第一章 『イントロダクション』
1 飯田山事件
“・・・さん・・・ ”
かすかに、人の声が聞こえる。
心地よいまどろみの中に埋もれた意識がわずかに揺り動かされる。なんだか少し叫んでいるようにも聞こえるが、眠りの妨げになるほど耳障りでもない。
気にせず、いったん浮かび上がってきた意識を、再び夢の底に沈めようとする。
“・・とさん!”
だが、そのささやかな欲求は結局かなえられなかった。突然の闖入者の呼び声によって、現実とのはざ間から沈み込もうとしていた意識が、無理やり水面上まで引っ張り上げられる。
「谷本さん、谷本聡子さん!」
「はいっ!」
聡子は、あわてて頭を起こした。すぐに眠気を振り払うため、首を左右に激しく振る。
「やっと、目が覚めましたか」
寝不足気味のためにまだしつこくまとわりつく眠気と、強引に睡眠サイクルを破壊されたために頭の奥に残る鈍い痛みに、顔をしかめながらも、聡子は目の前の人物になんとか視点を定めた。
「私の授業はそんなに気持ちがいいですか。君、いびきまでかいて熟睡していましたよ」
毒と嫌味を含んだ英語教授の物言いに、聡子は身を縮めた。
「・・・すみません」
「まったく、よくもまあ、一番前の席で堂々と眠れるものですね。神経を疑いますよ。ちょっと気を引き締めてもらいましょう・・・では谷本さん、二番目のパラグラフのはじめから訳してください」
「・・・・・・」
「どうしました? 返事すらできないほどに、寝ぼけてるんですか? 二段落目の最初から訳しなさい、と言ってるんです」
「は、はい・・・あの・・・」
聡子は、恐る恐るといった感じで、上目遣いに教授を見上げた。
「何ページ、でしょうか」
教授は、ぎろっと目を剥いて、聡子を睨みおろした。
「――災難だったねえ、聡子」
すすっていたカップコーヒーをテーブルの上に戻しつつ、小島美沙希は話しかけてきた。
「ま、私は面白かったけど」
「最悪だよ」
聡子は、ナポリタンの巻き付いたフォークをいったん皿に戻した。
「あんなにしつこくあたらなくてもいいのに。あの先生、学生いじめるの趣味なんだよ、ぜったい」
「学内一きびしいといわれている教授先生の授業で、立派に熟眠するあなたの根性も相当なものだけどね。しかもいびき付き」
「聞こえてたの?」
「教室中に響いてた」
笑いながら、美沙希はテーブルに新聞を広げた。手には赤ペンを持っている。
「美沙希、学校でそれ読むのやめなよ。一応まずいでしょう、立場上」
「学生は馬券買っちゃいけないってこと?」
美沙希は競馬新聞の紙面から目を離さず、ひとつ鼻を鳴らした。
「そんな半ば形骸化したきまりなんて、いちいち律義に守ってられないわ。私はこれで生活しているのよ」
美沙希の主張はつづく。
「だいたい、この不景気で地方競馬場が軒並み消えていくなか、馬券の購入を規制しててどうするっていうの。それにどのみち、今期の国会で提出された競馬法改正案が成立すれば、来年からは学生でも公然と馬券を買えるようになるし」
今日は手堅く本命馬をからめた連複狙いでいこうかな、とぶつぶつ言う美沙希の様子に、聡子は軽く溜め息をついた。
彼女に正論や常識は通じない。まっとうな人間とは根本から価値観がずれているのか、常に自分を不安定な立場においていないと、逆に安心できないらしい。その点で、生活面ではいたって保守的な聡子とは明らかに対極に位置する人間なのだが、不思議とお互い妙に気が合った。
ちなみに聡子と美沙希は、大学女子寮のルームメイト同士だ。
学生寮は、男子寮と女子寮が一棟ずつあり、どちらも定員は一〇〇人となっているが、それは二人一組の相部屋だから収容可能な数字である。苦学生の経済事情が配慮され、福利厚生施設としての性格が最重要視された昔ならいざしらず、何よりも個人の生活環境の快適さが優先される昨今において、なぜまた共同部屋の寮なのか。という疑問を抱く学生は少なくなかったが、ともかくその前時代的な住居設定のおかげで美沙希と親しくなり、現時点の大学生活で、いや人生で唯一無二といっていい、風変わりな友人を得られたことは確かである。
「ところで、聡子」
もう今日のレース予想は終わったのだろうか、たたんだ新聞を脇へのけた美沙希が長い髪をかきあげ、そのやや切れ長の二重瞼を聡子に向けてきた。
「この間、飯田山の山頂で見つかった顔無しの変死体、どうやら身元がわかったみたいよ」
「え、ほんと?」
聡子は思わず身を乗り出した。
「うん。検死結果と最近の行方不明者リストを照らし合わせて割り出したら一致したんだって。名前は木村栄治、五十歳、元警察官」
「へえ・・・警察」
「もっとも、一昨年には辞めてたらしいけど。でも、警察関係者が死体で発見されるなんて、おおごとね」
そっけない口調で、美沙希は言った。
身近で変死体が出ただけでもおおごとすぎることのはずだが、彼女にとっては、そうした一殺人自体はそれほど驚愕に値しないものらしい。傍観者としてのごくささやかな興味しかないようだ。
だから聡子が気になったのは、別のことだった。
「美沙希、なんでそんなに詳しいの? 今朝のニュースでやってた?」
「ニュースや新聞じゃないわ」
美沙希はわずかに視線を外した。
「ちょっとしたコネ、ってゆうかね・・・」
だがそれ以上は語らず、美沙希はぬるくなったコーヒーをすすった。
夕方から雨がぱらつきだし、夜にかけて徐々に激しくなった。風も勢いを増し、時折遠くから雷の轟きが響いてくる。
シャープペンシルを投げ出した聡子は、椅子の背もたれにめいっぱい上体をあずけ、小さくうめいた。
机の上に広げられたA4レポート用紙には、まだタイトルと名前しか記されていない。『ワインとぶどう畑のフランス史』――というレポート文献も、まだ半分も読んでいない。フランス語の講義もないのに、どうして仏国史の講義はあるのか、と今さら愚痴をこぼしてもはじまらないが、それでなくても、この大学の授業にはどうも一貫性が見えてこないな、と思うときがある。その分、全体として講義内容の幅が広く、分野や系統が多岐にわたるのが特長かもしれないが。
しかしとにかく、課題の提出期限は明日だ。今夜も徹夜だな、とうんざりしつつ、聡子は窓の外に目を向けた。
容赦なくぶつかってくる大粒の水滴によって彩られた透明のまだらの向こうは、漆黒の闇だ。
だが昼であれば、ここ、寮の二階の窓からは飯田山の全姿が見える。といっても、標高たかだか四十数メートルの飯田山は、山というより小高い丘だ。全体が濃い林で覆われており、日中でも薄暗い雰囲気がただよう。
その飯田山の展望台付近で、一週間ほど前、身元不明の変死体が見つかった。変死というのは、一応病気や事故以外の死因が明確でない場合を指して総称することが多いが、今回のものは明らかに “異常な死体 ”だった。両腕が肘から切り取られ、顔面は潰された上に焼かれていたのである。その文字通りの猟奇殺人事件発生によって、付近はもちろん、S市全体が騒然となった。
聡子は椅子を反転し、自室の中を見渡した。
両側壁に接して、二つのベッドが備えられている。美沙希はまだ帰寮していない。雀荘に行くと言っていたから、ひょっとしたら朝まで帰らないだろう。
飯田山の死体の身元が判明したと美沙希は教えてくれたが、それについては今日の夕方のニュースでも報道された。Y県警の見解では、両腕を切断し、顔をつぶしたのは、身元をわからなくするためではないかとみて、その目的性から捜査を進めていくということだった。
聡子は軽く頭を振り、再び机に向かった。
身の回りで何が起きたとしても、世界は意外と冷静で、揺るがないものだ。聡子はこれまでの二十年弱の人生で、それを自身で痛いほど実感していた。
聡子は今年、現役で大学に入学した。
東北広益文化大学という今年新設されたばかりの大学は、私立のわりに比較的授業料が低く、奨学金制度も充実していて、経済的にきびしい状況にある聡子としては進学の条件にかなうところだった。寮だって二人部屋である分、経済的には大きなメリットとなっており、月々一万五千円程度という国立大学並の寮費で食費以外の最低限の生活費はまかなうことができた。地元市内出身であるにもかかわらず、一人暮らしをしなければならない事情があった聡子にとって、そういった生活面でのフォローは切実な魅力があった。
とはいえ、どんなに好条件が揃っていてもやはり金のかかる大学生活のこと、授業料や寮費といった必要最低限の出費を負担するだけでも、奨学金だけでは全然足りない。
だから聡子は、ほとんど毎日アルバイトに追われていた。今日は珍しくバイトが休みだが、そのかわり昨日は夜通しショット・バーで働いていたのである。授業で熟睡してしまうのもいたしかたないだろう。
ちなみに、美沙希も経済面では独立した生活を確立している。奨学金をよりどころとしているのは聡子と同じだが、それ以外の収入はバイトではなく、ゲームで得ている。いうまでもなく、競馬・麻雀といった賭博モノだ。
公営賭博として公認されている競馬の勝馬投票券は、少なくとも現時点ではまだ学生の購入が禁じられているし、麻雀にいたっては、本来賭け行為それ自体が刑法では刑事罰の対象となり、民法上は無効とされる。
だが、美沙希はまったく意に介さない。人生そのものが博打だ、絶対という保証がないことがそれを示す証だ、と彼女は言う。彼女は彼女なりの人生哲学をもっているのだ。
聡子は、再び窓を見た。
ガラスに白く浮かび上がる自分の顔は、外の闇に溶け込んでひどくたよりなく見えた。
絶対という保証――たしかに、この世にそんなものはない。変わらないと思っていたものが、突如劇的に覆されることがある。疑う余地など微塵もなかったはずの安楽が、突然破壊されてしまうことだってある。
聡子にそれが訪れたのは、三年前だった。運命というものに対する自分の無力さのほどを、そのとき知った。それに立ち向かうには社会で自立する力を身につけなければならない、そう心に決めて大学に来た。
聡子は目を閉じた。
世界は揺るがずとも、現実は不安定で、危うい。
そして今また、その沈み込む思考の流れがふいに断ち切られた。
聡子は机上に置いてあった携帯端末に手を伸ばし、場違いに鳴り続ける軽薄な機械音を止めた。
「もしもし――」
耳に当てた端末機の向こうの声に一瞬切なそうな目をしたが、すぐに顔色を変えた。
衝撃的な告白が、彼女の耳を衝いた。
*
本当に、あの事件はこれで終わっているのか――。
Y県警刑事部第一課捜査係主任、坂井陶也警部補は、A4用紙で二十枚にも及ぶ書類に目を通しながら、心の中でつぶやいた。
手に持つのは、平成一三年五月一二日に発生した殺人事件に関する最後の公判記録、昨年殺人罪で死刑が確定した西川昭に対するY地裁の判決文だ。
坂井は以前、これを少なくとも二十回以上は読んだ。いくつか不審な点があり、気になったからだ。
だが、いつまでも過去の事件にこだわっていられる立場ではなく、他の案件の処理に追われたこともあり、今年になってからはあまり目を触れることがなくなっていた。
ところが、先日の飯田山における猟奇事件がきっかけとなって、再び西川事件の詳細を調べ直す必要が生じたのである。
「坂井主任、報告致します」
部下の松尾陽介が、坂井のデスクの前で一礼した。坂井は頷き、資料から目を上げた。
「やはり、殺害された木村栄治元巡査部長は、かつての西川事件と浅からぬ関わりがあったようです」
「それは、あの事件の担当刑事だったということ以外の点で、ということだな?」
「はい」
松尾はまず、ややこわばった面持ちで、自分より十歳近く年下である上司の表情をうかがった。だが、その実年齢よりさらに十歳は若く見える白色麗顔の人物は、わずかに片眉を上げて先をうながしただけだった。
「どうやら木村刑事は、事件の以前から、西川と接触していたふしがあるのです」
「ほう」
ここでようやく坂井が関心をあらわにした。
「続けてくれ」
「はい――」
松尾は、木村元刑事の妻晴美さんの話によりますと、とことわってから、話し始めた。
「木村刑事は、西川昭とは旧来の知人だったようで――ただ、それほど親しい間柄ではなく、友人といえるほどのものでもなかったようですが――とにかく、ごくたまには会ったり、電話で連絡をとったりする関係ではあった、ということです」
「はっきりしないな」
「そう頻繁に訪ねてくるわけではないし、木村刑事も西川昭について家で話題にするそぶりもなかったので、晴美さんとしてもとくに気に掛けていなかったのだそうです」
「あとは?」
「目下、調査を継続中です」
報告は以上ということだ。
坂井は小さく頷いて、ゆっくりと息をはいた。
「だが何故、今ごろになってそんな事実が出てくるんだろうな? 担当刑事が被疑者と縁故があったなんて、そうそう見過ごせるものじゃないだろう」
「木村刑事が話さなかったのでしょう。西川も、これについては何の供述もありません。それほど両者の関係が双方にとって些細なことだったのか、あるいは、周囲にあまり知られていなかったからか、それともわざと隠していたのか―――まあ、木村刑事があの事件の担当になったのは偶然でしょうが・・・」
「そう思うかい?」
「・・・・・・」
不自然な話だ。付き合いの度合いにかかわらず、知人同士ならばその関係は、双方の態度や言動から自然と察せられるものだ。それが周囲に、しかも警察にもまったく気づかれなかったのだとすれば、二人がその関係を気取られないよう意図的に隠していたとしか思えない。
もしそうなら、と考えて、坂井は言った。
「どちらかが、脅迫されていたんじゃないか?」
「その可能性はあると思います。ただ、おどされていた方として、西川は当てはまらないのではないでしょうか」
「どうして?」
「彼は結果的に、自ら死を選んだのです。助かりたい一心でおどしに屈するのはわかりますが、いずれ死ぬと決めた人間が脅迫に従わなければならない事情など、ないのではないでしょうか」
「自分だけの問題ならな」
「え?」と少し意外そうな顔を松尾はしたが、坂井はその様子を無視して続けた。
「それに、そういう理由で西川に脅迫される事情がないのなら、脅迫をする利点だってないはずだろう。どうせ死ぬんだ」
「・・・そうですね」
松尾は頷き、別の質問をした。
「では仮に、二人の間に何らかの脅迫の事実が存在していたとして、その内容にはどんなことが考えられるでしょうか」
「さあな」
坂井はデスクの上で、両拳を組み合わせた。
「だが最も考えやすいのは、やはり西川が起こした事件に関することだろうな。しかし、西川と木村が旧知の関係であることから、もしかしたらもっと以前の出来事に関連したものかもしれない。そのあたり、西川と木村の過去から洗って、よく調べてみてくれないか」
「はい」
坂井は背をおこし、椅子の背もたれに上体をあずけた。
「いずれにしろ、今回の事件とかつての西川事件との関連性が疑われてくる」
「ええ」
坂井の中では、もはや疑惑ではなく確信に近いものがあったが、今それをはっきり口にする段階ではまだない。根拠が明確でない以上、即断は禁物である。
坂井は、話題の焦点を過去から現在の事件に転じた。
「遺体が発見された飯田山付近の調査で判ったことは?」
「今のところ、めぼしいものは出てきていません。目撃証言等もないようです。」
「あの一帯は雑木林や田畑ばかりで、目につく建造物といえば、新設の大学ぐらいだ」
「はい。東北広益文化大学です」
「大学関係の筋から詳しくあたってみる必要もあるな。それに・・・」
坂井の目が中空を見据えた。
「あの大学には、西川の息子がいる」
「今年入学したんでしたね」
「ああ――そして、関係者はそれだけじゃない」
坂井の両眼に、わずかに暗い影がさした。
「これが偶然だとしたら、とんでもない運命の皮肉だ」
2 前日の午後
講義が終わった後、夜のバイトまで少し時間の余裕があったので、聡子は久しぶりに部室に顔を出してみることにした。
講義室や研究室などがかたまっている教育研修棟から、二階の渡り廊下を通って、学食がある棟の二階突きあたりに、聡子の所属する文芸部の部室があった。
入口扉の脇には、表札代わりなのか、「ぶんげいぶ」と気が抜けたような平仮名文字で書かれた木札が吊り下げられている。
聡子がドアの取っ手を引くと、途端に無数の硬質な小石がぶつかり合うような、独特の小気味良い音の波が、室内から溢れ出てきた。
「あー、また打ってる」
聡子はすばやく中に入り、後ろ手に扉を閉めた。
「ばれたら廃部ものだよ、まだ創部二ヶ月なのに」
「なんで? これは娯楽としてやってるのよ。レートはかなり低いし」
「そういう問題じゃないでしょ」
聡子は溜め息をついて、牌を積み終えた美沙希に目を向けた。
「どうして文芸部なのに、麻雀なんかやってんのってこと。他の多くのサークルが部室を欲しがってるなかで、学内の一番静かなところで読書や創作に打ち込みたいっていう理由で、この部屋をもらったんじゃなかったの?」
「そう。だからここは都合がいい」
応えたのは、部長の川村正樹だ。
「音が外まで聞こえないからな――おっと、リーチ」
正樹は、卓上に点棒を一本投げ出して、長い腕を組んだ。
それに対し、正樹の左側に座っていた男が顔をしかめた。
「早いなあ、もうはったのか――ここは降りとくか」
「ひよりましたね、今野先生。お年をめすと勢いがなくなりますね」
「挑発にはのらん。勝負はオーラスに持ち越しだ」
かなり前が禿げ上がった額に手を当てながら、今野泰は正樹を睨んだ。その今野を、聡子が睨んだ。
「今野先生、顧問でしょ。文芸部の顧問としての義務も、自分の研究すらもほったらかして、こんな不良学生たちと麻雀に興じてていいんですか」
「さてねえ」
地元の郷土史家であり、かつ学内唯一の国文学研究者である今野は、生返事で聡子の攻撃を受け流した。
「いいのよ、こうやって学生と気軽にコミュニケーションをとれるところが、今野教授の魅力のひとつよ。ね、先生」
「うむ」と応じた今野の打牌に、おだてたばかりの美沙希がすかさず、「ロン!」と発声した。
「親っパネです、先生」
目を白黒させて呆然としている今野の脇で、正樹が「ひでえ」とうめきを漏らした。その右隣りでは、今野の点棒箱を置いた椅子を挟んで、文芸部員の三上賢太が驚いた表情で美沙希の手牌を見下ろしている。
「こりゃあ、今日も美沙希さんのダントツだな」と賢太。
「先生はこれでハコだろう。御愁傷様です」と大袈裟に頭をさげてみせる正樹。
「先生、インパチ頂戴します」と、涼しげな顔で一万八千点分の点棒を要求する美沙希。
三方からの三者三様の視線に、今野がまだ気が抜けたように呆けているとき、呆れ返っていた聡子の背後から「コンコン…」と、ひかえめなノックの音が聞こえてきた。
「あのー、すいません・・・」
おそるおそるといった様子でドアからのぞいた生白い顔に、聡子は思わず、「わっ」と飛びのいた。
「小野田稔(みのる)くん、ね・・・」
部員名簿に新たに記入された名前を見てから、正樹は顔を上げ、にっこりした。
「新入部員は大歓迎だよ、とにかく人手不足でね・・・つまり、君、麻雀打てる?」
稔は、「はあ、まあ」と上目遣いに、正樹の彫りの深い顔を見上げる。
「よし、これでまともな面子が四人そろったぞ。聡子は打てないし、先生は弱いからな」
「おい――」
「ちょっと、ちゃんと応対しなよ」
抗議しかけた今野の言葉に重ねて、聡子が一喝した。
「せっかくまともそうな部員が入ってきてくれたのに・・・小野田くん、戸惑ってるじゃない」
当の稔は、ただおろおろと、にやつく正樹と、眉根を寄せる聡子の間で、小柄な体を縮こませている。なんだか彼もたよりなさそうだな、と聡子は心中で、今日何度目かの溜め息をついた。
「じゃあ、今から君は、正式な文芸部員だ。といっても、さしあたり、文芸部としてやることはとくにないんだけどね」
苦笑いした正樹が「部員名簿」と記された大学ノートを閉じたとき、稔は遠慮がちに口を開いた。
「学籍番号とか住所とか…そういうのはひかえないんですか」
「いらないよ。うちの学生はみんな一年生で、学年や上下の区別は必要ないし、わざわざ学籍番号を使う便宜もない。連絡はほとんどメールですませるし、急ぎのときは電話でするときもあるけど、直接家にうかがうことはないから、住所をきいておく必要もない。無駄な情報は、極力求めないようにしてるんだ」
「…なるほど、わかりました」
頷いた稔の表情が、幾分ほっとしたような様子に見えたのは気のせいだろうか、と聡子は思った。
*
東北広益文化大学学長の五十嵐康一郎は、元は弁護士として法務に携わり、さらに六十を半分過ぎた今でも、東京の名門私立K大学における法学名誉教授という重い肩書きをも持つ。現法曹法学界における実績・名誉・地位を兼ねそろえたその人物は、大学本部棟四階にある学長室の窓から、中庭をはさんで目前に建つ、三階建ての教育研修棟を見下ろしていた。
開学してまだ三ヶ月足らず。
個々人の優れた一部の能力を最大限にひき伸ばし、専門分野での絶対的なスペシャリストをつくり上げるこれまでの大学教育の風潮に逆らい、あえて学者色や学問至上主義を排し、幅広い分野で実務的に対応できるゼネラリストを養成するという試みのもとに設立された当大学は、学部も学科も分化されず、唯一「広益学部広益学科」のみで成り立っている。
一個人の一能力主義への偏重は視野を狭め、極端な私益の追求につながりやすく、それが社会の実質的な不平等を生み出す一因となっている――したがって、世の中全体の広範囲で平等な利益、すなわち “広益 ”の追求を志す姿勢こそ、これからの民主主義社会の理想的なあり方だ。と考える五十嵐学長の理念の根底には、弁護士時代の実務経験によって痛感した、現代社会が抱える抗しがたい矛盾への憤りがあった。
――今の資本主義は、とどのつまり力の論理だ。かたちの上では権利平等を掲げていても、本質的にはより力を有する者が勝ち、弱者が泣き寝入りする構図は、昔とほとんど変わっていない。豊かさは深部まで行き渡らず、富は等しく分配されない――。
弁護士時代、東京弁護士会に所属する弁護士として、自分の事務所をもち、数多の民事・刑事訴訟をこなしてきた五十嵐はしかし、必ずしも弱者の側、道義的に正しい側ばかりについてきたわけではなかった。常に、自分の信念に忠実だったわけでもない。他人の人権を裸足で踏みつけて善良な人々のささやかな幸せを食いものにし、私権私益ばかり貪欲に要求する俗悪人の擁護にも、職業弁護士としての職務と義務から、自己の知識と経験を総動員して力を尽くさなければならないときだってあった。そして、そのたびに、「自由」と「正義」を表すひまわりの中央に、「公正」と「平等」を象徴するはかりを刻み込んだ弁護士の金バッジを、自分の胸につける資格がはたしてあるのか、自分は本当に市民に平等な正義を遂行しているのか、という自己嫌悪に苛まれた。
司法による一方的な裁定のみで社会に真の公平性をしくことに行き詰まりを感じた五十嵐は、やがて現代の司法のあり方を根本から研究し直し、その矛盾を追及する立場として法学博士という道に進んだ。以後は、元来は国民の権利と自由を法律によって制限する力をも認める「法治主義」の悪用と危険性を排斥して、法で権力を拘束し、国民の権利と自由を擁護する「法の支配」の公正かつ十分な適用を世に訴えつづけてきた。
そして、国家や権力のための法律ではなく市民のための法律であるべきだ、という理念を軸に、もっと広く、国家や権力のための公ではなく市民のための公というものが社会において達成されるべきだ、と考えるようになった。その信念の延長にあり、その理念の確立を目指してようやく実現したのが、この新大学の設立なのである。
――ここを、世の中に本当の平等社会、民主社会を打ち立てるための礎にする――。
大きすぎる理想であることは承知だ。だが、今度は妥協したくない。
そしてそう思うからこそ五十嵐は、その大学の一期生として、西川昭死刑囚の子供を受け入れたのだった。殺人罪によって投獄された死刑囚の身内だからといって、進学を切に望む若者の入学を拒否するなど、五十嵐にとって言語道断というべき行為だった。
M大学は、憲法で掲げられている「公共の福祉」という言葉をさかしらに口走っていたが、公共の福祉とは本来、社会や他人の福祉と対立する個人の権利を制限するためだけの意味で使われるものではない。全体の福祉の維持と向上のために、個人の持つ人権を発展・助成するという性質も併せ持つのであり、そこから個人と他人、社会との調和をはかるのがその趣旨なのである。
M大学の措置は、個人の学ぶ権利を軽視した、まったく身勝手な対応であると、五十嵐は憤慨している。死刑囚の息子が入学後におかれる立場と境遇に配慮した結果のことだと、M大学は言い訳しているが、所詮それは厄介払いと責任逃れの体のいい口実でしかない。自己保身の排他主義、つまりは「差別」ではないか。最高法規である憲法の理念ですら、そのように人権侵害の道具として逆用されてしまうことこそ、五十嵐が打破したい現実であった。
――世間の偏見の目から守らなければならない、あの子たちを。
だがしかし、と五十嵐は自問する。
そもそも、あの西川事件そのものが、どこか釈然としないものだった。
五十嵐はもちろん弁護士として直に関わったわけではなかったが、その立場上、事件に対して人並み以上の関心はあった。だからこそ気になった、というほどでもないのだが、あの判決文の内容にはいくつか不審なところがあった。
当事者のものばかりで第三者による客観的な証言や供述も不十分だし、殺人に至る経緯や動機の詳細についても、あまり深く触れられていないような感がある。こういった重大殺人事件の場合、とくに動機等には念入りな調査がなされるはずだが、その点がどうも弱い印象がしてならない。本当に西川は、ただ突発的な衝動から、四人もの人間を殺害してしまったのだろうか。
警察と検察の捜査を経て立件され、かつ少なくとも一年以上裁判審議を繰り返してきたのだから不備はないのだろうが、仕事柄あの判決文を読んだときに感じた、事実に薄く靄がかかったような不快な感覚は、五十嵐の頭から完全に拭い去られることはなかった。
そして最もおかしいのは、公判前後の西川昭の態度だ。
どうして急に、実父以外の犯行を徹底して否認したのか。さらに判決後は、まるで憑き物が落ちたかのように諾々と刑を受け入れたのはなぜか。ただの悪あがきにしては中途半端すぎる。
――もしや、冤罪なのか?
だが五十嵐はすぐに首を横に振った。
それはまずありえないだろう。あの判決が出されるまでに、いったいどれだけの人間と、公的な官署、機関が関わったのかを考えれば、冤罪である可能性は極めて低い。
それにもし西川が無実、もしくは罪状に何らかの瑕疵、あるいは誤認があるのならば、被告人の西川としては最後までその判決に異議を唱えるはずであり、ましてや控訴をしないなどということは大いなる矛盾である。なんといっても、自らの生命がかかっているのだ。非の打ち所のない、完全なる裁きによる適切な判決であっても、死刑や無期懲役といった重刑に対しては異議の申し立てを行うのが当たり前だというのに。
そこまで考えたとき、五十嵐は、不意にあることに思い至って、愕然とした。
――もしかして、まったく逆なのか。確かにそういうことなら、西川の不可解な態度にも筋は通るかもしれないが――。
まさか、ありえない、と五十嵐は自らの考えを打ち消した。それは、あまりにも突飛でやりきれない想像だった。
五十嵐は再び、今度は激しく頭を振った。
憶測はいけない。これ以上終わった事件にとらわれるのはやめよう。自分には、今やるべき義務がある。
五十嵐はふと校舎から目を転じ、視線をその後方、飯田山に向けた。
空には灰色の雲が低くたれこめており、さらに飯田山の背後から黒い暗雲がせりだしつつある。ときおり鈍く響いてくる遠雷の音は、今夜の嵐を予感させた。
そして、これからの嵐も。
先日起きた飯田山の猟奇事件は、ただごとではない。本学と関わりがある事件だろうか、という懸念があった。
背後で、扉が叩かれた。
五十嵐は振り返り、「どうぞ」と返事をして、来訪者を招じ入れた。
「ああ、君か」
「失礼致します」と丁寧にことわって入室してきたのは、井上佐織という学生だった。
佐織はドアを閉めると、そのまま入口のそばにたたずんだ。前で両手を組み合わせ、物言いたげな視線を五十嵐に向けてきたが、口は開かなかった。
沙織が何か迷いを抱いている様子を、五十嵐は感じ取った。彼女は、五十嵐が特別守らなければならないと誓う若者のひとりだった。
「何でも、相談してみなさい」
だが、佐織は黙ったままだった。
五十嵐はしかたなく、自分の方から訊ねた。
「彼とは、もう会って話をしたのかね?」
その問いに、佐織はわずかに視線を落として、無言で首を振った。
五十嵐も、「そうか…」と言ったきり、押し黙った。
部屋の中に、しばらく沈黙の幕が下りた。それぞれが、それぞれの思いに沈んでいた。
やがて、窓にあたるかすかな音が、その静寂を侵食していった。外では、雨が降りだしていた。
ふと、佐織が顔を上げた。
「お話ししたいことがあります」
五十嵐を見つめてくるその瞳には、緊張のなかにわずかな怯えが混じっているようだった。視点がかすかに揺らめいている。
「先日飯田山で殺されていた木村という人についてです。私、あの人のことを知っています。三年前の、あの事件のときから」
「なんだって?」
五十嵐は表情を硬直させた。
「じゃあやはり、今回の事件は・・・」
「・・・はい」
佐織は、右手で自分の首すじを強くおさえ、顔をゆがめた。
「あの西川事件と関わりがあることと、思います」
3 それぞれの前夜
(PM 10:00~)
この日の部室の鍵当番は、三上賢太だった。
どどんっ、と重い地鳴りのような音がして、賢太は目が覚めた。
賢太は体を起こして、あたりをきょろきょろ見渡した。どうやら、小説を読んでいた途中でつい眠ってしまったらしい。読んでいた文庫本が床に落ちて、うつぶせに開いている。
賢太は椅子から腰を曲げ、文庫本を拾った。そして、今度は背をそらして、大きく伸びをする。
部室の壁に掛けられている時計を見ると、二十二時を少し過ぎたところだった。みんなが帰っていった後、しばらく独りで居残って小説でも読んでいこうと思い立って、部室の本棚から文庫本を一冊取り出したのが八時頃。小説の内容などさっぱり記憶にないから、それからすぐに寝入ってしまったのだろう。
賢太は立ち上がると、窓の方に向かった。
部屋の照明が窓ガラスに反射して、室内の様子をこちら側に映し出している。賢太は窓に顔を寄せ、外をのぞいた。
雨が降っている。
風も激しい。
さっきの音は、雷だ。
視点を下げると、物置兼ゴミ置き場小屋のトタン屋根が見下ろせる。
賢太は、雨に打たれて安っぽい音を奏でるその建物に、かつての自分の境遇を重ねていた。
裕福とはいえない生活だった。
だが、どんな環境にあろうと、あの物置小屋のように、世界の片隅で目立たない存在でいられるうちは、ささやかだが何にも変えがたい幸せと喜びを感じていることができた。まさか、それが失われようとは、悪夢にも思わなかった。
賢太は窓枠に手をつき、目を瞑った。
――すべて、ばらばらになってしまった。
孤独だった。
中学の時に実の両親は離婚していた。だがそれ自体はそれほどショックではなかったし、別に見捨てられたとも思っていない。別れたのは親同士で、子供である自分との関係が無になったわけではないからだ。
だから、賢太が孤立していたのは家庭においてではなく、もっと広い範囲――すなわち社会においてだった。
ある出来事を境に、有機的につながっていたはずの世界との関係が断絶し、身の回りのもの全てが異質のものとなったのだ。
ただひとつの絆を除いて。
揺るがない世界はあくまで冷たく、不安定な現実は容赦がない。
どんな小さなことであっても、それが事実であれば、世間の好奇と偏見の目は見逃してくれない。そして、人間ひとりにそんな社会に抗う力などない。いっそのこと最初からひとりだったら、社会のあたたかさや冷たさ、人間のむくもりや残酷さを知らずに済んだかもしれない。
三年前に起きた重大殺人事件と、昨年の死刑判決――それが、賢太の立場と運命を変えたものだった。
賢太は目を開いた。
視界の様子は変わらない。ここは大学の一画、平穏な空間だ。
賢太がこの大学の文芸部に入ったのは、本や文学に格別興味があったからではない。谷本聡子に誘われたのが、きっかけだった。いつも独りでいたがって周囲と関係をもとうとしない自分を見かねた、彼女なりの気遣いだったのだろう。そう思っていた。
賢太と違い、聡子はいつも前向きだった。社会の犠牲者という点では、自分よりも過酷な立場にいるというのに。しかし実は――。
外で突如稲妻が走り、少し遅れて雷鳴が轟いた。
そしてひときわ強い風のうなりが窓を打ったとき、不意に背後で扉の開く気配がした。
はっとして振り返った先に立っていたのは、今日入部したての文芸部員だった。
「どうしたの、忘れもの?」
だが、小野田稔は黙ったままだった。そして一歩近づき、上着にしているジャケットの内側に手を差し入れた。
その胸元から取り出されたものを見て、賢太は息をのんだ。
「どうして・・・?」
「三年前の事件について、聞きたい」
稔の表情は、昼のときのものとは一変していた。
賢太はただ呆然と、眼前につきつけられたものに目を奪われていた。
*
(PM 11:00~)
今野泰は、教育研修棟三階の自分の研究室の窓から、風雨で荒れ狂う外の暗闇に自らの顔を映していた。
その顔が、ふとほくそ笑んだ。
その瞳は、厚い漆黒のベールの向こうに、飯田山の姿を見透かしていた。
――木村を殺ったのは、あいつにちがいない。
今野には、飯田山で死体となって発見された木村栄治を殺害した人物に、心当たりがあった。いや、心当たりというより、彼にしてみればほぼ明確なことだった。木村に恨みをもつ人間といえば、ひとりしかいない。
――あの西川の息子だ。
彼自身、間接的にではあるが、かつての西川事件に関わっていた。
しかしそれを知る者は、今となっては西川本人だけだ。警察はもちろん、自分を地元の郷土史家として新設大学の教授陣に迎え入れた五十嵐学長ですら、そんなことはつゆとも知らないだろう。西川にしても、現在は拘置所で死刑待ち――もはや外部との接触はほとんど皆無に近い状態だし、どのみちあと数年のうちにこの世から消える。
実のところ、はじめは、西川がこのような結末を迎えるとは予想外だった。木村とともに、まだしばらくは因縁の関係が続くと思っていたが。
だが一方で、彼が死刑を選んだ理由にも思い当たった。おそらく西川は、自ら望んで絞首台にのぼるのだ。
とにかく、早々と西川の死刑が決まって以来、今野は、西川と接触することが不可能となり、同時に木村とも連絡をとらなくなっていった。
そんなとき偶然にも、この大学で、学長の意向で一般入学させた西川の長男とめぐり合うことになったのだ。今野にとって、このめぐり合わせは、運命の皮肉であると同時に、思いがけない僥倖でもあった。
――さて、どうするとしようか。
無論、今回の事件について、警察に何か言うつもりはない。そんなことをしても一切自分の利にならないばかりが、下手をすると、西川や木村との関係を勘ぐられて、いらぬ嫌疑をかけられることにもなりかねない。
それに万が一、西川との関係が警察に知られてしまったら、非常にまずいことになる。木村が口止めしていたからこれまでなんとかばれずに済んだようだが、それでも依然として油断は禁物だろう。
今野はしばらく思案したが、やがてかすかに笑みをもらした。
また利用すればいいのだ、自分のために。かつて、西川昭に対してしたように、今度は息子のほうにしてやればいい。
今野は、つり上がる口元に煙草を咥え、火をつけた。大きく吸い込んで肺に紫煙を満たし、天井に向かって長く吐き出す。
わずかに視線をずらすと、向かいの建物の左端に位置する部屋に明かりがともっており、それが波打つような風雨でかすかにまたたいている。
二階の文芸部の部室は、今野の研究室からちょうど見下ろせる場所にあった。まだ誰かが残っているのだろう。
今夜の鍵当番は、確か三上賢太のはずだ。
今野は顎に手を当て、ふっ、と鼻から息を漏らした。
――学生とのコミュニケーションは、大切にしないとな。
唇に酷薄な笑みを浮かべ、もう一度煙を吸おうとしたとき、胸元の携帯電話が軽快に笑い声をあげた。
液晶画面に表示された、見覚えのある番号。
――また麻雀の誘いか? いや、こいつはちがうか。
それにしてもこんな時分に、教授である自分に遠慮もなく電話をかけてくるとは。
道化のふりをして学生に付き合うのも考えものだな、と苦笑しつつ、今野は通話ボタンを押した。
*
(AM 0:00~)
部屋の中は、夜の闇で完全に覆われていた。
井上佐織は耳から携帯を外し、電源を切った。
彼とはたいてい、深夜に電話をする。彼に会うときもいつも夜だ。日中に会えないのは、お互いの時間的な都合がつかないからではない。二人の本当の関係を周囲に気づかれないようにするためだ。
佐織は手で首すじの傷跡をおさえた。
あれ以来、過去のことを思い出すたびにしてしまう仕草だった。
そして胸の奥に深く刻み込まれた心の傷は、絶対に癒えることはない。なぜなら、それをつけたのは他ならぬ、自分だからだ。佐織は何度か自殺することも考えたが、かろうじてそうしなかったのは、彼がいたからだった。彼の存在が、今の自分に残された唯一の絆といえた。しかし――。
――彼との関係を誰にも知られてはならない。たとえ五十嵐先生であっても。
五十嵐学長の佐織や彼への厚意には感謝していた。世間の無遠慮な視線にもみくちゃにされ、神経が擦り削られて外に出ることもできなくなっていたとき、五十嵐は佐織の前にあらわれた。大学進学などとうに諦めていたのに、思いがけずその望みがかなったのは五十嵐のおかげだった。そしてそれは、彼も同様だ。
だが、たとえどのような恩人であっても、二人の真のつながりを知られることはすなわち、すべての終わりを意味していた。だから徹底的に隠さなければならない。彼とはあれ以来、会っていないことにしなければならない。
佐織は思い起こした。
その重すぎる運命のはじまりは、三年前の出来事にあった。
西川昭が引き起こしたとされる一家殺害事件――その真相を知るのは、自分と彼、そして・・・。
突如発生した白い光で、一瞬視界が消えた。そしてすぐに後を追ったとどろきが、佐織の鼓膜を強く震わせた。
外の暴風は、夜半を過ぎていっそう激しさを増している。
佐織は頭をかかえ、床に腰をおとした。
*
(AM 1:00~)
川村正樹は、大学の教育研修棟の裏にある駐車場内に車を乗り入れた。ここは本来、教職員用の駐車スペースで、学生用のは別の離れたところにあるのだが、今は夜も遅く、がら空きだからかまわないだろうと、正樹は車をとめてエンジンを切った。
そしてドアを開けて外に出ようとしたが、外の雨があまりに激しいので、少しおさまるまで車内で待つことにした。
急ぐ必要はないだろうが、形容しがたい不安と心もとなさから、気は焦っていた。
――手元にないだけで、こんなに落ち着かなくなるとは。
携帯をなくしたことに気がついたのは、寝間着に着替えてベッドに入ったときだった。
正樹はいつも寝る前、携帯にメールが入っていないかチェックする習慣があった。ところが今日は携帯がそばに見当たらない。服のポケットや鞄の中を探しても見つからなかった。しばらく部屋中をうろついて、しまいにはベッドをひっくり返してしまうほど徹底的に探索したのだが、出てきたのは古い雑誌類や洗濯し忘れたしわくちゃの衣類ばかりだった。
アパートの部屋になければ、車か学校だ、と考えて、車にもなかったので深夜にもかかわらず大学にかけつけたというわけだ。
――おそらく、部室だな。
今日は、講義は午前中だけで、午後からはほとんど部室で過ごした。そして部室に携帯を持っていったのは、確かだった。
正樹は麻雀を打つとき、携帯をポケットから出して、傍らの椅子にあげておくようにしていた。身につけておくと、急に着信が入って取り出すときに、不注意に牌を崩してしまうおそれがあるからだ。したがって、それ以前に携帯をなくしていたとすれば、麻雀をはじめる際に気づいたはずである。だから部室から帰るときにとり忘れて、そのまま椅子の上に置きっぱなしにしてきた可能性が高い。
正樹は雨に濡れて視界が歪んでいるフロントガラスを通して、部室のある棟を見通そうとしたが、そこで舌打ちした。
うかつだった。
こんな時間に、部室に入れるはずがない。鍵は賢太が持っているのだ。どうやらそんなことも失念してしまうほど、うろたえていたらしい。
自分がちっぽけな道具に散々振り回されている気がして、腹立たしかった。
やりきれない思いでキーを回し、エンジンをふかしたとき、視界の端を何かがかすめたような気がした。正樹は暗闇の奥に目をこらした。
――あれ?
部室のある建物と駐車場を半ば遮るかたちで、教育研修棟が建っているのだが、その脇を通ってこちらへ歩いてくる人物がいた。それが知っている顔だったので、正樹は首をかしげた。
小野田稔だった。
稔は、駐車場の東側奥――正樹からみて右端の方向――にとめてあった車に乗り込んだ。
黒のBMW。
――見かけによらず、随分と豪勢な車に乗ってるんだな。
闇を切り裂くように眼前を通り過ぎていった漆黒のマシンを、正樹は呆然と眺めていた。
*
(AM 3:00~)
バイトから帰って自室のドアを開けると、机に向かっていたルームメイトの美沙希が、首だけこちらを振り向いて声をかけてきた。
「お疲れさま。今日は早かったね」
「うん。平日だし、天気も悪かったからね。あまりお客さん来なかったから、早めにひけさせてもらったの」
そう言って、聡子は欠伸をした。早いといっても、もう午前三時になろうとしている。
「そうだ、美沙希。店の余りボトルもらってきたの、2本ほど。飲む?」
「もらう」
「バーボンとスコッチ、どっちがいい?」
「バーボン」
「じゃ、ターキーね」
聡子は手提げ袋からワイルドターキーのボトルを抜き出し、フローリングの床に直に置いた。美沙希は食器棚から二つのロックグラスと、冷蔵庫からアイスボックスを取り出してきた。
ボトルには、まだ半分ほど中身が残っている。それをグラスに注いでいくと、はじけるような氷の音が耳に心地よく響いてきた。
「乾杯」と軽くグラスを合わせて、口をつける。一口飲んで、聡子はほっと息をついた。美沙希も、ふうっと吐息をもらしている。
「なんだか、妙に幸せね」
美沙希のささやくような声に、聡子も薄く微笑んだ。
聡子はベッドに腰掛け、美沙希の机上で液晶画面を光らせているノートパソコンに視線を投じた。画面では、すでにスクリーン・セーバーが作動している。
「なにかやってたんじゃないの? レポート?」
「いいえ。メールを打ってたの」
美沙希は、よっこらしょ、と腰を上げ、グラスを手にして机に戻った。
「メールって、こんな時間に? ひょっとして、彼氏?」
何気ない冗談のつもりの問いかけだったが、意に反して美沙希の返答は「そうよ」だった。
「えーっ」
「驚くことはないと思うけど」
確かに、美沙希はじっとしていればそれなりの美人ではある。というより、長くおろしたまっすぐな髪と白蝋のようにつやのある肌、切れ込んだ目尻など、整ってはいるが硬質感を思わせる容姿に、たいていの人ははじめ、うかつには近寄りがたい印象すら抱くかもしれない。
だが彼女の性格を知れば、まったく違う意味でさらに近寄りがたくなるだろう。
「けっこう長いの?」
「そうね」
「物好きな人もいるもんだ・・・」
と聡子が呟くと、美沙希は少し首を傾げた。
「物好きは、たぶん私のほうよ」
「え?」と聞き返した聡子の声を背に、美沙希はパソコンに向かった。聡子はベッドを立ち、その美沙希の肩越しに画面をのぞいた。
「 “message to:宮田和彦 ”。この人が彼?」
「ええ」
「うちの学生・・・じゃないよね」
学校でそんなそぶりはなかった。それに、携帯ではなく、わざわざパソコンをたちあげてメールのやり取りをするのも、どうも回りくどいような気がする。
「大学には来てない」
「じゃ、何してる人?」
にわかに興味を抑え切れなくなってきた聡子は、ぶしつけにもメールの本文をはじめた。
「えーと・・・“木村栄治殺害事件について。今のところこちらから伝えることはないけど、大学関連のこととかで何か訊きたいことがあったら、言ってください。”・・・って、メールでこんなこと話題にしてるの?」
「まあね。私よりも、彼がこの事件に関心を持ってるのよ」
「へえ・・・あ、もしかして、前に美沙希が言ってた “ちょっとしたコネ ”って、この彼のことね」
「そう」
「ふーん。ってことは、警察関係の人とか?」
「いいえ」
美沙希は横を向いて、私に微笑みかけた。
「ぜんぜん、そんなんじゃない――このひとはただの」
美沙希は画面に視点を戻し、マウスをクリックしてメールを送信した。
「ひきこもりよ」
*
*
――嵐の夜が明けようとしていた。
厚い雲の連なりが徐々に途切れはじめ、東の空から僅かに白んできている。雷鳴や豪雨は過ぎ去り、吹きすさぶ風の勢いもいつしかやんでいた。
風雨に鳴いていた木々もわずかな残り風に身じろぎするばかりとなり、ようやくいつもの朝の静寂が訪れようとしていたとき。
風が吹いた。
まるで嵐を呼び戻すように、一陣の強い風が渦巻いた。
吹き返しの風に木々は驚き、ふたたび狂ったように震えた。
そして、その短いが鋭い悲鳴は、暴風の奏でた一瞬の狂騒によってかき消された―――
▼第一章のKEY POINTS
◎西川事件について
・西川昭が隣家惨殺の凶行に及んだ動機と状況
・自首後の西川昭が、いったんは全面的に犯行を認めたのに、公判直前になって急に父親殺害以外の容疑を否認したのは何故か?
また、公判終了後はさらに一転して、起訴事実を完全に認め、控訴
もせず極刑を受け入れたのは何故か?
・西川昭の元妻、そして長女の行方は?
・坂井陶也警部補は、何故かつて、西川事件の公判記録を繰り返し読
んでいたのか? その内容のどこにこだわっていたのか?
・西川事件と三上賢太との関わりは?
・西川事件と井上佐織との関わりは?
・西川事件と今野泰との関わりは?
・西川事件の真相は?
◎飯田山事件
・殺された元警察官、木村栄治は、何故顔を焼かれ、両腕が肘から切断されていたのか?
・何故木村栄治は殺されたのか?
・木村栄治と西川昭の関係は? また、その関係について双方が言及し
なかったのは何故か?
・木村栄治と井上佐織の関係は?
・木村栄治と今野泰、そして西川昭の関係は?
・今野泰が、木村栄治殺害の犯人を西川昭の長男と断定した理由は?
・飯田山事件と、西川事件との関わりは?
◎その他、登場人物に関することなど
・谷本聡子の生い立ち
・谷本聡子は、なぜ地元出身であるにもかかわらず、寮で生活してい
るのか?
・谷本聡子にかかってきた電話の相手は誰か? そしてその用件は?
・小島美沙希のメール相手である宮田和彦とは、何者か?
・宮田和彦なる人物が、飯田山事件に関心を示しているのは何故か?
・井上佐織の生い立ち
・井上佐織の電話相手は誰か?
・井上佐織がかかえる秘密とは?
・三上賢太の生い立ち
・三上賢太と谷本聡子の関わりは?
・小野田稔は何者か? また、彼が文芸部に入部してきたのは何故か?
・小野田稔が、夜、部室を訪れた目的は?
・小野田稔が、夜の部室で、胸元から取り出して三上賢太に見せたも
のは何か?
・今野泰は、木村栄治とともに、西川昭に対して何をしていたのか。 また、飯田山事件をふまえて、今度は何をするつもりなのか?
・今野泰にかかってきた電話のコールは、誰からだったのか?
・川村正樹の携帯の行方
・最後の悲鳴は、何だったのか?
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