第二章 『密室概論』

1 嵐のあと


(AM7:00~)

 コンクリートのやや湿った地面を歩きながら、佐々木良江は上空を見上げた。空は、昨夜から今日未明頃にかけて激しい暴風を巻き起こしていた嵐が嘘のように、青々と晴れ渡っている。

 良江はちょっと立ち止まって、天に向かって大きく伸びをした。清掃請負業者として東北広益文化大学に派遣されている良江は、緑と自然に囲まれたこの大学の朝が大好きだった。とくに今日ような雨上がりの朝は、前日までの埃や汚れを一掃したような新鮮な魅力に溢れている。

 頬をなでる爽涼な朝風に目を細めながら、良江は周囲の自然のたたずまいに、しばし陶然となった。初夏の初々しい木葉は、まだ表面を水にぬらしたまま、日光を乱反射してきらめいている。はるか遠くにそびえるY県一の高峰、月野山は、レンズを通したようにくっきりと明瞭な稜線を空に描き、その雄々しい姿をいっそう誇張してみせていた。

 ひとつ深呼吸して、清々しい水と草の匂いを吸い込んでから、再び良江は歩き出した。

 向かっているのは、大学本部棟から裏門の方へ少し歩いたところにある物置小屋だ。今日はゴミ出しの日なので、収集日までに物置小屋にためられるゴミ袋を、外の所定の場所に移動しておかなければならない。トタンで組み立てられたちゃちな物置小屋の屋根が、昨夜の嵐で吹き飛んでいなければいいがと、まずありえない想像で心を浮き立たせつつ、良江はテンポよく歩いていく。

 物置小屋の周りは比較的木が多いので、暴風であおられて舞い散った木葉があたりの地面に散乱していた。他には別段変わった様子もなく、もちろんトタン製の建物も無事だった。

 だから、彼女が最初の異変に気づいたのは、物置小屋の入り口の扉を開けようと、握り玉式の取っ手に手をかけたときだった。

 いつものように、ノブを右に回して手前に引こうとするのだが、扉はびくともしない。それどころか、取っ手自体が何か硬いものにひっかかったかのように回転しないのだ。何度か左右にひねったり、扉を押したり引いたりしてみたが、無駄だった。

 良江は少し困惑した。物置小屋の入り口はいつも鍵をかけていないので、開かないはずはないのだが。もしかして、昨夜の暴風の影響で建物が軋み、どこかに歪みが生じたために扉が開かなくなったのか。いや、それなら取っ手も回らないのはおかしい。やはり、施錠されているのだろうか。

 良江は建物の前にたたずみ、少しの間思案していたが、やがて踵を返した。昨日の嵐にそなえて、守衛が念のために施錠しておいたのかもしれないと思ったからだ。どのみち大学施設の鍵類は守衛が保管しているのだし、彼に何とかしてもらうしかない。

守衛室は、物置小屋から十数メートル離れた大学本部棟の裏手に隣接していた。良江はやや早足で、本部棟の正面を迂回して守衛室に向かった。


(AM7:40~)

 いつもながら、夜勤明けの朝は妙な感じだった。一日のはじまりではなく終わりとしての朝というのは、何十年とこの種の仕事に就いてきた塚本和男にしてみても、なんとなく不自然なものだった。心身に軽い時差ボケのような違和感がある。いかに昼夜の別がない日常に身を置こうとも、やはり人間は他の動物と同じく、本能的には万物の母たる太陽の動きに合わせて生活するよう設定されている生き物なのだろう。

 体内に蓄積した疲労の残滓が漏れ出たようなあくびをして、塚本は重い頭を振った。そろそろ交代の時間だな、と壁の時計に目を移したときだった。無機質で単調そのものの音が鳴り響き、彼の耳と朝の静寂を貫いた。

 塚本は思わず小さく舌打ちした。そして、卓上でランプを明滅させながらせわしく呼び出しのベルを発するものに手を伸ばす。

――朝っぱらから、何の用件だ。

 面倒くさそうに電話の受話器を手にした塚本だったが、そこから聞こえてきた第一声に、彼の意識の鈍さは一瞬で吹き飛ばされた。相手は警察を名乗ったのだ。

「――今朝飯田山付近で、また遺体が発見されました。被害者はそちらの大学関係者のようです。これから事情をうかがいにまいりますが、その前にもう一度電話で連絡しますので、しばらくそのまま待機していてください」

驚きと当惑で言葉を忘れた塚本が聞き返す間もなく、その電話は一方的に切れた。

呆然と受話器を握ったままでいると、今度は守衛室の小窓から自分を呼ぶ声がした。

「塚本さん、清掃の佐々木です。物置小屋の鍵が閉まっているようなので、開けていただきたいのですけど・・・」

 女の声でようやく我に返った塚本は、受話器を戻して入り口脇の受付窓口を振り返った。そこには、少し困った表情をした佐々木良江が顔を覗かせていた。



「――それで、佐々木さんに物置小屋の鍵を渡して、塚本さんはこの守衛室で待機していたというわけですね?」

 松尾と名乗った刑事の質問に対し、塚本は神妙に頷いた。

「ええ。まさか、その物置小屋が当の事件現場だとは夢にも思わなかったので・・・」

塚本は額に滲む冷や汗をハンカチで拭いながら、必死で弁明した。

今にして思えば、あれはおかしな電話だ。警察を名乗ったので最初は疑いを抱かなかった。そして、驚きで応対しきれずにいたこちらの返答を待たずに一方的に電話が切られたあと、すぐに良江が呼びに来たので、不審に思う余地を持てなかった。

だがその電話があったのは、塚本が良江に鍵を渡し、良江が鍵を使って物置小屋の入口を開ける前のことだ。小屋の中の遺体を最初に発見したのが掃除婦の佐々木良江だとすると、その直前に守衛室に「遺体が発見されました」と知らせてきたのは誰なのか。少なくとも警察ではないということは、すぐに確認がとれた。

なんだかよくわからない。塚本は頭を抱えたくなった。

――まったく、勤務明け間際にとんでもないことになったもんだ。

 いささか不謹慎な心持ちだが、小心者の塚本にしてみれば何よりもまず自己保身だった。事件やトラブルなどお呼びでないし、死者には悪いけれども、同情の気持ちが沸く余裕などない。不本意ながら事件関係者にされてしまった彼にとっての懸念は、ただ今後の身の上の行く末のみだった。

 塚本は、目の前の物腰丁寧な中年刑事にすら萎縮していた。質問が一区切りつき、刑事が今塚本から聴取した内容を手帳を見て確認している合間に、塚本はそっと溜息をついた。これから自分は、参考人として警察につきまとわれる身となるのだろうか。

 塚本は刑事の質問に対する自分の答えが正しいものだったかどうか、疑いの目を向けられるようなものではなかったかどうかを、頭の中で何度も内容を反芻させて確認するとともに、ことの発端を冷静に思い起こそうとした。

第一発見者の佐々木良江も、別室で事情聴取を受けていることだろう。事件が発覚したのは今からだいたい二時間前で、そのとき彼女はかなり取り乱して守衛室に駆け込んできたが、もう落ち着いただろうか。



 守衛の塚本和男が事情があって守衛室から離れられないというので、佐々木良江は彼から鍵を借り受け、再び物置小屋へ向かった。

 扉の鍵穴に鍵を挿して右にひねると、はたして開錠する感触があった。やはり鍵がかかっていたのだ。守衛は施錠した覚えはないと言っていたが。

良江は取っ手を手前に引いて、小屋の中に足を踏み入れた。物置小屋には窓がないので、昼でも薄暗くて中の様子がよくわからない。良江は入り口脇の壁にある電灯スイッチを、手探りで探し当てた。

スイッチを押して蛍光灯がついたとき、良江の目の前に人がいた。

 とっさのことに息をのんで言葉も出なかったが、その人物が良江のよく知っている人間だったので、彼女はすぐに緊張をゆるめ、挨拶しようとした。

 その途端、彼女の大脳は、ようやく異常事態を受け入れた。

 本来彼女は、まず以下の異常を最初に認識するはずだった。

 こんな朝早い時刻に、しかも施錠された物置小屋に人がいるという不自然さ。普段は自分のような清掃業者ぐらいしか寄り付かない場所に、およそ似つかわしくない人物が背広姿でたたずんでいるという不自然さ。そして、小屋の端の方にいくつか積まれたゴミ袋と、奥に並べられた清掃や除草などの作業に使われる小用具に囲まれるようにして、その人物が地面から数センチほど宙に浮いているという不自然さ。

 良江の両眼はこれらの状況を網膜に映し出したはずであるが、複数の不自然さが重なった極端な異常事態であったために、脳が適切に対応できず、認識処理が一瞬止まってしまったのだった。

 ああ、おはようございます今野先生、というこの場に最もふさわしくない言葉が思わず口をついて出そうになった刹那、彼女の頭には「現実の非現実的な情報」が怒濤のごとく流入した。過熱する脳内とは反対に、身体では全身の血の気がひき、汗が瞬時に冷えきった。

二度と目覚めることのない今野の前で、良江はただ床にへたり込んだ。悲鳴も出なかった。



「・・・そのあとは、無我夢中でよく覚えていなんですけど、とにかく必死でした。幸い、守衛室がすぐ近くでしたので、急いで守衛室に行って守衛の塚本を呼び、彼を連れて物置小屋に駆け戻りました」

 良江は頬をやや紅潮させて、刑事に説明した。発見の経過を話しているうちに、一度落ち着きかけた気持ちが再び興奮してきたようだ。

 良江の知らせを聞いた塚本は、彼女の取り乱し様に異変を察しながらも、はじめは彼女の話の内容をよく把握しきれていない様子だった。しかし良江にしてみれば、あんな状況を目の当たりにして平静な精神状態を保っていられるわけがない。要領よく説明しているゆとりなどなく、とにかく塚本を小屋へ引っ張った。

 そこで今野泰の無残な有り様を目にした塚本はさすがに仰天したが、長年施設警備員として働いてきた習慣からか、それとも自分の手に余る状況を早く他の誰かに託したかったからか、すぐに胸元から携帯電話を取り出して、大学事務局と警察へ緊急連絡を入れた。事務局では、まだ事務員の出勤にはやや早い時間だったが、たまたま早出で来ていた一人が知らせを受け、一分もしないうちに現場に駆けつけた。

一方、通報を受けた警察が到着したのはそれからおよそ十五分後で、その間良江たちは、苦悶にゆがむ今野の形相に見下ろされながら、凄惨な事件現場に身を置いていなければならなかったのである。



2 自殺論議


自分の在籍する大学の教授であり、かつ自分の所属するサークルの顧問でもある今野泰が、大学構内の物置小屋の天井から吊り下げられて息絶えていたことは、聡子の耳にもすぐに入ってきた。この日、前夜美沙希と飲んだバーボンが思いのほか効きすぎたのか、やや二日酔い気味で起き出したときにはもう正午。美沙希はすでに大学に行っているようで、部屋にはいなかった。

なんとはなしテレビをつけると、これから行こうと思っていた大学のキャンパスが画面に映し出されていた。昼の地方のニュース番組で報道時間もごく短かったのだが、興奮気味のテレビリポーターの説明から、今朝今野が遺体で発見されたことを聞き取った。

聡子は、ただぼーっとしてそのショッキングな報道を聞いていた。なんだか心身が鈍重になったようで、いちいち反応するのがおっくうな感じだ。こんな様子をルームメイトの美沙希が見たら、「刺激的な事件も、あまりに身近で二度も起きると感覚が麻痺してしまうんじゃないの? それともまさか二日酔い?」とからかうにちがいない。

だが、聡子にしてみればあながち冗談ともいえない心身状態だった。

刺激に対する感性が麻痺しつつあるのは三年前からだし、めずらしく深酒してしまったのにも理由がある。対して、美沙希が平常通り起床できたのは、聡子より酒が強いからではなく昨夜早々につぶれてしまったからだ。彼女は、ひきこもりの彼氏とやらに電子メールを送ったあと十分とたたないうちに、グラスにバーボンを残したまま卓上に突っ伏して眠ってしまった。

聡子はテレビのニュースが終わると、再びベッドに身を投げ出した。午後一番の講義が始まるまであと十五分。間に合う時間だが、まだ気分が目覚めていなかった。

結局聡子は、昼をだいぶ過ぎてから大学に行った。裏門から大学へ入ってしばらく歩くと、前方に物置小屋が見えた。今野の遺体発見現場である物置小屋の周りはテープやビニールシートで覆われていたが、すでに初動捜査は終わったのか、二名の警察官が入り口付近に佇立しているだけで人だかりもほとんどなかった。

テープに近づいて中を覗こうとしたとき、次の授業開始の予鈴が鳴った。聡子はひとまずやじうまになるのを断念し、教室へ向かった。

講義が終わったらまず美沙希に訊いてみよう、と考えていた。なぜなのかは分からないが、飯田山事件には人並み以上の関心を示していた彼女だ。今回のことだって黙っていない筈だ。


授業を終えると、聡子は学食で美沙希と待ち合わせて、ことのあらましを尋ねた。案の定、美沙希は事件のことをかなり詳しく把握していた。

「――それじゃあ、自殺ということなの?」

「状況からいったら、そうみたいね」

そう答えると、美沙希は額に掌をあてて頭を小刻みに振った。

「今日はなんだか体がだるい」

「あなたも二日酔い? 速攻でつぶれちゃったくせに」

「そんなんじゃなくて・・・風邪かなあ、たぶん」

 彼女にしては珍しく歯切れの悪い様子だった。

「まあいいや・・・で、今朝のことだけど、つまり掃除のおばちゃんが入り口の戸を開けるまで、小屋は鍵がかかってた状態なわけ。小屋は他に窓や出入り口はなく、開けたときには先生の死体以外、誰もいなかった」

「つまり、 “密室 ”状態ってことか」

「そうね」

事件に関しては、美沙希はいつものように淡々と答える。

「けどすごい詳しいね、美沙希。今朝起きたばかりのことなのに」

「昨日、ちょっとしたコネがあるって言ったでしょ。そのコネの相手がここに来ているのよ、捜査でね」

「それって、刑事のこと?」

「まあね」

美沙希はなんでもないことのように答えた。

「といっても、厳密には私のコネではなく、宮田君を介したものだけどね。彼は、ここの警察とは三年前からそういう関係だって言ってる」

――三年前?

聡子は一瞬どきっとした。

いや、ただの偶然だろう。

「ふーん、やっぱり警察の人とつながってたんだ。どうりで色々知ってるわけだよね・・・それで、今回も飯田山のときみたくいろいろ聞き出したの?」

「うん。だけど、こっちはこっちで向こうに協力もしてるのよ」

美沙希は意味ありげに微笑したが、すぐに眉をよせてつぶやいた。

「けど、出来過ぎてる」

「え?」

聡子が聞き返すと、美沙希は少し声をひそめて言った。

「密室よ。あまりに状況が整いすぎのような感じがするの。まるで、自殺の状況を誰かが丁寧につくってやったかのような、ね」

「自殺に見せかけるための偽造だっていいたいの? 何か根拠はあるの?」

「いいえ、確かな根拠はない。ほとんど勘ね・・・けどね、聡子」

美沙希はちょっと言いよどんでから、聡子の目をじっと覗き込むようにして言った。

「私は自分の勘や直感には割と信頼をおいてるの。一見根拠はないように見えても、実はそれが隠れているだけで、実際は対象となる事物との何らかの関係性を感覚のどこかで捉えているからこそ、勘がはたらくのだと思うのよ。なんだかくさいな、というような漠然としたものだけどね。たとえば・・・そうね、麻雀にたとえて言うなら、スジ目のひっかけリーチってとこかな。わざとらしい捨て牌で、いかにも有り得ないと思われるところをロン待ちにするみたいな。そういうときって、相手の目に見える捨て牌に手が加えられてるものだから、その並び方が綺麗すぎたり特徴があったりで、ちょっと違和感があるものなのよ」

「いきなり麻雀の例を出されても、私には分からないよ」

「つまりね、今回の自殺は、自殺の状況を主張し過ぎている印象を受けるの。その完璧さがかえって不自然というか、なんとなくひっかかりを感じるのよね。そしてそうなると、逆に自殺じゃない可能性が際立ってくる」

「なんか素直じゃないというか・・・ひねくれた見方のような気もするけど」

物事を素直な目で見ない性分であるのは、美沙希自身も認めるところである。それを指摘すると、いつもなら頭をかいて純朴な聡子の意見に従うところだが、このときの彼女は一歩も譲らなかった。

「じゃあ試しに、ひとつひとつの状況を詳しく分析してみましょう。まずは、場所ね。聡子、あなたあそこで自殺することについて、どう思う?」

「うーん・・・」

聡子は思案してから、答えた。

「清掃の人以外はほとんど誰も寄りつかないところだし、しかも夜となれば、まず人目に触れることはない。自殺するにはうってつけじゃない?」

「状況から妥当に考えればね。だけどね、そういう適性を優先して判断の根拠にしてしまう傾向が、一方で偏った視点を生み出し、本当の事実を見えなくしている場合もある」

「どういうこと?」

「最初からそれが適切だと思って決めつけてしまうことが、視野を狭くしがちだということ。そういうのは一種の希望的観測よ。適性がまっとうに通用するのは平常の状態においてのみ。自殺や殺人といった異常事態を前にしたときに一番考えなくてはならないのは、適性よりもそうする必要性の方なの」

「必要性って、そうしなければならなかった理由、ってこと?」

「そう。 “死 ”という極限の状況が生み出されるには、それ相応の強い動機と絶対の必要性がなければならない。今野先生が亡くなったのは、深夜から今朝未明といわれている。そんな時間帯に、しかも嵐で暴風雨の中、自殺のためとはいえわざわざ校舎から外に出て物置小屋に行かなければならないほど人目を気にする必要が本当にあったのかどうか。ずっと大学にいたのなら、自分の研究室で鍵を閉めて同様の行為に及んだって不利なことはないでしょう。大学内では一番安全なプライベートルームよ。物置小屋まで足を運ぶ必然性がないじゃない」

「万全を期したということじゃないの? 深夜とはいえ、万が一来訪があって、失敗したり邪魔が入ったりしないように」

「まあたしかに、自殺、とくに首吊りの場合、完全に息が止まるまでにある程度の時間が必要だというから、自殺を前にして精神的に神経質になっていれば念には念を入れることも考えられる。だけど、そうした確実性や完全性をねらうなら、あの場所は逆に近すぎて中途半端よ。なにも学内なんかじゃなくて、もっと遠くの山奥にでも行くか・・・っていうより、自宅でいいじゃない。今野先生って一人暮らしでしょ、たしか」

「うん」

今野は五十歳を過ぎているはずだが独身で、一戸建て住宅に一人暮らしだったはずだ。本人からそう聞いたことがある。

「それなら、とくにあの場所じゃなければならないという理由もないわよね。そして二点目は、あの密室」

「それは別に不思議じゃないんじゃない? やっぱり鍵をかけないと落ち着かないでしょう」

「研究室や自分の部屋ならそうかもしれない。普段も鍵を閉めるときがあるでしょうから、自殺という特殊な場合においてもそれ自体は不自然な行為にはならない。でも、あの物置小屋って普段鍵を掛けたことなんてないそうよ。それを中から施錠してしまったら、万が一誰かが来た場合不審がられるでしょう。それで結局開けられることになるのならば、最初から鍵を閉めておく必要もないわけよ」

「そういった効率とか必要性うんぬんじゃなくて、気持ちの面からいえば、鍵を掛けておいたほうが安心できるんじゃないの」

「じゃあ、そういう心理的な作用が働いた結果鍵を閉めてしまったとして――疑問の三点目。これが自殺否定説のもっとも重要な根拠よ。今野先生に、自殺する動機があると思う?」

聡子の矢継ぎ早の反論に対して、美沙希はいちいち拘泥せずに器用に切り返してくる。

「うーん、私には思い当たらないけど・・・私たちなんかには知りえない内面的な事情が先生自身の中にはあったのかもしれない。わからないよ、こればっかりは」

「まあね。動機そのものについては、部外者である私たちがいくら議論したところで無意味かもね。憶測の域を出ることはないから。ただ、周囲の人から見て自殺の兆しがまったくうかがわれなかったとするなら、それもひとつの判断材料にはなるのよ。自殺は、行為自体は自分でするものだけど、その原因は自分ひとりにあるものじゃないでしょ。普通は、自分以外の何かによる何らかの影響が、自殺の原因になっているはず。それならば自殺だって、結局は他者や周囲との関係性から生じる「殺人」といってしまうこともできる。今回のケースのように、当人の周囲から何の関係性も見出せないというのは、少しおかしい」

「そうかなあ・・・あくまで本人の心中の問題だと思うけどなあ」

「聡子、あなたこれまでに死にたいって考えたことある?」

「わ、わたし?」

美沙希の自分への唐突な問いかけに、聡子は一瞬意表をつかれてうろたえた。

「とくには・・・ないけど」

嘘だった。実は過去に何度かはある。もちろん、考えただけで実際に試みたことはないのだが。

「私は、あるわ」

意外にも美沙希はそう言った。

「まあ私の場合、一時的な衝動だったし、すぐに気持ちがおさまったから実行に移してはいなんだけど。誰でも一度は、死にたい、って思ったことぐらいあるんじゃないかなあ・・・で、私はそのときを振り返って思うの。 “自殺には大きく二つの意義がある ”」

「意義?」

そんなものがあるのだろうか。死んだらすべてが終わりではないか。それを自らの手で行うのだから、有意義などころか、無意味の極みであるのが自殺という行為の虚しさと愚かしさではないのか――。聡子には美沙希の言わんとするところに考えが及ばない。

「そう、意義。自殺には明確な意義と目的があるの」

美沙希は続けた。

「それは、究極の “自己主張 ”と完全なる “逃避 ”。まず前者は、自分の生命を賭けた最終的な行為によって、周囲の人間や特定の誰か、あるいは広く社会に対して何かを主張するというもの。この場合、ある対象に決定的な影響を与えることを目的としている。そして、その主張には必ずメッセージがなければならない。ということは、具体的に何が必要かしら」

美沙希は真剣な眼差しで、聡子の顔を見つめた。彼女のいつにない熱心な様子に、聡子はちょっとひるんだ。

「・・・あ、遺書、かな」

「ええ。遺書、もしくはそれに代わるものやかたちが必要でしょう。それがなければ、何故何のために自殺したのか、肝心の理由と目的がはっきりしないもの。今回の場合、まだそういったものは見つかっていないようね」

美沙希は長い前髪を手で掻きあげながら、説明した。髪に手をやるのは、彼女が思考を巡らしているときの癖だった。

「じゃあ、 “逃避 ”の場合は?」

「前者の自殺が、他者に対する明確な方向性を持った最もポジティブな行為だとすれば、後者はその正反対で、他者から逃れるという最もネガティブな行為ね。周囲との決別。「現実逃避」といったほうがわかりやすいかな。自殺のほとんどはこれでしょう。いずれにせよ、決して周囲との関係性を無視することはできない」

周囲との決別、他者からの逃避――たしかにそうだ。聡子は胸を衝かれる思いで、美沙希の話を聞いていた。

「けどはたして、今野先生にそんな差し迫った事情があったのかどうか。自殺を考えるほど思いつめている人には、どこかにしるしが出る。普段の態度だったり、仕種だったり、とにかくそういったところに何がしかの異変が表れるものだと思うの。わずかな兆しも表に生じさせずにいることなんて、普通は考えられない。そんな精神状態にはないはずだもの。そういうことをふまえて、最近、今野先生におかしな様子はあった?」

「・・・ないと思う。昨日だって、いつも通り麻雀で盛り上がってたみたいだし」

「でしょ。つまり、今野先生が自殺する動機、目的、事情、経緯、背景、必要性が、今のところどこにも見当たらないわけ。こうなると、死んだ状況だけが浮いているかたちだわ。演劇にたとえれば、脚本もないのに、舞台だけがセットされているといった感じね。要するに、この自殺には中身がないということ。いくら見た目がそれっぽく整っていても、肝心の中身が見えないんじゃ真実は確定しない。思考を伴わない視覚に頼るものの見方は危ない。見た目の状況だけで判断できるほど、人の死の事実は単純なものじゃないし、軽いものでもない」

美沙希は再び、聡子の瞳を覗き込んだ。彼女の瞳は、吸い込まれそうな深い黒だった。

聡子はかすかに眩暈がした。

――見た目の状況だけで判断できるほど、単純なものじゃない。

ひょっとして美沙希は、あの事件のことも言っているのだろうか。三年前のことはずっと封印しておきたいのだが、今野の死がそれを呼び覚まし、今度こそ一生消えない傷痕を刻みつけてしまうかもしれない。



3 差別論議


塚本の通報を受けた警察が現場に到着したときまで、時間を溯る。

良江と塚本の証言どおり、物置小屋の中央付近の天井から、今野泰だったものが吊り下げられていた。こと切れていることは一目瞭然だった。

坂井陶也は腕組みしながら、じっとそれを見上げていた。

白目を剥き、口の端からだらしなく舌を垂らしたその顔は、苦痛のためだろうか、表情全体がいびつに捩れ曲がっている。人間の完全な抜け殻が、凄まじい形相で坂井を見下ろしていた。

背後に近寄る者の気配を察して、坂井は言った。

「これは殺人だ」

「・・・しかし、主任」

短く断言する坂井に対し、部下の松尾は控えめに異を唱えた。

「状況からいって、やはり首吊り自殺と考えるのが妥当ではないでしょうか」

「中から施錠されていた状態を言っているのかい? 物理的に他者の関与は不可能だと? ふん」

坂井は鼻を鳴らし、振り返って松尾を睨んだ。

「だから尚更殺人だというんだよ。こんな人の寄りつかないところで、ましてや深夜に鍵を掛ける必要は高くない。実質的にたいした意味をなさないのに、密室という状況ばかりが際立っている。一見無意味に見える事実が目立っている場合、それは無意味であることを強調させるためのカムフラージュだ。つまり、ある意味のある事実を隠すためのもの。殺人をごまかし、自殺に見せかけるだけの小細工に決まっている。それに、見てみなよ」

坂井は再び遺体に向き直り、あごをしゃくった。

「この表情、あまりにも苦しそうだとは思わないか? さらに、喉元に引っ掻き傷のような痕がたくさんついている。他人に首を絞められる絞殺と違い、頚動脈を絞められて脳への血液流入が遮断される首吊りの場合、窒息する前に意識を失ってしまう。だから実際はそれほど苦しくはないといわれる。だがこの遺体の様子を見る限り、死ぬことに相当抵抗したような感じを受けるけどな」

「・・・・・・なるほど、たしかに」

いくらかの逡巡を見せた後、松尾は唇を引き締めて頷いた。

「まるで、首に絞められた縄を必死に外そうともがいたようにも見えますな」

そのとき、監察医が中に入ってきて坂井の横に並んだ。

「簡易検死をします」

そして、今野の遺体は宙吊り状態から下ろされ、床に横たえられた。坂井と松尾は、ひとまず小屋の外に出た。

数分後、監察医が出てきて坂井に報告した。

「死斑は軽微。死後硬直は始まっていますが、まだ完全ではありません。首の裂傷及び擦過傷の血の凝固状態等を考え合わせますと、だいたい死後四時間から五時間といったところでしょうか」

「すると、 今は午前九時過ぎだから、死亡したのは今朝の四時から五時頃か。死因は?」

「絞殺の様相をしてはいますが、他殺かどうかはまだはっきりと断言できません。顔の鬱血状態や表情の苦しさは、首吊りを遂行する際の不手際によるものとも考えられますので。解剖の結果次第です」

監察医の声にかぶさるように、辺りからどよめきが聞こえた。小屋の周囲の人だかりが大きくなっていた。大学の一時限目の講義を受けに来た学生がここで足を止めているのだ。坂井は、その中に知った顔を見た。

「松さん」

事情聴取のために守衛室へ行こうとしていた松尾を、坂井は呼び止めた。

「俺はいったん署に戻る。あとはあんたが現場を指揮しておいてくれ」

松尾の返事を待たずに、坂井はあわただしく立ち去っていった。




(PM8:00~)

「今朝死体で発見された今野泰と、先日の飯田山殺人事件の被害者である木村栄治は、高校の同級です。そしてさらに、西川昭も」

 松尾の報告に、坂井は署内の自分のデスクから顔を上げた。

「三人の関係は?」

「高校のときは互いに交友関係があり、よくつるんでいたという情報が確認されました。西川は高校を中退していますが、そのあとも付き合いが続いた可能性は考えられるでしょう」

「飯田山の事件のあとほとんど日をおかずに、同じ地区で今回の件が起きた。さらに、三年前の西川事件と飯田山の事件との関連性が見えはじめてきている―――これで今野も西川事件と関わりがあれば、三つの事件がひとつに集約されることになるな」

坂井の予言めいた言葉に、松尾は神妙に頷いた。

「さらに西川事件に関連する件ですが、東北広益文化大学には、西川の長男と井上佐織以外にもあの事件の関係者がいました。それは、西川の実の娘で、離婚した西川の元妻が引き取った長女と、その妻が再婚した相手の息子で、長女とは義理の姉弟関係にある者の二人です。彼ら四人は、いずれも東北広益文化大学の一回生で、年齢は、西川の長男と井上佐織が二十歳、長女が一つ下の十九歳で、義弟は早生まれの十八歳です。西川の元妻は二年前に心労がかさんで亡くなっていますので、今現在この大学には、西川に連なる者のほとんどすべてが集まっていることになります」

「ああ、それはもう知っている。他の筋から聞いてるんでな。だが五十嵐学長は、そういった事情を知っていて彼らを大学に受け入れたのだろうか」

「弁護士現役時代は人道を重んじることで知られた人物ですからね。いわばその方面の専門家でもあるわけですから、当然すべて承知したうえでのことでしょう――しかし、主任」

松尾はめずらしく強い視線を坂井に向けた。

「関係者といっても、それは事件の当事者の身内というだけで、事件そのものには何の関わりもないのですよ。それなのに大学入学を拒否されたり、世間からは白い目を向けられて社会で疎外されたり、今回のような事件が起きれば真っ先に疑われたりして、人としての当然の権利や平穏が著しく脅かされている。私はこれまでそれなりに長くこの職務に携わってきましたが、事件から波及した理不尽な、救われない被害があるという状況は多々ある。加害者側の人間が受ける被害というのもそうです」

「そうだろうか」

 坂井は秀麗な顔をわずかに引き締めた。

「確かに、加害者の家族や関係者への風当たりは厳しいものだ。自分が犯したわけでもない罪で、社会的には加害者と同様の裁きを受けてしまう。彼らにしてみれば、不当に押しつけられた苦しみかもしれない。でも、それぐらいは仕方がない」

「それぐらい?」

反論しようとした松尾を手で制して、坂井は言った。

「被害者遺族の感情はどうなる? 家族を殺された人たちの無念や怒りが、まず優先されるべきではないか? 司法的にどんな刑が実施されようと、事件の被害者たちの心が完全に救われることはないんだ。もし俺が家族を殺された者なら、死刑よりも、同じように犯人の家族を殺してやりたいと思うだろうな」

「それは…」と松尾は言葉をつまらせた。

「考えてみれば、被害者遺族が本当に望んでいることは、殺された被害者が元に戻ってくることであって、犯人に死んでもらうことなどではない。そんなことをしても何も得るものはない。ただ、そうもしなければ被害者への弔いにもならないというだけだ。そうやって、彼らは決して回復することのない現実を一方的に受け入れなければならない。それこそ最も不当で理不尽な苦しみだろう。加害者側への非難や差別は、その苦しみをほんのわずか和らげるにすぎない」

押し黙ってしまった松尾に対し、坂井は少し表情を緩めた。

「犯した当人が償いきれないほど大きな罪であれば、その家族や親類など関係者も贖罪の義務を負う。監獄ではなく、社会という表舞台でね。たとえは悪いが、 “借金みたいなものだ ”」

 坂井は苦笑いして、

「・・・と、言ってたんだよ。あんたのいうところの “救われない被害者 ”がね」

「?」

「西川さ。息子のほうのな」

「まさか・・・」

松尾は絶句した。

「三年前の事件で事情聴取した際に、その後自分が置かれる立場をそう評していたんだよ。松さんがこっちへ異動してくる以前のことだから、あんたはあの事件のときのことをあまり詳しく知らないかもしれないが、当時捜査にあたった誰もが、西川昭の供述以上に彼の言葉に衝撃を受けた。自らが犯罪者と同じ側にいる人間であることを冷静に自覚し、社会の非難を甘んじて受け入れることを認めたんだ。そして、そういう世の中の有りようを積極的に肯定した」

「・・・信じられません」

松尾はうめくように言った。

「まだ少年ではないですか」

「ああ、そうだ。いかに道理を心得た大人でも、そこまで世の中に対し諦観した考え方は持てない。自分以外の者の犯した罪のために、自分の身を縛るんだ。しかも彼は、それを犠牲と言わず、自身の義務だと言った」

そう言いながら、坂井も彼の姿勢に対する疑問を未だに消せてはいない。父と共に自分も社会の裁きを受け、世間の非難にその身をさらす。親が子に代わって、というのならわかるが、子どものほうが、しかもまだ未成年であるのに親の罪を背負う――そんな過酷な運命を、「義務」として甘受することがはたしてできるのか。

表情を曇らせた松尾を一瞥し、坂井は思案を続ける。やはり、彼自身も西川事件に関わっているのかもしれない。父と同様の立場にあることに何の抵抗も示さないのは、自分も事件の当事者だからではないのか。



4 シュレーディンガーの猫


……トゥルルルル…トゥルルルル…

耳にあてた携帯電話の中で、呼び出しの電子音が鳴る。

…トゥルルルル…

二十回はゆうに繰り返したと思われたとき、美沙希は電話を切ろうとした。だが耳から携帯を外したところで、中の機会音が唐突に鳴り止んだ。美沙希はあわてて携帯を取り直した。

「もしもし」

「・・・何?」

聞こえてくるのは、くぐもった陰鬱な声。それも通話音量を最大にしても聞き取りづらいかすかなものだ。

「珍しいね、電話に出るなんて」

「出ないつもりだったけど、急に気が変わった」

宮田は極度の気まぐれ屋だ。普段は自分の世界に閉じこもってなかなか出てこないが、いったん興味をひかれると外へ飛び出して今度はなかなか戻ってこなくなる。

「メールだとうまく伝えきれないから、電話にしたの」

メールで済ませられるような用事はすべてメールにする、電話はメールによる用件の伝達が困難な場合のみ、とひきこもりの彼からは念を押されていた。しかし、以前に一度用もないのにかけて以来、彼は滅多に電話には出なくなった。近頃ではメールでさえ返事をよこさないことが多い。

「坂井さんから色々話を聞いてきたわ。現場の様子も見せてもらった」

美沙希は今野の件について、自分が知り得たことを宮田に詳しく伝えた。

一通り聞いた後、彼はいくつか質問してきた。

「発見者は、守衛ではなく、清掃業者の人一人だね?」

「ええ」

「守衛室に事件の発生を示唆する不審な電話があったのは、たしかに今野の死体が発見される直前なんだね?」

「そのはずよ」

「小屋の中の状況にいつもと違う点はあった?」

「ごみ収集の日だったから、燃えるごみの袋がいくつか端の方に積んであったぐらいで、あとはとくに・・・ああ、ごみ袋の山が少し崩れていて、袋のひとつが今野先生の足元付近にあったそうよ。首を吊る際に踏み台代わりにしたんじゃないか、あるいは首吊りに見せかけるためにわざとひとつ転がしておいたんじゃないか、って坂井さんは言ってたけど」

「・・・・・・わかったよ」

二呼吸ほどおいて、宮田の呟きが聞こえた。

「え?」

「事件の概要がだいたい把握できた。犯人はまだわからないけど、少なくとも密室のしくみだけはわかったよ」

「ほんとに?・・・ということは、自殺じゃなくて、殺人なのね」

「当たり前じゃないか。あいつは自殺なんかするほど、良心的な人間じゃない」

今野の人となりはよく知っている、という口振りで宮田は言い捨てた。

「美沙希の話を聞いて益々確信が持てたよ。これは間違いなく、他殺だ」

「じゃあ、あの密室状態はどういうことなの?」

「『シュレーディンガーの猫』さ 」

「は?」

宮田はいつも唐突な物言いをする。さすがの美沙希も、彼の話の展開にはついていけない。

「『シュレーディンガーの猫』。聞いたことはないか?」

「なにそれ」

まったく耳にしたこともない単語だ。美沙希はじれったくなった。

「もったいぶってないで、密室のことちゃんと教えてよ」

「まあ、聞けよ。『シュレーディンガーの猫』とは、理論物理学者シュレーディンガーによって論じられた一種のパラドックスさ。彼はこの理論によって、量子力学の世界に大きな問題を提起したんだ」

一体何を言い出すのだといぶかる美沙希をよそに、宮田は量子力学とシュレーディンガーの理論の概略についてとうとうと述べた。

まず量子力学とは、光や電子といった極微少の物質が、「粒子」としての性質と「波」としての性質を併せ持つことを理論づけた物理学だ。粒子の状態は重ね合わさり、その様子が波として表される。ところが、粒子を観測するとその重なりが消え、そこでようやくひとつの状態が確認される。唯ひとつの状態を明確に予測できるとした古典力学とは異なる考え方だ。その理論の核心には、かの有名なW・ハイゼンベルクの不確定性原理がある。

『シュレーディンガーの猫』というのは、量子力学において観測の瞬間まで状態が重ね合わさる(ひとつに確定しない)ことを問題とした思考実験である。まず箱を用意し、その中に、放射性物質の原子核崩壊を引き金に毒物入りの容器が壊れる装置をつくり、一緒に猫をいれておく。放射性物質が崩壊すれば猫は毒によって死ぬので、極小の放射性物質の崩壊か非崩壊かを、猫の生死によって知るという装置である。猫の生死を知るには、観測者がふたを開けて箱の中身をのぞかなければならない。箱の中を密閉したままでは、中にいる猫が死んでいるのか生きているのかわからないからだ。

ところが、ここで問題が生じる。量子力学理論によれば、放射線粒子の状態は観測によって決定される。ということは、原子核が崩壊して粒子が飛び出したかどうかは、ふたを開けて観測した瞬間に決まるのであって、観測前であれば崩壊と非崩壊という「二状態の重なり」が起きていることになる。放射線の影響と直結している猫の運命も同様で、箱を開けて猫を観察したときにその状態が決定すると考えれば、箱を開ける前は、猫も生と死の重ね合わせ状態にあるはずだから生死不定となる。確率的には、生きている確率と死んでいる確率が50%ずつで混ざり合っている状態だ。

しかし、常識的には観測に関係なく、箱の中において猫の生死がどちらか一方に決まっているはずだ、という一般物理世界との食い違いが生じる。つまるところ、量子世界の理論が一般現実の世界には及ばない、ということを指摘したものだ。

「それがなんなの。まさか、今野先生の生死は最初の発見者が扉を開けた瞬間に定められた、とでも言いたいの?」

 美沙希は、彼の突飛な発想が今野の事件とどう関係するのか見当もつかず、少し苛立った。だいたい、殺人事件がいくら非日常的な事態であるといっても、現実世界にすら適用できないような理屈を持ち出したところでどうにもならないではないか。

「そうじゃない。俺は最初から、今野の死についてではなく、密室の達成について論じている。もちろん、今野が小屋の扉を開ける以前に死んでいたのは確実だろう。だけど、密室は違う。今回の場合、 “密室状態 ”であったのが確定したのは、小屋を開放した瞬間、正確には扉を開けた直後だ」

「ちょっと待って。それこそ矛盾してるんじゃない」

宮田の一人走りを止めるように、美沙希は言った。

「密室というのは、空間が密閉されていて出入り不可能な状態のことでしょう。開けられたら密室じゃなくなるじゃない」

「だから、密室状態であったことの確定、と言ったんだよ」

 得心のいかない美沙希をよそに、宮田は続けた。

「まず、問題とされる密室の条件は、不可能殺人であるということ。だから自殺は、この問題に含まれない。密室であろうとなかろうと、自殺が生じる結果に何の疑問も不思議もないからだ。そしてもう一つの条件は、今美沙希が言った通りで、空間的に内外の通過が双方向から不可能な状況であること。逆を言えば、どちらか一方からでも通過可能な条件が残されていれば、それは密室とはいえない。今回の事件の場合、外から扉が開けられる前の時点では、出入り不可能という密室状態がまだ完全には達成されていなかった可能性がある。

ただし、外側から観察するかぎりにおいては、中の状態はわからない。量子力学では、観測したときにはじめて粒子の状態が決まる。扉を開けたあとにはじめて密室の条件が充たされ、中が密室状態だったということが決定したのであり、開けられる以前にはまだ「密室と非密室の重ね合わせ状態」、つまり “不定 ”だったということだ」

「・・・錠が解除されて、密閉された空間が開放されてから、密室だったという条件が揃った・・・・・・」

謎かけのような文句を頭の中で反芻してみる。

「そうだ。扉を開ける直前と直後の状況把握が大事だ。不定密室が確定密室に変わっている転換点がある。それを見つけるんだ。じゃあね」

ブツ…

切れてしまった。

美沙希は舌打ちして、用をなさなくなった電子機器を睨み付けた。





―――――――――――――――――――――――――――――――

▼ 第二章のKEY POINTS



◎ 第二章の最重要事項


“四節「シュレーディンガーの猫」で、宮田が美沙希にした三つの

質問事項 ”



◎ その他の謎


・西川事件と飯田山事件、そして今野泰の死との関係性

・西川昭と木村栄治、そして今野泰の関係

・西川昭の長男と長女、西川の元妻が再婚した相手の長男(長女の

義弟)とは、それぞれ誰の事か。(作中の誰にあたるか、あるいは

まだ登場していないのか)

・井上佐織と西川事件の関わり

・谷本聡子と西川事件の関わり

・小島美沙希(宮田)と坂井陶也の関係

・宮田和彦と今野泰の関係

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