、実際はやはり、有力な証拠とみなされる。被疑者がいったん犯行を認める供述をしたら、あとは判決までとんとん拍子だ。親父がいい例でしょう」
冷ややかに投げかけられた一郎の視線を受け止め、坂井は頷いた。
「否定はしない。実際のところ、警察の仕事は疑いを晴らすことではなく、それを固め、立証することだ。被害者のために。だが、疑いをかけるからには根拠がある。不確かな根拠で簡単に逮捕に踏み切ったりはしない。だから、逆にその根拠を覆そうとする場合、どうしても手間と時間がかかってしまうことになる」
ふん、と一郎は鼻を鳴らした。
坂井は続けた。
「西川事件について、俺は新たな根拠をもった。あの事件の真相はどうあれ、西川昭の犯行に関しては否定できる。そして、それが公に認められれば再審だ」
「どうですかね。いくら坂井さんが騒いでも、事件の当事者が動く意志がなければ事態は変わらないんじゃないですか。警察としても検察としても、そして裁判所としても、自分たちが手を下した決定を、積極的に撤回したいとは思わないでしょう。少なくとも、親父の主張が変わらなければね」
「西川は口を閉ざし続けるというのか、死ぬまで」
一郎はそれに対しては答えず、部屋の窓のほうに目を向けた。
わずかにカーテンが開き、その間から電柱の灯りが見えた。電灯は不規則に明滅していた。
「坂井さんの考えは間違っていない」
坂井の眉がぴくりと動いた。
「五十嵐学長のお墨付きなら、言い逃れも難しいですしね。とぼけても仕方がない」
「それなら」
「ただし」
一郎は坂井を制し、まっすぐに射抜くような眼差しで、坂井の目をとらえた。
坂井は一瞬ひるんだ。一郎のこれほど感情をあらわした強い視線を向けられたのは、これで二度目だ。すっと体内の熱が冷めるような心持ちになった。
一郎は坂井を睨み据えたまま、短く言った。
「そんなことは、誰も望んじゃいない」
二人とも、しばらく無言だった。
坂井は煙草を何本か吸い、一郎は窓辺に手をかけて外を眺めていた。
その一郎が、「ん?」と小さく声を漏らした。
坂井が顔を上げると、少し困ったような表情をした。
「どうしたんだ?」
「今日は来訪者が多い」
そう言って、玄関の方に目を向けた。
カンカンカン…と、金属を踏み鳴らす音が響いてきた。誰かが外の階段を駆け上がってくる。一郎が腰を上げた。
すぐに、玄関の呼び鈴が鳴った。
「一郎君、いるんでしょ?」
どんどんと表から叩かれた。
「こら、すぐに開けなさい!」
「うるさいな!」
一郎は、戸の内側に向かって低く叫んだ。
「騒げば開けざるを得ないと思ってるんだろう?」
そう言いながらも、一郎は開錠してノブを引いた。
「わかったわ!」
開けられるなり、小島美沙希が息を弾ませながら飛び込んできた。
「密室のこと。そしてたぶん、犯人も・・・あれ、坂井さん?」
一郎の肩越しに、坂井の姿を認めたようだ。
坂井は軽く手を上げた。
「よう」
「ちょうどいい」
一郎は美沙希に言った。
「それ、坂井さんに説明してやれよ」
「本当か、それは?」
美沙希の話を一通り聞いた坂井は、信じられないという顔で一郎を見た。一郎は、まるで興味なさそうに小さく鼻を鳴らしただけだった。
――本当に、そんな単純な方法で?
犯行現場の状況や関係者の条件、当時の時間的経緯などを思い起こし、繰り返し自問する。まさか、と思う。
しかし、矛盾点はない。それどころか、現場の状況から浮かび上がった個々の疑問点を解消し、かつそれらを一つにつなぐ合理的な解答だった。
「手品の種なんて、そんなものだよ」
と、一郎が言った。
「観客の先入観や思い込みを利用するんです。観客は騙されているわけですが、演技中は観客なりに十分警戒もしています。手品師の一挙手一投足に目を光らせ、不自然な動作を見逃さないように神経を集中する。しかし、それでも騙されてしまう。なぜか」
一郎は、膝の上に置いた右手を少し浮かせて、低い位置で水平に静止させた。
「 “前提 ”があるからです。人はたいがい、ある前提を基に考察を重ね、判断に至る」
そう言いながら、水平に保ったまま手の平を徐々に上げていく。
「その前提とは、これまでの自分が体得してきた経験や常識などから、当然こうあってしかるべきだろう、という判断基準になるものです。
一般に、成長に伴って型にはまった常識的な考えにとらわれるようになり、柔軟で斬新な考え方ができなくなると言われますが、それは一方で効率的な思考のアルゴリズムでもあるんです。新しい体験の多い子どもや仕事未経験の新入社員なんかは、何事も一から考え、最初からきちんと取り組もうとする。しかし、学習経験の豊富な大人やベテラン社員は、経験則で初期の手続きを飛ばして、すばやく事態に対応することが可能になっていく。その経験則が、判断の “前提 ”となります。しかし反面、前提が強力であればあるほど、それにそぐわない判断がしにくくなります」
一郎は手を下ろし、続けた。
「手品の場合、手品師は観客が当然と思っている、何の疑問の余地ももたないようなところを突いてくる。たとえば、手品が始まったとき、すでに種の仕込みは終わっている。しかし、開始より前の部分に意識の目を向ける人はあまりいないでしょう。どうしても手品が始まってからの動きに注意がいってしまうからです。そういう視点に立っていくら考えたところで、種も仕掛けも分かりません」
「今回の密室も、前提となる視点から間違っていたから、何も見えなかったというわけか」
坂井の言葉に、一郎は頷いた。
坂井は思わず唸った。そして、今回の事件に限らず、過去の西川事件に始まる一連の出来事に対する解釈が、間違った前提の上に立っているのではという懸念が浮かんだ。
考え込んでしまった坂井の様子に、美沙希がふと笑いをもらした。
「坂井さんだって、ずいぶんなもんじゃない」
目元に意地の悪い笑みをたたえながら、美沙希は言った。
「まさか刑事が学生のふりをして学内に潜入してるなんて、誰も思わないわよ」
「それも、俺の学生証と学籍番号を利用してね」
と、一郎も笑った。学生証は学内の入室用のカードリーダーとして必要だし、学籍番号はパソコン等の端末からのログインに使う。
「別にそんな面倒なことしなくても、刑事の身分でいくらでも堂々と調査できるじゃないか」
「職権には制限がある。それに俺が本当に調べたいことは、西川事件のほうだ。その関係者の日常の様子から、何かつかめるものが出てこないかと思ったんだ。西川昭の死刑確定以来、警察はあの事件の追及をやめ、世間も関心を失いつつあるからね。公務ではなく個人的に動くしかない」
「そういうことでしたね」
坂井は、最初から君が全て話してくれるんならそれで済むはずなんだが、という言葉を呑み込んだ。自分から事件のことを話す意志はない、しかし誰かが調べるぶんには構わない、という一郎の言葉を受けて、坂井は独自の調査を行ってきたのだ。
そして一郎は、「事件の容疑者としてなら質問に答えてもいい。その明確な根拠があるならね」とも言った。今日はそういう意図をもってここに来たつもりだったが、どうやら少々当てが外れたようだ。
「けど、ちょっと危なかったよ」
と美沙希が言った。坂井がとっさに何のことか分からずにいると、
「ほら、文芸部の名簿に学籍番号を記入するとき。なんかもたついてたでしょ」
ああ、と坂井は苦笑した。
入部手続きの際に、部長の川村正樹から学籍番号の記入を指示されたとき、坂井はとっさに適当な番号を思いつかなかった。わずかな逡巡の末、一郎から聞いていた彼の学籍番号を書いてしまった。後から思えば確かに危なかった。「小野田稔」という偽名に何の意味もないが、学籍番号が五十音の昇順に合わせて付与されることを失念していた。「小野田」と「西川」では番号に差異が出すぎてしまう。案の定、正樹は不審に思ったらしい。
「まあおかげで、いろいろなことも分かった。ただ、そうやって文芸部に忍び込み、谷村聡子と三上賢太を密かに調査中に、サークル顧問の今野が死んでしまったことにはかなり吃驚したが」
坂井が二人の学生に注目したのは、今年飯田山で死んでいた木村栄治と西川昭のつながりが浮かび上がったときだった。
まず、飯田山の事件が過去の西川事件と何らかの因果関連にあるとすれば、その関係者も同様ではないかと推量した。そして、その事件関係者もしくは西川昭に係わる者たちのほとんどが、東北広益文化大学に所属していた。西川昭の長男である一郎、被害者家族唯一の生存者である井上佐織、そして谷本聡子と三上賢太の四人である。谷本聡子は西川昭の長女であり、一郎の一つ下の妹。西川が離婚した際、妻が連れ出した子どものほうだ。その再婚相手の男の連れ子が、聡子と同年齢の三上賢太だった。
そういう状況の中で発生した飯田山の殺人事件――単なる偶然として見過ごすには抵抗があった。
谷本聡子のことは、兄の一郎や、寮で同室の美沙希からもある程度のことは聞いていたが、よく分からないのが三上賢太だった。賢太は西川当人と直接の関係はない。単に、義母の元夫が西川というだけにすぎない。
しかし西川事件が起こった後、その影響が元妻の再婚相手である三上家にまで及んだ。そのため、聡子の母綾子は再び離婚することを余儀なくされた。離婚後、聡子が母方の旧姓に戻ったため、苗字も別になった。
そのような経緯から、三上家としてはできるだけ西川に関係する人間とはかかわりたくないはずである。だが実際のところ、賢太は聡子や一郎と同じ大学に入学し、しかも聡子とはサークルまで一緒である。他方、
美沙希の話によれば、サークル内でとくに二人が親しいという雰囲気はなく、既知の関係であると紹介された覚えもないという。やはり、二人の関係から事件を類推され、他の学生たちから詮索や好奇の目で見られる可能性を避けたかったのだろう。
となると二人は、自分たちの本来の関係を隠し事件との無関係を装いながらも、一方で同じ境遇にあって環境を共有し、関係を保っていこうとしていることになる。そのためにわざわざ自分たちの素性を伏せて、表面的には大学で偶然知り合ったように振舞っているということだ。
どうしてそんな面倒なことをするのかと考えたとき、まず思い浮かぶのは二人が恋人同士など、プライベートの仲にあることだった。義理の姉弟であったとはいえ、血縁関係にはないのだからそれも不思議ではない。
だがそれだけなら、同じサークルに所属する必要性は薄い。大学のサークルというのは、学生たちにとっては意外にオフィシャルな場であり、プライベートとは一線を画すようなところがある。もちろんサークル活動をきっかけにそういう仲に発展することはあるが、その逆は稀ではないだろうか。少なくとも、過去の関係を知られるリスクを冒してまで、同一のサークルにこだわる利点があるとは考えにくい。
あるいは単に趣味が同じだけなのかもしれないが、美沙希に聞くところによると、賢太のほうは文芸自体にはあまり興味がないようだということだった。
交友関係でも趣味でもないとすれば、他にどんな目的があるだろうか。坂井には妥当な理由が思い当たらなかった。何か、特殊な意図があるのではないか。
「――今野稔が死んだことでいっそう西川事件との関連が色濃くなったが、同時に二人に対する注目の度合いも増した。同じサークルに所属した目的、ひょっとして今野が目当てだったのではないか――そんな疑念もわいた。そこで、部長の川村君に訊ねたわけだが」
川村正樹の携帯電話が見つかった後、坂井は彼に自分の正体を明かした上で、主に二点のことを確認した。
一点目は、携帯電話を失くしたときの状況と経緯。彼の覚えによれば、紛失場所は部室である可能性が高いということだった。
問題の日は部室で麻雀をしていた。彼は習慣として、自分の携帯電話を点棒箱といっしょに傍らの椅子にあげていた。もしその時点で携帯がなければ、そこで気付いたはずだという。正樹の言い分を信用すれば、そして携帯電話が単に紛失したのではなく他者に盗まれたのだとすれば、状況から考えてやはり場所は部室でと推定される。彼がその日他の人間といっしょにいたのは、そこだけだからである。麻雀終了後、彼はそのまま一人暮らしのアパートに帰宅している。
部室で盗まれたと仮定すれば、おのずとその行為者は限られる。当時部室にいたのは、卓を囲んでいた面子――今野稔、川村正樹、三上賢太、小島美沙希。あとは谷本聡子である。このうち、当然正樹と、亡くなった今野は対象外となる。また、麻雀に興味が薄い聡子も、ゲーム中はほとんど卓に近寄らなかったらしい。
残るは賢太と美沙希であるが、美沙希は正樹の対面、賢太は正樹の右隣りに座っていた。各人の点棒箱はそれぞれの席の右側の椅子に置いてあり、正樹の携帯も同様だったことをふまえると、麻雀中に彼の携帯を盗む機会があったのは、三上賢太ということになりそうだ。
確認の二点目は、文芸部というサークルについて。聡子と賢太が同じサークルに所属した目的を探るためである。
一応、創部の経緯から聞こうと思った坂井だったが、意外にも部長である正樹は首をひねり、自分にはよくわからないと答えた。元々発足を呼びかけたのは自分ではなく、聡子であるというのだ。普通に考えれば部長の正樹が発起人のような立場になるはずだが、実際は違うようだった。きっかけは聡子が創部を言い出し、賢太が入学式でたまたま知り合った正樹を誘い入れたということらしい。当初はサークル設立のための頭数ということで参加した正樹だが、申請する頃にはいつの間にか部長に持ち上げられていた。嫌ではなかったし、むしろ役柄としては性格的に適している気もして、快く承諾した。
また、顧問の先生として今野を選んだことについても、聡子の意向だったようだ。せっかく国文学の有名な先生がいるのだから、と彼女は強く希望したという。正樹としては何の異議もなく、むしろ麻雀好きの今野が顧問になったので結果的には最高の人選だった、と語った。
しかし、この話を聞いた坂井の頭では、聡子らに対する漠然とした霧のような違和感が、より濃密な疑念の雲に変わっていた。サークルの存在自体に、表向きの目的とは異なる作為的なものと、別の意図の気配を感じた。
――サークル活動を口実に今野に近づき、かつ彼を捉えておきたかったのではないか。
もちろん、確証はない。聡子がそんなことを企む理由もわからない。憶測というにもこころもとない疑惑だった。だが、そういう小さな違和のほころびから、事件の構図が明かされていくものだ。
「わたしも聡子に頼まれたのよね。とりあえず名前だけでもいいから、って」
美沙希は、天井を仰ぐように見上げた。
「坂井さんの推測は、おそらくそう外れてはいないと思う」
「控えめな評価だな」
「だって、聡子が最初から今野先生を狙っていて、今回の事件に関与したなんて思いたくないから――でも」
「思わざるを得ない、という結論なんだろ?」
一郎が見透かしたように言った。
美沙希は一瞬躊躇してから、頷いた。
「しょうがないじゃない、わたしがたった一杯のバーボンで酔いつぶれるなんて考えられないもの」
2 小島美沙希の解答
目の前で表情を凍りつかせた聡子を、美沙希は複雑な思いで眺めていた。
聡子の驚愕ぶりは無理もないだろう。小野田が刑事であるというわけのわからない状況と、引きこもっているはずの兄の一郎が何故かこの場にいるという状況。とっさのことで、混乱を通り越して思考が固まったのかもしれない。
だが、しだいに聡子の目に焦りと不安の色が浮かんでくるのを、美沙希は見逃さなかった。
――やはり、聡子は事件に関与している。
刑事の存在に驚いているのは、事件に関する何らかの容疑をかけられたことを察したから。そして一郎の姿に驚いているということは、彼が本来この場にいるはずのない人間だから。美沙希は聡子の反応を、そう推し量った。
一郎は今回の事件に関係していない、と美沙希は思っていた。だからこそ、大学で起きた事件の模様を知りたがり、美沙希や坂井から情報を得ながら推理を展開したのだろう。ひょっとしたら、今野稔の事件が起きた時点で、聡子や賢太の関与を懸念したからかもしれない。
大学教授である今野泰が、その前に飯田山で殺されていた元警察官の木村栄治と、そして死刑囚の西川昭とつながりがあったことを、美沙希は坂井から聞いている。三つの重大な事件の主要人物が関係しているのだ。木村や今野の死が、あの西川事件か、あるいはそれ以前の因果に端を発する一連の凶事であることは、美沙希も坂井の見解と一致するところである。これに関し一郎は何も語らないが、それは彼自身の過去に対する方針のようなものであり、決して無関心を装っているわけではない。むしろ、もっとも真相に近いところにいて、すべてを把握しているのかもしれない。
つまり、彼は傍観者に徹することにしたのだ。西川事件以後、一郎は事件への一切の関与と言及を拒否し、それどころか社会とも隔たりをもって生きようとしている。また一方で彼は、西川昭の行動と死刑判決を、その帰結として認めている。だから何も語らず、反論しようとせず、ただ成り行きを見守るだけである。消極的ながらも事件と父親の顛末に対する世間の裁定を支持せざるを得ないが、自分はその世間に加わるのはごめんだ、という意志のように、美沙希には思われる。それはある種の逃げであり、自ら社会と隔離した生き方を望むのも、つまるところは現実からの逃避といえる。
だが、そんな彼の姿勢を、卑怯だ、という権利は誰にもないだろう。あの事件のせいで、彼が今どういう立場に置かれ、どのような社会的制約を受けることになったか、本人でなければその境遇を真に理解することなどできないだろう。一郎が世間の視線を避けるのは、それをさせる世間に対する防衛手段として、唯一彼に許されたものなのかもしれない。普段、引きこもりを自称しながら飄々としている一郎の真意は計り知れないが、傍観者という彼のスタンスには共感できた。
その一郎が、今回の飯田山および大学で起きた両事件については、積極的な関心を示した。それが最初、美沙希には意外だった。だが、やがて一つの考えに思い当たった。
誰か、他の人間が関わっているのではないか。自分だけの問題で済むのならかえって無視を決めこむこともできるが、それができないのは、自分以外の人間を見過ごせないからではないか。そして一郎が事件の解明に手を貸すのは、それがその関係者にとって最終的に望ましいかたちであると、自分なりに判断したからではないか――。
美沙希は一郎とは知り合ってからまだ半年ほどの付き合いだが、表面的には虚無に見える彼の態度の中に秘められた、深い思慮と何がしかの強い決意の存在を感じ取っていた。
美沙希が一郎を知ったのは、キャンパスではなくインターネット上のある掲示板だった。もちろん偶然で、そこで彼は「宮田和彦」という名前で、ときどき書き込みをしていた。特徴のある書き込みが多かった。
あるときその掲示板で、「虐待」に関する討議がなされたことがあった。宮田という人物は、こう意見していた。
「しかたがないと思う。人間ほど一方的な攻撃性をもつ生き物はいないのだから。どんな動物にも天敵にあたるものがいて、他の種から攻撃を受ける生命の危険を負っているが、人間は違う。人間だけが、自分が襲われたときのことをきちんと想定できない、危機感や被害意識の欠如した異質な生物になってしまった。
加虐者が被虐者の立場を共感できないのも同様だろう。必要もないのに簡単に他者を攻撃できるのは、逆に攻撃される脅威を知らないからだ。そのような一方的な攻撃性は人間という特殊な生物の性なのだ、ということを、まず私たちは認めなければならない。
ここには被虐者側に立とうとした意見が多いけど、どれも空虚にきこえる」。
この後には、宮田の書き込みに対する批判や反対意見が多数続いていた。宮田を支持するような書き込みをしたのは、美沙希だけだった。
「宮田氏は議論の前提を言っただけでしょう。つまり、まず自分たちが虐待しうる側にいる者だということをきちんと認識したうえで、議論すべきじゃない? 人にはそういう性質があるというところから目を逸らしたら、何故人間社会だけにこんな問題があるのか説明できないでしょ。もちろん、その人間には他ならぬ自分自身も含まれることを忘れないように。そうでないと空虚にきこえるから」。
また別の日、こんな書き込みもあった。
「人はなかなか物事を等分に見ることができない。そして偏見は主観から生まれる。だから、自分はなるべく客観的で、相対的な視点を持ちたいと思う。主観の基となる自分の感情を排することはできないが、それはそれとして、できるだけ外側に立ち、事の概観を眺められるようにしたい。そうしなければ、自分の立場に納得できない」。
当時は彼の「立場」というものが想像もつかなかったが、今にして思えば、そうやって世間や他者の視点に立って考えることで、自分の境遇に対する納得のいく答えを得ようとしていたのだろう。もちろん、それは簡単なことではない。彼が掲示板でも言及したとおり、自分の感情と折り合いをつけるのが最も難しいからだ。しかし彼は、自分自身のためにそうあるべきだと結論したのだろう。
冷めた考えの中にも熱があり、どこか達観したところがある、という印象を美沙希は受けた。以来、彼の書き込みは美沙希の目を惹いた。
彼との直接の出会いは、意表をつかれたものだった。東北広益文化大学の入学式の後、いきなり声をかけられたのだ。
「君、MISAKIさんだよね」
そう言って微笑を浮かべた宮田に、ずいぶん戸惑った。だが彼は例の掲示板の名前をあげ、「君の書き込みから推測して、そうじゃないかと思ったんだ」と何でもないことのように言った。
たしかに、美沙希は掲示板に東北広益文化大学に入学することを書いたし、自分の身体的な特徴なんかも少しは載せてみて、「もし大学で出遭ったときにはよろしく」などと冗談半分で書き込んだ。だがそんな情報は本当にわずかなものだ。そこから見当をつけて自分を見つけ出した宮田の洞察力と、掲示板で気になっていた人物と大学で一緒になった偶然に驚き、それがきっかけで彼女は一郎と付き合うことになったのである。
ただし、付き合うといっても、いわゆる恋仲ではない。聡子にはそういう感じであるようにほのめかしたが、実際は全然違う。しかし、別の意味で特別な関係といえるかもしれない。価値観や考え方において共感や親近さを覚えるのだ。
それはともあれ、西川一郎という本名を聞いたとき、美沙希はすぐに例の事件との関わりを想像した。それだけ大きな事件だった。一郎は、美沙希に対しては別に隠そうともせず、自分が死刑囚の息子であることを明かした。ただし、事件についての自分の思いは一切口にしなかった。美沙希もあえて聞き出そうとはしなかった。
だが、自分の妹である谷本聡子が、学生寮で美沙希の同室であることを知ったときには、さすがに驚きを隠せないようだった。彼は、彼女をはじめ他の親類者たちとは今は断絶状態にあるから、と諦めたように薄く笑った。そして、彼女には自分のことは内緒にしておくように、また関わりを持つと互いによくない、と言った。美沙希はすぐに納得した。あの事件がきっかけで、一家離散の憂き目に遭ったのだろう、と察した。以降、二人の間で聡子や、西川事件について話題に上ることはなかった。
その彼が今回は自分のスタンスを崩し、あえて事件に関わろうとしているのだ。美沙希はそんな一郎の変化から、何か切迫した事情があるのではないか、という気配を感じていた。そして根拠はないのだが、それは父、西川昭の逮捕後の態度と重なるように思われたのである。
*
美沙希が、今野泰の密室事件の謎を解いたきっかけは、一郎のヒントにあった。当然のことながら、一郎自身はその前に密室のからくりを解明し、今回の事件の構造もある程度はわかっていたことになる。
それでも美沙希に考えさせ、答えを導き出させたのは、やはり彼自身微妙な立場にあるからだろう。もし当事者が美沙希の想像どおりだとしたら、彼が事件に主体的に対応できないのも十分に理解できる。
ともあれ、密室自体はわかってみれば単純すぎるものだった。トリックというほどの仕組みではないが、盲点といえば盲点であり、それに気づかなかった自分や警察の想像力の乏しさを痛感させられた。それこそいみじくも「宮田和彦」の書き込みにあったように、客観的かつ相対的な視点で事の概観を眺める姿勢が足りなかった、ということなのだろう。
『シュレーディンガーの猫』とはまた妙な喩えを持ち出したものだが、確かに今回の密室の仕組みを一言でたとえればそういうことである。
箱のふたを開け、観測してみてはじめて中身の状態が決まる。箱を開けるまでは不確定。一郎は、「 “密室状態 ”であるのが確定したのは、小屋を開放した瞬間、正確には扉を開けた後」であり、それ以前は密室条件が満たされていなかった可能性があると言った。扉を開けて、中の状態を確認した時にはじめてその条件が整った、と言った。
考える際の主なポイントは、二点ある。一つは、密室の条件について。二つ目は、密室が確定した瞬間の特定、である。
密室の必須条件は、空間的に双方向から出入り不可能であること。逆に、自殺以外においてその条件が満たされていなければ出入り可能なわけであり、何の不思議もない。一郎の説明が示唆するところは、扉が開けられる前はそういう状態だったということである。だが、小屋は内側から鍵がかけられていた。施錠されていたにもかかわらず、そこは密室ではない――その答えとして考えられる可能性は、一つしかない。
それでは、密室ができたのはいつなのか。その転換点の見極めが、このブラックボックスを解明するための二つ目のキーになる。一郎は美沙希から事件の概要を聞いただけでその手がかりをつかんだようだった。美沙希にいくつか質問しただけで、もう密室を解き明かしたと言った。
一郎が美沙希に確認した点をあげると、
・発見者は守衛ではなく、清掃業者ただ「一人」
・守衛室に「電話」があったのは、今野の死体が発見される「直前」
・小屋の中の状況は、「ゴミ袋の山」が端の方に積んであり、発見当時それが少し崩れていた
という三点である。これらのことがすべて密室を完成させる条件として、一郎が確認を求めたとすれば、それぞれが意味するところは何か。
たとえば――
・最初の発見者は清掃業者であって、守衛ではないこと。守衛ではいけない理由があったのか。
また、発見者は一人であること。二人ではダメだったのか。どうして一人でなければならないのか。
・守衛室にかかってきた電話のタイミング。内容的には何の意味もない電話の意味するところは、そのタイミングにあるのではないか。そしてそれは、小屋の扉が開けられる直前である。
・ゴミ袋の山でできること。ゴミ袋が崩れていたのは、それらをなんらかの道具として使った後なのではないか。
“転換点 ”ということを言えば、やはり「電話のタイミング」が関係しそうである。そのときの経緯を整理してみる。
守衛室に電話がかけられ、清掃業者が物置小屋の鍵を受け取り、小屋を開ける。今野の死体を発見し、急いで守衛室に戻り、守衛を呼んでくる。以降は警察が到着するまで守衛が見張りに立っているので、状態変化のポイントはその前にありそうである。
美沙希は、この経過部分をよく吟味した。他の条件と考え合わせ、どこかに穴が開いていないか探索してみる。
そして、ある一時点に着目した。
*
昨夜、その穴について坂井に説明した。
「つまり、掃除のおばさんが鍵を開けてから、守衛を連れてくるまで、小屋の前は誰もいなくなっているのよ。そして、そういう状態にするために、犯人は守衛室に電話をかけて守衛を引き止めた、ってこと」
最初に要点を言ってから、問題点を順にあげて解説していった。
まず、常駐の守衛と、外部委託の清掃業者の違いである。守衛は職務上、大学連絡用の携帯電話か無線端末の類を所持している、と考えられる。が、清掃業者には与えられていないであろう、という予測。
ゆえに、緊急事態が生じた場合に清掃業者がとりうる連絡手段としては、教室など電話回線の引いてある場所なら備え付けの電話を使用し、そうでない場所なら自分の携帯か、連絡先が比較的近いなら直接出向いてという方法になるだろう。物置小屋は守衛室から近い。よって、直接守衛を呼びに行く可能性が大きい。
次に、発見者の人数。一人ならその場を離れると、当然無人状態になる。しかし、二人以上なら誰かが現場に残るだろう。その「0」と「1」の違いは天地以上の明確な差がある。犯人の命運を左右する要である。何のために0を望んだのかは自明だ。
そして、0の状況をつくりだすために電話を利用した。折り悪く守衛室にかかってきた不審な電話。その電話を取ったせいで、守衛はその場から離れられなくなった。結果、清掃業者が鍵を預かり、一人で物置小屋を開けることになった。
「……」
美沙希にそう説明されたとき、坂井ははじめ呆気にとられていた。だが、すぐにその意味するところに気づき、はっと表情を紅潮させた。
「まさか犯人は、そのときまでずっと小屋の中にいた、というのか?」
「ええ。だから、密室はその後に完成した。見張り役の守衛と、警察官という観測者によって」
そうでしょ、と一郎をうかがうと、彼は満足そうに頷いた。
問題の経緯はこうだ。
まず、殺害した今野を小屋の天井に吊るして、入り口の扉を内側から施錠する。当然外には出られないので、そのまま朝まで待機する。
朝方、清掃業者がゴミを運び出しに小屋に来るが、鍵が閉まっていて入れない。犯人は、業者が施錠されていることに気づいて一旦小屋のそばから立ち去った様子を確認してから、携帯電話で守衛室に電話を入れる。警察を装い、緊急の要件であることを伝えて待機するよう言い、電話を切る。ちなみに、このとき犯人が利用した携帯電話というのが、川村正樹から盗んだそれであろう。
そこに、清掃業者が守衛室をたずねてくる。守衛は待機の指示のためにその場を動けない。やむを得ず、清掃業者に小屋の鍵を渡す。清掃業者は、一人で小屋に向かうことになる。
鍵を受け取った清掃業者が小屋の扉を開けると、目の前に今野の死体がぶら下がっている。彼女は突然の異常な光景に腰を抜かし、慌てて守衛室に駆け戻る。鍵を掛け直す余裕はないし、その必要も思いつかない。
なぜなら、自殺に見えるからだ。自殺なら、まさか他に人がいることなど想定しない。犯人が自殺に見せかけたかった相手は、実は警察でなく、発見者だったのだ。だから、後から検死によって他殺と断定されようと何だろうと、一向にかまわなかったということである。
このとき犯人は、小屋の端に積まれたゴミ袋の山に身を潜めている。動転した清掃業者が気づくよしもない。小屋の周辺は一時無人になる。
彼女が立ち去り、守衛を呼んでくるまでの間に、犯人は小屋から脱出する。ここが、「密室への転換点」である。守衛を連れた清掃業者が再び現場に来たとき、すでに犯人は逃げ去った後である。ブラックボックスに、もう猫はいない。守衛が中をあらため、警察が事情聴取と現場検証をすることで、密室であったことが後付けで確認される。
「掃除のおばさんが小屋の扉を開ける前まで、中には人がいた。出ようと思えば、内側からドアノブの施錠を解いて簡単に外に出られる。だから、密室になっていない。
外から施錠が解かれ、扉が開けられた後、犯人は逃げ去り、死体以外に誰もいなくなる。守衛や警察が “観測 ”した時点では、密室の条件を満たしている。よって、観測によってはじめて、密室状態が確定される。だから『シュレーディンガーの猫』。観測するまで、中身の状態は分からず、確定しない。
でも今回の場合、皮肉にも確定させた状態が間違っていた、ということね」
「警察が犯罪工作の一役を担っていたとはね・・・迂闊だったな」
坂井が、悔しそうにひとりごちた。
*
聡子と坂井が対峙している。
美沙希が来てから、聡子はまだ一言も言葉を発していない。
聡子が犯人であるという確信はないが、状況を踏まえれば可能性としては十分に考えられた。
あの夜、聡子からもらった一杯のバーボン。
たった一杯でつぶれたのは、本当に酔ったためなのか、どうか。翌日の体のだるさは、ただの二日酔いなのか、どうか。
グラスは洗ったが、がさつな美沙希は軽く水でゆすいだだけである。そのグラスは、昨夜、坂井を介して警察に回した。警察による分析の結果、グラスに睡眠成分が付着していれば、単なる泥酔ではなくなる。
昨今睡眠薬の類は、軽めのものであれば薬局で市販されている。それを細かく砕き、アルコールと併用させれば、効果が高まるのではないか。
『東北広益文化大学殺人事件』(第一部)―完―
東北広益文化大学殺人事件 @sonzoku
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