第三章 『転回と展開』

1 つくられた事実


 大学本部棟二階にある学長室。

東北広益文化大学学長、五十嵐康一郎は、窓の前にたたずみ外を眺めていた。日当たりのよい南側に設けたはずの窓なのに、この日はあいにくの天候で戸外の風景は鈍い灰色に沈んでいた。

だが、彼の内面を占める心情世界の沈うつは、外のそれの比ではなかった。

五十嵐は暗然として溜息をついた。

 今野が死んだ。しかも本学内で。

 先刻刑事がやってきて、この件に関して五十嵐も事情聴取された。今野は物置小屋の天井から紐で首を吊るされたかたちで発見されたのだが、坂井というその若い警部補の話によると、それがどうやら他殺であるらしい。

自殺でなく殺人ならば刑事事件ということになるし、先の飯田山の事件とともに、この大学が重大な犯罪の渦中にあるものとして世間に認識されてしまうことになる。まだ創立したてというのに、その社会的な評価と世間的な印象はいっきに低落する。信用の失墜はそのまま入学する学生の数の減少につながり、結果大学の存続自体が危ぶまれる。とりわけこの大学の場合、地元唯一の四年制私立大学ということで、県や市町村など地域自治体からの出資と援助による影響も小さくないため、ことは一大学の “不祥事 ”では済まされないだろう。

 ―――いや。

 五十嵐はゆるく首を振った。そんな世間体云々が問題なのではない。人が不自然な状態で亡くなったということは、内的に深刻な事情が存在したということである。人の命を失わせるという、道義的にも社会的にも究極の禁忌を犯させるほどの、重大な事情が。

 それを考えたとき、五十嵐の頭には否が応でも三年前のあの事件を思い起こさずにはいられなかった。西川昭が起こした大量殺人事件―――当局の判断では、父親に対する突発的な怒りから引き起こされた衝動的な殺害行為とされているが、逮捕・勾留後死刑が下されるまでの西川の不審な態度から、五十嵐はそこにある別の事情を見出し、世間で認知されているところとはまったく別の結論を想定していた。もし五十嵐の推定どおりだとすれば、かの事件も西川個人の問題では済まなくなる。そしてそういう意味からいえば、あの事件の関係者をまとめてこの大学に受け入れたことは、単に彼・彼女らの今後の人権を保護し権利を保障することだけにとどまるものではない。過去に遡って、極めて慎重に対応しなおす必要が生じる。

 そのような中にあって起きた飯田山の殺人事件と、今回の今野の件である。二つの死が、かつての重大事件に端を発し、それに絡む深刻な事情に連なるものであると考えざるを得ない条件が、五十嵐の心中には揃っていた。

 中空の曇天を見据えていた五十嵐は、視点を下げ、やや右方にすべらせた。

コンクリート剥き出しの壁面とくすんだトタン屋根で構成された建造物が見える。普段は雇いの清掃業者しか立ち寄るこのない物置小屋にはしかし、警察の連中がたむろし、その周囲にはテープが張られ、その外には野次馬らしき学生が遠巻きに眺めている姿がちらほらあった。

 そこで今野の遺体が見つかったのは昨日のことだ。一旦は引き上げた警察だったが、殺人事件の疑いがもたれたために再度詳細な調査と検討が必要となり、現場の保存と付近の警戒にあたっているらしい。

 坂井刑事はその旨を説明し、さらに当事件についていくつか質問をした。たとえば今野の死の原因に心当たりがあるか否かとか、彼の学内における人間関係の模様であるとかなど、被害者の近況や大学における立場に関することが主要なものだった。それらに対して、五十嵐はごく端的に、過不足なく答えた。

だが、最後にその刑事が「西川事件」について言及したとき、五十嵐の心中は大きく揺れた。やはり警察でもあの事件との関連を疑っている、はたして自分の考えを話しておくべきかどうか。

五十嵐が逡巡していると、めざとい刑事はそれを感じ取ったのであろうか、まず西川事件に関する自らの疑問と見解を語った。その基本的な方向性は、五十嵐のそれとほぼ同一なものだった。

五十嵐は、仕事柄長年の人間観察によって培ってきた経験と感性から、この刑事に信頼感と、ある種の仲間意識のようなものをおぼえた。警察という立場を超えた真剣な口ぶりと、真摯な姿勢にも好意を抱いた。

迷った末、結局五十嵐は語った。その影響の重大性ゆえに自身の心中でしか展開されなかった内容を、はじめて他者に話したのだ。



「――まずは、これを」

 そう言って坂井陶也刑事が差し出したものは、A4版で二十枚程度のコピー書類だった。

 ――ああ、これは。

五十嵐は手に取るまでもなく、それが何であるかを確信した。彼自身、何度となく目を通し、内容を吟味したもの。それどころか、実際自分もそれを所持している。

「 西川の「判決書(*資料①参照)」ですね。あなたもその内容に何か疑いを?」

 ええ、と頷いて、坂井は五十嵐の目を見据えた。五十嵐の瞳に、ややもすると病的とも思われがちな青白い顔に冷たく無機的な表情をした坂井の姿が映りこむ。

「おそらくすでにご覧になっていると思うので、事件の経緯や概要等の説明は、省かせていただきます」

 五十嵐も黙って頷き、坂井に先を促した。

「私にははじめから、西川昭があのような犯罪をおかしたという結果に違和感めいたものがありました。当初は漠然としたものではっきりとした根拠はなかったのですが、勾留後に西川本人と接するうちに、そしてこの公判書類を幾度と読み返すうちに、その違和感の所在に確信を抱くようになったのです」

「その違和感とは?」

「私自身はこの事件の担当ではなかったので――実は、担当刑事の一人は例の、先日飯田山で殺害されていた木村栄治だったのですが――事件の仔細は後で個人的に調べました。そこでまず納得できなかったのが、犯行の動機です。あの西川が五人もの人間を殺傷したという事実自体とても信じがたいことですが、父親殺害はわかるにしても、隣家の無関係な人たちの命を次々と奪っていった理由が “衝動性 ”では根拠としてあまりに安直で、心もとない。たとえ犯行時の彼の精神状態が極度に普通でなかったのだとしても、そのような一過性の、それこそ本人以外誰も証明しようのない内面の心理状態を、重大犯罪の決定的なきっかけとしてしまっていいものか。私が後に実際に彼と会って話をしてみたときは、むしろ極めて冷静で話しぶりも理路整然としており、安定した精神状態であるように見受けました。現に、あれだけ重大な行為に及んでいながら、精神判定ではなんの異常も見られなかったのです。犯行後自ら警察に出頭したときも、まったく平静そのもので、刑事たちも彼の言うことがにわかには信じられなかったといいます。その理性的で落ち着いた性格の西川が、目的もなく衝動的に無関係な人間を殺害しうるのかどうか。突発的犯行というわりに精神や性格上の問題はうかがわれず、かといって計画性のある理知的な犯行ではない。だから私の中ではどうしても、西川昭という人間と、ある種極めて通り魔的な「西川事件」とが結びつかないのですよ」

 そうだ、と五十嵐も心中で同調した。それがあの公判文書の、あの判決における「欠陥」部分だ。坂井の言うとおり、父親の殺害に関しては十分な動機が存在する。だがそれは、父親を殺した時点で完了しているはずであり、いくら興奮状態にあったとしても、その延長としてわざわざ隣家に踏み込んで、凶行を継続しようとするだろうか。しかもその家族全員に危害を及ぼしているのである。すでに本来の動機は失われているにもかかわらず。さらに――。

「さらに言えば、それがどうしてその家だったのか、という疑問もあるでしょう」

 五十嵐の黙考を察してのことか、この鋭敏な刑事は幾分上体を乗り出して、続けた。

「衝動的な犯行ならば、別にその隣家でなくてもよかったはずです。逆隣りや向かいにも住宅はあった。父親を殺害した後の極度の興奮と異常な心理状態がおさまらずに引き起こされたものであるならば、もっと無差別無作為であってもいいはず。しかし実際にその犯行の対象となったのは、その『井上』という家人だけです。他の近所住民や、往来を行く人々はまったく被害にあっていません。興奮状態にあったとされる彼の様子を見た者もなく、殺害に包丁を用いた割には衣服にわずかな、滲んでぼやけたような血のあとしか見られない。もっとも自首の際、凶器と思われる包丁は持参していたようですが」

「だが、彼自身は一応自分から、自らによる犯罪であることを認めているのでしょう。もちろん自白のみでは有罪とはなりえませんが、かなり有力な供述ではある。また、立件されたからには、他の物的証拠や状況証拠も十分に揃っているはずでしょう」

 坂井の説明に納得しつつも、五十嵐は念のため質問を返した。

「ええ、もちろんそれはそうです。しかし――」

 坂井はここでやや顔をしかめ、あいまいな表情をした。

「凶器の包丁を持っていたことだけでも、西川が犯人であることを示す有力な証。衣服についた血のりも被害者のものと断定されたので、検察側も裁判官すらも、物的証拠については疑いをもたなかったようですが――しかし、私にはどうもそれが・・・うまく表現できないのですが、いかにもというか、そればかりが際立ちすぎというか。このたびの今野氏の件のように、見かけ通りの状況をことさらに主張しているような感じがしないではないのです。確たる根拠はなく、いわば漠然とした勘のようなものですが」

「今野先生の件といいますと・・・」

 警察当局は、 “自殺に見せかけた殺人 ”とみている。

「つまり坂井さんは、それが西川による “偽装行為 ”であるかもしれないと?」

「もちろん、客観的な証拠といえるものはなく、私個人の一方的な推測ですが」

 口調は断定をひかえていたが、五十嵐の問いに対しては肯定的な答え方だった。

「常識的には法廷の見解が適切なんでしょうが、どうもその常識や慣例というものに、私は権威と懐疑を感じてしまうたちでして」

 坂井は少し苦笑いしたが、五十嵐を見る眼には鋭い光が宿っていた。その様子に一瞬、この警部補の若さと気の強さが垣間見えた。

 五十嵐も内心で苦笑した。

 ――私のような者も、彼の目にはその常識を権威にする人間に映るんだろうか。

「まあ、物証についてはひとまずおいておきましょう。実はもう一つ、犯行の動機や状況とは別のことでひっかかる点がありまして」

 坂井はまたすぐに元の無機質な表情に戻し、話を続けた。

「それは西川の経歴に関する記述です。この文書の中に、西川がかつて勤務していた郵便局を解雇されるくだりがあります」

 坂井はそう言って、判決書の一項「犯行に至る経緯」の一文を指で示してみせた。

「これによると西川は、借金苦のために消費者金融に手を出し、それがもとで懲戒免職処分を受けています。たしかに、郵便局――現郵政公社職員は、常勤非常勤、現業非現業にかかわらず、すべての者が消費者金融の利用を禁じられてはいます。しかしながら、実際にそれを守らなかったからといって、懲罰として最も重い免職に処するほどのことではないと思われます。規則違反とはいえ、違法行為に当たるものではありませんからね。表立った問題に発展しなければ、そうそう厳格な処分はなされないものです。とくに西川にしてみれば、必ずしも本人の責任ばかりとはいえず、やむをえない身内の事情もあったわけで。それが考慮されていれば、普通は戒告かせいぜい減給程度、最悪でも停職まででしょう。なにも本務に著しい不利益を生じさせたわけでもないのですから」

「なるほど、言われてみればたしかに。その点については、私は気づきませんでしたが」

 公職に属している坂井ならではの着眼点だろう。五十嵐はあらためてこの刑事の感性の鋭さに感心した。

「そこでつい先日、飯田山の事件を調査するかたわら、この件についても並行して調べてみたのです。実を言うとこれに関してはほとんど個人的な調査で、捜査本部の了解は得られていないのですが―――まあ、とにかく問題のS郵便局に行ってしつこくあたってみたわけです。そうしたらやはり、西川が解雇された直接の原因は別のところにあったようでした」

「それはいったい」

「 “現金 ”です」

と坂井は答えた。

「彼は職務中、現金に手をつけてしまったのです。具体的には現金書留ですね。配達する前にひそかに着服しようとしたらしく――たいした額ではなく、結局は未遂だったようですが、それでも消費者金融の場合と違い、これは明らかな犯罪行為になります。免職は当然ですね」

 西川にしてみれば、諸々の苦しい境遇からつい魔が差して、手が出てしまったというところだろう。でなければ、坂井が「理性的で落ち着いた性格」と評する人間が、そんなあからさまな違法行為を犯すとは思えない。

だがそれにしても、どうしてその事実が法廷では明らかにされていなかったのだろうか。また、 “未遂 ”というのもよくわからない。

 五十嵐がそう尋ねると、坂井もわずかに首をかしげ、複雑な表情を見せた。

「未遂というのは、どうも配達前の郵便物の仕分け段階で、同僚がそのそぶりに気づいたことから発覚したということです。具体的にはわかりませんが、同僚に見咎められた西川はあっさりと行為を認め、それから同僚と一緒に上司――配達営業課長に報告にいったそうです。そしてその行為のわけや事情を釈明するおり、父親の借金が原因で消費者金融業者から金を借りていることを告白した。だから表向きとしては、西川の懲戒解雇の理由が消費者金融を利用したこととされているのです。未遂とはいえ、そして比較的軽微な横領とはいえ、それを公に出さず内々で処理したのは、西川のそれまでのまじめな勤務態度や人柄に配慮したのか、それとも対外的な局の信用問題に関わってくることを懸念したためかはわかりません。しかし、「西川事件」発生後の警察の調査でも、その事実は隠れたままでした」

「失礼なことを言いますが、警察の調査に不備や問題があったのですか」

「ええ、おっしゃる通りです」

 坂井はあっさりと頭を下げた。

「我々の不手際と調査不足といえるでしょう。しかし最大の問題は、その事件を担当した刑事にあるのです」

 担当刑事? それは確か―――。

「木村栄治です、飯田山の。その木村がどうも、西川の横領未遂をわざと取り上げなかったふしがあるのです。郵便局側によると、木村の方からそれに関しては調査の対象外であると言って、借金と消費者金融の件のみを詳しく訊いていったということでした。捜査当局としては、もちろんそんな指示は与えていません。S郵便局としてはかえってほっとしたようですが」

「おかしな話だ」

 五十嵐はつぶやくように言った。

「この判決書によれば、西川の犯罪の背景にあるのは、父親と借金の存在によって追い詰められた生活状況のはずです。順当に考えるなら、それがために現金書留を盗むという不法行為に及ぼうとしたということになる。ならば、消費者金融の件とともに「犯行に至る経緯」に記述されてしかるべき出来事だ」

「そうです。ところが木村はその事実を知ったにもかかわらず、自分の判断で勝手に調査対象外とした。理由は分かりません。とにかく、そのような業務上の不作為があり、かつそれがこれまでに明らかにされなかったのは、完全に我々の落ち度です――しかし、奇妙なことはそれだけではありませんでした」

「まだ、なにか」

「飯田山の事件で木村が死んだことをきっかけに、私は西川事件を再度詳しく調べなおす必要を感じました。その具体的な方策として、まずこの決定的な効力をもつ判決書にある不審な点を、すべて洗い出すことにしたのです。だからこの横領未遂についても徹底的に――たとえば、その書留の送り主と受取人の名前まで調べました。そのときはどちらも聞き覚えのない名前だったので、とくに気になりませんでした。

しかし、突如として、その名前が大変な意味をもつものになったのです。それは今現在、最も重要な人物の名前です。一昨日まではまったく気にかけなかった、ごく普通の一般市民でしかなかったのですが」

 一昨日ということは――五十嵐ははっとした。

「もしかして・・・」

「ええ。送り主のほうは『大野哲郎』という他所の人間ですが、受取人は、『今野泰』となっていたのです」



 ようやく、坂井の話が一段落ついた。彼なりに実に真摯に、そして真剣に事件を捉えていることを五十嵐は感じた。

 話し終えると、坂井は黙ってじっと五十嵐を見据えた。それは、次はあなたが語る番だ、という無言の催促に思われた。

 五十嵐は一つ深く息をつき、坂井を見つめ返した。

「どうやらあなたの見方は、私のものと基本的に一致するようです」

 坂井は無言のまま、小さく頷いた。

「おそらく、私が彼らを本学に受け入れたことから、あなたは私が事件についてよく事情を把握しているとお思いなのでしょう。たしかに私なりに事件の経緯は調べたつもりですし、その事情をふまえたうえで直接本人に会って話をし、彼らの意志と気持ちをくんで入学させたつもりです。ただ――」

 五十嵐は一旦言葉を切った。

「ただ、あの事件については、先ほどあなたがおっしゃったような疑問が、当初から私にもありました。しかしいくら疑わしい点や不審な点があるとはいえ、彼らが深刻な事件の被害者であることには変わりがない。彼らに罪はない。したがって、これからは彼らの権利や人権が理不尽に侵害されないよう社会的に守っていくべきだ、そう考えて私は受け入れることにしました。もちろん現在においても、その判断に間違いはないと断言できます」

 実際には、M大学の対応に対し強い反発心があった、という感情的な理由もある。むしろそれが直接のきっかけだが、当然本質的な理由ではない。

「しかしながら、そのこととはまた別に、私も最近になって新たに気づいた点があり・・・もし私の推測どおりだとすると、あの事件そのものが根底から覆されることになるやもしれず・・・そして必然的に、彼らの今後の身にも大きく影響を及ぼすことに・・・」

 五十嵐の心にはまだ幾分躊躇があった。五十嵐はそれを自覚し、意識的に言葉を選びながら話していた。

「五十嵐さん、私も警察という公の立場からではなく、あくまで個人的見解として述べさせていただいたのです。ここであなたがお話しされたことも同様です。あなたが望まないかぎり、決して公にしないことをお約束します」

 坂井はそう言って、再び五十嵐の反応をうかがうように沈黙した。

しばらくの間、張りつめた静寂が二人を包み込んだ。

 やがて――。

「わかりました。お話しいたしましょう」

 五十嵐は、顔をやや俯き加減にして、答えた。


 五十嵐も坂井と同様、西川事件の内容には釈然としないものを感じていた。物証こそ揃ってはいるようだが、第三者の証言や供述が少なく、犯罪に至る経緯や動機についてもあまり深く触れられていない。とくに動機に関しては「突発的な衝動性」ばかりが強調されている印象があり、冷静に考えればかなり安直で短絡的な観点といわざるをえない。

とはいえ、検察の立件段階では西川本人からして犯行を全面的に認めていたのだ。これは犯行後からそれまで、西川が一貫してとってきた態度である。そのために、警察側も検察側も事件の本質は動かないと判断し、動機の件にはある程度目を瞑ったのではないかと考えられる。

ところが公判の一審開始となって、当の西川がその姿勢を反転させた。父親以外の犯行を徹底して否認し、隣家の殺人行為については無罪を主張したのだ。そのときの彼の様子は鬼気迫るものがあり、その一方的な主張に聴衆は眉をひそめ、被害者の遺族関係者は気分を害するほどであったという。

結果、一審の判決は最も厳酷なものとなった。被告人の生命と未来を永遠に失わせる最重刑、すなわち死刑が宣告されたのである。

だが一審判決の後、西川はまたしても態度を一転させる。彼は法廷での憑き物が落ちたかのように再び犯行事実を容認し、極刑を受諾した。以後は一切異議を唱えず、控訴もせず、あっさりと死刑が確定したのだ。

西川昭のこの一連の不可解な態度な何なのか――五十嵐はそこにどのような意味があるのか考えた。

公判前までの初期の西川の様子については、問題ではない。犯行事実が明白なのであれば、下手な抵抗にでるよりも素直に認めたほうが裁判官の心証は良いものとなる。被告人自らによる犯行の容認や、「改悛の情」は情状酌量の主要素のひとつである。

法廷における西川の態度も、現実問題として極刑を意識したことでにわかに恐怖心がわいたと考えれば、納得できないことはない。どんな人間であっても、自分の生命の危機と終末を目前にすれば、理性を捨てて必死で抗うものだ。

おかしいのはその後である。死刑判決が出た直後の西川の態度は、法廷の場で西川がとったスタンスを覆すものだ。なぜ、抵抗しない。なぜ、控訴すらしない。どうして、刑を言い渡される前、死が未定のときには命を惜しんでいたのに、刑が宣告され、死が確定的になった後にすんなり死を受け入れることができるのか。諦めの境地におちたのか、とも思ったが、初審の段階でそのような心持ちになれるのならば、最初から無様な抵抗などしないだろう。

五十嵐は考えた。そのような西川の不可解な態度が、彼の身にどう影響したか。どんな意味があったというのか。意味などない、結局ただ死刑を早めただけではないか――。

そう思ったときだ。五十嵐の頭に突如、ある明確な、一本の筋が見えたのは。最初はまさか、と否定した。だがそれは、ある意味で西川の行動すべてを裏付ける、唯一といっていい答えだった。

死刑を早めるため。

そう考えれば、すべてに筋が通る。

まず、事件直後の警察への出頭、取調べでの自白、犯行の容認。被疑者自らが犯行の容認に積極的だったからこそ、立件、起訴が早まった。

次に法廷での反論、抵抗。一局的には西川の一変で審議に混乱をきたし、判決が出るまで時間を要することになったが、大局的にはむしろ、西川にとって最短時間で目的を達成したといえる。西川は法廷の場であからさまな抵抗をみせ、一方でまったく反省の色をみせないことによって、わざと裁判官の心証を悪くしたのだ。そうやって彼は、最高刑である死刑をものにした。どのみち極刑を免れることは極めて難しかったであろう。しかし彼は万全を期して、一審で死刑を宣告させたのだ。そうなれば、あとは控訴せずに確定させるだけである。

ではなぜ、彼はそれほど早く死を望むのか。

ただ死にたいだけなのか。いや、違う。それならば自殺でもしたほうがことは簡単だし、手早い。では、自らの犯した罪が公正な法によって社会的に裁かれることを、被害者に対し自分ができる一番の償いだと思ったのか。それも違う気がした。

西川はただの死でなく、ただの刑罰でなく、死刑を望んだのだ。死刑が他の刑と決定的に異なるのは、 “取り返しがつかない ”という点だ。一度執行されれば、もうどうあっても元の状態に回復させることはできない。どんな保障もきかない。失われた命は二度と戻らない。だからこそ、極刑に決する場合は慎重でなければならず、重大犯罪では裁判審議にも時間がかかる。

そして死刑を執行してしまったら、その罪状は絶対のものとして認めねばならない。後で翻す事態にでもなったら、国家が無実の一国民の生命を奪ってしまったことになるからだ。そのような過誤は決して認められない。

自ら命を絶ったのであれば、その点問題はない。あくまで自己の判断と責任なのだから、その原因について社会の側がどう判断しようと、責任は問われない。だが、公的な手続きを踏んだ法的な罰によって命を失したのであれば、その判断に社会は責任を負わなければならない。

五十嵐にはようやくわかった。

西川が “公的な死 ”を切実に望んだのは、死刑それ自体の確定が目的だったのではない。取り返しのつかない刑罰を行わせることによって、事実のほうを確定させたかったのだ。彼が犯したとされる犯罪の事実を将来にわたって二度と覆せないように、社会全体に認知させ、責任を負わせたかったのだ。

そして、彼がそうする理由はひとつ。それは、あの判決書にある犯行事実が虚偽のものであるから。そもそもあれがまぎれもない事実であるなら、そんな作為を施す必要などない。わざわざ労をして確定事実としたかったのは、裏を返せばそれが偽りであることを暗示する。できるだけ早期の刑の確定を目論んだのも、下手に時間をおくとその虚偽が暴かれてしまう懸念があったからだろう。

何故にそんなことをするかは、考えるまでもなく明白だ。偽の犯行事実によって自分が罪をかぶるということは、一方で真の罪が隠されて罪を免れる人間が存在するということだ。だから、実際は西川が犯人なのではなく、他に真の犯人がいる。

西川の本当のねらいは、その人物の身代わりになることだ。社会に自分を殺させることで、その人物を社会に生かす――そのための一連の行動が、あのような不可解な態度となってあらわれていたのだ。


 五十嵐が語り終えた後、部屋の中には再び沈黙と静寂が降りていた。

 窓の外では、雨雲がいっそう低く垂れこみ、うっすらとけむるような霧雨が空を舞っている。そこに幻想世界が醸し出されているように感じたのもつかの間、五十嵐はすぐにもとの暗鬱な気分に落ち込んだ。

 ――昨日は久々に晴れた空だったが。

 あらゆる生の源であり、生きものの躍動を促す太陽の光。だが皮肉にも、明るく眩しい陽光に照らされたのは、一つの生の終わりだった。

「――五十嵐さん」

 呟かれた坂井の声に、五十嵐は暗い思案から意識を引き上げた。

「はい」

「西川昭がそこまでして隠しておきたい真実、そして生かしたい人物とは・・・」

 坂井はそこで言葉を切った。

 五十嵐は何も答えなかった。答えるまでもないことだった。

 坂井としても、問いのつもりで言ったのではない。おのずと導き出された答えを確認する意味で口にしただけであろう。

 しばらく言葉を継げずに俯いていた坂井だったが、突如はっとしたように顔を上げた。

「五十嵐さん」

 今度ははっきりとした呼びかけだった。

「しかしそれなら、井上佐織さんは? 当の被害者である彼女は、この事件についてどう振舞っていることになるのですか?」




2 錯綜から収束へ


 首を締めつけられるような息苦しさと、胸を押さえつけられるような圧迫感をおぼえ、井上佐織は目を覚ました。

 ―――夢か。

佐織はゆっくりと首を振り、身体を動かした。どうやら、寝相で掛け布団が頸部に絡まり、その状態でうつぶせになっていたようだ。呼吸が荒く、心臓の動悸も強く、はやい。

佐織はまず、気を落ち着けるために大きく深呼吸した。

しかし呼吸は容易に整わず、にわかに目覚めた直後の興奮状態はなかなかおさまらない。さらに、汗に濡れ、肌にべっとりと張りついた寝巻きが不快な感触をもたらしていた。

額に手をやると、微熱が感じられた。やはり風邪をひいたようだ。今日は朝から悪寒がして体調がすぐれなかったから、大学を休んでこうして横になっていたのだが。

いささかも復調の兆しのない気分にうんざりしながら、佐織は窓に目をやった。

空はほの暗い雲に覆われ、大地を鈍い単色の景色に染めていた。霧のように細かい雨が、視界に薄い幕をおろしている。

佐織は一層気が滅入った。そして否応なく、思いは心の暗部へと引き戻される。

 ――また、あのときの夢を。

 佐織はいつものように、右手で首筋をおさえた。それは、三年前からの彼女の意識的な癖だった。そうすれば幾分気分が安らぐ、というものでもなかったが。

 ――あのとき。

 決して望まないのに、何度となく思い起こされる記憶。そのたびに首筋の傷が冷たく痛み、佐織を苛んだ。

 三年前、俗に言われているところの『西川事件』。佐織は、その事件に巻き込まれた被害者の中の唯一の生存者、という立場だった。

 激しく押し倒され、重くのしかかってくる男。右手には陽光を鈍く反射して、不吉なきらめきを放つ刃物。節くれだってごつごつした相手の左手が、自分の首にかかる。荒い息。乱れ打つ動悸。

 男は刃物をつきつけ、獣の唸り声で命令する。

 ――声をあげるな。

 佐織は放心して、一時、一切の抵抗をやめた。やがて男は低く、下卑た笑いをその表情に浮かばせる。そして、手にしていた凶刃を傍らに投げ捨てた―――。

 ――あのとき・・・。

 佐織はベッドで上体を起こし、両腕で強く頭を抱えた。

 人は忘れることで生きていくことができる、というが、それなら私はこれ以上生きていけないのではないか。



 ――どうなってんだ、最近。

部室に散らかった物品類(ほとんど麻雀牌)を片付けながら、川村正樹は思った。ここ二、三日、自分の周りが妙にあわただしい。それも不吉なことばかり起こっている気がする。

一昨日には携帯をなくした。そして昨日は、サークル顧問の今野教授が亡くなった。しかもどうやら自殺ではないらしい。今日は正樹も、朝から警察に事情聴取され、神経が疲弊していた。

――やっぱり携帯、ここにはないな。

一昨日の夜に探しに来たときも見つからなかったのだが、深夜で部屋も散らかり放題だったので見落としがあったかもしれない。そう思って、念のためにもう一度よく探しなおしてみたのだが。

正樹はふて腐れた面持ちでパイプ椅子に座り、床に長い足を投げ出した。どうなってんだ、と頭の中で繰り返し自問しながら、正樹は一昨夜のことを思い起こした。何度思い返しても、やはり部室で紛失したとしか考えられない。

さらに、あのとき大学の駐車場で目にした光景が頭に浮かぶ。どしゃぶりの雨の中、風を切るように走り抜けていった真っ黒な「BMW」。運転席には、先日入部したばかりの小野田稔が乗っていたような気がしたが。暗かったので定かではないが、あの病的なほど生白い顔は稔にちがいない。だとすれば、あんな時間に大学に何の用があったのだろうか。それも、今野が死んだあの夜に。

――そういえばあいつが来てからだ、急に変なことばかり起こるようになったのは。

考えてみれば、なんとなく稔には不審な点がある。急に訪ねてきて「文芸部に入部したい」というわりには、とくに読書や創作が趣味というわけでもないらしい。色々質問してみてもあまりはっきりとした答えは返ってこず、なんだか要領をえない。その態度に、正樹はいちいちはがゆさを感じた。

ふと正樹は思い立って、部室のロッカーに向かった。中からB5サイズのファイルを取り出し、開く。そしてその一ページ目、「部員名簿」と記されたルーズリーフの一番下の学籍番号で視点をとめた。

入部の際に正樹が稔に言ったとおり、活動にあたっては別に「学籍番号を控えておく必要性はない」のだが、大学の事務局に提出するサークル申請書類の方に記載の欄がある。今年度の申請はもちろん既に済ませてあるので、さしあたり彼のものについては不要である。しかしそのような事務手続き上、一応他のみんなの分は名前と一緒に学籍番号を名簿に載せているので、結局稔にも同様にしてもらうことにした。

「まあ、どうでもいいことなんだけどね」と特別何の意図もなく、彼に番号と名前を欄に記入するようお願いしただけだった。だが正樹のささいな要請に対して、稔は意外にも躊躇するそぶりを見せた。わずかの間だったが、なぜか眉をよせ、宙に視線を泳がせたのだ。正樹の目には、なんだか悩んでいるような様子に映った。

結局はきちんと書き込んでくれたのだが、他方、番号欄の方が名前より前にあるのに名前から先に記入していたのも奇妙に思えた。

 あのときのことが、今だしぬけに気になりだしたのである。

しばらく名簿を眺めていた正樹は、やがて「あっ」と小さく声を上げた。

この大学の学籍番号は、五十音順で学生に付けられる。小野田稔はK10*172番となっている。だが、カ行の苗字を持つ自分の学籍番号はK10*068番だ。どうして、ア行の小野田が自分よりずっと後の番号なのか。

不意に背後で扉の開く音がして、あわてて振り返った。

「あ――」

 思わず口に出かかった叫びをおさえ、正樹は入り口に立つ人物の顔を凝視した。

「川村君」

 小野田稔だった。驚愕で固まった正樹とは対照的に、平然と落ち着いた様子で声を掛けたきた。

 そして、上着にしたジャケットの内ポケットに右手を入れた。

「―――!」

 取り出されたものに、正樹は声を失った。

「この携帯、君のもののようだね」

「・・・・・・おまえ、どうしてそれを?」

 正樹はようやく、喉から搾り出すようにして言葉を発した。

「なんで、おまえが持ってるんだ・・・いつ、どこで拾った?」

「見つかったのは今朝。ただし、場所はここじゃない。非常に興味深かったので、そのまま私が持っている」

 答える稔は、まったく動じる様子を見せなかった。いつものおどおどした優柔不断なそぶりがまったくない。

 だが正樹は、その劇的に変わった雰囲気以上に、彼の口調にあったある違和感に意識を捕われていた。

 ――“私 ”だって?

 およそ学生が使うには似つかわしくない一人称のひびきが、正樹の頭に残った。そしてそのひびきに重なるようにして、「黒のBM」の重い排気音が脳内に鳴り渡る。

 ――まさかこいつ。

「悪いけど、勝手に携帯の中身を見させてもらったよ」

 能面のような冷たい無表情で、稔は一歩進み出た。

「ちなみに見つかった場所というのは、物置小屋のそばだよ。殺人現場のね」



「珍しいじゃない、こんなに早く外に出てくるなんて」

 フリーサービスのコーヒーをスプーンで掻き混ぜながら、美沙希は相手に意外そうな目を向けた。

「前に引きこもってから、まだ二ヶ月しかたってないのに――やっぱり事件のことが気になるのね」

「飯ぐらい、たまには外で食べることもあるよ。あるいは食料だって外に買い物に出なきゃ、飢え死にしてしまう。一人暮らしなんだから」

 相手――宮田は、不愉快そうな表情で答えた。

 寮からは二キロほど離れた、国道沿いの割と大きなファミレスで、小島美沙希は宮田和彦とテーブルをはさんでいた。

「外では、 “一郎くん ”って呼んでいいのよね」

「ああ」

 返事をする声色もどこかしら陰気な感じで、投げやりである。総じて、決して人に良い印象を与える人間ではない。美沙希もはじめは、どうしていつも不機嫌なのだろうと不思議だったが、そう見えるのはどうやらこちらの思い込みらしい。彼自身としては別に何か不満を抱いているというわけではなく、それが生来普通の状態であるということだった。

「今野先生のことだけど」

 美沙希はカップにちょっと口をつけてから、切り出した。

「やっぱり殺されたみたいね。今日、またあらためて警察が調べにきていたわ」

 宮田は黙って自分のカップ――彼のは紅茶だった――を見つめていた。さして興味をひかない話にはまともに反応しないことが分かっているので、美沙希は相槌を待たず勝手に話を進めた。

「まあ、そのことは一郎くんにとっては分かりきったことみたいだから、確認の必要もないのでしょうけど。――あと、遺体発見現場の物置小屋のそばで、携帯電話が見つかったんだって。うちの学生が拾ったらしい」

「へえ」

 宮田はわずかに目をあげた。

「警察は今、所有者を詳しく取り調べているみたい。もしかしたら、犯人がうっかり落としていったものかもしれないわけだし」

「違うね」

 だが宮田は即座に否定した。

「普通、現場付近で携帯電話なんか落としたりするか? いまや携帯は、カードや免許証以上に重要な「個人情報」だぞ。ある意味、財布や通帳より大事なものだ。いくらあわてていたとしても、自殺に見せかける細工までほどこした犯人が、そんな重大な局面でうっかりするなんてことは考えられない」

「でも、現実に落ちてたんだから」

「だから、わざとに決まってる」

 宮田はカップを脇にのけ、テーブルに肘をついて美沙希のほうをまっすぐに見つめた。今度は紅茶にまったく興味を失ったのだろう。

「わざと落としていったんだよ。それも “細工 ”のひとつだろう」

どうしてそんなことを、と言おうとしたが、美沙希にはすぐにその理由がわかった。

「自分の携帯じゃないのね」

「ああ。携帯電話は物的証拠として、犯人にとっては致命的なぐらいに有力なものだ。だから他方、それを逆に利用して誰かに罪をなすりつける可能性もでてくる。まあそうでなくても、えてして現場に残されたあからさまな証拠物品ってのは、作為的なものであることが多いんだけど」

 まるで自らが事件を担当する警察であるかのような口ぶりだったが、それはY県警の坂井警部補と浅からぬつきあいがある影響だろう。

「そうか、それじゃあ・・・」

 美沙希が少し思いを巡らせるように目をふせると、宮田は訊いてきた。

「で、結局誰の携帯だったんだ?」

「ええ。川村正樹君ってゆう学生の・・・実は、うちのサークルの部長さんなんだけど」

「文芸部か」

 宮田は、やっぱり、という様子で呟いた。その思いのほか淡白な反応に、美沙希のほうが驚いた。

「まさか、これもわかってたことなの?」

「まあ、なんとなく」

 宮田はテーブルの端で冷めかけた紅茶を手にとり、一口含んだ。

「どうして? 今野先生がサークルの顧問だから? それとも…」

「いや――」

 美沙希の問いには首を振って応えただけで、宮田は先を続けた。

「だけど、これで事態はかなり明確になったな。すくなくとも犯人、もしくはその関係者は、文芸部員の中にいる」

「・・・そういうことになるかもね」

「彼の携帯をこっそり盗む機会があった者として一番考えられるのは、やはりサークルの人間だろう。一緒にいる時間が長く、比較的気心もしれた仲なら油断もするだろうし」

「そうね」

「犯人の意図としては自分へ疑いがかかるのを逸らしたかったんだろうが、意に反して裏目に出たわけだな」

 そう言って宮田が哀しそうに表情をくもらせたのを、美沙希は見逃さなかった。

「あ、そういえば」

 美沙希はあることを思い出した。

「今野先生の死体が発見される前、守衛室に事件の発生を思わせるような怪しい電話があったというのは、もしかして」

「犯人がその携帯を使ってかけたものだろうな」

 宮田は当然という顔つきをしたが、美沙希の頭の中ではまだいろいろな事実や要素が錯綜していた。

「でも、いったい何のためにそんなことを・・・・・・そして、それが現場付近に落ちていたってことは・・・?」

 答えをうながすように正面に顔を向けたが、宮田は黙って見つめ返すだけだ。わざと答えないつもりらしい。

 にやつきだした宮田から目を外し、美沙希は考えを巡らせた。

『シュレーディンガーの猫』、密室状態の「確定条件」、観測による「重ね合わせ状態」からの脱却と一致、「不定」から「確定」への転換点―――。

おぼろげだが、見えてきたものがある。

死体発見前にかけられた電話と、現場付近にあった携帯電話―――。

「電話」と――、

「確定への転換」―――。

美沙希は、思わずあっと叫んだ。

突然、すべての要素が収束した。

まさか。そんな大胆な方法で?

でも・・・

「じゃあ、そろそろ俺はこれで」

 宮田は席を立った。

「もう行くの?」

 宮田は何も答えず、ちらっと美沙希に目を向けただけだった。しかし、わずかに微笑んだようにも見えた。

「一郎くん」

 美沙希はためしに言ってみた。

「せっかくこうして出てきたんだし、そろそろ大学にも出てきてみたら?」

「そうだな。まあ近いうちに」

 ゆらりと背を向けて立ち去りかけた宮田だったが、その足をふと止めた。

「――そういえば」

 と、背中越しに問い掛けてきた。

「今野が死んだ夜、君は酒を飲んでつぶれていたんだっけ?」

「・・・ええ、まあね」

 美沙希はにがりきった顔になった。

 そのことで翌日、同室の聡子にからかわれたことを思い出したのだ。

「たった一杯のロックでつぶれるなんて。まったくだらしないわ。しかもよりによって、そんな問題の夜に」

「本当だな」

 宮田の声色がわずかに震えを帯びていた。表情は見えないが、どうやら嗤ったようだ。

「君にしては、珍しいこともあるもんだ。まさに “よりによって ”だな」

じゃあね、と言って宮田は店を出ていった。

美沙希は再び、自分の思索に沈んだ。

確かにこの方法なら、あらゆる事実にぴったりと符合する。

しばらくして、美沙希はふうっと息をついた。

コーヒーに手を伸ばそうとして、したたかに舌打ちする。

 ――あいつ、また払わないでいきやがった。

 テーブルの上には、半分以上残されてとうに冷めきった紅茶のカップと、裏返しにされた伝票が置き去りにされていた。



「――もしもし。ああ、賢太」

 電話の向こうから聞こえてくるいつもの声に、谷本聡子はそこはかとない安堵感をおぼえた。

「今、大丈夫? 寮にいるのか?」

 なんだか気が急いているような、三上賢太の口ぶりだった。

「どうしたの。大丈夫だよ、今部屋には誰も・・・美沙希は外出してるし」

「そうか。じゃあ、ちょっと話があるんだけど」

 自分たちの本当の関係については、美沙希といえど知られたくなかった。別に、大学やサークルでの関係以上の付き合いであることがばれた程度なら、いくらでもごまかしはできる。だが、 “隠すこと ”は、三年前のあの時以来、二人にとって暗黙の習慣になっていた。

「電話でいいの?」

「うん」という返事のあと、彼が深呼吸する様子が耳に伝わってきた。どうやら気持ちを落ち着けているらしい。

「あの携帯のことだ」

「川村君の携帯ね。どうなったの?」

「正樹のところに戻ってきたそうだ」

「そう。じゃあ・・・」

「ああ。これで彼は重要参考人だ」







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▼ 第三章のKEY POINTS


◎ 第三章の重要事項


・過去と現在の事件は密接に関連している。そして、おおかたの主要人物が、なんらかのかたちで過去と現在両方の事件に関係している。「登場人物紹介」にある名前の中で、過去にまったく関係していない人物は “二人 ”。つまり、その人物と刑事、そしてすでに死亡した被害者、またそれ以外に物理的に考えて明らかに犯行が不可能である者(一人)、を除いた中に犯人はいるということである。



◎ 本章に関する謎の確認


第一節

・西川昭の行動の意味と、「西川事件」の真相

・「現金書留」をめぐる謎

・被害者である木村と今野、受刑者である西川の過去のつながり

・「生存者」井上佐織の立場


第二節

・井上佐織の傷

・小野田稔の正体と、彼の行動のねらい

・宮田和彦の呼び名と、彼の立場

・携帯電話の役目と密室

・事件の起こった夜、小島美沙希が酒でつぶれたわけ

・谷本聡子と三上賢太の関係と、事件への関与


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