プロローグ

 S市内を横断する大きな川がある。日野上川とよばれるその川の南側は、駅を有し商店街や大型スーパー、家電量販店などが集中する北側とは対照的に、一般住宅が建て込む賑わいもなく、目立つものといえば真新しい大学の建物と、ずんぐりとした小山ぐらいだった。土地開発と景観保全という、対極する市政施策が奇妙につりあったようなこの一帯に突然変異が起きたのは、平成一六年六月七日のことである。

 飯田山という低い小山の頂上に、うっそうと生い繁る木々に包み込まれるようにして、小さな展望台があった。

 その日の早朝、だいたい七時を少しまわった時刻に、飯田山の展望台へと続く小道をのぼる人物がいた。付近で農業を営む六十八歳の老人、池田清一だった。

 池田は歩きながら、雲ひとつない、ぬけるような青空を仰ぎ見た。今日も快晴だ。最近はずっとこうだ。おかげでここのところ毎日、気持ちのよい朝を味わっている。

 池田は、手に紙袋につつまれた握り飯を持ち、肩からは麦茶の入った魔法瓶を下げかけていた。毎朝、飯田山の南側方面に広がる田んぼの水具合をみたあと、天気が良ければ展望台にのぼり、日野上川の流れとS市の町並みを眺望しながらベンチで一服するのが、彼の日課なのだ。

 しかし、池田がこの朝、その日課を遂行することはできなかった。丸木屋根が据えられた展望台のベンチの前に、その原因があった。

 はじめは、浮浪者でも寝ているのかと思った。

 しかしそれは、池田の勘違いだった。そしてその勘違いは、危険なものに対して大脳が認識するまえに、咄嗟に身体機能がはたらく生体防御機構――つまり反射反応が、意識のほうに作用したために見せたような、一種の幻覚だったのかもしれない。

 とにかく、このときの池田の脳は明らかに、網膜が受信した映像の認識をこばんでいた。

 だが、それは一瞬のことだった。感覚器官から入り込んだ情報は、いずれ脊髄から脳に到達する。

 すぐに、池田の喉から言葉にならない叫びがほどばしり、晴れやかな天空をつらぬいた。

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