第68話 離婚考



 少々旧聞になってしまうが、こんな話があった。


「専業主婦は、とっても危険な選択肢 3組に1組が離婚する時代をどう生きるか?」


 10年以上前から継続して、日本はほぼ3組に1組は離婚するという国である(それでも離婚率は実は日本より東欧の方が率が高い。専業主婦でいることが『仮に離婚を前提とすれば』不利になるという上記の記事には確かに首肯できる部分も少なくはないが、そもそも最初から離婚を想定して結婚するというのも話の筋としてはおかしなものである。


 もっとも、専業主婦を希望したからと言って常にその通りになるとは限らない。それでも、長らく続いた不況故に就職戦線(状況)の厳しさから逃れることを夢見て専業主婦希望の女性が増加しているとは言われている。

 ただ、仮に専業主婦が可能な収入が家庭としてあれば問題ないのだが、それほどに余裕のある特権的な地位を手に入れられる女性は今の日本では多くはない。あるは出産前や子供が幼い時期には専業主婦でいることが叶ったとしても、子供の成長と共に増える支出に対応すべく働かざるを得ないことも多いだろう。加えて、金銭的な余裕はあったとしても日々の退屈さから逃れるように仕事を持ちたいと考える女性がいるのも事実である。

 ちなみに専業主婦を希望するのは、必ずしも女性側からだとは限らない。仮に男性側の収入が多くなくとも、専業主婦をしてほしい(家庭を守ってほしい)というケースは決して少なくないし、現実的には無理でもそうなりたい(あるいはそうでありたい)と思って頑張っている人も多い。


 しかし、共稼ぎが年々増加しているのは総務省統計局のデータを見れば明白である。同時に専業主婦の率は共稼ぎの増加以上に減少している。ありたいと願う心と現実とはそううまくマッチしない。

 一般的に二人の子供を持ち両者を私立の大学に通わせようとすれば、年収として800万〜1,000万近くが必要とされる(私立大学の年間学費は現在およそ130〜160万)。更に下宿費用まで含めるともっと大変な状況になるが、学費その他を奨学金によりカバーする家庭も少なくないだろう。

 サラリーマンの平均年収が400万強と言われているこの時代において、仮に奨学金を利用しても大学費用を捻出することは容易なことではない。加えて、奨学金が一部の無利子分を除き実質的には低利のローンであることも別の意味で大きな社会問題化し始めている。


 日本国内でも奨学金の取り立て問題がそろそろニュースにはなったりするが、特にアメリカでは学資ローンの返済ができずに破綻する人が続出している状況にあり、次のサブプライム問題とまで言う人もいる。

 こうした現実を見ると、平均値としての生涯年収の差を考えたっとしても本当に大学に行くのが人生を考える上でメリットを持つのかどうかは悩むべきポイントであろう。そもそも、学費の安い国公立大学は全国に存在し、きちんと成績を出せれば授業料免除などもあって自宅から通えるところに行けばお金が無くてもきちんと卒業できる。


 それでも日本の場合アメリカに比べると私立大学の学費は多少安い。だからと言って、上述のとおり余裕があるような状況では到底ない。それ故、子どもが幼い時には学費や医療費その他の様々な公的扶助もあるが、女性側からすれば離婚して子供を大学に送り出すというのは、仮に養育費を受け取ることができたとしても容易ではないことがわかる(実家に余裕があれば頼ることが多くなるだろう)。

 経済面からは、一定以上の収入があれば男性(父親)の方が生活環境を維持しやすいが、一般論として幼い子供の養育を考えると女性(母親)の役割が重要視される。それ故に、離婚後の親権はよほどの問題がない限り母親側に行くとされる。

 離婚は夫婦間における生活上の様々な苦しみから逃げる手立てとして有効かもしれないが、同時にそれだけのリスクを負う(メリットを捨ててしまう)問題でもある。もちろん、当事者からすれば『そんなことは百も承知の上で離婚に踏み切るのだ』と言われるだろうが、決断の結果として得るものはやはり重い。

 だからこそ、子供が十分成長して費用が掛からなくなった時に熟年離婚という選択がなされる訳だが、子はかすがいではあっても永遠の楔ではないということなのだろう。


 さて、離婚の原因として一番多いのが性格の不一致とされる(女性の半数以上、男性の6割以上とも言われる)。言葉上では「性格」が「一致」しないということではあるが、多くの場合は考え方や生活のパターンが合わないということになるのであろう。それらは子供のころより積み重ねてきた環境が当然ながらお互いに異なり、その調整がつかない(歩み寄れなかった)という形であろう。もちろん、これは夫婦両者だけの問題ではなく親兄弟との関係も含めて生じることではあるが、最終判断は基本的に夫婦での摺合せが可能であるか否かと言ってもいいのではないか。


 不一致の内容については千差万別であり、食事(「メシマズ」という俗称がある)から教育方法の食い違い、性生活の意識、恋愛観、実家との付き合い方など事例としてはいくつも挙げられるが、大部分は複合的な不満の蓄積がそれに当たる。本人も何が不満なのかが明確にわからない(全てが嫌と答えることになる)場合が多いと言われる。

 不倫やDVが離婚原因として目立つためにピックアップされがちではあるが、不倫の遠因も性格の不一致から始まったケースも少なからず存在し、この問題が決して小さくないということを認識したい。ただ、裁判上は性格の不一致は離婚理由とは認められてはない(それにより婚姻状況が実質的に破たんしていると認められる場合には離婚理由となる:家事をしない、育児をしない、家にお金を入れない、家庭内別居状態が数年にわたり続いているなど)。


 さて、昭和の時代とは異なり離婚がごく当然の選択肢として存在する現代社会ではあるが、何度も言うように離婚には負の側面が非常に大きく付きまとう。負の側面としての典型として一つにはシングルマザーの貧困問題がある。


「日本の貧困の最底辺 「出会い系」で売春するシングルマザーたち」


 女性が「出会い系」にはまるかどうかは主な問題ではない。ただ、子供を抱えて女性が十分な収入を得る道は親に一定以上の財力でもなければなかなか難しい。もちろん、結婚後も働き続けている女性もいるので全てが貧困に巻き込まれるとは限らない訳ではあるが、それでも離婚後の貧困問題が社会的な話題に上るのは問題が十分に深刻だからと言えるであろう。生きていくために水商売の道に進み、気付けばネグレクトで子供を放置しているケースも毎年のようにニュースで見かける。

 シングルマザーになる原因には様々あり第三者的に見てやむを得ない場合も多々あろうが、曖昧な寂しさという気分でそこに陥ったとすれば笑い話にもならない。また、もし仮に男性側の不倫等による慰謝料(加えて養育費)を得たとしても、それで全てを賄えるほどの金額にはなることはほとんどない。加えて、支払いが必ずされるかどうかも分からない。すなわち、相手有責での離婚であっても幸せを掴めるわけではない。


 その結果かどうかはわからないが、離婚した後に再婚する人の割合も年々上昇している(根拠は不明だが男性7割、女性6割とも言われている)。再婚が必ず幸せをもたらすという訳ではないだろうが、それでもひとり暮らしの寂しさよりは行動を起こす必要性を感じるのかもしれない。

 再婚という手法については、昔の家と家の付き合いという面子が重視される時代には忌避されたかもしれないが、個人同士のより良い生活を守るという意味では前向きに考える方が良いのかもしれない。ただそれには間違いなくタイミングが重要であり、恋愛に年齢制限はないと言いながらも若いうちの方が再婚が容易になるというのはあるだろう。

 ちなみに余談ではあるが、「だめんず」にはまり続けるというのは、一つの性格かもしれないと考えてしまう。だめんずと出会うのではなく、だめんずにしてしまうのではないか。ただ、これについてはここで語ることではない。


 結婚に向かない人の場合はともかくとして、そうではないもののやむを得ず離婚に至らなければならなかった場合には、うまく再婚でよい相手を見つけることができればそれが良いと思う。ただ、そうではない形というのは現代社会において見出すことはできないものだろうか。

 昔の時代を経てきた女性たち(70代)などに話を聞くと、時代背景もあろうが我慢ができない現代の結婚生活についての非難の言葉がよく聞こえてくる。もちろん典型例を勝手に想像しての非難であって、個別の具体事例を知っていれば全てがそうなるわけでもなかろうが、やはり時代の違いを感じざるを得ない。

 一つには、社会における女性側の認識の変化というものがあるだろうが、もう一つに男性側の認識が実は変わっていないという面もこうした問題を後押ししているのではないだろうか。何も、全ての男性が家事を手伝い育児休暇を取れと言うつもりはないが、家庭を維持するための努力として何が必要なのかを考える必要性は、あくまで一般論としてではあるが男性側に突き付けられているのだと思う(個別ケースではもちろんそうでない事例もごろごろしているだろう)。


 そしてもう一つは、性格の不一致という受動的なすれ違いにより生まれる決定的な理由のない離婚問題がある。酷いモラハラであるとか、継続的な経済DVであるなど、個別に考えれば単純なすれ違いとは言えないケースもあるだろうが、そうではない些細な食い違いが積り冷めてしまう夫婦は予想以上に多い。

 其れでも全てが離婚に至るわけではないが、夫婦から家族になるという情緒的な問題で片づけてしまうのは必ずしも良くないようにも感じている。では自分がどうかと問われれば、様々なすれ違いを埋めることができておらず偉そうなことなど言える立場ではないが、だからこそ反省と後悔も込めて考えたい。


 家庭が夫婦の信頼関係の上に成り立つべきなのは言うまでもない。「子はかすがい」とは言えど家庭を維持する決定的要因ではない。子供はいつか独立する。子供に寄生する親(子供がそれにより結婚できない例など)も一部には見られるが、これが健全な状態でないことは明らかである。

 経済面で言えば、夫婦が双方ともきちんと役割をこなしていれば(役割分担は両者の合意で決めればよい)それなりの家庭を築くことができる。自分が考える夫婦の役割分担と現実の齟齬が生じることが、性格の不一致の基本的条件となる。

 これらをきちんと話し合うことができれば、こうした問題は小さいうちに解消することも可能となる。しかし、多くの場合には話し合いになることはなく、喧嘩になるか片方が自らの中に封じ込める。もちろん、何度かは話し合いの機会を持とうとするだろうが、相手方がそれを認めなければ機会はどんどんと減少していく。


 実は、こうした状況は相手よりも優位に立ちたいという自己満足充足の欲求が働くからだと思う。それにより実質的な何かを得る訳ではない。それは意識ではなくおそらく無意識の欲求であろう。自分の中にある一種支配欲の様なそれに正しく気づくことができたなら、生活の中に積み重なる不満を正しく認識して処理できるようになるのではないだろうか。

 それともう一つは、相手を説得するために払う努力を惜しまないことが求められる。夫婦だから許される、家族だから理解してほしいいうのは誰もが考えがちのことではあるが、話し合いの土台は積み重ねである。そしてこの積み重ねが隙間を埋めていく。積み重ねを厭わしく考えてしまえば、亀裂は気付かないところでどんどんと広がっていく。


 必ずしもすべての家庭が円満である必要はない。いや、どうしても合わないのであれば、離婚して新しい出会いを見つける方が良いケースも数多くあろう。ただ、それは自分が誠実で上記のような努力をできるという前提での話である。

 離婚問題を考える時、離婚が容易にできるとか、離婚後の生活がどうであるかよりも、先に結婚した理由を考えて現状を維持するための努力が自分に可能か(すべきことが残っていないか)を冷静に判断することが求められるのではないだろうか。

 だめんずを生み出すのが自分だとすれば、良い伴侶を作り出すのもおそらく自分なのだ。

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