第70話 感情の由来


 理性と感情。二項対立的に取り扱われる二つではあるが、私はどちらも人間が考えるという意味においては近しいものだと考えている。感情は本能から発せられるものではない。もちろん、脳機能上の障害等により抑えきれない感情の発露に困惑しなければならないケースもあるだろうが、多くの感情は本能と言うよりは無意識化の反応により生じる。

 すなわち、意識下において行動が理性と呼ばれ表面化するとすれば、無意識下の行動が感情として取り扱われる。どうしても嫌な事、嫌いな人などというものは、概ねそのような無意識に刻み込まれた行動原理である。それを理性で抑え込むことは可能だが、同時にその内容によっては大きなストレスが脳に与えられる。無意識下に支配される感情は油性インクで書きこまれたもので、意識下のそれは鉛筆による書き込みだと考えればわかりやすい。感情の発露は容易に消し去れない。

 ただ、鉛筆のそれも繰り返し書き込めば無意識下に定着していく。無意識下に書き込まれたモノ(感情)を覆い隠すための技術はあるが、実際には完全に消し去ることは難しい。どちらかと言えば、消し去るのではなく上書きすることにより不快感を除去する方法はあるだろう。時に容易に、時に時間と手間をかけて。あるいは自分で、または人の力を借りて。


 社会においては私たちは理性的な行動を要求される。それは人間社会を維持するために必要不可欠な事項ではあるが、私たちは自分の有する無意識と社会との狭間で揺れ動く。自らの感情を押し殺し、より良い行動(それは利得勘定によるケースが多い)を選択すべきだというものである。そして私たちはその間の葛藤に苛まれる。葛藤が大きくなるほどに、社会との乖離を意識せずにはいられない。

 しかし、一般的に感情というモノは容易に操作し得ないと考えられているため、人は自分自身以外の理由により影響されていると考えたくなりがちだ。そのための言い訳として、「本能」という存在が使うためにつごうが良いのではないかと思う。「本能」は自分に内在するものではあるが、自分が制御できない存在の代名詞となっているからだ。自分ならざる何かに強要されていること。あるいは、それ以外の言葉であれば「生理的嫌悪感」なんて用語が持ち出されたりする。誰もが何となく理解できる言葉ではあるが、それが何を意味しているのかよく考えてみると分らない。しかし、本能と同じように込められた意味は自らが制御できない問題というものである。要するに匙を投げているのであり、あるいはイニシアティブを放棄しているということでもある。


 では、無意識下に定着された感情を変えることはできないのか。感情に振り回されて、自分を制御できないと考えている人は気になるところであろう。上述の通り、世間一般的にはそれを理性で抑え込む方法(方法というよりはスタイル)が主流だと思う。主流というよりは、他に手がないというのが一般的な認識だ。

 あるいは、救いを宗教に向ける者もある。信じ込む力が強いほどに、理性が無意識に浸透する。それにより、感情に振り回される自分を制御しようというのは確かに一つの方法だ。ただ、そのための依り代として何かに依存することを由とできるかどうかにかかる。

 最近あまり宣伝されてはいないようだが、睡眠学習というモノがあった。時に枕の下にレコーダーを置いて摺り込みたい内容を繰り返して再生する。その効果は不十分だという意見もあるようだが、私はそれなりの効果を持つと考える。もちろん、意識が強く構えてバリアを張ってしまえば効果が薄れるのだが、それが無い場合には微睡の時間は無意識にアクセスしやすい。


 私たちの無意識は、普段は簡単に制御できないものである。それを意識により常に制御しようと悪戦苦闘するが、多くの場合には無意識が意識を制してしまう。あるいは意識による制御がストレスを溜めこみ、上手く行っているように見えてある時突然爆発しかねない。

 そして、無意識にダイレクトにアクセスすればよいではないかと考えるが、こうした際にはなぜか意識が防御を張りがちになる。無意識は生身の感情であり、それにアクセスされること(あるいは自分がすること)に身構えてしまうことが多い。

 ただ、そこを乗り越えることができれば、私は自らの無意識を操作することができるのではないかと思う。スポーツ選手のメンタルトレーニングはまさにそう言う方法を実践している。同じことは、私たちにも可能である。そして、それが最も容易にできるのは睡眠導入時と目覚めの微睡の時だろうと思う。


 愛をささやくなら、相手が眠る時と目覚めようとしているときが、最も心が無防備で無意識にダイレクトに響きやすい。それが繰り返されたならば、言葉は無意識に定着していくのではないだろうか。


 感情は、非常に扱いづらく厄介なものである。だが、それは制御不能なものではない。感情が防御を固めているところに正面から挑むのではなく、油断しているところに囁いてあげることが有効だろう。

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