第69話 恋愛幻想



 恋愛結婚と見合い結婚の良し悪しが比較する形で議論に上ることが良くある。単純に考えるほどには恋愛結婚が良いとは限らないのは、恋愛結婚全盛期の現代における離婚率の高さを考えてもおかしな話ではない。もちろん離婚の全てが恋愛結婚の末路ではないし、見合い結婚でも同じことは十分に起こり得る。だが、強い恋愛を経験していたなら大丈夫と言えないことは誰もが知っている。そもそも恋愛は万能ではない。長い結婚生活を考えるのであれば、恋愛はわずかばかりのスタートラインとしてのきっかけを与えるに過ぎない。他方、多くの場所で見合い結婚の素晴らしさが主張されるケースも見かける。正直なところ、私自身が恋愛結婚なので見合いが素晴らしと言い切れる経験をしていない。だからこそ、少し考えてみたいのだ。私たちの多くが見合い結婚よりも恋愛結婚したいと考えている現状は、一体どこからきているのだろうかということを。


 上記でも触れたが、お見合いからの結婚の良さを示す事例がネットやメディアを通じて取り上げられることがある。多くの場合、記事からは恋愛結婚の失敗との比較対象として見合いのすすめを取り上げている感じがする。恋愛結婚の代替案として見合いを取り上げる。それはすなわち、社会の大部分が恋愛結婚をスタンダードなものだ認識しているという前提があることによる。今の時代は、恋愛結婚が当たり前と認識されている。

 もちろん、未だに見合いが多く行われるとこともあろうし、若い女性が少ないためにお見合いをテレビ番組や自治体が推し進めているケースも聞く。しかし、そこで見られるお見合いはカジュアルなもので、実質的に恋愛結婚に近いものである。お見合いと言うよりは単純な紹介だ。すなわち、友人からの紹介と言う形と何も変わらない。友人からの紹介を受けた進展した場合は恋愛結婚と呼ぶだろう。だとすれば、お見合い結婚と恋愛結婚の差はどこにあるのであろうか。一つには「家」の存在がある。お見合い結婚は自分の意思ではなく他人の意志により伴侶を決めるという感覚を私たちは持っている。

 だから、恋愛結婚と見合い結婚の差違は自己決定の程度の差により分類されてきたのではないかと思う。YES or NOに関して選択の権利はあっても、「家」の縛りにより紹介される相手しか結婚対象とできないのが見合い結婚であり、友人の紹介であっても多彩な選択の自由が認められれば恋愛結婚。この認識には、かつての日本に色濃く残っていた「家」の仕組みが大きな影を落としている。しかし、時代は大きく変わった。もちろん今でも「家」の流れを感じるケースはあるが、社会全体で見れば昔と比べれば明らかのその影響は小さくなった。


 すなわち、「家」の仕組みに反発する意味での恋愛結婚の選択は、現代社会においては大きな意味を持たない(もちろん特殊なケースでは今も意味を持つことはあろう)。「家」の存在という煩わしさを無視できれば、形式的には見合いであっても恋愛と実質的に変わらないということになるのではないか。

 短いタームを考えれば恋愛結婚の方が良いに決まっているが、それがロングタームになった時に言い切る自信はない。結婚と離婚を繰り返す人もいれば、恋愛遍歴のみを重ねる人もいる。人生をトータルしての幸せが大きい方が良いとは思うのだが、それは必ずしも恋愛によりもたらされるものではない。

 こう考えると、恋愛と結婚を結びつけるのは正しくないということになる。そもそも、昔から恋愛に適した相手と結婚に適した相手は別のものとして扱われてきた。ただ、見合い結婚が昔からある家制度の残滓を引きずっているため否定的に見られるということもあり、相手は自分で選ぶということになる。自分で選ぶのにその理由として恋愛が無いのはどうなのだという疑問から、恋愛結婚が当たり前と言う流れが出来上がった。


 もう一つ別の視点で考えると、「恋愛と結婚は別」といった話も会話の端々によく出てくる。さて、恋愛とは異なる結婚はどのようなものなのだろうか。恋愛と結婚は別と言いながらも、恋愛を経た結婚を望む心情。お見合いでもOKとは容易に言い切れない部分。

 先ほども書いたが、「家」という制度に縛られていないとすれば、実質的にはお見合いから始まる結婚も、一般的に恋愛結婚と言われるスタイルもそれほど大きな違いがあるようには思えない。むしろ「恋愛と結婚は別」といった分類の方がわかりやすい。結婚には安定性を求め恋愛には刺激を求める。理想とすればその両方が欲しい。刺激的な相手と恋愛を繰り広げ、結婚を考える時期には安定してほしい。ただ、現実にはそんな都合の良いパートナーは容易に見つかるはずもないだろう。むしろ、そんな相手を見つけるためには自分に相当の魅力がなければならないのだ。

 自信満々の人もいるかもしれないが、多くの人はそこまで自分に自信を持っていない。結果として、結婚を意識すれば刺激の部分を切り捨てることを止む無しと考える。「恋愛と結婚は別」に込められ意味の全てを表しているとは思わないが、恋愛は楽しみの象徴なのだ。そして、日本が経済的に成長したからこそ「楽しみ」の部分を全面的に押し出しても社会的に許されてきた。むしろ、過去においてそれを抑圧されてきたと考えているからこそ、社会そのものがそれを認めてきた。実はバーチャルなレベルまでの恋愛への期待を社会そのものが醸成してしまったのではないかと私は思う。


 それは、「家」制度と言う昔からある仕組みを打ち破るために必要であった勢いでもある。社会の仕組みは多くの場合理性的には変更できず、何らかの勢い(ムーブメント)を必要とする。それが、「家」を気にしない恋愛と言うスタイルにあったのではないだろうか。しかし、それは既に多くの部分で実現してしまっている。恋愛結婚へのいくつかの疑問は、恋愛を必要とする動機の希薄化に対する不安が招いているのではないか。

 そもそも恋愛は甘美なものである。その持続性には疑問があるが、瞬間を考えれば人を突き動かす大きな情熱を生み出す。多くの人がそれによる励まされ大きな力を得るし、他方で大切なものすら失うまでに盲目的に突き進んでしまうケースも後を絶たない。恋愛は時に薬であり、そして麻薬なのだ。


 私は、社会が恋愛をどのように捉え、どのように運用していくかを考える必要があると考えている。それを考える理由は日本の少子化問題である。今、日本社会は恋愛至上主義から脱却した方が良いかを迷い始めている。恋愛狂想曲と言ってもいいかもしれないが、恋愛の持つ価値や力とデメリットを天秤に掛けようとし始めているように思うのだ。

 私としては、恋愛の力をそこまで強くは信じていない。これはあくまで私個人の考えなので、人によって異なるであろう。ただ、恋愛を過信することのデメリットは少なくないと考えている。増加する離婚の理由が恋愛から覚めたことと言うほど短絡視するつもりはないが、恋愛幻想が高ければその反動も大きくなるとは思う。もし、恋愛幻想が結婚時期や婚姻そのものへの抵抗感を醸成しているのだとすれば、それは改めるべきではないかと思うからだ。他方で、恋愛に期待を抱かなくなり結果として結婚そのものに興味が無くなるとなるのも困る。現代ではお金が無いから恋愛や結婚を考えないという話も良く見かける。しかし、それが本当の理由なのだろうか。


 私たちは何のために結婚するのか。自分の将来のため?子供を育てるため?社会的な立場を維持するため?私としては、人間は自分の痕跡を社会に残そうとする存在ではないかと考えている。子孫を残すのはまさにそのためであり、それ故に「家」の制度がある。自分の痕跡を、子孫ではなく実績で残そうとする人たちもいる。芸術家やその他のモノづくりに携わる人たちはそれであろう。

 結婚もその一環だろう。だとすると、これまで否定してきた「家」制度は自分の痕跡を残すためにはあまり強く否定できるものではない。社会の自己矛盾にも見えるが、痕跡を残すという自己実現に対する執着心の希薄化が現代社会における恋愛・婚姻事情の問題を引き起こしているように感じてしまうのだ。

 結婚することに自己実現の一つがあるという社会認識が広がる様なことはないだろうか。そう期待せずにはいられない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます